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【 針金のハンガー 】 [映画]

【 針金のハンガー 】

私が千葉県のある街に暮らし始めて気づいたことが幾つかあります。例えば利用するクリーニング店のハンガーが針金ではなくプラスチック製であることです。私が知るかぎり、これまでクリーニング店のハンガーは針金でできていたのですが、それがプラスチックなのです。

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どうでもいいことですが、ちょっと気になります。工業の分野では金属材料と非金属材料が競合することがしばしばあります。

以前のブログ【 彼のカーボン、彼女のベータ合金 】ではスキーのストックの材料について書きましたが、金属とプラスチックの競合は至るところに見られます。ジェット旅客機はだんだん金属部品の比率が下がり、複合材料の比率が上がっています。

しかし、技術的困難は多く、三菱のMRJも一旦複合素材で検討した部品を金属製に戻したりしています。

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内容は全く違うのですが、自動車でも鋼材の比率が下がり、プラスチックの比率が上がり続けています。自動車用鋼材を製造する製鉄会社は、鋼材のライバルを主にアルミ系の軽合金だと考えて対策を進めてきましたが、プラスチックも強敵です。

総じて、鉄と鋼が、非鉄の材料に負け続けてきたのが、平成に入ってからの素材の歴史です。

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スキーのストックや、航空機、自動車に比べて遥かに技術レベルが低い洗濯物のハンガーはとっくの昔にプラスチックに置き換わっていてもおかしくないのですが、今でも針金のハンガーが残っています。 これはなぜか? その考察は後にして、今は映画の話をします。

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アメリカ映画では、私の知る限り、針金のハンガーが2回登場します。

一回目は、名女優ジョーン・クロフォードの一生を描いた暴露物の映画、「愛と憎しみの伝説」で、これも名女優フェイ・ダナウェイが演じる主人公ジョーンが針金のハンガーを叩きつけて養女を折檻する場面です。今で言えば幼女虐待ですが、エキセントリックな主人公の性格を端的に示す名場面・・というか印象に残るシーンです。

娘が高価なドレス(300ドルくらい)を安物の針金のハンガーに架けた事に、母親が怒り「こんなに上等なドレスをこんな安物のハンガーに架けて!」と叱ります。娘は泣きながら謝り許しを乞いますが、ハンガーで叩かれます。

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「しかし、あの場面を見て一番傷つくのは、過去に虐待を受けた経験のある人々ではなく、ハンガー製造会社のひとだろうな・・・」と、当時製鉄会社にいた私は考えました。

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もう一つは、映画「卒業」で、ダスティン・ホフマン演じる主人公のベンジャミンが、アン・バンクロフト演じるミセス・ロビンソンに誘惑されて、ホテルで密会する場面です。

この場面で針金のハンガーは実に効果的に扱われています。

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優等生で真面目な童貞青年ベンは、コートを脱いだロビンソン夫人に対して、なにか優しく手助けするのが男のマナーだとばかり、クローゼットのハンガーを渡そうとします。

扉を開けると、そこには木のハンガーと針金のハンガーがあります。

ベンは、上ずった声で、「木のハンガーにしますか?針金のハンガーにしますか?」とくだらない事を、ロビンソン夫人に尋ねます。 どうしてそんなどうでもいいことを訊くのか?よほど緊張しているのだな・・と彼女は思いながら、「どっちでもいいわよ」と答えます。

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ジョーン・クロフォードとはえらい違いです。

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ベンは「それでは、針金の方を・・」と考えますが、うまく外れません。針金のハンガーは丸いフックでバーに掛ける方式ではなかったのです。 緊張した彼はなんとかハンガーを外そうと苦労しますが、焦ってうまくいきません。仕方なしに木のハンガーを外して彼女のコートを受け取ります。

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短い場面ながら、経験豊富なすれっからしの女性とも言えるロビンソン夫人と、真面目な童貞青年のベンジャミンの対比が実に明確に示されています。

初めてこの映画を見た時、高校生だった私は、この場面の意味がよく分からなかったのですが、やがて大人になり、いろいろ自分が緊張する場面を経験した後、この演出がよく分かるようになりました。

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今でも、若い人が緊張のあまり、突飛なことをしたり、不自然な行動をすると、思わずニヤッとして、密かに心の中で応援したくなり、針金のハンガーをガタガタ動かすダスティン・ホフマンを思い出します。

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実は針金・・とはそんなに簡単なものではありません。

本当か嘘かわかりませんが、東西冷戦時代、アメリカとソ連のスパイはそれぞれの国のホテルのハンガーを持ち帰って分析したそうです。 針金のハンガーひとつでその国の工業水準が分かるのです。

針金は軟鋼の典型ですが、それなりに降伏点と破断強度があります。引っ張った時の強度は、鋼材の品質に依存します。つまり、それで鋼材の品質が推定できます。それに疲労強度も測定できます。

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20世紀の末まで、旧ソ連には平炉がありました。1970年代まで中国には土法高炉がありました。勿論近代的な高炉=転炉法で製造するアルミキルド鋼もありましたが、それらは重要な用途に回され、最も駄物であるハンガーには、その国の最も低級な鉄が使われました。つまり底辺の鋼材の品質でその国の製鉄産業のレベルが分かったのです。 ハンガーを馬鹿にしてはいけません。

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ハンガーに使う針金は駄物ですが、高炭素鋼にして、強度を上げるとより高級な材料になります。つまりピアノ線です。この登場でピアノが完成しました。 バッハの時代には良質なピアノ線がなくて、ピアノが作れなかったのです。

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炭素が入った強靭な鉄をハガネ(鋼)と呼びますが、これは刃物用金属という意味ですから、兵器や凶器用の材料という意味になります。せっかくの材料なのにはなはだ物騒な名前です。 それに比べて針金の方は高炭素化で、ピアノ線という優雅な名前を貰った訳です。

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同じ針金になるのでも、ハンガーよりはピアノ線がいいなぁ。

多くの材料が鉄からプラスチックへ置き換わる流れの中で、ギターの弦はともかく、ピアノの線だけは鋼線のままで生き残るでしょう。 

ちなみにピアノは中国語では鋼琴と言います。 


【 函館ドック 】 [映画]

【 函館ドック 】

 

先日、「海炭市叙景」という映画を見て、複雑な思いにかられました。

何とも暗い、救いの少ない情景を描いたもので、暗い気持ちになります。こんなに暗い映画を誰がお金を払って観るのか?と思うほどです。 大人が生きていく哀しみが、全編にわたって澱の様に底に漂っている映画です。しかし、訴えかけるものは大きく、心に何かがズシンと響きます。 この様な作品を書く作家を文学界は大切にしなければいけない・・と思って気付きました。 ああ、原作者の佐藤氏は、文学賞に落選し続けて、自殺してしまったのだ。

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それにしても、不可解なのは、この映画に登場する造船所です。

映画の主人公は、子供の頃、親を造船所の事故で亡くし、学校を出てからは妹と共にその造船所に勤務していたのですが、不況によるリストラで職を失います。

組合は、雇用を守ろうとしますが、組合幹部の裏切りにあって、主人公は馘首されるのです。あてもなく職場を放り出された兄妹は初日の出を見るために函館山に登るのですが・・・。

作品の中では海炭造船となっていますが、海炭市とは函館市のことであり、この造船会社が函館ドックであることは明白です。

こんなマイナスイメージで描かれるのに、どうして撮影協力したのかな?と思います。

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実は、函館ドックが登場する映画がもう一つあります。 かなりヒットした「居酒屋兆治」ですが、この主人公(高倉健)も函館ドックを辞めた人物です。 原作者山口瞳の意向なのか、この映画では高校の名前も造船所の名前も全て実名で登場します。

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地元の名門高校 函館中部高校の野球部のエースだった主人公兆治は造船所に入社します。 やがて人事課長に抜擢されることになり、妻は喜びますが、実はそのポストがリストラの首切り役である事を知る主人公は、迷った挙句、辞表を出して居酒屋を開業します。 その人柄を慕う高校時代の同級生やかつての同僚が常連客となりそれなりに居酒屋は繁盛します。そして、かつて兆治と対立した上司の会社役員が癌になったと聞くと、病院に見舞いに行きます。しかし既に意識はなく、言葉を交わせないままになります・・。

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つまり、この映画では函館ドックは完全な悪者として登場します。(社員の中には善良な人物も何人か登場しますが・・)。 函館を代表する会社とはいえ、どうしてこんな悪いイメージで映画に登場することを認めるのか? はなはだ疑問です。 この2本の映画では、主人公がいずれも不本意な形で函館ドックを辞めた人間なのです。

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考えられるのは、造船所はこんなに良質の社員でも首を切らねばならないほど、経営に窮しているのだよ・・とアピールできることです。

確かに今の日本の造船業界は楽ではありません。

昭和の昔、日本の造船業界は、大手7社とそれに続く中堅造船各社・・という構成になっていましたが、今は、大手も中小も、おしなべて経営が厳しい常態です。

大手各社は、パイの縮小に伴い、合併を繰り返し、いつの間にか、2社になってしまいました。 IHIマリンユナイテッドとユニバーサル造船が経営統合して、大手の造船会社は、三菱重工とそれ以外の連合という形です。

http://mainichi.jp/select/biz/news/20120131k0000m020059000c.html

三菱以外の各社は、造船部門を切り離して合併させ、本体は陸上機械で生き残る作戦のようです。 函館ドックは大手各社の次に来る中堅造船会社の筆頭ですが、経営は楽ではないはずです。新造船需要が減少すれば、船舶の大きさごとに棲み分けができていた秩序が乱れ、大手が、中堅の造船会社の市場に手を出してくるからです。

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昭和30年代に日本経済を牽引した造船業はどこへ行くのか?

私には、その将来を推測できます。かつて造船業が盛んだった米国や英国のその後を見ているからです。

米国も英国も、かつては造船王国でした。 そして、今でもほそぼそと造船業が続いています。具体的には最小限海軍や沿岸警備隊の艦艇は国内の造船所で、国産の鋼材を使って建造します。その為に、最小限度の造船所及び、厚板工場を残します。しかし、それだけで最盛期の造船所の数はまかなえません。

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それ以外でも、沿岸用の小型船舶や漁船は輸入せず、自国で建造するのが一般的ですが、それは中小の造船会社の領分です。 大型船舶を建造する重工業としての造船業界は、厳しい経営状態が続いています。

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多くの造船会社は開店休業状態のドックを抱えて、注文が入るのを待ちます。

高い技術力を持つ造船所は、たまに特殊な技術を要するプロジェクト物件が舞い込むと、技術者を招集して建造開始です。 例えば石油掘削リグというような特殊な建造物です。一方、高い技術力を要しない普通の船・・バルクキャリヤーやタンカーなどは、アジアの造船会社に取られてしまいます。

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技術者は、普段は別の設計の仕事をしていて、必要な時に船舶の設計の仕事に集まれますが、技能者はそうはいきません。 造船では、たくさんの高いレベルをもった溶接工や鍛冶屋(鋼板を曲げたり加工する)が必要ですが、いちど仕事がなくなると、彼らは会社を離れて戻って来ません。 造船所を維持するうえで一番重要でかつ難しいのは、優秀な人材を手放さずに抱えておくことなのです。 米国と英国ではそこがうまくいかず、造船業の衰退に拍車がかかりました。

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実は、今の日本はその瀬戸際なのです。 優秀な技能者が減り、かつ不況でその維持確保が難しくなっているのです。 この状況が続けば、英国、米国の後追いです。

技能オリンピックなどをみると、溶接や金属加工の技能者の数と技能レベルでは、すでに中国や韓国が、日本を追い越しています。

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すべての産業に共通することですが、産業の衰退はまず優秀な人材が集まらなくなることから始まります。学校を優秀な成績で卒業する人達がどの業界を目指すか・・を見れば、かなりのことが分かります。

東京大学の理科Ⅰ類では、昭和50年代に、船舶工学科が「底なし」・・つまり人気が無くて誰でも入れる学科に転落しました。戦後の高度成長期に花形だった産業なのに・・です。

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それにしても、戦後の日本経済を支え、高度成長期の牽引力だった産業の多くが、今の日本で、元気がありません。

 

それについて、次号で考えます。


【 映画監督の死 】 [映画]

【 映画監督の死 】

 

いささか旧聞ですが、ギリシャの映画監督であるテオ・アンゲロプロスが亡くなりました。映画撮影中の交通事故死とのことで、ある意味では映画監督の本望とも言える亡くなり方ですが、残念な事です。

映画監督としては、今村昌平や新藤兼人の如く老人となっても仕事を続け、話題を提供してくれたらありがたいと思うのですが・・。

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私は、この機会に、彼の作品を収めたDVDが世の中から姿を消すのではないかと心配し、かねてから気になっていた、彼の初期の作品である「1936年の日々」をインターネットで買い求めました。 先日の「悲情城市」に続き、ちょっと高額のDVD購入です。

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そして彼に死については、興味深い事が多くあります。

一つは、マスコミの報道です。マスコミ各紙は彼をどう評価するのか?彼の代表作を何にするのか? 金沢のY教授は「ユリシーズの瞳」を最高傑作に挙げています。

一方で「永遠と一日」を最高作とする評論家もいます。 彼の死にあたって、映画評論家はどれを最高傑作とするか?

http://www.asahi.com/obituaries/update/0125/TKY201201250119.html

しかし、多くの新聞は通り一遍の記事を載せるだけで、評論家にコメントを求める訳でもなく、記者の感想を述べる訳でもありません。 おそらく海外から配信された記事をそのまま翻訳して掲載しただけの冷たい扱いです。列挙した作品も、「旅芸人の記録」「永遠と一日」など普通のものばかりです。

「ユリシーズの瞳」を取るか、「永遠と一日」を取るか、彼の最高の作品をどちらにするかもマスコミは明確にしません。

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アンゲロプロスの作品には、愉快な笑顔は登場しません。 ひたすら陰鬱で、怒りや悲しみが描かれ、しばしば主人公は死を迎える直前だったりします。

これは作家、或いは映画監督の性格を語る上で重要なことです。

太宰治は、早くから老年期を作品に取り上げています。 青年のデビュー作が「晩年」というのも奇妙ですが、同じように「老人文学」から始める作家は複数います。

一方、芥川龍之介は、晩年に「玄鶴山房」で死期の迫る老人を描いていますが、その時点の芥川の実年齢はかなり若かったのです。

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アンゲロプロスも若いころから、死の迫る主人公を描いて来ました。彼と太宰に共通点はあるのか? などと荒唐無稽の事を考えているうちに彼は他界してしまいました。

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それはともかく、テオ・アンゲロプロスの死は、一つの現代ギリシャの知性の死かも知れません。 戦後、一貫して革命や改革を志向した、西側世界の多くの知識人が挫折と転向を経験した訳ですが、彼は映画を通して真摯にその情景を写実してきました。

ギリシャ以外にも共感する人は多かったはずです。

それに加えて、彼はギリシャにこだわりました。 だから日本人に本当に彼の作品が分かるか?と問われると答えられないのですが、理解できるのは一部だけでもいいではないか・・と開き直ります。 彼の作品に日本人の自分にも共感出来る部分を探すのは、さほど困難ではありません。

ギリシャの財政破綻ほどひどくはなくても、経済が低迷し、混迷の度を深める、日本の現代社会に暮らす中年男性には、彼の作品が分かるはずです。 多分。

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ところで、映画監督の葬儀には、女優の涙がつきものです。

その昔、小津安二郎が亡くなった時、原節子が滂沱の涙を流して取り乱し、それ以降、銀幕の前に全く姿を現さなくなったのは有名です。

先日、亡くなった森田芳光の場合は、北川景子が泣いたそうですが私は知りません。

新藤兼人が亡くなれば乙羽信子は泣くだろうな・・と思っていましたが、乙羽信子の方が先に逝ってしまいました。

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これから先はどうでしょうか?

大島渚が亡くなれば小山明子が、篠田正浩が亡くなれば岩下志麻が泣くのは当然でしょう。では佐々木昭一郎が他界した時、中尾幸世はどうか? などと考えます。

そして最も気になるのは、山田洋次監督が亡くなった時に、泣き崩れるのは倍賞千恵子か吉永小百合か・・ということです。なんとも縁起でもない事を考えますが・・・。


【 ビデオ三昧の日々 その3 潜水艦映画 】 [映画]

【 ビデオ三昧の日々 その3 潜水艦映画 】

映画の中には、奇妙なジャンルがあります。女優が一切登場せず、男優だけで構成される映画です。そんな映画はつまらないではないか?というのは浅はかな了見です。

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第二次大戦後、日本で最初に上映されたカラー映画(総天然色)は「南極のスコット」という作品で、たしかこれには女性は登場しません。

ちなみに、邦画で最初の総天然色の作品は、あの「カルメン故郷に帰る」です。

「南極のスコット」は、素晴らしい南極の大自然がカラーで映しだされ迫力はあったのですが、なにせむくつけき探検家だけが登場し、しかも最後には全滅してしまう話ですから、美しさ・・とは関係ないかも知れません。

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それ以外で男性ばかりが出演する映画といえば戦争映画です。特に海上の戦い、それも潜水艦ものとなると、男性しか出演しません。それで観客を持たせるのですから、ストーリーのサスペンス性は重要です。

映画には潜水艦映画というひとつのジャンルが存在すると私は考えます。

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ところで、日本の中年男性はみんな潜水艦が大好きです。

それは少年サンデーに連載された漫画「サブマリン707」のせいだ・・という人がいます。少年漫画はこのブログの研究課題の外なのですが、少し解説しますと、この「サブマリン707」はたしかに傑作でした。

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実際に潜水艦の乗組員でなければ知りえないような精確な描写や表現が随所にあり、魅力的な登場人物、そして見えない敵(音波だけで探る訳です)との虚々実々の駆け引きという内容は、当時の少年漫画の平均点を大きく超えるものでした。昭和30年代と40年代に多く書かれた戦争ものの少年漫画は旧日本軍を主人公にしたものばかりでしたが「サブマリン707」は海上自衛隊の現役艦の乗組員が主人公で、米軍の露払いのような情けない立場であることも自然体で書かれています。そして敵は秘密結社だったり、ナチスの残党だったりするのです。私はその自然体の姿勢が正直に思えて好きでした。

この漫画の影響で、当時、海上自衛隊への入隊志願者には潜水艦乗りを希望する人が多かったのだそうです。

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「サブマリン707」の後に実に多くの潜水艦漫画が登場しましたが、全てこの作品の亜流というべきです。

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漫画でそうであるなら、映画でも潜水艦もので傑作を作る事ができます。

聡明で豪胆な艦長の作戦、見えない敵との駆け引き、閉所の中で息をひそめる人達の恐怖感と絶望感、艦内の人間模様・・。映画化するのに適したポイントがたくさんあります。そして潜水艦ものには、必ずお決まりの場面が登場します。 

損傷した艦が限界深度を超える深さまで沈下し、水圧でバルブが破損し沈没しそうになる場面(必ず圧潰寸前で助かりますが)。

長引く潜航で艦内の酸素が欠乏し、あるいは電池の残量が低下し、あわや絶望か・・という場面(原子力潜水艦ではこの場面はありませんが)。

そして敵の魚雷や爆雷が接近して炸裂する場面。

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どれもこれも、結果は分かっていても手に汗を握る場面です。

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そういった外国の潜水艦ものの映画で、私が最初に見たのは「眼下の敵」です。

これは厳密には潜水艦ものというより駆逐艦と潜水艦の駆け引きの映画ですが、ロバート・ミッチャムとクルト・ユルゲンスの演技が光りました。勿論女性は登場しません。

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そして評論家の間では、最高の潜水艦映画として、30年前の「Uボート」(原題Das Boot)をあげる人が多いようです。こちらの艦長はユルゲン・プロホノフです。単なる勇敢な乗組員を描くのではなく、恐怖で錯乱しそうな人々、目的地に到達した後に虚しく亡くなる人々と沈没する艦、という具合に、戦争の虚しさを、傍観者の目を通して見たこの映画は確かに傑作です。

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特にこの映画で評価され有名になったのは、警報が鳴った時に潜水艦の艦首から艦尾までを、キャメラが走りながら通り抜けて撮影したシーンです。

潜水艦の閉所性を十分に示し、かつ乗組員の慌ただしさと緊張感をだしていて、その後の潜水艦映画に取り入れられています。

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その後の、「レッドオクトーバーを追え」「クリムゾン・タイド」「K19」などは、皆「Uボート」の亜流の作品だと言ってもいいのです。

では日本の作品では・・というと、無理やり美少女を登場させて荒唐無稽のむちゃくちゃな内容になった「ローレライ」あたりが思い浮かびますが・・不作です。

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では私が考える潜水艦映画の最高傑作とは何か?といえば、

それは中尾彬主演の「魚住少尉命中」です。これは正確にはTVドラマであって、映画ではありませんし、厳密には潜水艦ものと言えないかも知れません。

しかし、この作品は心に残ります。1963年の作品で、当時私は小学校1年生で正確なストーリーは理解できなかったのですが、印象に残ります。ちょうどその頃私の父が他界したので、その影響もあるかも知れません。

21世紀になってから、この作品をNHKアーカイブスで見る事ができ、子供の記憶に残るのも当然の、鮮烈な作品である事を理解しました。

このずしりとくる作品の重さの前には他の潜水艦映画は霞んでしまいます。

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ああしかし、嘆くべき点がひとつあります。

精悍な海軍士官だったはずの中尾彬が、今は中年後期の肥満した体躯とゴマ塩頭をバラエティ番組にさらけ出し、着流しのスタイルで横柄な口調でグルメについて薀蓄を垂れているのです。全く幻滅です。

やはり、魚住少尉は命中して戦死し、その後は登場してはいけないのです。

あまりに早くに代表作に出演してしまったため、その後は残余の生を送らなければいけない早熟の俳優の悲劇かも知れません。

もっとも肥満した体躯とゴマ塩頭の醜さをさらけ出しているのは二枚目俳優だけではありません。私オヒョウも同類です。こちらは悲劇ではなく、純粋な喜劇ですが。




【 ビデオ三昧 その2 】 [映画]

【 ビデオ三昧 その2 】

 Kさんの黒澤明のビデオを預かった際、ちょっとした映画談義をしました。黒澤明は、世界中の映画監督に影響を与えました。例えば「七人の侍」は翻案されて「荒野の7人」になり「用心棒」は「荒野の用心棒」になりました。もっと言えば、「スターウォーズ」の2台のロボットのコミカルな掛け合いは、「七人の侍」からヒントを得ています。黒澤自身も外国の小説や作品を利用していますし、外国の映画も黒澤作品の影響を受けている訳です。

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西部劇が大好きなKさんは「七人の侍」よりも「荒野の7人」の方が面白いと言うのです。私はそれには異論があります。やはりオリジナルの黒澤明の映画の方が面白いし優れていると思うのです。

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それなら「七人の侍」をもう一度見て、日本映画固有の面白さ、当時の日本でしかつくりえなかった面白さを確認して、黒澤映画の優位性を証明したい・・と思いました。

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もともとは機械的にビデオテープをDVDに変換するだけの予定でしたが、やはりパソコンの画面に映画が映れば、他の仕事は中止して見てしまいます。

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私には、何回も見て重要な台詞を暗記するくらいになった映画が幾つかあります。「七人の侍」もそのひとつです。そして不思議なことに何度見ても新たな発見があります。今回は何に着目して見ようか・・という具合に、映画評論家風に考えると面白いのです。例えば、役者の台詞の言い回しは、どこまで監督の指示を反映しているか・・と考えてみると、いろいろな発見があります。侍達の少しぎこちないぐらいの話し方は、ちょうど小津安二郎の映画に登場する役者達に似ています。 固定したカメラアングルも少し似ています。

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やはり、黒澤は小津の影響を受けているのか・・・?今回は、映画制作当時の日本でなければ表現できない点、その当時の日本の観客でなければ共感できなかった点を探してみました。その結果、終戦直後または敗戦直後の日本固有の場面はやはり随所にありました。

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最初は、志村喬と加東大介が再会する場面です。ともに負け戦から命からがら脱出した落ち武者であり、お互いに窮地でいかに生き延びたかを語り合う場面です。 これは終戦直後の復員兵の間で盛んに語られた内容に違いありません。

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次は生活に困窮し何も蓄えがないはずの百姓達が、隠していた食料や武具、衣装などを取り出す場面です。農民とは決して虐げられるだけの弱者ではなく、したたかな存在であると三船敏郎に語らせますが、これは戦後の食料不足の中、農家が供出しなかった食料が闇米となる事情を知る者には奇妙に納得できる話です。

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そして明日は決戦という夜、にわか作りの兵は家庭に帰り、家族との団欒を許されます。これは玉砕とか特攻という非人間的な攻撃を目の当たりにした日本人には、理解しやすく、そして身につまされる話です。

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やはり、この作品は終戦後それほど時を経ていない日本でしか作りえない作品であり、外国人には理解しがたい部分がある・・と私は確信しました。

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しかし、問題は最後の部分です。あの有名な志村喬の台詞です。

「今度も負け戦だったな」その言葉に怪訝な顔をする加東大介に対して、田植えをする農民達をまぶしげに見ながら、

「勝ったのはわしらではない。あの農民たちだ」と言う台詞はひょっとしたら万国共通かも知れません。これは単なる農民賛歌ではありません。戦う者を低く見てシビリアンを高く見るという考えでもありません。

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用心棒の侍も軍人も、平和な時代には無用の存在です。一般市民も軍人も平和を求め、そのために命をかけます。しかしそれは軍人にとっては自らをむなしくするための戦いであり、矛盾があります。日本では敗戦後、それまで威張っていた軍人が急にみじめな存在になりましたが、これは敗戦国だけではありません。 戦勝国であっても平和な時代では軍人の存在価値はありません。 

中国のことわざでいうところの「狡兎死して走狗煮らる」であり、軍人も侍も平和な時代は苦手です。

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第二次大戦の終結後、映画に登場する軍人の立場は変化しました。それまでは、どの国の映画でもおおむね軍人は勇敢で格好いい存在でしたが、第二次大戦後はそうではありません。しばしばアイロニーを漂わせ、苦悩する存在だったりします。平和があたりまえの時代だからです。

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1876年の映画「カサンドラクロス」では、軍人役のバート・ランカスターが医学者役のイングリット・チューリンに「軍人は昔のようにもてる存在ではありません」と自嘲気味に語ります。軍人は主役であってはならないのだ・・という考えは、敗戦国にも戦勝国にも共通の認識です。その点で「七人の侍」は欧米でも強い共感を得たのだと思います。

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しかし「荒野の7人」ではその点が希薄です。なぜなら侍は軍人なのに対して、ガンマンは軍人ではないからです。しかし、外国人に侍、特に浪人や落ち武者の存在が理解できるのだろうか?

私の知るフランス人は、サムライではなく、サムレと発音していたけれど。 次回は、その戦争映画について少し管見を述べたいと思います。(多分 月曜日です)


【 ビデオ三昧の日々 その1 】 [映画]

【 ビデオ三昧の日々 その1 】

私が学校にいた頃、コンピューターには、デジタルコンピューターの他にアナログコンピューターなるものがありました。これは一言で言えば、LCR回路を組み合わせて微分積分を専門に行う計算機ですが、とにかくプログラミングが大変です。ボード上に配線して行うのですが複雑怪奇でした。しかし有効桁数がそれほど必要でない場合、そして微積分を高速で行いたい場合には有用でした。デジタルコンピューターでの微積分とは所詮数値解析であり、近似値を追うものだったのに対して、アナログコンピューターでは実際に回路上で微積分を行うのですから当然です。

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一説にはデジタルコンピューターとアナログコンピューターは共に発展し、あるいは融合してハイブリッドコンピューターなるものが登場すると言われましたが、そうはなりませんでした。集積回路の発展に伴い、世の中はすべてデジタルコンピューターの世界になりました。

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その後の30年間とは、すなわち情報通信の世界でデジタルがアナログを駆逐する30年でした。そしてその最後を締めくくるのが、地上波TVのデジタル化でした。(正確には、まだラジオはアナログのままですが・・)。

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そして、世の中のデジタル化の完成・・はちょっとオヒョウの暮らしにも影響を与えました。そのために、急に忙しくなり、このブログも長期間にわたって更新されない状態が続きました。読者の皆様にはお詫びいたします。

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実は先日、金沢に暮らす妹から、大量のビデオテープのDVD化を依頼されました。以前に妹の勤務先の学校の遠足の際のホームビデオをDVD化してあげた事があったのですが、それを記憶していて、VHSのビデオテープのデジタル化を私に依頼してきたのです。

妹が言うには、「ビデオデッキは時代遅れになり、やがて故障しても修理できなくなるかも知れない。そうなると今ビデオテープに録画してある膨大な映像が見られなくなってしまう。だからその前に、DVDに変換して欲しい」との事です。

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勿論、その背景に、テレビのデジタル化というタイミングがあったのも事実でしょう。それになんといっても、ビデオテープは嵩張ります。

妹の家から持ち帰ったビデオテープはダンボール箱4箱分もありました。

私は黙々とビデオテープのDVD化を始めました。実は家庭で焼いたDVDの寿命はそう長くないそうです。VHSのビデオテープとDVDのどちらが長期間の保存に耐えるかは、私には分かりません。 そして、ビデオテープのDVD化を進めながら多くの事を考えました。

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デジタル化されたデータのコピーに慣れ親しんでいる私には、アナログのテープのデータ抽出はとてもまどろっこしいものです。

テープの再生は通常の再生速度で行わなければなりません。倍速再生では画質、音質が劣化します。実に時間のかかる煩わしいものです。

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私がパソコンで使っているOSWindows VISTAで、当然マルチタスクができます。テープのDVD化をしながら、パソコンでブログ作成などの他の作業が可能なのですが、そう簡単ではありません。ビデオを再生しながらでは、なんとなく気が散って他の仕事ができないのです。

思わず、そのビデオの画面に見入ってしまい、そしてまた別の事を考えます。

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「現代社会でデジタル化が持つ意味とはなんだろうか?」

最近、知的財産権をめぐる話題が世の中に多くあります。

私の知り合いにも、いつの間にか弁理士の資格を持った人が増えました。

いたるところで特許の話をしています。

一般に世間が知的財産権にうるさくなったのは、アメリカのレーガン大統領の時代にかの国がプロパテント政策を打ち出し、知的財産について厳しい対応をするようになったからだ・・・と言われています。

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しかし、実は他のきっかけもあります。

たしかに、ディスカバリーやインキャメラというアグレッシブな手続きや、サブマリン特許といった戦略的な知財作戦が登場したのは、プロパテント政策の結果ですが、問題は特許権だけではありません。著作権も大きな問題です。

そして著作権の問題がクローズアップしたのは、情報のデジタル化のせいです。

画質音質の劣化なく、完全なコピーをごく短時間で製造できる技術の登場は著作権に対する挑戦とも言えます。アナログからデジタルへの切り替えは、知的財産権についての考えを根本から揺るがすものです。

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情報のデジタル化でおおいにメリットを得たのは、著作権に対する認識が甘い国・・つまり中国です。かの国ではデジタル化は数碼化と呼ばれますが、海賊版のCDDVDが跋扈しているのもこの国です。

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そして今、ビデオテープを再生しながら、その画質の悪さにため息をつきます。DVDとブルーレイの画質に慣れている私は・・「昔はこんな画質でも満足していたのだ・・」とさえ思ってしまいます。

「こんな画質なら著作権保護の対象コンテンツをダビングしても、罪に問う事は難しいかも知れない・・・」。

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ところで、この私の作業はその後、新しい展開を見せます。

会社でその話を他人にしたら、Kさんがすぐに興味を示してきました。

「オヒョウさんは、ビデオテープのDVD化ができるんですって?それなら私の撮りためたビデオテープのDVD化もお願いできませんでしょうかね?」

一瞬、著作権の問題が頭をよぎりましたが、深く考えずに「いいですよ。今度持ってきてください」と答えてしまいました。

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翌日、Kさんが持ってきたのは、ショッピングバッグいっぱいのビデオテープです。一瞬絶句しましたが、すぐに中身をみます。

「全部、黒澤明の映画ですね。彼の作品がお好きなのですか? ちょっとみると、私の好きな『天国と地獄』や『酔いどれ天使』がありませんね」

「黒澤明が好きなんですよ。NHKBSWOWOWで放映したものをためているのですが、全部揃っている訳ではありません。しかし何時かビデオデッキも使えなくなるでしょうし、今のうちにDVD化したかったのです」

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さて、どうしたものか・・。実は私の勤務先では、新日鐵から新しい副社長が着任し、私は膨大な量の宿題を課され、時間が無かったのです。「これではますますブログを書く時間がなくなる・・・」。それはともかく私は引き受けました。

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その後、彼のビデオテープを再生しながら、確かにWOWOWNHKのクレジットが付いているのを確認しました。ビデオテープですからコピーワンスやダビングテンとかCPRMといったややこしい問題はありません。その代わり画質は劣ります。

「黒澤作品なら、レンタルDVDショップで簡単に借りられるのに、画質の悪いビデオテープに拘るのはなぜなのかな?」

はっと気づきます。

「彼の思い入れは、画質云々ではないのだ。 大好きな映画がTV放映される機会を待ち、そのわくわくした興奮を記録したいからビデオテープにしたのだ」

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カーペンターズの「イエスタディワンスモア」の中に、「子供の頃、ラジオに大好きな曲が流れるのを待っていた」という歌詞がありますが、ネットで音楽が配信され、CDを借りられる時代には理解できない気持ちです。

「それと同じ気持ちをKさんは持っていたのだ・・」。

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私は、彼のビデオテープの再生とDVD化を始めました。

そして、そこには大きな落とし穴がありました。

それについては次号で申し上げます。 (多分明日)。




【 DVD三昧 その3 】 [映画]

【 DVD三昧 その3 】 

私の独断と偏見で言えば、山田洋次監督は、戦後の日本を代表する映画監督のひとりと言えます(本人は戦前の生まれですが)。しかしその世評の高さと彼の作品の質には、ちょっとギャップがあります。

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シリーズ物として、世界最多のギネス記録を持つ、「男はつらいよ」は彼の代表作品ですが、それが本当に名作か?といえば疑問です。当初「男はつらいよ」は複数の監督が輪番で担当し、ある種の明確なモチーフがありました。インテリのエリートと無教養な男の対比、数少ない理解者であった恩師との別離や、周囲から疎まれる中での妹の優しさ・・。やんちゃで小児的で憎めない主人公に共感する観客によって、この映画は支持されヒットしました。(最初はTVドラマでしたが)。

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しかし、回を重ねるごとに、主人公寅さんは、物分りのよい人物になり、他人の恋の道の手助けをしたりします。依然として格好良くはありませんが、誰もが彼を愛する、ヒーロー的な存在になってしまいました。そして寅さんシリーズは恐るべきマンネリ化が始まりました。

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山田洋次自身がポツリと語っています。日本映画の凋落の中で「寅さん」だけが、良質な映画であり続ける・・と言われて、「『男はつらいよ』だってそんなにいい映画じゃないよ」と。本当に傑作なら、何十回もシリーズを続ける事はできないはずです。(小説の大菩薩峠やグイン・サーガは、超長編でも作品の質を維持したそうですが)。

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彼は東大法学部をでたエリートとして、松竹に入社しています。映画監督の世界も学歴がものを言った時代があるのでしょうか?その実、彼の大学での席次は優等とは言えず、官吏などへの就職は望めなかったのですが、松竹では大インテリです。彼がしばしば「男はつらいよ」のモチーフとするインテリと庶民との相克は、彼の出自に基づきます。

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そして彼は松竹の中で、どの監督を範とすべきかで悩みます。「小津安二郎のスノブさにも馴染めないし・・」若い頃の小津安二郎は、貧乏人や庶民の哀歓を描いていますが、戦後は上流、中流家庭の話を多く取り上げています。登場人物がみな上品で生活苦から解放された世界は、若き日の山田洋次には抵抗があったはずです。

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その後、試行錯誤を繰り返しながら、山田洋次は自分の世界を築いていきます。彼の比較的早い時期の傑作「バカが戦車でやってくる」は、完全に彼のオリジナルだと思います。

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それでも、やはり彼は他の監督の作品の影響を受け続けます。「遙かなる山の呼び声」は「シェーン」へのオマージュとも言えますし、「幸せの黄色いハンカチ」はアメリカの原作のままです。

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そして、私が勝手に彼の代表作と位置づける「家族」も他の作品を参考にしています。この作品はジョンスタインベックの「怒りの葡萄」によく似ています。「怒りの葡萄」には、強い政治的メッセージが込められていますが、「家族」ではそこをオブラートにくるみ、最後は希望を持たせる明るいエンディングにしています。しかし、長旅の途中で、家族が息絶えていく場面などはそのままです。エンディングの変更は、彼の意思によるものか会社の意向かはわかりませんが、いかにも山田洋次流です。

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また私には山田洋次の「故郷」が、新藤兼人の「裸の島」の影響を受けているように思えてなりません(ストーリーそのものに類似性はなく、明確な根拠はありませんが・・・)。

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比較的最近の「母べえ」にも、上村一夫の漫画に少し似た作品がありましたし、完全にオリジナルな映画を制作する事は難しいのかも知れません。 また、山田洋次の後期の作品には、かつて反発した小津安二郎の影響を受けた作品がいくつかあります。彼が市川昆監督へのオマージュと自ら称する「おとうと」でも、カメラアングルを見ると、明らかに小津作品の影響を受けています。そして「おとうと」の完成度をみると、残念ながら市川昆作品の方が勝っています。少し辛口の見方ですが、彼がリメイクまたはオマージュとして制作した作品はどれもオリジナルよりやや劣っています。

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いずれにしても、山田洋次はある時期から他の監督の作品を受け入れることに抵抗がなくなったのかも知れません。山田洋次があえて他の作品のオマージュやリメイクを作る理由は定かではありませんが、良質な原作の不足を、彼は訴えたいのかも知れません。

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ひょっとしたら、メロディーの枯渇が音楽産業を衰退させるように、良質なストーリー(原作)の枯渇やドラマツルギーのワンパターン化が映画界の衰退をもたらしているのかも知れません。それなら、映画界の衰退は大物監督がいないからではなく、原作の枯渇が原因だ・・という事になります。

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そのメッセージを、彼が作品の中に込めるのだとしたら、山田洋次は本物かも知れないと私は思います。


【 DVD三昧 その2 】 [映画]

【 DVD三昧 その2 】

 

レンタルビデオショップで旧作映画を選んでいて気づいたのですが、お店によっては、監督別に作品を整理してDVDの棚に並べています。また別の店では主人公の俳優や女優別に作品を並べています。

映画会社や年代別に棚を整理している店はありません。

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では現代映画はどうかと言えば、題名のアイウエオ順に作品を並べています。

これはなぜでしょうか?

お店の人に訊いた訳ではありませんが、私が推理した理屈は、以下の通りです。

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1.新しい映画なら、皆さん題名を覚えています。だから題名で検索するのが早いし便利です。しかし古い映画をもう一度見ようと考えた場合、主役の俳優は覚えているけれど、題名はちょっと忘れた・・・なんて事があります。

その場合は、主演俳優や主演女優で検索した方が便利です。

「ほら、あの裕次郎がドラムを叩く映画。名前は忘れたけれど・・」という具合です。

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2.もう一つの理由は、あえて旧作を見ようという人は、相当の映画ファンだという事です。それなら映画監督にもこだわるはずで、作品を選ぶ時にストーリーや出演者でなくて監督で選ぶ・・という人もいるはずです。さらにマニアックなファンになると脚本やキャメラマンで映画を選ぶかも知れませんが、その例をまだ私は知りません。

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3.そして最大の理由は、現代映画には名監督が少なく、監督自体の影が薄いことです。

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無論、現代にも数多くの映画監督が活躍している事は、知っています。戦後生まれで、私が好きなのは、周防正行、北野武、小栗康平、崔洋一、などです。ちなみに、読者諸兄がご存知の主な映画監督一覧は、下記のサイトにもあります。

http://www.yunioshi.com/japanesedirectors.html

 

しかし、圧倒的に多いキラ星のような戦前生まれの監督群に、戦後生まれの監督は、質・量ともかないません。これはなぜでしょうか?

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理由のひとつは、戦後、テレビの普及とともに、没落していった映画界に人材が集まらなくなったことでしょう。 映画産業は斜陽になり、低予算のB級映画を多作するようになり、良質な映画を作る気運も衰えたのかも知れません。

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TVに押されて観客動員数が減少するなか、ある映画会社はポルノ映画に走り、ある映画会社は、ヤクザ映画やアウトローものに走りました。それらは良質の観客を映画館から遠ざけ、映画界をさらに沈滞させる悪循環となりました。

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日本の映画界に活路が開けたのは、新しい映画館のタイプであるシネマコンプレックスとレンタルビデオ産業が誕生してからです。

今、良質な映画を提供し続ける映画監督は、日本映画氷河期を生き延びた人々です。そして良質な作品は、再び登場しつつあります。

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でも日本の映画監督で、フランスでそのまま名前が通るのは、今でも黒澤明と小津安二郎であり、これは50年前と変わりません。まだまだです。

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では、現代を代表する日本の映画監督は誰か?

 

それについては、次号で申し上げます。


【 DVD三昧 】 [映画]

【 DVD三昧 】

以前、私が中国にいた頃、奇妙な癖がありました。外で酔っ払って、アパートへ帰る時、途中で必ずCD/DVDショップに寄って1DVDを買い求め、そして台湾人の経営するパン屋でアイスクリームを買って、帰宅したのです。

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そのため、帰国する頃には私の体重が数キログラム増え、そして200枚程度のDVDが溜りました。

溜まったDVDには中国映画は少なく、チャン・イーモウ監督の作品が少しあるぐらいです。残りの殆どが日本や欧米の映画です。その中に中国語の吹き替えや字幕スーパーがあるものは稀で、吹き替え無しで、英語か日本語の字幕スーパー付きがほとんどです。

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ですから、それらを普通の中国人市民が買い求める事はあまりなく、私のような外国人が買う事になりますが、いつも客はまばらです。でも、その店の商品の中には、意外に名作、傑作が混じっています。

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例えば、黒澤明のシリーズや、ギリシャのテオ・アンゲロブロス監督の「霧の中の風景」、スペインのビクトル・エリセ監督の「ミツバチのささやき」や「エル・スール」、スェーデンのイングマール・ベルイマン監督の「ある結婚の風景」、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の作品群、ロシアのセルゲイ・エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」、アメリカのピーター・ボグダノビッチ監督の「ラストショー」、スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」、イタリアのフェデリコ・フェリーニ監督の「道」、日本映画でも溝口健二監督の「雨月物語」、今井正監督の「にごりえ」、伊藤大輔監督の「下郎の首(リメイク版)」といった名作が、店頭にさりげなく置いてあります。

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映画ファンには垂涎の作品ばかりです。不思議なことに、それらは多くの駄作とポルノ映画のDVDに混じっていて、見つけるのに苦労する訳ですが、それらを発掘する時間が、オヒョウにはある意味で至福の時間でした。

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問題はそのDVDの素性です。勿論、中国ですから違法コピー版です。1枚7元(約100円)という値段ですから、正規品である筈もなく、勿論日本に持ち帰る事はできません。今も昔も、中国では海賊版が完全に市民権を得ています。

中国の首脳が、外国に対して「中国政府は海賊版の駆逐に努力している」と表明した事がありますが、これは完全な嘘です。

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それらのDVDは、海賊版や違法コピーである事以外にも問題があります。

中国のDVDは、リージョンコードフリーでどの地域でも見られるようになっていますが、殆どがPAL方式のTVに対応しています。一部SECAM方式もありますが、日本で用いられるNTSC方式やハイビジョン方式のテレビでは見られません。

日本でそれを見ようとすれば、パソコンで見るしかありません。

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そういう訳で、私が日本に帰国する際、全てのDVDを処分しました。

当地の日本人の知り合いに渡した訳ですが、文学作品は誰それに・・、ちょっとエッチな映画は彼の趣味だから彼に・・という具合に振り分けて、さらにDVDデッキも譲り渡して、手ぶらで帰国したのです。

集めたDVDを譲り渡す時は、日本ではもう見られないな・・という、ちょっと寂しい気持ちになりました。

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しかし日本に帰国して分かったのですが、実はレンタルビデオ店に行けば、私の知っているようなDVDは、どこでも貸し出していたのです。

なあんだ・・と思う反面、ありがたい事だ・・と感謝したのですが、最近事情が変わってきました。

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最近、大手のレンタルDVDのチェーン店に行くと、私が見たい名作や旧作が姿を消しているのです。あまりに有名になった名作(シェーンだとかカサブランカとか、サウンドオブミュージック等・・・)や「男はつらいよ」シリーズなどは古くなっても置いてありますが、そこまで有名でない作品は、どんどんなくなっていきます。

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その代わりに、棚の大半を占めるのは、韓流作品や、TVドラマをDVD化したものです。韓流作品を並べる事に異論はありませんが、TVドラマには違和感があります。TV番組は基本的に映画とは違います。本来、TV番組は放送時に録画すればいいのですし、オンラインのデマンドで見る事もできます。

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もちろんDVDを借りるのはお客の自由ですが、TVドラマのシリーズ物は枚数が多く、それだけで広い棚を占領します。その結果、珍しい旧作が締め出され、客が借りる事ができなくなるとしたら、旧作名画をひたすら愛する私などはとんだトバッチリです。

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しかも、この傾向はどの店でも同じで、その結果、どの店に行っても置いてあるビデオは同じ作品ばかり・・・・という事になります。

「これはレンタルビデオ店のコンビニ化だ・・・」

ご承知のとおり、コンビニエンスストアは、POS管理を行い、売れ筋の商品しか置きません。その結果どの店も同じような商品が置いてあります。コンビニの雑誌コーナーも金太郎飴のように、同じ商品が申し合わせたように並んでいます。

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少しでも他人様と異なる商品を買い求める人にはインコンビニエンスストアとなる訳ですが、同じ現象がレンタルDVD店でも起こりつつあります。

「これは困ったことだ。なんとかしなくては・・・」

私にできる事は、レンタルを諦めて、インターネットで売りに出ている作品を購入する事だけです。

しかし、私が名作・佳作と思う作品は、インターネットオークションでも姿を消しつつあります。「うーむ困った」

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それでも、少しずつ購入しています。これまでに入手した作品の内、珍しいものをあげれば、ビクトル・エリセ監督の「ミツバチのささやき」と「エル・スール」、DHローレンス原作のマーク・ライデル監督の「女狐」、エイゼンシュタイン監督の「メキシコ万歳」、ロバート・ワイズ監督の「砲艦サンパブロ」などです。

「ミツバチのささやき」は英国で製造したDVDで、PAL方式用なので、パソコンでは見られますが、テレビでは見られません。日本語の字幕もありませんが、仕方ありません。大好きな作品なのでよしとします。

私の部屋を訪れる友人に、「へえー、見慣れないタイトルのDVDが並んでいますね」と言われると、ちょっと得意になります。

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問題は、中国で買っていた海賊版と違って、お金がかかる事です。

名作であっても、レンタル店から姿を消し、販売も終了したものになると、オークションでも値がはります。

今、悩んでいるのは、台湾映画の「悲情城市」を買うべきか否かです。

台湾版で、中文の字幕スーパーのものは安価ですが、日本語の字幕スーパーが入ると、なかなか出品されないうえに、かなり高価になります。

もちろん日本語吹き替え版はありません。

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さてどうしようか・・・。中国で暮らしていた私としては、日本語の字幕スーパーがないと、理解出来ないというのは、かなりしゃくです。ちょっとプライドも傷つきます。

でも実際には、日本語がないと、私にはこの映画を理解できないでしょう。

「ああ、こんな事なら、もっと中国語をまじめに勉強しておくべきだった」。

でもそれを言い出すときりがありません。

学ばなければならない外国語ばかりになってしまいます。

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趣味の品というものは集めれば集めるほどさらに欲しくなり、棚の前に立って、ため息が出るものだ・・・と聞いた事があります。

私の場合は、過去の不勉強を悔いるため息が出るばかりです。


【 パリ・テキサス、バグダッド・カフェ 】 [映画]

【 パリ・テキサス、バグダッド・カフェ 】

大昔に気づいてよさそうなものなのに、ずっと知らないでいて、ある日突然気づくという事があります。 オヒョウは映画「パリ・テキサス」と「バグダッド・カフェ」をずっとアメリカ映画だと思っていたのです。 「パリ・テキサス」はフランスと西ドイツの映画で、「バグダッド・カフェ」はドイツとアメリカの合作映画でした。 ここでは映画のストーリーに触れませんが、舞台はどちらもアメリカです。

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アメリカ映画というと、どうしてもハリウッドの派手なアクション映画を考えてしまいますが、落ち着いたしみじみとした映画もあることはあります。 白黒映画にこだわる、ピーターボグダノビッチ監督の作品などはその代表だとオヒョウは考えます。 表題に取り上げた2つの映画は、乾いたアメリカの田舎を取り上げていて、登場する人物も、多くはアメリカ人ですから、当然アメリカ映画だと思ったのです。 しかし違いました。

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ある映画をどの国の映画とするか、映画の国籍はどこか・・・は、ちょっと面白い問題です。 スポンサーや映画会社の国籍はどこか? 監督の国籍はどこか? 脚本はどこで書かれたか? あるいは主演俳優が何人か? 主なセリフは何語で語られているか?・・・。

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いろいろな観点から映画の国籍は語られるべきですが、一応、正式には映画を制作した会社の国籍が採用され、複数の国の会社が合同で作る場合は、合作とか合同と言われるようです。 しかし、はっきりした決まりはないようです。 オヒョウは、観客がその映画の国籍を決めるべきだと思います。

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例えば、高倉健とチャン・イーモウが関わっている映画「単騎 千里を走る」では、日中合作となっており、舞台の大半は中国です。しかし、日本人が一人称でナレーションをする話のストーリーは、どうみても日本人向けにできており、もちろん主人公は日本人です。 つまり、これは日本映画なのです。

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見る人がその映画の国籍を決めるというのなら、「バグダッド・カフェ」も「パリ・テキサス」もアメリカ映画だ・・とオヒョウは言いたいのですが、あまり自信がありません。 

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この2つの映画は監督がドイツ人で、アメリカ人ではありませんし、娯楽大作でもありません。アメリカ映画とはもっと娯楽性を追求したものだ・・と考える人にとっては、この2つの映画はまさしくヨーロッパの映画(とりわけドイツの映画)という事になります。 オヒョウは「言われてみれば、そうかなあ」としか言えません。

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オヒョウはもうひとつ間違いをしていました。 「バグダッド・カフェ」の挿入歌「Calling You」を歌っているのはHolly Cole だと思っていたのです。

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映画そのものより、主題歌や挿入歌の方がヒットし有名になるという事がしばしばあります。この「バグダッド・カフェ」もそのひとつでしょう。 音楽評論家ピーター・バラカンは、この映画を見たとき、Calling Youを聞いて大変なショックを受け、映画館を出るとその足でレコード店に行ってこの曲を収録したアルバムを注文したそうです。

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彼でなくても、この曲を初めて聞いた時にはショックを受けます。 オヒョウはCallingとは何だろうか?としばし考えました。 単に誰かが呼んでいるという事ではなさそうです。 ”約束の地”が、あるいはその人が本当に幸せになれる空間が、人々を招いている言わば神の声がCallingではないか?とオヒョウは考えました。 そう言えば、中学の時、天職を英語では”calling”と呼ぶと教わりましたが、なぜですか?という質問に、先生からの明白な解答はありませんでした。 おそらくは、神が人を呼んでその職に就かしめるから”calling”なのかな?と勝手に解釈しました。

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そして、オヒョウはこの曲を歌ったのが、Holly Coleだとばかり思っていたのです。 そして先日、この曲を収録した彼女のCD ” Blame It on My Youth “がインターネットで売られているのを発見し、すぐに注文しました。しかし映画の中でこの曲を歌っていたのはHolly ColeではなくJevetta Steeleだったのです。 確かに声を聞けば微妙に違います。映画の中で聞こえる、透き通るようなハイトーンは、明らかにHolly Coleの声とは違います。

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ああ、ここでも勘違いか・・という訳ですが、まあそれでもいいか・・とも思います。 Holly Coleの歌も聴きごたえがあります。 少なくとも 「Sound of Music」のドレミの歌に感動して、ジュリー・アンドリュースのレコードを買ったつもりが、ペギー葉山だったなんて失敗とは訳が違います。

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ドイツの監督がアメリカで映画を撮影するというのは、それほど珍しくはないでしょう。 そして日本の映画会社が、外国を舞台にした作品を制作する事もますます増えるでしょう。役者の方もグローバル化して、”多国籍軍”のキャストで撮影する事になります。セリフの音声も音声多重化で、いろいろな国の言葉で吹き替えがなされます。 そうなるとますます映画は国籍不明です。 昔のように、これはスペイン映画、これはイタリア映画、という分類で考えていたオヒョウには、分かりにくい時代です。

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しかし、国別に映画の特徴を考えて分類する手法が 既に20世紀的で古臭いのかも知れません。


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