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【 麦の穂の揺れる穂先に 批判 その2 】 [映画]

【 麦の穂の揺れる穂先に 批判 その2 】 

最近は、インスパイアされたとか、オマージュだとか、アトリビュートだとか、いろいろなカタカナ単語で表現すれば、他人の芸術を真似ても許される場合があります。 そして、他人の作品を翻案する事は、文学や映画の世界では昔からあります。

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「水滸伝」を元に滝沢馬琴が「南総里見八犬伝」を書いても、オヒョウは認めます。「シラノ・ド・ベルジュラック」を翻案して「白野弁十郎」を書いても、オヒョウは評価します。 「ロミオとジュリエット」を元に「ウェストサイドストーリー」という映画を作っても、オヒョウはギリギリ許します。( オヒョウ自身は「ウェストサイズストーリー」に苦しんでいます )。

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しかし、小津の「晩春」と「麦秋」を合体させて、醜悪な芝居「麦の穂の揺れる穂先に」を作った事は許せません。インターネットで調べたら、平田オリザは小津の映画に「想を得た」という奇妙な言い方をしていますが、内容は中国人もしないような劣悪なコピーです。 しかも平田オリザは自分の名前を「脚本 平田オリザ」と真っ先に出しますが、小津安二郎や広津和郎、野田高梧のクレジットを全く出しません。破廉恥というべき事です。

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映画「晩春」は、広津和郎の小説を元に作られています。 主人公は父親と娘の両方というべきで、笠智衆と原節子が光っています。 海外の評論家は、「晩春」をさして、エレクトラコンプレックスを実に美しく表現した映画と言っています。確かに、原節子演じる紀子は父親に憧れていたのです。しかし、それはあまり露骨ではなく、上品に描かれています。

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しかし、「麦の穂・・」では、娘役がさっぱりです。江守徹は一流の役者ですが、娘役は無名の女優で、美貌とも程遠く、演技力は小学生レベルです。 娘が父親に何らかの感情をいだいている様子は全くありません。文学座の若い女優にありがちな、ハツラツとした明るくて勝気な女性を演じる事には成功していますが、微妙な、表には出せないエレクトラコンプレックスを表現する事はとてもできません。

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老境に入った父親が末娘(または一人娘)に感じる愛情・・(これをオヒョウはコーデリアコンプレックスと名付けていますが)・・の表現はそこそこ成功しています。 不器用な俳優だった笠智衆に比べれば、脳梗塞を患った後といっても江守徹の方が上手だからです。

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むりやり合体させている、もうひとつの映画「麦秋」の方は、やはり原節子演じる紀子が、子持ちのやもめ男に嫁いでいくという話ですが、戦死した兄の面影を相手の男性に感じて、結婚を決意する・・というやや複雑な心情が描かれています。 それが「麦の穂・・」ではさっぱりです。

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似ているのは、「麦秋」の結婚相手がリケッチアの研究者で、ツツガムシの棲息する秋田県に赴任しているのに対して、「麦の穂・・」は寄生虫を求めて、カリマンタン島へ行くという点です。寄生虫は世界中にいます。なぜカリマンタンなのか、さっぱりわかりません。ひょっとしたら平田オリザがカリマンタンという地名を知っている事を自慢したかったのか?

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結婚相手の男性が医師・・というのは、世俗的には素敵なようですが、子持ちの家庭に後妻として入るのは勇気がいりますし、田舎で寄生虫や病原体の研究というのでは、あまり好条件とは言えません。輝く美貌を持つ娘が、突然、冴えない男性と結婚するという意外性が映画「麦秋」のひとつの妙味なのですが、「麦の穂・・」にはそれが全くありません。

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背景や設定から、登場人物のセリフまで、極端に小津映画を真似ながら、その本質を完全にスポイルした作品を制作できるとは、ある意味でちょっとすごいです。もっとも平田オリザは「これは僕のオリジナルで、小津映画のパクリではない」と主張するかも知れませんが。

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インターネットのつぶやきを見たら、それでも意外に、この作品を評価する声が多いのに驚きます。「暖かみがあってホッとする作品」とか「見た後に心がやすらぐ平田オリザ作品」と言っていますが、よく見ると、それは若い世代で、小津映画を見ていない人達のようです。小津映画に言及するつぶやき“は、ありません。

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「麦の穂・・」を評価する人達は「晩春」も「麦秋」も知らないようです。だから偽物でも評価してしまうのでしょう。ちょうど、HONGDAのオートバイを最高と思う中国の青年のように。

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小津映画を知らない人達から高い評価を得たとなると、「麦の穂・・」を書いた、平田オリザの目論見は成功なのかも知れません。でも私オヒョウは言いたい。

北村和夫亡き後、文学座の宝とも言うべき江守徹に、せめて偽物の芝居をさせないでくれ・・と。 


【 麦の穂の揺れる穂先に 批判 その1 】 [映画]

【 麦の穂の揺れる穂先に 批判 その1 】

 昔、平田オリザなる人物がTVに登場したのを見た事があります。坊ちゃん刈りの頭で、穏やかに笑いながら、女性のような声で「オリザというのはね、ラテン語で稲の事なんですよ」と説明しているのを聞いて、無性に不愉快になりました。

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イネの学名は、オリザ・サティーバ・リンネです。ラテン語の綴りは、Oryza sativa Linne です。まあ、最後のリンネは学名を付けた人の名前ですから無視してもいいのですが・・・。そしてオリザ・サティーバというこの学名は広く知られています。その理由は2つ。

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一つは日本が誇る科学者、鈴木梅太郎が発見したオリザニンです。彼は米ぬかから発見した重要な物質に、イネの学名に由来するこの名前を付けました。しかし、その後に助酵素という概念ができ、ビタミンと命名されました。そしてオリザニンはビタミンB1とされ、もともとのオリザニンという名前は忘れ去られました。 だけど理科系の日本人なら知っているはずです。 

そしてもうひとつは宮沢賢治の童話「グスコーブドリの伝記」です。これに登場する農作物の名前はオリザで、明らかにイネの事です。主人公のグスコーブドリは、冷害の中でオリザの収穫を上げるために苦労します。 この小説は子供たちにもひろく読まれています。

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だから、普通の生物の学名と異なり、オリザという名前は理科系の人にも文科系の人にも、比較的に知られています。 それを無知な人に教えるように語る彼は、衒学趣味の人に違いない・・と思いました。

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そんな事は、とうの昔に忘れていましたが、思い出しました。ふとTVを付けると、江守徹が学者の役で娘と会話しています。 どこかで聞いた様なセリフが随所に登場します。 おや、これは小津安二郎の「晩春」と「麦秋」を足して割ったような話だ・・。そして至る所に知ったかぶりとしか言えない様な、薀蓄を垂れるセリフが登場します。さては、脚本は平田オリザかな?はたしてそうでした。

文学座の「麦の穂の揺れる穂先に」という芝居です。

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劇中には、ほとんど無内容でストーリーとは無関係な知識を披露する役者のセリフが溢れます。

なになに・・カリマンタン島とはボルネオの事だって?

それから日本住血吸虫が山梨県にいたって?

サナダムシで寄生虫ダイエットができるだって?

でも回虫でダイエットしてはいけない?

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教えてくれてありがとう・・と言いたいけれど、そんなことは小学生だって知っています。寄生虫の事だって、全て藤田紘一郎教授の「笑うカイチュウ」に書いてある内容のうけうりではないか! 知ったかぶりはよせ!

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さらになぜか話はアイルランド賛歌になります。登場人物はアイルランドの研究家で、ダブリンでギネスビールを飲んだとか、シロツメクサが国花だとか、航空会社のロゴにもその花が使われている・・とか、ありきたりの内容で、アイルランドを旅行した人なら、別に大学教授でなくても知っている事を延々と語ります。でてくる文学者もイェーツにジョイス・・とありきたりです。

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そして多分、脚本家は、イェーツもジョイスも理解していないでしょう。単に名前を知っているだけではないか?

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ちょうど、日本通を自称する外国人が日本に行って、スシを食べて、フジヤマを見て、アキハバラで買い物をして、オンセンに入ったと、帰国してから語っても、誰も彼の事を本当の日本の専門家だと思わないように、主人公は単なる知ったかぶりにしか見えませんでした。

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主人公の江守徹は、賑やかなやかましい音楽を「ジョイスに似合っている・・」と語ります。しかし、ジョイスについては何も語りません。たしかにフィネガンズ・ウェイクには、酒場も酔っぱらいも登場しますが、ジョイスに賑やかな音楽が似合うって?

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アイルランドに関して幾らかの知識を得ようとするなら、どんな本がいいか?オヒョウが思い出すのは「表象のアイルランド」です。原題は“Heathcliff and Great Hunger” 著者はテリー・イーグルトン(Terry Eagleton)です。オヒョウには、彼のポストモダニズムなど全くわかりませんが、彼のブロンテ三姉妹に関する評論はレベルが高い・・と母が申しておりました。

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何を隠そう、オヒョウはこの本をロンドンで買い求め、読もうとして挫折した思い出があります。そこで、三由君という日本からの出張者にこの日本語版(鈴木聡訳)を持参するよう頼みました・・。(そう言えばまだ代金を払っていない)。 そして、なんと日本語版の方も読むのを中断しております。鹿嶋の家の本棚には、英語と日本語の2冊の本が並んでいます。綺麗なままで・・・。知ったか振りはオヒョウの方ですね。

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その「表象のアイルランド」には、リバプールで育ったビートルズとアイルランドとの関係が書かれています。ジョン・レノンなどは、英国社会のマイノリティであるアイルランド人に共感していた様子があり、彼等の音楽がアイリッシュ音楽の影響を受けた可能性についても触れています。しかし、ビートルズとジョイスとの関係は分かりません。 ジョイス的な音楽とは何なのか?

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アイルランド人の有名人の名前を散りばめるだけの、彼の衒学的なセリフは全く消化不良ですが、ひょっとしたら、同じ「知ったか振り」の性格を持つオヒョウにとって、平田オリザは近親憎悪の対象なのかも知れません。

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しかし、オヒョウにとってもっと不愉快なのは、尊敬する小津安二郎の映画を冒涜しているとしか思えない、彼の脚本です。

それについては、次号で述べます。


【 小林桂樹が演じたもの 】 [映画]

【 小林桂樹が演じたもの 】 

俳優小林桂樹の訃報が今週の新聞に載りました。キャリアの長い俳優だけに、映画・TVドラマともに多くの作品に出演しており、人によって、印象に残る役柄が異なるはずです。 各紙はどの様に報じているか?に興味がありました。

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しかし、各紙の紹介は一様で、主役ではなく脇役として成功した人物ととらえているようです。具体的には森繁の社長シリーズで、実直な中間管理職または平取の役を演じて成功したと・・・。またその延長で、ごく平凡なサラリーマン役を演じるのに秀でていたという評価です。

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それを否定するつもりはありません。実際、平凡な人、普通の人を演じて、観客に印象を残すのは難しいのです。普通の人なら演じやすいというのは錯覚でしょう。 例えば、サラリーマン役をやらせるとして、竹中直人などには平凡な男を演じさせる事は無理でしょう。 映画「シャルウィダンス?」では、本来ハンサムで格好いい男である役所広司を、むりやり平凡なサラリーマンにするために、エキセントリックな同僚として竹中直人を配しています。この演出のコントラストの妙は、鈍感なオヒョウにもよく理解できました。もし配役が逆でしたら、この映画はなりたっていません。

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平凡な市民を演じるのがいかに難しいか、平凡な人々を主役にするのがいかに難しいかを考えたロバート・レッドフォードは、自らが監督して「普通の人々」という映画を制作しました。しかし興行的には大失敗でした。

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だから小林桂樹が、平凡なサラリーマンを上手に演じたというのは、たしかにすばらしい褒め言葉です。 しかし、主役を演じた事も多い役者を評価するのに、名バイプレイヤーだったと紹介するのはいかがなものか?やはり、演じた主役の内容で評価すべきでしょう。

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彼の評価を高めた「裸の大将」の山下清役をオヒョウはそれほど評価しません。山下清のユーモラスな面、ドラマの喜劇性を表すには、彼は真面目すぎます。 TVドラマシリーズで同じ役を演じた芦屋雁之助と比較し、彼が優るとは言えません。

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オヒョウが評価するのは、昭和40年代に、NHKTVドラマとして作られた「赤ひげ」の新出去定役です。この作品で彼は独自の医師像を描きました。彼は、医師とは悲しむ存在であり、医師とは悩む存在であり、医師とは怒る存在であり、医師とは教え励ます存在である事を示しました。

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当時、同じ小説を、ほぼ同時期に、TVドラマと映画で、競争で制作する事がしばしばありました。 「赤ひげ」もその一つです。映画版で新出去定を演じた三船敏郎は、古典的な医師像である、威厳のあるインテリというイメージを打ち破る事はできませんでした。 これは考えて見れば当然で、三船敏郎は、もともと医師役が下手でした。三船が最も似合っていたのは下級武士の役です。 それはともかく、三船との相対比較で、新出去定役としては、小林桂樹が優っていたのです。

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勿論、小林桂樹にも失敗作はあります。 阿川弘之原作の小説を元に、戦後の井上成美を演じた作品がありますが、これはいただけません。懐古趣味にひたり、現在を嘆く惨めな存在として登場していました。

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敗戦後に生き残った元高級軍人がその残余の生を、どのように送ったかは、オヒョウには興味深い事です。 人さまざまですが、その中で旧海軍大将だった井上成美は、潔く気高い老後を送った人物とされています。小林桂樹には、彼を演じきれませんでした。

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大物俳優が世を去った後、その人が演じた、あまりに印象が強い当たり役は、他の人が演じる事ができません。例えば、杉村春子が他界した後、「女の一生」は上演されません。渥美清が亡くなった後、「男はつらいよ」シリーズは終わってしまいました。森繁久彌の後、「屋根の上のバイオリン弾き」は続いていますが、影が薄くなりました。 今、誰が主演をしているか、オヒョウは知りません。

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小林桂樹の場合、彼以外の誰も演じられない役というものはないでしょう。だから、彼と一緒に何かのあたり役が棺に入ってしまう事はないのですが、それでもこれからは、善良なサラリーマン役、あるいは善意の医師役をTVや映画で見る時に、強い物足りなさを感じることはあると思います。オヒョウだけかも知れませんが。


【 海外映画に登場する日本人俳優について その2 】 [映画]

【 海外映画に登場する日本人俳優について その2 】

 映画「戦場に架ける橋」に出演した早川雪洲は名優です。 しかしこの映画での評判は必ずしもよくなかったようです。映画の内容が、戦争を扱う微妙なもので、泰緬鉄道の橋を架ける為には英軍捕虜の技術的な指導が必要・・という筋立てになっていて、それが日本人のプライドを傷つけた事もあります。

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実際には泰緬鉄道の架橋など、日本人技術部隊だけでこなせたので、英国人捕虜の助けなど借りていない。映画は不当に日本人を低く評価していて不満だ・・と意見です。 それは映画に対してなされる評価なのですが、出演した日本人俳優にも、火の粉は降りかかります。

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それ以来、日本人俳優は外国映画に出演する事に慎重になった可能性があります。その傾向は、「0072度死ぬ」で丹波哲郎や浜美枝が出演するまで、あるいは西部劇「レッドサン」に三船敏郎が出演するまで続いたと言えます。

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特に問題となるのは、第二次大戦を背景にした戦争映画です。「トラ・トラ・トラ」や「ミッドウェイ」の様な、大作では、どうしても日本人の大物俳優を起用しなければなりませんが、ケチな作品では、中国人が日本人の代わりをこなします。大抵、そういう作品では、日本人は最低の悪役として登場する訳で、日本人俳優が引き受けない・・・のかも知れません。

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英国でTVを見ていると、その手の劣悪な戦争映画が多数登場します。東南アジアの戦線が舞台で、日本兵は愚か、そして日本の下士官はずるくて乱暴で、白人の女性に乱暴する・・・という設定で、最後は悪役の日本軍やられてしまう・・という安直なストーリーです。 それらの映画で日本人役として登場するのは中国人です。 極めて珍妙なアクセントで不思議な日本語の台詞をしゃべります。 そしてやたらとバカというのですが、その発音も奇妙です。

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日本人の悪役を中国人が演じる・・・例は他にも多くあります。「燃えよドラゴン」では、なぜか袴を後ろ前に穿いた悪役の日本人が多数登場し、全員ブルース・リーにやられてしまいます。

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チャン・イーモウ監督の傑作「紅いコーリャン」では、映画の最後にやたら残酷な日本軍が唐突に出現し、コン・リー演じる主人公が殺されてしまいます。全体としては素晴らしい映画なのですが、取って付けたように日本軍の侵略が表現されるあたり、残念というか、中国政府のもとで制作される映画の限界を感じます。この映画に登場する中国人が演じる日本兵も、奇妙な、そしてワンパターンの日本語の台詞を話します。

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こんな不自然で不愉快なできになるのなら、たとえ悪役でもいいから日本人俳優を起用すべきだ・・・とオヒョウは思っていました。

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そうしたところ、日本人俳優が、悪役を演じ始めたのです。米国や英国でみたTV映画から選んでみます。

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名前を失念しましたが、英国の映画で、ビルマ戦線で捕虜になった英国人将校が脱出して、自国軍に帰り着くという映画がありました。それには、日本人将校で高倉健が登場します。決してみっともない役ではないのですが、当然ながら殺られてしまう役です。

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戦争映画ではありませんが、村上弘明が出演した米国映画「アイアン・メイズ ピッツバーグの幻想(Iron Maze)」では、彼は妻を寝盗られ、挙句はバスの中で少女に痴漢行為をして逮捕されるという、情けない役を演じています。もともと「藪の中」を翻案した映画なのですが、米国では放映されても、決して日本では公開されないだろうな・・とオヒョウは思いました。

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それらの日本人にとって不名誉な役柄、あるいはスターのイメージを損なう役柄を演じる日本人俳優を見ると、複雑な気持ちですが、それでも中国人や韓国人が日本人になりすますよりはずっとましです。

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悪役でない形で、日本人俳優がどうどうと出演する外国映画は、そう多くありませんが、ここ20年で増えつつあります。島田陽子らが出演した「ショーグン」、トム・クルーズらの「ラストサムライ」、なぜか中国人女優が日本人の主役を演じているけれど、脇役は一流の日本人俳優で固めている「サユリ」などです。

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どの作品も、日本人から見れば荒唐無稽でおかしなところもありますが、昔の様に、日本人を軽蔑すべき悪役にするか、戦争映画での敵役でしか見なかった、外国映画に比べればはるかにましで、日本人の人格や文化をそれなりに尊重しています。日本人俳優は、外国映画に出演する事を隠す必要はなく、どうどうと国際派の役者として名乗る事ができます。

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そして、その延長上に、渡辺謙らが出演した硫黄島関連の2作品も並ぶと思います。 ここまで来るのに、戦後の60年を要したのです。

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ああ、それなのに、(悪逆非道の)日本を糾弾するための映画に、香川照之が敵役で出演してしまっては、昔に逆戻りです。それなら中国人俳優が日本人のふりをする「紅いコーリャン」の方がずっとましです。 そして、それなら中国版のチャンバラ映画で大活躍する金城武の方がはるかにましです。


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【 海外映画に登場する日本人俳優について その1 】 [映画]

【 海外映画に登場する日本人俳優について その1 】

 最近、飛ぶ鳥を落とす勢いなのは、俳優の香川照之ですが、彼には二枚目なのに三枚目の役をこなせる・・という「特技」があります。それを追求するあまり、敢えて汚い風体の役柄に徹しようとして、岩崎弥太郎をみすぼらしく演じ、三菱財閥からクレームを受けたという程です。

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従来は、その手の役柄は、竹中直人の独壇場でしたが、新たな性格俳優の誕生と言えます。

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香川は、以前の大河ドラマ「功名が辻」でも重要な役を演じていましたが、当時は下手でした。 二枚目をきどろうとするのか、顔の表情に限界がありました。 最もシリアスで真面目な表情をすべき場面で、一種ニヤケているように見える表情があったのです。 

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特に頬の上部を膨らませる表情は、ハンサムな俳優がするとニヒルに見えるのですが、そうでない人がするとニコニコしているように見えます。 具体的には、山崎努や田村高廣などが頬の筋肉を持ち上げると格好良いのですが、オヒョウがすると、ただ笑っている様に見えます。ちょうど西施が憂いを帯びた表情をすると美しく見えるのに、他の女性がそれをまねると醜く見えたのと同じです。

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しかし、最近の香川は二枚目路線を変更したのか、その手の失敗をしません。 それでも彼には別の瑕瑾があります。

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彼が俳優としての評価を確立したのは、日本の映画ではなく中国映画だと思います。 傑作「鬼が来た」や「ふるさとの香り(暖)」では名演しています。 但し「鬼が来た」は中国では上映禁止ですから、オヒョウは日本で見ました。 

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「鬼が来た」では、彼は捕虜となった日本兵役で、必ずしも悪役ではない善良な人物として登場しますが、映画は全体として日本軍が不条理で残酷な存在である事を訴える内容になっています。 中国で現在上映禁止なのは、中国人があまりに不甲斐ない存在に描かれ、人々の自尊心を傷つけるからだと思います。

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「ふるさとの香り」では、香川は中国人役をしており、これは名演と言えます。彼に中国語がそんなに上手に話せるのだろうか?と疑問に思ってみたところ、なんと聾唖者の役でした。

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上記の2作品の影響で、彼の中国での知名度はあがり、南京大虐殺を描く2作品への出演の話があり、彼はその中で「ジョン・ラーベ」を選び、大虐殺を指揮する軍人役を演じています。

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しかし、南京大虐殺を描いたこれらの映画は、純粋な芸術作品や文芸作品ではなく、中国の国策としての反日キャンペーンの一環である事は明らかです。この映画を評して、東洋の「シンドラーのリスト」と言う人がいますが、全く違います。中国が今の時期に反日色の強い映画を制作するのには、当然政治的思惑があります。その映画に出演する事は、その片棒を担ぐことになるのです。

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中国政府が、映画(映像芸術全体)を政治的プロパガンダとして使用する事は常識です。 つい最近も「アバター」の上演をカットして「孔子」に切り替えたり、国産映画の上映比率を一定以上にするよう通達しています。映画を国家や政府の宣伝に使うのは、ナチスドイツが発明した手法ですが、中国や北朝鮮はそれを最大限利用しています。

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それに加担する香川は、南京大虐殺を描く作品について「この映画を見て、日本人が反省するきっかけになってもらえば」などと発言しています。しかし、オヒョウは香川にお説教されたり、歴史を教えてもらったり、教嚮される必要を感じません。

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彼が南京大虐殺についてどう考えているか知りませんが、私は自分自身で、現地を訪れて確認し、自分自身で資料を見て、真実は何かを探索します。 オヒョウだけでなく、多くの人がそうして自分自身で歴史を判断しています。安っぽい自虐史観を押し付けられては困ります。そして中国政府の宣伝をそのまま受け入れる事もできません。

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彼に限らず、俳優には、偉くなるとお説教臭くなったり教訓を垂れたがったりする人がいます。 晩年の森繁久彌もそうでした。 しかし、役者を役者としてみる観客には、その瞬間からその俳優は色褪せて見えるのです。

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それを知ってか、香川照之は、中国では「日本人の反省を促す為に・・」と語りながら、日本ではその事をおくびにも出しません。それを卑怯だとオヒョウは思います。

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しかし、それは彼に始まった事ではありません。外国映画に登場する日本人俳優はしばしば、その事を隠します。それはその映画が、しばしば日本人にとって不愉快なものであったり、役柄が不名誉な役だからです。

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そしてしばしば観客は、そんな映画を見る時に限ってナショナリストになりますし、国内では2枚目の俳優が、外国映画に登場すると、なんだか情けない存在に見えたりして落胆するからです。

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その例は枚挙に暇ありません。古くは、「戦場に架ける橋」の早川雪洲ですが、それらの話は次回になります。


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【 コレリ大尉のマンドリン 】 [映画]

【 コレリ大尉のマンドリン 】

 今回は、最近DVDで観た映画「コレリ大尉のマンドリン」について感想文を書きます。

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戦争を舞台にした恋愛映画は星の数ほどあります。第二次大戦の映画の場合、大抵 男性の方は連合軍の将校、女性の方は母国に残した恋人か、戦地で知り合った恋人・・・という設定なのですが、「コレリ大尉のマンドリン」はそうではありません。コレリ大尉は全くさっそうとしない、イタリア軍の連絡将校です。

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そして、ギリシャを舞台にした映画も山ほどありますが、それには何通りかの分類があります。以前のブログ【 蜂の旅人 】でも申しましたが、大まかに分ければ3種類です。

1.ギリシャ人俳優がギリシャ人の役を演じて、ギリシャ語の台詞を語るもの。  「日曜はダメよ」「シテール島への旅立ち」「蜂の旅人」等、

2.外国人が、ギリシャ人の役を演じて、英語の台詞を語るもの。「その男、ゾルバ」「コレリ大尉のマンドリン」 等

3.外国人が外国人として登場し、英語の台詞を語るもの。その場合、ギリシャ人は端役として登場。

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多分、ギリシャ人自身が、観る映画は1.でしょうが、「コレリ大尉のマンドリン」は、2.と3.が合体したもので、ギリシャ人の為の映画ではありません。 そしてイタリア人の軍人が異国でその国の娘と恋に陥るのは、「マダムバタフライ」のパターンですが、ストーリーは全く違います。

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不思議な事に、イタリア軍大尉の主人公をアメリカ人のニコラス・ケイジが演じています(もっとも父方は、映画界で有名なコッポラ一族でイタリア系ですが)。一方、ヒロインとなるギリシャ人の娘役はスペイン人のペパロニ・クルツが演じています。ギリシャ人などはその他大勢のエキストラにしか登場しません。

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そして出演者が話すのは、ギリシャ人役も、イタリア人役も、ドイツ人役も、皆さん英語です。但し、カンツォーネを歌う時と、女の子をナンパする時にかける声だけはイタリア語です。 ギリシャ語の台詞は一切登場しません。 これはギリシャ語がヨーロッパの中でも異質の言語であり、他の国の人にはさっぱり理解できないからかも知れません。

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そんないい加減な・・・とは思いますが、先日、取り上げた「カサブランカ」では、フランス人もドイツ人もなぜか英語を話し、賭場のディーラーの掛け声と「ラ・マルセイエーズ」の歌詞だけがフランス語でした。

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それはともかく、この映画も悪人がほとんど登場しない映画です。あえて言えば、ドイツ軍のトップが悪者ですが、コレリ大尉を射殺するのをためらったドイツ軍大尉は、善人です。そして善人ばかりでも、悲劇は発生します。それは戦争だからです。

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戦闘シーンは、後半で登場しますが、戦争の勇ましさを訴える訳でもなく、戦争の悲惨さを特に訴える訳でもありません。それでもぜんぜん軍人らしくない大尉を主人公に据えて、要所要所の台詞や、ダンスや音楽をひたすら好む主人公の行動を通じて、厭戦というか非戦の姿勢を明らかにしています。

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オヒョウは、露骨な反戦映画も下品で嫌いだし、甘ったるい恋愛映画も苦手ですが、軟派なイタリア人将校を主人公にして、反戦を隠喩で語るこの作品を気に入りました。

「なるほどイタリア軍というのは弱かったのだろうな」と思う反面、「イタリア人ってのは、とても素敵な連中じゃないか」と納得します。

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コレリ大尉は、友達になったドイツ軍大尉から、軍人としての信条を尋ねられ、「僕は殴られている人を見れば、その人を兄弟に思う」と答えています。 全く軍人らしくありません。そしてこれは、村上春樹が、エルサレム賞の授賞式で語った言葉

「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」によく似ています。どこかにオリジナルがあって、それを引用しているのでしょうか・・?

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この軟弱な将校役はニコラス・ケイジがまさにぴったりでハマリ役です。オヒョウはこの作品で初めて彼を評価しました。

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ところで、第二次大戦を描いた映画の場合、時代考証が重要です。当時を知る人も多くいますし、資料も豊富で、間違いがあるとすぐ判るからです。最近の日本映画は時代考証が杜撰で、台詞や話し方が今風だったり、登場する兵器がでたらめだったり、日本兵が皆長髪だったりするのですが、オヒョウなどはそれだけで興をそがれます。

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コレリ大尉のマンドリンの場合はどうか?この作品はかなり正確だろうと思います(台詞の方は分かりませんが)。ただ一つだけ挙げれば、ヒロインの父親の医師が「ペニシリンも無いのにどうしろというのだ」と嘆く場面がありますが、これは嘘でしょう。ペニシリンが実用化されたのは1940年代で、映画の中でこの台詞が登場する1939年より後です。

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しかし、それは些末な事です。むしろ、ギリシャの離島に残るダンス(クレタ島の踊りに似ています)や蝉の声にギリシャらしさを感じ「この映画は史実に忠実だ」と、オヒョウを納得させます。

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アルプスの北側にはいない蝉ですが、夏のギリシャではやかましい程、蝉が鳴いています。英国でギリシャを舞台にした映画を制作する場合、しばしば蝉の声を入れるのを忘れるのですが、この映画にはしっかり収録されています。 この映画はいい映画だとオヒョウは思います。


【 未亡人たち 】 [映画]

【 未亡人たち 】 

小津安二郎には、家族愛を描いた作品が多いのですが、その作品群を見ると、多くの映画で家族の主要な一員が欠けている設定である事が分かります。不愉快な言葉ですが、欠損家庭というのだそうです。

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戦前の「一人息子」は母子家庭、「父ありき」は父子家庭です。戦後の「晩春」「秋刀魚の味」なども母親が亡くなっていますし、「麦秋」では次男が南方の戦線から帰らないままになっています。

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そして「東京物語」では、息子のひとりが戦死しています。 東京へ来た老夫婦は実の息子や娘ではなく、戦死した息子の嫁に最も親切にされます。姑が亡くなった後、舅から感謝の言葉を告げられ、形見の腕時計を渡されて、その未亡人の嫁は泣き崩れるのですが、その原節子の演技を見て、オヒョウは思いました。

「ああそう言えば、昔の日本女性は両手で顔をおおって泣いたものだな。最近はそういう仕草を全く見ないけれど・・」。

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娘役だけでなく、未亡人役で高い評価を得た原節子は、その後の「秋日和」でも未亡人役を演じています。 こちらは、その娘の縁談が話の中心ですが、美しい未亡人に惹かれる亡父の級友達というのも、ストーリーの一つの経糸になっています。

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それにしても、未亡人という言葉には、妻を夫の従属物とみなす様なニュアンスがあり、ちょっと引っかかります。

近年は人権運動家が、人権への配慮という観点から言葉狩りとも言えるような活動をして、つぎつぎと放送禁止用語をリストアップしていますが、この未亡人という言葉が槍玉にあがったという話は聞きません。 なぜでしょうか?

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夫が亡くなった後の妻の人格を認めない・・という発想は儒教由来のものかな?と思っていましたが、世界には、もっとひどく厳しい習慣があります。イスラム教の一部には、女性の人格を認めず妻は夫の所有物という考え方がありますし、イスラム教以外にもアフリカにも妻の人格を認めない社会があります。 インドのヒンドゥー教の一部には、夫が死んだ後、妻や権妻に殉死を強いる社会もあります。

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そう考えると、未亡人の人格を認めない風潮というのは、案外一般的で日本だけではないみたいです。

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「未亡人というのは、まだ死んでいない人という酷い意味の言葉だ。本当は、まだ死んでいないのではなく、生きているのだ」と語り、未亡人となった義理の娘に再婚を勧めるのは、漫画「めぞん一刻」の音無老人です。

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この漫画をご存じない方の為に申し上げれば、これは30年ほど前に青年誌に連載された漫画で、若く美しい未亡人の音無響子が、2人の男性から思いを寄せられ、いろいろなエピソードが展開するというラブコメディです。亡夫を思う貞淑な女性の心の中で、夫の思い出が次第にフェイドアウトしていく一方、新しい男性への思いがフェイドインしていく様子が面白く、その機微を読み取れる事で、この漫画は大人向きの作品になっています。

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NHKの「BSマンガ夜話」でこの「めぞん一刻」を取り上げた時、出演者のひとり(漫画家いしかわじゅんか、夏目房之介、評論家の岡田斗司夫の誰か)が、語っています。「 この音無響子という女性は、亡夫惣一郎の存在がなければ、とても嫌らしい女性だよね 」。これはある意味、当たり前の事です。

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亡き夫に操を立てるという事情がなければ、2人の男性を二股にかけ、しかもなかなか態度を決めない優柔不断な女性になってしまいます。単なる三角関係では物語が単純ですし、ヒロインの音無響子に陰影を持たせるにも、彼女は未亡人でなければならなかったのです。つまり漫画「めぞん一刻」が成立するためには、ヒロインは若い未亡人である必要があったのです。

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その作中で、音無老人が音無響子に再婚を勧め、諭す話し方が、映画「東京物語」で笠智衆が原節子に語りかける様子に、良く似ているのです。

(これは漫画版というよりアニメ版での話ですが)。

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漫画の作者、高橋留美子が「東京物語」を観てインスパイアされたかどうかは、オヒョウには分かりません。 しかし年老いた男性が、死んだ息子の為に、若い女性があたら人生を犠牲にするのを諒とせず、新しい人生に踏み出せと女性に勧めるなら、自ずと同じような口調になるかも知れませんね。

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このあたり、オヒョウには他に知識が無いので何とも言えません。ただ一つ言える事は、音無響子は両手で顔をおおって嗚咽するという事はしません。 そのあたりが時代の差かな?とオヒョウは思います。


【 カサブランカの法則 】 [映画]

【 カサブランカの法則 】

 アメリカでアンケートをとると、今でも最高の恋愛映画に「カサブランカ」が第一位に選ばれるそうです。制作されてから70年近く経つというのにです。 実は、オヒョウはある目的で、この映画を文字通りビデオテープが擦り切れる程、繰り返し観た事があります。DVDではなく、ビデオテープの時代です。 その結果、恋愛映画の法則とでもいうべき、幾つかの項目に気づきました。 カサブランカだけでなく、同時期の他の映画にも通用する法則です。

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1.主人公は、実に格好良い男ですが、なぜかヒロインには、振られてしまいます。 ヒロインの方は、2枚目だけれど、どこか頼りない男性の方に惹かれてしまいます。「色男金と力がなかりけり」を絵に描いたような男性がヒロインをものにするのです。

 2.主人公は失恋しますが、代わりに得難い友情を手に入れます。

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観客の男性は、皆主人公のハンフリーボガードに感情移入します。「そうさ、僕も失恋したけれど、格好悪くて失恋した訳じゃないんだ。あんなに格好いいボガードだって恋人をものにできない。僕と同じだ 」実際には、自分とボガートは全く違うのですが、その部分の思考は欠落します。

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これはカサブランカだけでなく、幾つかの映画のストーリーに共通します。「風と共に去りぬ」でも、ヒロインのスカーレット・オハラは、一番格好いいレット・バトラーではなく、「金と力がなかりけり」のアシュレー・ウィルクスを思っています。不思議なことに、美しい女性に振り向いてもらえない方がスマートに見えるのです。

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確かに、人がうらやむ美男美女が、相思相愛となって、ハッピーエンドではストーリー展開としては、全く平板になってしまいます。

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しかし「カサブランカ」にせよ、「風と共に去りぬ」にせよ、女性の側から見ると、これはちょっと違うようです。イングリット・バーグマン演じる、ヒロインは2人の男性を天秤にかけて弄ぶ、虫のいい、自分勝手な女性となりますし、ビビアン・リーが演じるスカーレットは、力の無いアシュレーに憧れる愚かな女性に見えるとの事です。

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ヒットする恋愛映画とは、男性から見て不可解なヒロイン、一方女性から見て愚かなヒロインが登場するものなのでしょうか?

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ところで「カサブランカ」は日本のストーリーに翻案され、映画になっています。ご存知 石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」ですが、全く不自然な設定と無理なストーリーで、名作とは言い難い作品になっています。少なくとも、米国のオリジナルと比較する事はとてもできません。但し、裕次郎が歌う「夜霧よ今夜もありがとう」は名曲ですが。

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ところで、私が「カサブランカ」を何度も何度も観たのは、映画に惚れ込んだからからではありません。ある時期英会話の聞き取り能力を少しでもあげたくなって、洋画の台詞の聞き取りに挑戦したのです。字幕スーパーの日本語の台詞から、元の英語の言葉を推理し、耳に入った内容との符合を確認するという作業を続けました。

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今ならDVDですから、英語の字幕も、日本語の吹き替えも自由に選べますし、巻き戻しの手間もないし、スロー再生も簡単だし、作業ははかどるはずですが、当時はビデオテープでした。

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その結果、どうなったかと言いますと、英語の力はぜんぜん向上しませんでした。今でも「This is a pen.」に毛の生えたぐらいのレベルです。しかし、意外な効果がありました。

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「カサブランカ」については、主だった台詞をほとんど暗記した訳ですが、それが、アメリカのマスコミに頻繁に登場する事を発見したのです。 実は米国の新聞や雑誌の見出しや、挿絵の噴出しには、有名な言葉がそのまま引用されたり、ちょっともじって使われていたりします。それを理解する人には、その洒落が面白い訳です。理解しない人には、何の事か分かりませんが、それはそれで不自由はありません。

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例えば、ある犯罪捜査がおざなりだと、雑誌記事が指摘する場合は、挿絵にRound up the usual suspects. と話す警官が登場します。これは、ご存知の方も多いでしょうが、警察署長ルノーが、ドイツ側につくか、主人公リックの味方につくか・・・という切羽詰った場面で、リックの味方につくことを明らかにした台詞で、このおかげでリックは助かり、二人の間の友情を確認する形になります。

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無論、雑誌の記事や見出しに引用される名台詞は「カサブランカ」だけではありませんが、オヒョウの知るところ「カサブランカ」が一番頻度が高いと思われます。アメリカ人が大好きな映画の名台詞を覚える事は悪い事ではありません。

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しかし、オヒョウは次に、変な事を考えました。英語の聞き取り能力の勉強に映画を使ったけれど、中国語の勉強にも使えるな・・・と。中国で暮らし始めて、オヒョウは中国で売られている「カサブランカ」のDVDを購入しました。他の映画でもいいのですが、台詞を暗記しているので、便利かな?と思った訳です。

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中国バージョンの題名は、発音に基づいた「卡薩布蘭卡」と、映画の意味から名付けた「北非諜影」の2種類がありますが、内容は全く同じです。しかし、この試みは全く失敗でした。ハンフリー・ボガードやイングリット・バーグマンがしゃべる中国語が不自然で可笑しくて、笑い転げてしまいます。すぐに挫折しました。

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代わりに、中国映画「老鼠愛上猫」という劉徳華(アンディ・ロー)主演の映画を繰り返し観ましたが、効果はさっぱりです。発音は広東なまりの北京語で、字幕は北京語ですが、スピードが早くて、オヒョウにはついていけません。 初心者には無理な試みでした。だから私の中国語は「此是筆」のレベルを超えません。

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その後、勤務先の中国人女性が、私も英語を勉強したい・・と言い出したので、中国語版カサブランカ「北非諜影」を上げました。その後、彼女の英語力が向上したかどうかは分かりません。


【 長編小説を本当に映像化できるか その2 】 [映画]

【 長編小説を本当に映像化できるか その2 】

坂の上の雲」のTVドラマ化について

おそらく明治人とは、現代人とは違う人種ではなかったのか?とオヒョウは思います。

ちょうど同じ土地に棲んでいた歴史があってもネアンデルタール人とクロマニヨン人が別の人であるように、あるいは同じ日本列島に住んでいた歴史があってもコロボックル人と現代日本人が異種の民族であるように。

だから、現代日本の俳優が明治人を演じようとする時は、なまじ外見が似ているだけに、注意が必要です。

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ここでいう明治人とは、明治の前半に教育を受け、壮年期に、日清・日露戦争から第一次世界大戦までを経験した人々です。

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封建主義が色濃く残る時代に教育を受け、決して先進国ではなかった日本の国民として、矜持は持つけれど驕りは持たず、西洋諸国に対しては謙虚で西洋事情をよく学び、一方で列強の脅威に対しては、警戒し緊張感を持つ、そういう世代が国家をリードしたのは日本史上、ごく短い期間です。そういう人物が輩出したのも短期間です。しかし、司馬遼太郎はその人達が主人公の小説を書きました。

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彼等は、幼少時に漢文の素読を習い、長じて英語を学校で学び、少なくとも、日・漢・英のトリリンガルだった訳です。ここで言うトリリンガルというのは、三カ国語を話すという事ではなく、3種類の文化・思想を理解するという事です。

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「坂の上の雲」に登場する、夏目漱石は、二松学舎で漢文と習い、大学予備門と大学では英文学を学び、漢詩も作れば、英文の詩や小説も理解し、子規に学んで俳句を作り、そして日本語の小説を書きました。

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漱石は例外的なインテリであるとしても、当時の教養人は普通に漢文の素読ぐらいはできたのです。趣味で漢詩を作る人もたくさんいました。そして上級学校での授業は英語で行われました。

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そして彼等のバックボーンは儒学であり、論語を普通に暗唱していたのです。正岡子規も、軍人であった秋山兄弟もそういう教育を受けた明治の知識人です。

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明治の知識人は、大正時代に減少し、昭和20年に絶滅しました。今の日本人は、その遺伝子を引き継いでいません。だから、その人達を・・・現代の俳優に演じきる事ができるか?オヒョウは疑問に思うのです。むしろ、日本人俳優が、違う人種である白人を演じる芝居の方が、ましかも知れません。

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次ぎに問題なのは、NHKの姿勢です。戦争が絡むストーリーを的確に演出できるか・・という問題です。「坂の上の雲」は決して侵略を肯定したり、軍国主義を礼賛する小説ではありませんが、主人公は軍人であり、戦争は国外で行われます。だから下手をすると必要以上に、外国に気兼ねして、原作に忠実でなくなる可能性があります。

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昭和40年、NHKが大河ドラマの3作目として緒方拳主演で「太閤記」を放送した時は、日韓関係がデリケートな時期でした。豊臣秀吉の一生を語る時に朝鮮出兵のエピソードは欠かす事ができません。しかし、TVドラマでは完全に無視しました。一度だけ、ねねが秀吉に「朝鮮の事はどうなっています?」と尋ねたのに対して「ああ、あれは治部(石田光成)にまかせておる」と一言語るだけで済ませています。あきらかに日本政府への配慮で変更したのです。

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同じように「坂の上の雲」は舞台がデリケートです。ロシアも中国も朝鮮も登場します。それらの国からどの様なクレームが来るか分かりません。ロシアも中国も表現の自由を認めない国です。彼らは政府がメディアに圧力を掛け、検閲するのが当然と思っており、もしそれをしないなら、そのドラマの内容は政府の意向に沿ったものとして考えられます。

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清やロシアと戦い、それをうち破る軍人が主人公となれば、彼らは、自分たちを敵役にし、かつ日本の軍国主義を礼賛するドラマが国営TV局から放送されると、大騒ぎする可能性があります。少なくとも、難癖を付ける材料にはなります。NHKはどう対処するか?そして鳩山政権はどう対処するのか?

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中国では日清戦争(向こうでは甲午戦役と言います)も日露戦争も、日本の帝国主義が引き起こした侵略戦争であると、歴史教育で教えています。日露戦争でのロシアは、中国を日本の侵略から守る為に駆けつけた正義の味方の助っ人で、代わりに日本と戦ってくれた・・という、噴飯物の解釈をしています。

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勿論、オヒョウは日露戦争の解釈の矛盾点を突っ込みます。では、開戦前に、満州(現東北地方)の多くの利権はなぜロシアのものだったのか? 旅順港はどうしてロシア海軍に占拠されていたのか? 大連にはロシア風の街並みがあるが、あれは戦争前からロシアが中国の一部を植民地化していた証拠ではないか?ロシアは正義の味方ではなく、日本は日露戦争で中国大陸のロシア利権を奪い、北部中国全体がロシアの植民地になるのを防いだのではないか?

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矛盾点とその証拠を示すと、多くの中国人は困惑しますが、日本が侵略思想に燃えた帝国主義者であると刷り込まれた、彼らの意識を修正する事はできません。その彼らにとって悪夢である日清戦争と日露戦争を美化する(ともとれる)TVドラマは看過できないでしょう。彼らがどういう圧力をかけるか。それに対してTV局は変に阿って、原作を歪曲しないか・・・正直いってオヒョウは心配です。

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人気のある「坂の上の雲」が長い間、映画化もTVドラマ化もされなかったのには、それなりに理由があります。今回、それらの困難を振り払って、ドラマ化した勇気をオヒョウは評価しますが、それでもやっぱり心配するのです。


【 長編小説の本当の映像化は可能か? その1 】 [映画]

【 長編小説の本当の映像化は可能か? その1 】

 かつて、オヒョウの母が私に言った事があります。

「 長編小説を映画にする事は難しい。特に思い入れのある小説が、映画化されたと聞いて、期待して見に行っても、内容が実に物足りなくて、がっかりする事が多い 」

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母がこう言ったのは、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」とトルストイの「戦争と平和」の事です。 レ・ミゼラブルについては邦題「ああ無情」ですが、これにはフランス映画と、翻案された日本映画の2種類があり、母がどちらを指して言ったのかは不明です。

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「レ・ミゼラブル」も「戦争と平和」も、長編小説で、作中には実に多くのエピソードがありますが、映画にすると、どう頑張ってもエピソードの多くを割愛せざるを得ません。それが小説を愛し、熟読した人には物足りない・・・という事なのです。

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長編小説が映画化不可・・・となれば、ロシアの大河小説は大半が映像化不可という事になります。しかし実際には、それなりに映画化されています。 中国に行くと、西側に紹介されていない旧ソ連の映画がたくさんあるのに驚きます。その中にはロシアの名作小説を映画化したものもたくさんあります。でもオヒョウは残念ながら見ませんでした。原音声がロシア語で、吹き替えや字幕スーパーが中国語では、オヒョウの実力では鑑賞不可能だからです。

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日本の小説で一番長い長編小説は、ずっと長い間、中里介山の「大菩薩峠」でした。母はこの小説も映画化は無理だと言っていました。原作が長編過ぎるからですが、実際には映画化されています。勿論、映画で取りあげたのは原作のごく一部分だけです。

そして、今世紀に入り、日本の最長の小説は、栗本薫の「グイン・サーガ」に記録更新されました。 これも全編の映画化はとうてい困難ですが、NHKはその一部分のエピソードをアニメ化しました。しかし、これもやはりグイン・サーガのファンにとっては、全く物足りない様です。

もっとも、こちらの意見はオヒョウの母ではなく、愚妻の方ですが。

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しかし小説が長すぎて、どの様にカットして映画に納めるか・・というのは実は本質的な問題ではないようです。なぜなら、同じ長編小説の映画化でも、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」は傑作映画として、母も含め多くの人が認めるからです。一般的にアメリカの長編小説は、映画化されても評判が下がる事はあまりありません。 これは主演俳優や主演女優の力量によるのかも知れません。

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「風と共に去りぬ」に出演したクラークゲーブルやビビアン・リーは、名優と大女優です。小説を読んだ時に、読者がイメージする主人公像を超えていたかも知れません。 或いは「エデンの東」のジェームス・ディーンもそうかも知れません。

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オヒョウが「そうかも・・」と言うのは、オヒョウが原作(但し日本語版)を読んだのは、既に映画を見てからであり、最初から、スカーレット・オハラはビビアン・リーのイメージが固定化していたからです。「エデンの東」も同様です。

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そう考えると、原作の小説と比較して、映画を物足りなく感じるかどうかは、監督や演出家、演じる俳優の想像力が、読者の想像力を超えられるか否かにかかっているのではないか?という結論になります。

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つまり、監督や俳優の力量が問われる訳ですが、この点でオヒョウが不安に思うのは、これからNHKが放送するTVドラマ「坂の上の雲」です。司馬遼太郎の長編小説を短いTVドラマで、どこまで正確に表現できるだろうか・・・・?

オヒョウはこの小説が大好きで、熟読した記憶があります(実はオヒョウの遠い親戚もこの小説に登場します)。それだけにTVドラマの出来を危惧するのです。

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「坂の上の雲」には、他の明治時代のエピソードを扱った小説とは異なる難しさが3点あります。

1.庶民階級出身ながら、明治時代のトップクラスの選良であり、インテリであった青年達の苦悩を本当に描けるか?

2.当時の日本が置かれた、世界情勢、国際関係を公平中立に描けるか?

3.明治という時代が持つ、活気があるけれど、暗く重苦しかった時代背景をどこまで忠実に再現できるか?

実は「坂の上の雲」の世界を、別の言葉や画でとらえ直そうという試みは小説や漫画で何度も試みられ、多くが失敗しています。それらについての考察は、次号で申し上げます。


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