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【 誰がゴンドラの歌を選んだのか? 】 [映画]

【 誰がゴンドラの歌を選んだのか? 】

 

加藤剛や浅利慶太、常田富士夫の訃報に隠れて、あまり大きく報道されませんが、脚本家の橋本忍が亡くなりました。

https://www.asahi.com/articles/ASL7L6T15L7LUCLV022.html?iref=comtop_8_03

御年100歳の大巨匠の死で、衝撃を受けるとすれば、映画ファンでも年配の方かも知れません。しかし昭和の日本映画界において、彼の存在は、黒澤明と並んで、巨大でした。

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そもそも、私には映画監督と脚本家の境界線がよく分かりません。ひょっとしたら不可分な存在かもしれません。両者の仕事は分かれているようで、重なっている部分もあり、監督が脚本を書く場合、脚本家がメガホンを取る場合、さらに言えば、プロデューサーをする場合もあります。いい映画とは、肝胆相照らす仲の監督と脚本家が一緒に練り上げて制作するものだ・・と私は考えます。

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例えば、小津安二郎は脚本家野田高梧とのコンビで名作を量産しました。撮影前に2人は旅館に缶詰になって、一緒に脚本を完成させたのですが、野田高梧は遠慮なく小津にアドバイスし、不評の作品(例えば、「風の中の牝鶏」)には批判を加え、それを小津は受け入れ、次回作をより良い作品にするヒントにしました。

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話を橋本忍に戻します。彼と黒澤明のコンビは、「七人の侍」など、7本の傑作を生みだしました。どれも映画史に残る作品です。しかし、黒澤明は、橋本忍と組まなくても、傑作を作っています。一方、橋本忍も野村芳太郎らと組んで、やはり傑作を作っています。両方とも才能の塊だったのです。そうなると、名作映画のどの部分が、黒澤のアイデアで、どの部分が橋本なのか?が気になります。

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連続TVドラマ「泣いてたまるか」や、初期の「男はつらいよ」では、脚本家が作品によって異なり、それらを比較することで、脚本家の個性の違いを確認できます。しかし、黒澤明作品の映画で、橋本忍固有のセンスを見出すのは、かなり難しいかも知れません。ひとつだけ言えるのは、名優志村喬の演技は、彼の脚本で特に輝いたということです。

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志村喬は、恐るべき戦術家の侍を演じても、哀感漂う市井のサラリーマンを演じても、見事に演じきる俳優でしたが、橋本忍が用意した「決め台詞」とも言うべき一言が印象に残ります。

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名作「生きる」では、余命を知った主人公が、夕焼け空を見て「ああ、美しい。だが私には時間がない」とつぶやきます。美しい夕焼けを見て、感慨にふけった記憶は誰もが持っています。しかし、美しい風景に感動するその背後に、無常観と焦燥感と絶望の暗闇が広がっていた経験を持つ人は稀でしょう。しかし志村喬は、短いせりふをつぶやくだけで、それを表現し、観客に理解させました。それをさせたのが、黒澤明なのか橋本忍なのか、私には分かりません。

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今もガンで亡くなる人は多く、自分の余命を噛み締めながら生きる人が多くいます。しかしそうでない人にも、夕焼けの違う美しさを、この映画は理解させたのです。

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そして、終盤、雪の降る公園のブランコで、志村喬はゴンドラの歌を、低い小さな声で歌います。それを見た私は、他にもっとふさわしい歌は無いか?と考えましたが、思いつきません。「ゴンドラの歌」が最もふさわしい歌なのです。この歌を選んだのは誰か? 監督か演出家か、それとも脚本家か? この歌を見出し、名優に低い声で歌わせた監督と脚本家を私は尊敬します。

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「生きる」のようなシリアスな映画だけではありません。「七人の侍」では、同じく志村喬に重みのあるセリフを語らせます。野武士を退治した後、加東大介に向かって「今度も負け戦だったな」と言います。きょとんとする加東大介に向かって「勝ったのはわしらではない。あの百姓たちだ」と語るそのセリフに観客は、アッと驚きます。

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封切りされたのは、まだ日本が戦後だった時代で、人々には敗戦の記憶が強く残っていました。あれだけ戦に一所懸命だった主人公の侍たちには、勝利など最初から存在しない。勝利は常に他者のものであったという・・・という説明は、妙に日本人の腑に落ちたのではないかと私は思います。あのセリフが、「七人の侍」をただの映画とは違う存在にしています。

あのセリフは黒澤明の書いたものなのか? 橋本忍が書いたものなのか?私はそれを知りたかったのです。

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「七人の侍」のリメーク品と言える西部劇の「荒野の七人」には、その種のセリフは無かったようです。「七人の侍」から一部影響を受けた「スターウォーズ」にも、その種のセリフは無かったようです。ストーリーや映像は真似できてもセリフはあまり真似されません。

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黒澤明の真似はされても、橋本忍は真似されないのかも知れません。

今頃、天国で黒澤明や志村喬、淀川長治らと再会した橋本忍はこう語っているかも知れません。

「今度も負け戦だったな」

「勝ったのはわしらではない。我々の映画に感動した観客、そして我々の映画に影響され、名作映画を多く作り出した、後輩の映画人たちだ」

 

合掌


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【 卒業式 その1 】 [映画]

【 卒業式 その1 】

 

マイク・ニコルズ監督の青春映画「卒業」は封切りから50年経っても、色褪せない傑作です。原題は「The Graduate」ですから、正確には「卒業式」だという人もいます。私は、卒業生(対象を特定しなければ不定冠詞のAが付きますが、特定の卒業生=ダスティン・ホフマン演じるベンジャミン・ブラドックを指すならTheが付きます)を意味するのではないか?と思います。実際、映画には、卒業式のシーンは登場しません。

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物語は、東部の大学を卒業したベンが故郷に戻り、少しフラフラした後、一つの決断をしてそれを実行する訳で、その流れ全体を、大人に脱皮する一つの通過儀礼と考えるなら、たしかに題名は「卒業」または「卒業式」となります。でもやっぱり、卒業生の方がいいように思いますが・・。まあ、どうでもいいことですが。

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この映画のラストには、ちょっとした工夫があります。

花嫁の奪取に成功し、追手も振り切った安堵感と達成感で笑顔のダスティン・ホフマン演じるベン、彼の愛を確認した喜びと逃避行への期待で微笑むキャサリン・ロス演じるエレイン。普通ならそこで映画は終わるのですが、そうは問屋が卸しません。

監督はなかなか「カット!」を言わず、カメラは長回しを続けます。だんだんダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスは不安になり、笑顔は消え、落ち着かない表情になり、戸惑っている様子です。そこで監督は初めて「カット!」の声を掛け、画面は走り去るバスのお尻に変わり、Endのサインが現れます。

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映画解説者は、さまざまに解釈します。

1.卒業は、終着点ではなく、次の人生の始まりだ。当然、不安や戸惑いもあるはずで、それを表現しなくては「卒業」ではない。だから二人の不安な表情が欲しかったのだ。

2.1960年代のアメリカはベトナム戦争まっさかりで、大学を卒業した青年にも徴兵と戦場が待っている訳で、ノー天気に喜んでいられる時代ではなかった。ダスティン・ホフマンの不安そうな表情は、ベトナム戦争を暗示している。

3.戦後、空前の好景気が続いた米国経済も陰りが見えだし、大学を卒業しても、いい仕事にありつけるか分からない不透明な時代だった。だから監督は敢えて、ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスの表情が曇るのを待ち、それをフィルムに納めたのだ。

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いろいろ意見はありましょうが、未来への不安というのは何時でも誰にでもあります。1960年代に米国の大学を卒業した人だけではないのです。でもそうはいうものの、とりわけ、期待と不安が混ざった複雑な気持ちになるのは学校を卒業する人々でしょう。

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学校を卒業しても、いろいろな思いから社会人になることをためらい、能力があるのに就職しない人がいます。西海岸の実家に帰ったベンもその一人ですし、日本にも昔からいます。

明治時代、夏目漱石が小説に登場させたそれらの人達は高等遊民と呼ばれました。昭和の時代は、慶応大学の小此木啓吾氏がそれらの人々をモラトリアム人間と呼びました。そして平成の現代、彼らの名前はフリーターまたはプー太郎です。

もっとも、現代のフリーターは、高等遊民のように経済的余裕があるとは限りませんし、就職したくてもできなかった不本意な人も多い筈です。

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ではモラトリアムな人達にとって、大学の卒業式はどんな感じなのか? 卒業へのためらいや抵抗はあるのか?

西島三重子が歌う「ローリングストーンズは来なかった」は若者たちの屈折した心情を表現した歌です。大学生(とおぼしき)カップルが社会人になることに、ためらいと抵抗を感じながらも流されていく内容です。この歌では、卒業は必ずしもハッピーではありません。

「ねえ、明日は卒業式ね」という言葉に対して、「まだネクタイが似合わないんだ」と答えます。「ねぇ、髪を切るのは止めて」という言葉には、「もう青春は終わりなんだよ」と非常にネガティブな答えです。私が「『いちご白書をもう一度』型フォークソング」と呼ぶ、それらの作品は、ひたすら暗く、去り行く青春を嘆く歌詞です。

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惜春は俳諧の重要なモチーフですが、惜青春はシャンソンとともにフォークソングの重要なテーマです。もはやそれらの歌は流行りませんが、現代の大学生はどう考えるのか?

そんなことを考えていると、あっという間に新幹線は仙台駅に着きました。

 

以下 次号


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【 灰とダイヤモンド アンジェイワイダの死 】 [映画]

【 灰とダイヤモンド アンジェイワイダの死 】

 

ポーランドを代表する・・というより戦後のヨーロッパの映画監督を代表する一人であるアンジェイワイダが亡くなりました。

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私はポーランドに行ったことがなく、戦後の東西対立のもとで東欧がどういう世界だったかを知りません。それを知らなければ、彼の作品を本当に理解することはできないのかも知れません。 それでも私は彼の作品には毎回心を打たれました。「地下水道」、「大理石の男」、「灰とダイヤモンド」。

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全部に触れると、ブログの論旨が発散してしまいますので、ここでは「灰とダイヤモンド」に絞って、彼の作品を考えたいと思います。

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第一番にこの作品が印象的だったのは、主人公が撃たれて、廃墟のガレキの中で、ボロギレのように惨めな最後を迎えることです。今でこそ、ヒーローがあまり格好良くない死に様をさらすドラマは珍しくありませんが、映画では多分これが初めてではないか?と思います。

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話は飛躍しますが、石原プロが昭和の時代に手がけていた刑事物のアクションドラマ「太陽に吠えろ」では、準主役とも言うべきヒーローが、犬死にみたいな死に方をして、交代するのがお約束でした。萩原健一、松田優作らがそうで、その死に方も話題になり、ドラマの人気は上がりました。 カッコいいヒーローはみっともない死に方をしても様になる・・というのを証明した訳ですが、その原型は「灰とダイヤモンド」にあったのではないか?と私は考えます。

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そして、最初に迷うのは、主人公は善玉なのか、悪玉なのか?という点です。ドラマをついつい単純化して見てしまう私は、登場人物が現れるたびに、善玉か悪玉かを推理します。 複雑なドラマほど善玉と悪玉の識別は難しいのですが、「灰とダイヤモンド」も難しい作品でした。

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映画はソ連から派遣された共産党の幹部を暗殺する場面から始まる訳で、暗殺者マーチェクは犯罪者でありテロリストなわけですから善玉の筈がありません。しかし、途中でこの青年は善玉に違いないと確信します。そして彼が死んだ後に、それを慰めるような詩が流れるのです。 このテロリストは善玉なのか悪玉なのか? これについて生前のワイダ監督はニヤリと笑ってポーランド人ならではの苦しい胸の内を明かします。

「共産党の検閲を通すには、共産党の幹部を殺すようなテロリストは、無残で惨めな死に方をする・・という表現で、共産党を支持・肯定する必要があった。しかし、自由主義の世界の人が見れば、反体制の暗殺者こそが、善玉だと分かるようにしている」

彼は、タマムシ色に解釈できるように工夫することで、東側世界での表現の自由を守ったのです。

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テロリストとは本質的にタマムシ色の存在です。法治国家では、いかなる場合も暴力的に生命を奪うことは犯罪なのですが、そこに政治的背景があれば、その行為を否定しない見方も可能です。

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一つの例を挙げれば、伊藤博文を暗殺したテロリスト安重根です。伊藤博文は朝鮮の併合に必ずしも賛成ではなかったし、併合後の朝鮮の統治にも心を砕いていた訳で、朝鮮の人々から恨まれるべき人物ではなかったのです。 しかし幼稚で過激な愛国主義(というより民族主義か)の安重根は彼を殺害した訳で、やはり非を唱えねばなりません。

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しかし、今の韓国で彼を英雄視する人が多いのは事実ですし、当時の日本人にも彼にシンパシーを感じる人はいたようです。

石川啄木は『ココアのひと匙』(啄木詩集)に、
「われは知る、テロリストの かなしき心を 言葉とおこなひとを分ちがたき ただひとつの心を・・」で始まる詩を載せ、安重根を悼んでいます。

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もう一人の有名な暗殺者というか刺客は、中国史に登場する荊軻です。義憤を感じた荊軻は易水で太子丹と別れ、始皇帝の暗殺に向かいますが、結局失敗します。そして中国国内での彼の評価は、時代と体制によって異なるようです。

中国建国間もない頃や文化大革命の頃は、命を賭して体制に反逆する英雄として讃えられました。 それが、共産党自体が権力となり政権が安定してくると、「暴力では何も変えられない。荊軻は無思慮で短絡的だ・・」と否定的な見方になります。

ある意味で当然です。今の時代に荊軻がいれば、まず共産党幹部を狙うでしょうから。

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ことほど左様に、テロリスト、暗殺者、刺客に対する評価は変化しますが、逆に反体制の人をどう扱うかで、その国・政権の姿勢が伺えると思います。

誰かの句に「面白うてやがて悲しきテロリスト」とあります。この句のモチーフには安重根も荊軻も含まれますが、何と言っても、この映画の主人公マーチェクの為の句のように感じられます。

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そしてこの映画で大事なのは、最後に登場する詩です。

詩の最後は

永遠の勝利の暁に、灰の底深く 燦然たるダイヤモンドの残らんことを」と結んでいます。

これが映画の題名ですが、全てが破壊しつくされ、全てを失った後でも絶望する必要はない。希望だけは残っている・・と主張する訳です。

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これは不幸にして、第二次大戦で戦場になり、両隣の大国にいいように蹂躙され、戦後も衛星国の扱いを受けて、主権と自由を奪われたポーランド人の為にあるような詩です。

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多分、彼らの本当の気持ちは日本人には分からないかも知れませんが、私は、最後に希望だけが残っているという表現を、「パンドラの箱的表現」と呼びます。パンドラが迂闊にも、災いを封じ込めていた箱を開いてしまい、災いが全世界に飛び散ってしまったことを人々は嘆くのですが、よく見ると、箱の底には、希望だけが残り、光っていた・・という寓話です。

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お説教めいた話ですが、我々は苦境にあっても希望を見失ってはいけないということでしょう。ポーランド人だけでなく、欧州の人だけでなく、日本に暮らす我々も、灰の中のダイヤモンドを探す努力を惜しんではいけないのだろうと思います。

 

もっとも、実際にはダイヤモンドも石炭と同じ炭素ですから、ある温度以上なら燃えてしまい灰の中には残らないのですが・・。


【 おかゆさん 】 [映画]

【 おかゆさん 】

2年前の弊ブログ【 ベネンシアドーラの店 】で、東京にあるシェリー酒の店、バル・デ・オジャリア(Bar de Ollaria)を紹介いたしました。

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オジャリアとはスペイン語で、「お米」の意味であるとは、ご承知の通りです。このお店の看板にもお米の絵が書いてあります(長粒種ですが)。

Bardeollaria001.jpg

そして、スペイン語を勉強中であるという、ベネンシアドーラの女性から、日本語の「オジヤ」は、スペイン語のオジャリアから来たと聞き、へえ?と思いました。「Ollariaの元の単語はラテン語のオリザでしょうから、オジヤの語源が、ヨーロッパ言語だとしても、スペイン語とは限らないではないか?」私はそう思いました。

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そして、全く奇妙なことを考えました。「オジヤがオジャリアだとしたら、おかゆはどうだろうか?」 私がそう思ったのは、20年来の疑問である名作映画「穢れなきいたずら」が気にかかったからです。

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20世紀最良の映画のひとつと言えるこのスペイン映画は、単に子役が可愛いだけではなく、また単なる宗教映画でもありません。奇妙なたとえですが、オヒョウが死ぬ前に、最後にもう一度見たい映画を一つ選べと言われたら、これを挙げるかも知れません。

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ご存じの方も多いでしょうし、この映画のストーリーを申し上げる訳にも行きませんが、これは修道院で育てられる一人の孤児の話です。 12人の修道士(もちろん男性)は実に愛情あふれる接し方で、捨て子の赤ん坊を慈しみ、可愛い少年に育てます。特に養育係となった修道士は炊事係(または厨房係)で、少年マルセリーノは、彼に「おかゆさん」というあだ名をつけます。

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話は脱線しますが、作家曽野綾子は、本物の宗教か偽物の宗教かを見分けるには、教祖や宗教家が質素な生活をしているか否かがポイントだと言っています。この舞台であるスペイン、または元の伝説があったイタリアの修道士はかなり質素な生活をしていて、その主食は、おかゆだったようです。

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この映画のラストシーンでは、準主役ともいえる、その“おかゆさん”の名演技が光りました。最高の“奇跡”を目撃した“おかゆさん”は、顔の表情だけで、もっと言えば見開いた目だけで、驚愕、感動、畏怖・畏敬、悲しみ、の混じった、感情を表現します。驚きのあまり、セリフはありません。演じたのはスペイン人俳優ファン・カルボです。

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仮に、日本人の俳優に、セリフなしで、奇跡を目撃した感動を表現せよ・・と命じたとして、対応できる俳優がいるでしょうか? 多分いないでしょう。 

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凡百のスペイン人俳優なら、とにかく胸で十字を切り、涙を流すだけでしょう。

日本人の普通の俳優なら、合掌して「ナムアミダブツ」と唱えるかも知れません(浄土真宗なら)。ファン・カルボは目と顔だけで全てを表現しました。「おかゆさんは凄い」

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ところが、何年か経って、この映画をTVで見ると、この配役の名前が「台所さん」になっていました。 「あれっ?『おかゆさん』じゃないの?」 

悲しいことに、私が見た「穢れなきいたずら」は、日本語吹き替え版だったのです。元のスペイン語のセリフでどう言われていたかが分かりません。

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どちらでもいいことですが、私は「おかゆさん」の方が好きです。その後、調べてみたところ、 「台所さん」なら、スペイン語ではCocineroとなります。「おかゆさん」なら、スペイン語ではAvena de arrozとなります。ちなみに「オジヤ=スープ粥」ならTienda del tíoだそうです。どちらでも オジャリヤ(Ollaria)とは関係ないみたいです。うーむ、本当のあだ名は何だったのだろうか?

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そして、ついに、この映画の元のセリフを発見しました。

「おかゆさん」または「台所さん」の元の名前は”Fray papillas”でした。 意味はパン粥です。 (そうか、お米のお粥ではなく、パン粥だったのか・・。気づかなかった)

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考えてみれば、この映画の原題はMarcelino Pan y Vino”(マルセリーノのパンとワイン)です。 マルセリーノが台所からくすねて、イエス様に渡すのもパンと葡萄酒です。スペインと言えば、パエリアのイメージがあり、バル・デ・オジャリアの影響もあって、当然お米を食べ、お粥もお米のお粥だと思ったのですが、迂闊でした。

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私はスペイン語が分からず、スペイン文化に疎く、キリスト教を知りません。だから、「おかゆさん」の元の単語に辿りつけなかったのかなぁ・・・。 でもどうしても分かりません。

映画史に残るべき名演(だと私は思う)の配役名を、かってに「おかゆさん」から「台所さん」に替えてしまった、そのセンスが分からないのです。


【 タバコを吸う仕草 】 [映画]

【 タバコを吸う仕草 】

かつて、映画ではタバコを吸う場面が重要な意味をもっていました。

アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンが共演した「さらば友よ」では、ドロンがブロンソンにタバコの火を点ける場面で終わっています。

何もセリフは無く、ささやかな仕草で二人の友情を表現しています。その時のタバコが、ゴロワーズだったかあるいはジタンだったかを、私は知りません。

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フランスの俳優でもう一人、タバコが似合う人物を挙げろと言われれば、ジャン・ギャバンが筆頭でしょうが、彼が愛したタバコはゴロワーズだったのでしょうか?

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なぜか、名探偵にもタバコが付き物です。

シャーロック・ホームズはパイプタバコをくゆらせるのが定番ですが、演じる俳優によってその動作が違います。私の感覚では、その仕草が一番はまって見えたのは、ジェレミー・ブレットです。彼は、パイプの煙を一息吸い込み、吐いたあとに、一気にセリフを言います。

パイプの一息の間に、頭脳をフル稼働させて、結論を出し、それを吐き出すのです。

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一方、最新のホームズ作品に登場するベネディクト・カンバーバッチは、役の上ではニコチン中毒で禁煙のためのニコチンパッチを貼っているという設定です。これではセリフを切り出す微妙なタイミングを取りにくくなります。それでもなお観客を惹きつける演技ができるのなら、カンバーバッチは大した俳優です。

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タバコがアクセントになるという点では、あの刑事コロンボが一番です。日本では葉巻を愛好する人は少ないのでピンと来ませんが、スーパーで売っている安物の葉巻を吸うということ自体、下品で無神経なこととされます。 葉巻はおめでたい事があった時に周囲の人にプレゼントして喜びを分かち合ったり、ある願い事がある時に縁起を担いで吸ったりします。 どちらかというと特別なものですから、高級葉巻でなければ様になりません。 それなのに、コロンボは安物の葉巻をのべつ口に咥えています。

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下品で無神経な男と周囲に思わせながら、実は大変に鋭く聡明な人物だという意外性が面白いのですが、毎回、安葉巻とよれよれのレインコートが登場しては、鼻についてしまう・・というのが「刑事コロンボ」でした。

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映画に於ける、喫煙というのは一つの記号です。たくさんの吸い殻が写れば、長時間待たされている証拠ですし、手持無沙汰にタバコをぷかぷか吸っているなら、言いたい事があるのに、それが言えなくて困っている・・という証拠です。

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中国を代表する映画監督の一人、ジャジャンクー(賈樟柯)は初期の作品(小武)などで、タバコを吸う場面を多用しています。無言でひたすらタバコを吸い続けるのですが、口に出したいけれど、口に出せない主人公の葛藤を表現しています。

しかし、彼の近年の作品では、あまり喫煙の場面は出てきません。ワンパターンではない、多様な演出方法をマスターしたからなのか、中国でも盛んになりつつある禁煙運動が原因なのかは分かりません。

ちなみに彼のライバル(と私は思っている)チャン・イーモウ監督の作品では喫煙のシーンはあまり登場しません。

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そしてもうひとつ、ジャジャンクーの映画でも、食べ物を口にしている場面が多く登場します。家庭の食卓の場面では当然ですが、映画に登場する勤務中の事務員や警官も、のべつ何かを食べています。 これは中国の習慣というより、やはり何かを食べている風景は観客の心を落ち着かせるから、という演出上の配慮かもしれません。

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日本の場合の喫煙には、あまり大きな意味はなさそうですが、時代劇では間の取り方の目安にしたり、セリフを口にするタイミングを決める小道具として使えます。

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キセルですから、まず雁首にタバコを詰め、そしてタバコ盆で火を付け、無言で一口、二口吸ってから、やおら、灰吹きに雁首をガツンとぶつけて、セリフを切り出す・・という間合いです。

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歌舞伎の「世は情け浮名の横櫛」で、切られのよさが、セリフを言うタイミングです。 キセルタバコでは長時間の喫煙はありませんから、吸っている間はおおむね無言です。そして意を決して話し出す訳ですが、観客にもそのタイミングがよく分かって好都合なのです。 ひょっとしたら、パイプをくゆらせる、ジェレミー・ブレット演じるホームズがしゃべり出すタイミングに近いかも知れません。

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喫煙が記号として意味を持つ・・と言う点では、女性が吸うタバコの意味は特別です。映画女優はたいてい美人ですし、清楚で聡明なイメージを持っています。その人たちにスレッカラシやアバズレの役を演じさせるには工夫が要ります。

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一つはセリフの言い回しというか言葉遣いですが、もう一つは喫煙です。 私は美しい女優が突然タバコを咥えたりするとドキッとします。 そして少し落胆します。 役の上での喫煙は仕方ないとしても、実生活でもタバコを吸うと聞くと、さらに興ざめします。

他界した原節子は愛煙家だったそうですし、倍賞千恵子がタバコを吸うと聞いて、がっかりした記憶があります。

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いずれにしても、昔は女性の喫煙というのは、男勝りのウーマンリブの女性か、スレッカラシか不良少女・・という役柄を説明するのに役立ったのですが、女性の喫煙率が男性に伍してくると、この演出方法は使えなくなるかも知れません。

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いずれにしても、喫煙を格好いいと思わせる演出は、今のご時世ではご法度です。主人公や善玉の役者がタバコを吸う場面は、これから許可されなくなるでしょう(悪役の喫煙は認められるかも知れませんが・・)

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そうなると、シャーロック・ホームズは、パイプをくゆらせる代わりに、禁煙飴をワトソン君と分け合い、アラン・ドロンはチャールズ・ブロンソンのタバコに火を点けるのではなく、代わりにチューインガムを手渡す場面で映画が終わるかも知れません。

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それでは全く詰まりません。

今、映画界では、誹謗や侮辱につながるセリフはいけないということで、言葉狩りが進んでいます。 そしてタバコのシーンもご法度になります。 その内、飲酒のシーンも不可となるかも知れません。

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ピューリタン的な潔癖さもいいですが、映画では露悪的存在を表現する必要もあります。 このままでは映画がますます窮屈になります。

この問題は何とかならないものか?と私は考えます。

なお、ちなみに私オヒョウは全くタバコを吸いません。


【 お酒を飲む仕草 】 [映画]

【 お酒を飲む仕草 】

 

男性の俳優のみに求められて、女優にはあまり求められない、一つの演技があります。それはお酒を飲む仕草です。そしてどういう訳か、日本の俳優にはお酒を飲む演技がへたくそな人が多いように思えます。

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例えば、究極の不器用さが独特の味わいを出した名優 笠智衆は下戸で全くお酒が飲めませんでした。その彼も宴席でお酒を飲む演技をせねばなりません。お酒の代わりに水が入った杯を飲み干す訳ですが、実にまずそうに飲みます。小津安二郎監督から、「水を飲んでいるようにしか見えない」と評され、何度撮り直しても、やっぱり、まずい水を、いやいや飲んでいるようにしか見えない演技だったそうです。

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それに比べると、「秋刀魚の味」で共演した東野英治郎などは、国産ウィスキーをありがたがって飲む酔っ払いの演技が印象的でしたが、これもわざとらしさが目に付きました。

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本当の酒飲みの演技とは、観客がそれを観て、自分も酒が飲みたくなって、喉をゴクリとやるぐらいでなくてはなりません。そこに行くと落語家はたいしたものです。

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落語家は、前座時代に、食べ物が登場する噺で、いかにもうまそうにその食べ物を食べる演技を修行します。「まんじゅうこわい」の噺の後は、客席で饅頭を求める声が次々と出るようでなくてはなりません。 そして落語には酔っ払いが登場する噺が特に多い訳ですが、こちらも同様に、おいしいお酒にありついて喜んでいる飲兵衛をどう演技するかが重要です。おいしい酒を飲む男の演技を、未成年の前座の落語家が、練習する訳です。

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そもそも日本でのお酒を飲む演技は、お酒を飲むことではなく酔っ払っていることに主眼を置いた演出です。最近は減りましたが、昭和の時代のドラマでは、なにかあるごとに酒を飲んで、本音を語ったり、和解したりする場面が多く登場しました。しかし、それらのシーンでは、ひたすら酔うことを演じるのであって、お酒を味わう演技はないがしろにされたのです。

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一方、外国映画に登場するお酒を飲む演技は、しばしば見事です。彼らの演技は酔っ払いを演じることではなく、お酒を味わう演技です。

例えば連続TV映画「刑事フォイル」で主人公のフォイル警視正を演じるマイケル・キッチンの演技は秀逸です。

舞台は、戦争中で物資窮乏の中にある英国の田舎町の警察署。初老の同僚が、退職を告げに執務室に現れ、「何か無いか?」と尋ねます。主人公は「少しならある」と答え、書類のキャビネットの奥から隠しておいたスコッチウィスキーのボトルを取り出します。もう幾らも残っていません。それを2つの小さなグラスに少しだけ注いで、唇をグラスにあてがい、舐めるようにして口に流し込みます。そして頬を膨らませて、噛みしめるように口に含み、無表情のままで味わいます。 少量ですから、決して酔いはせず、ウィスキーの味を楽しんでいます。

しみったれた・・というかケチ臭い飲み方ですが、それでいいのです。第二次大戦中の物資が不足する中で、貴重なスコッチを大切そうに旧友と飲む仕草に、真実が表現されます。

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無言の演技ですが、この男は本当にウィスキーが好きなのだ・・・と納得させる演技です。主人公は警視正ですから、かなり社会的地位のある紳士です。それでも戦争中はウィスキーを惜しんだのです。 映画007シリーズでは、チョイ役で登場していたマイケル・キッチンに主役をやらせると、こんな名演技をするのか・・と思った次第です。

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話は脱線しますが、警察署の執務室で勤務中に飲酒をするのはどうか?という問題があります。この点は英国やヨーロッパはかなり寛容なようです。オヒョウも出張で欧州の会社を訪問したのに昼間からお酒を出され、午後は仕事にならなくて困ったという経験があります。 逆に、日本の製鉄所に来た来客に昼間はお酒を出せなくて申し訳ないと説明したこともあります。

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一方、禁酒法時代も経験した米国はかなりお酒に厳しいようです。 よく知られた話ですが、英国海軍は軍艦の中にお酒を持ち込み、航海中でも飲んでいました。一方、米国海軍は艦の中での飲酒はご法度で、その代わり、陸上には酒保を設けて、陸にいる時は、存分に飲んでよいという方針のようです。

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日本の場合、戦前は英国海軍を範としたので、航海中の飲酒は可でしたが、戦後の海上自衛隊は米国海軍流なので、航海中の飲酒は不可なのだそうです。

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では日本のお役所は、飲酒が可なのか不可なのか? 以前中央官庁にいたY君にきくと、かつては(定時を過ぎて)夕方になったら、どこかから一升瓶を持った男が現れ、飲み会になってしまうこともあったとか。 今はどうか分かりませんが。

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話を、お酒を飲む演技の話に戻します。

ウィスキーを口に含んで味わう演技は、連続TV小説「マッサン」でもさんざん登場しました。しかし、これはお酒を楽しむのではなく、研究の一環ですから、ちょっと違います。そして、こちらは多弁でいけません。

玉山鉄二が、やれスモーキーフレーバーがどうとか、まずいとかうまいとかしゃべりすぎます。本当にウィスキーが好きなら、黙って飲むはずなのに・・・。まあ、ウィスキー研究が仕事なのだから仕方ありませんが。

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日本のTVドラマでは、飲酒の場面は随分減りました。その代わりという訳でもありませんが、食事の場面が実に多いのです。 日本の家庭では、家族が会話を交わすのは食事の時ぐらいだから、ホームドラマではどうしても食事の場面が多くなるのか?と思いましたが、そうではないようです。 ある脚本家の話では、人は物を食べている時に、一番気持ちが落ち着き、安らぐとのこと。観客に、なるべく安らいだ気持ちでホームドラマを見てもらうには、食事の場面を多くするのが好都合だとのことです。

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それなら、もっとおいしそうに食べればいいのに、登場人物はもっぱら会話に集中し、あまり食事を楽しんでいるように見えません。折角だから、お酒を飲む演技と同じように、おいしそうに食べればいいのに・・。

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それともリハーサルのやり直しで、食べ過ぎ、食事がもはや苦痛になった状態で本番を撮るからなのでしょうか?

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日本の俳優たちは、お酒をまずそうに飲むだけでなく、ごちそうをおいしそうに食べる演技も下手なようです。

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若山牧水の、「白玉の 歯にしみとおる 秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」という歌がありますが、誰かこれを無言で演じる俳優はいないものか? と思います。

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ところで、主に男性俳優に求められるもう一つの演技は、タバコを吸う仕草です。こちらもタバコの害を問題視する風潮のため、映画やTVドラマで見かける機会は随分へりましたが、重要な演技です。

 

それについては、次回に管見を述べます。


【 コン・リーは中国の倍賞千恵子か? 】 [映画]

【 コン・リーは中国の倍賞千恵子か? 】

先日、レンタルDVD店で、チャン・イーモウ監督でコン・リーが出演する「妻への家路(原題 帰来)」という作品を借りて観ました。動機は少し不純で、自分の中国語聴き取り能力がどれくらい低下しているかを確認したかったのです。

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最近、単にCDを再生して英会話を聞き流すだけで、英語の聞き取り能力がアップするという学習方法を、盛んにTVで宣伝していますが、私はそれを胡散臭く思っています。(あくまで私オヒョウの主観ですが)。もしそんな簡単な方法で外国語を覚えられるのなら、字幕スーパーの外国映画をたくさん見ている私など、とっくに外国語の達人になっているはずですが、そうはなっていません。それに、自分が外国語でいろいろ苦労した経験を思い出して、「そんな安直な方法で外国語をマスターされてたまるか」という気持ちもあります。

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しかし、現時点での会話能力を確認するために外国映画を鑑賞することは有効であるとは思います。そこで中国映画(北京語)を観たのですが・・・、結果は悲惨で、さっぱり聞き取れません。

「アイヤー、ウォジェンブワンチーラ!」(ああ、私は全部忘れてしまった)とつぶやいたところで、ハテ?と思います。 私は忘れたのだろうか?それとも最初から能力が無かったのだろうか? どちらにしても愉快なことではないのですが、私はどちらなのか、ちょっと迷いました。

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しかし、映画自体は面白く、かつしみじみと考えさせる内容でした。

そもそも、邦題の「妻への家路」とは奇妙な題名です。家に帰るのなら、単に「家路」です。普通、妻は家に居て待っているはずです。敢えて「妻への」と付けるからには、家という場所への帰還ではなく、「妻の心の中への帰還」という意味でしょう。

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そこまでは映画を観る前から分かっていましたが、さて具体的にはどういうことを意味するのか? ・・・・ここから先はネタバレなので書く訳にはいきません。しかし、感じたことを以下に書きます。

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数々の佳作で知られる、チャン・イーモウ監督は、今や中国を代表する監督です。そして彼は日本の高倉健に私淑していたようで、風貌もどことなく似ています。高倉健を起用して、「単騎、千里を走る」を撮影した頃には、彼を中国の高倉健と呼ぶ人もいました。 もしチャン・イーモウが高倉健なら、彼が発掘し、その後、大女優となったコン・リーは日本の女優に例えれば、誰に相当するのか?

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私は倍賞千恵子が当て嵌まるのではないか?と思います。 ただ美しいだけの女優ではなく、庶民の哀歓を表現する女優という点で最も優れた人ではないか?

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美人というだけなら、彼女より美しい女優は中国にたくさんいます。張柏芝とか、李泳泳とか・・・。でも夢多き少女から、人生の辛酸を味わったあとのお婆さんまでを見事に演じる女優は、コン・リーに尽きるのではないか?

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コン・リーは実はあまり笑顔が似合いません。彼女が美しく見えるのは、どちらかというと憂いを含んだ顔です。これはデビュー作の「紅いコーリャン」以降、一貫しているように思います。(あくまで私オヒョウの主観ですが)。 ひょっとしたら、中国では西施の時代から、憂い顔の美人を評価する伝統があるのでしょうか? しかし憂愁の美人というのは笑顔の美人より難しい存在です。少しでも間違うとたちまち醜悪な顔になってしまいます。

まさに西施がそうで、彼女の憂鬱な表情を真似た他の女性は、皆さん醜女(しこめ)にしか映らなかったとか・・・。

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そして美人女優には二種類あって、最近の言葉で言えば、セレブを演じるのに適した女優と、庶民のおかみさんを演じるに適した女優です。この点で、コン・リーと倍賞千恵子は共通するのです。どちらも庶民を演じ、その哀歓を現すことができます。

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それにしても、映画とは優れたメディアです。政治体制が異なり、イデオロギーが対立し、相互に「遠い国」であっても、映画の話や俳優・女優の話をすれば、打ち解けあい、理解しあうことが可能です。

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かつて中国にいた頃、歴史認識などを話していて、中国人と少し緊張した状態になった時、日本の女優、中野良子の話題になってお互いに笑顔になったという記憶があります。 どうして中野良子が中国で人気があるのか、不明です(多分、「君よ憤怒の河を渡れ」の影響か?)。

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国が違い、政治体制が違っても、庶民の暮らしや感情にはなにがしかの共通点があり、そこに共感することで、分かり合える・・・ そのツールとして、映画は大変役に立っています。

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そう言えば、日本から一番遠い国である北朝鮮の首領だった金正日も、映画「男はつらいよ」のファンだったとか・・。彼に寅さんの気持ちが分かったかは不明ですが。

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そして、この映画を観て、もう一つ思うのは、文化大革命がこの国に残した傷の深さです。こちらは日本人の私には、ピンと来ないところもあるのですが、中国人でこの時代の記憶がある方には感慨深いはずです。

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社会主義革命に於いて、難しいのは知識階級の無産者階級への取り込みです。ロシアではレーニンが「インテリは意識面ではプチブルだが実生活に於いてはプロレタリアートだ」と言って、知識階級を革命勢力に取り込むことにある程度成功しました。

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しかし中国では、一般教養や高等教育はブルジョアに独占されていた・・ということで知識階級は攻撃すべき対象になりました。 文化大革命では多くの知識人が迫害され、追放され、そして下放されました。 現代の中国映画を見ると、下放された知識人が主人公になったり、話の発端になった映画が幾つかあります。

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それなのに、当時の日本では、(自称)インテリの人に文化大革命礼賛者が多かったという事実は、全く滑稽なことです。中国の人にその話をしたら苦笑いされましたが。

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この作品「妻への家路」は、父親は大学教授、母親は高校教諭というインテリ家庭が舞台です。娘はバレリーナを目指し、家にはピアノがあります。 夫が帰ってくるというので、妻は「夫はピアノが好きなのに長い間調律していない。彼が帰る前に調律しなければ・・・」と思います。 文革時代の中国を考えた場合、これは平均よりかなり豊かなインテリ・・というよりプチブルの家庭です。そこを悲劇が襲うのです。

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今、中国では、文化大革命を批判的に扱った作品も認められるようになりました。まだまだ毛沢東批判は無理ですが、少しずつ表現の自由が可能になってきたのかも知れません。 将来は天安門事件を扱った作品も登場するかも・・・やはり無理かな?

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文革時代の事情はどうしても日本人には分かりにくく、感情移入が難しいのですが、それを救うのは、高齢化が進む日中共通の問題、つまり認知症の問題です。このお陰で、この映画は分かりやすくなっています。

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そして中国人なのに、懐かしさを感じさせる女優コン・リーに、欠点は何も無いように見えますが、一つだけ問題があります。それは彼女の名前を漢字で書こうとすると日本語には該当する文字が無いということです。

もっとも、中国を離れシンガポールで暮らす彼女が、漢字で署名することは、もう無いのかも知れませんが。


【 大女優の棺に蓋をして思うこと 】 [映画]

【 大女優の棺に蓋をして思うこと 】

 

往年の大女優、原節子が他界したニュースは、TVで大きく報じられましたが、そのわりに話題にはなりませんでした。大女優ではあるものの過去の人であり、主にモノクロ映画の時代に活躍した彼女を、若い映画ファンはリアルタイムで知りません。BSTV放送などで、追悼のために彼女の映画が放映されるかな?と思いましたが、一部で名作「麦秋」が放映されたぐらいです。

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視聴者の反応に敏感なTV局は、彼女の追悼番組の代わりに、高倉健の一周忌に合わせて、彼の映画をかけていました。そんなものだろうな・・。原節子に本当に憧れた世代の男たちは既に多くが鬼籍に入っています。長生きした後に他界するというのは知己が少なくなってから静かに世を去るということです。原節子の葬儀に、号泣する人は少なかったかも知れません。

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一方、インターネット上では、いろいろな話題がでています。

・なぜ原節子は結婚せず、「永遠の処女」だったのか?

・なぜ原節子は40代の若さで突然引退し、隠遁生活に入ったのか?

それらは彼女が存命の頃から、さんざん議論されてきたことで、今更ながら、なんでそんなことを詮索するのかな? と思います。

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ひとりの女性が結婚しようが、独身を通そうが、それは個人の自由であり、他人がどうこう言う事ではありません。でもそうはいうものの、美貌の映画スターが結婚するかしないかは、個人のプライバシーとだけは言えないものがあります。原節子だけではありません。栗原小巻や、山本陽子、檀ふみ(ちょっと格が下がるか・・)など、多くの女優が独身のまま、老女役が似合う年齢になっていますが、なぜ?という思いはあります。

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原節子の場合、彼女が尊敬してやまなかった小津安二郎への思いから、独身を通し、小津が亡くなった後、映画界から姿を消したのだ・・という説が有力です。でも、これが本当かどうかは分かりません。原節子が小津安二郎に憧れていたのは事実でしょう。ある時、小津組の映画で予算面の事情から、ギャラの高い原節子の起用を断念しようとした時、「小津先生の映画なら、ギャラは幾らでもいいから出させてください」と懇願したという話があります。60才で独身のまま亡くなった小津安二郎の葬儀で、火葬場から戻った小津の遺骨の前で人目をはばからず号泣して、取り乱したという話も広く知られています。

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でも、彼女が小津監督のマドンナ的存在だったかは何とも言えません。小津映画の後期に、本当のマドンナとして君臨したのは、杉村春子の方でしょう(ちなみに小津の前期(無声映画時代)については、そのマドンナは吉川満子でしょう)。

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小津の映画では、全ての俳優・女優が、小津の細かい指導のもと、小津のロボットの様にふるまい、多少のぎこちなさを伴いながらセリフを語っています。しかし、杉村春子だけは自由奔放に彼女の演技をしています。ということは、杉村は小津に特別に認められた存在だったに違いありません。

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そして杉村春子は演技がうまい、本当の女優でした。それに比べれば、原節子はワンパターンしかできない、大根だったとも言えます。

杉村春子は、「俳優たるもの、『さようなら』のセリフを40通りの言い方で表現できなければいけない」とか「本当の女優は、100通りの泣き方ができなければいけない」と語ったとか・・。

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いえ、勿論、オヒョウが直接聞いたのではありません。オヒョウの恩師で、杉村春子に面会した松田章一先生から聞いた話です。 その話を聞いてから、私はTVに映るハンサムな俳優や美しい女優を見るたびに、「彼は40通りの『さようなら』を言えるだろうか?彼女は100通りの泣き方ができるだろうか?」などと考えてしまいます。

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今の若手女優で言えば、100通りの泣き方ができるのは、仲間由紀恵、そして宮崎あおいぐらいかな? あとは可愛いだけで、演技なんて・・なかなか評価の対象になりません。大河ドラマの「花燃ゆ」に登場する井上何某などは、口を真一文字にして無表情に突っ立っているだけで、マネキン人形と同じですね。

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もっとも、演技の技巧だけが俳優・女優の価値という訳ではありません。でも杉村春子から見れば、原節子は大根だったと言えましょう。 杉村春子のように多様な泣き方はできなかったかも知れない原節子が、本当に周囲を驚かせる泣き方をしたのは、演技ではなく小津安二郎の葬儀の後だったのです。

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小津との関係はともかく、原節子が一度、ある男性のプロポーズに応じた・・という都市伝説があります。私の昭和の記憶は確かではないのですが、たしか、ある時、キネマ旬報で読んだような・・。そのエピソードとは、

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ある時、小津組のある若い助監督が、一種の冗談で「僕のサルマタを洗濯してください」と原節子に頼んだのだそうです。大女優に、ペエペエの助監督が、本来そんなことを言える筈もないのですが、なんと彼女は、ちょっとはにかんだ後、その願いを聞き入れたというのです。 本当に、彼女がサルマタを洗濯したか否かはわかりませんが、これは男性からの一種のプロポーズであり、彼女はそれを受けた・・とも解釈できます。無論、電気洗濯機が普及する前の時代です。

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しかし、結局この依頼が実は冗談だったとわかり、彼女はおおいに憤慨し、そして傷ついたはずです。 そしてその後、彼女は結婚とも男性とも無縁の人生を送ったのではないか?・・という説があります。最後の部分は憶測ですが。

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私は、この罪な悪戯をした若い助監督が今村昌平ではなかったか?と推測するのですが、これは何とも分かりません。私が生まれた頃の話であり、小津も今村も原も他界した今となっては確認するすべもありません。

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今、それらのことを思い出すと、いろいろな感慨があります。私はもうじき、小津安二郎が他界した60歳になります。私が死ぬ時、美貌の若い女性が号泣する・・などということがあるのだろうか? 無論、ありえないことは分かっていますが、やはり女性を泣かせて去っていく・・というのは嫌だな・・などと分不相応なことも考えます。

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そして、「僕の下着を洗濯してくれ」などというプロポーズは、現代もありうるのか?とも考えます。昔はありえたろうが、今の全自動洗濯機と乾燥機の時代には意味を持たないプロポーズだな。

生活が便利になる・・ということは、別の見方をすれば、つまらない時代になるということか・・・と考えながら、単身赴任の私は今日も自分でパンツを洗います。


【 ルコント監督とその世界 その1 】  [映画]

【 ルコント監督とその世界 その1 】 

 

ルコント監督の一番新しい作品である「暮れ逢い」をDVDで鑑賞しました。「イボンヌの香り」「髪結いの亭主」「仕立て屋の恋」など、彼の作品に共通するひとつの特長があります。それは(西洋人)女性の美しい描き方・・です。

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不思議な事に、彼の手にかかると、平凡な美人がとびっきりに美人になります。決してコケティッシュな感じのない健康的な若い女性が、妙にエロチックな存在になります。「イボンヌの香り」のヒロインであったサンドラ・マジャーニは、まさに平凡で健康的な美人ですが、ルコント監督の手にかかると、男性の魂をとりこにする妖艶な美女に大変身します。

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その秘密は、男性の密かな視線を参考にしたと思われる、独特のカメラワークにありそうです。女性のうなじや唇など、ポイントとなる局部をクローズアップして撮ったり、何気ない普通の動作に注目して女性らしさを強調したり・・、つまりこれは若い男性が女性を好きになる時の視線そのものを、カメラに追わせているのです。

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男性の観客は、自分が見たい部分がスクリーンに映し出されるので、心地よく感情移入し、スクリーンのヒロインを、自分の恋人にしたくなるような美女だと認識します。

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しかし、ルコント作品で本当に重要なのは、そのような美女に翻弄される、冴えない男性の方です。しばしば、愚直で風采の上がらない男性や、非生産的で生活力の乏しい男性が、ヒロインの女性に憧れ、振り回されます。オヒョウなどもその典型ですから、冴えない中年男が美しい女性に惑わされる様子に、思わず親近感を持ってしまいます。それがルコント作品の真骨頂です。

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だから、今回も中年男性の琴線に触れる、ちょっと官能的な映画かな? と思ってみたのですが、少し趣きが違います。でも重要な点は共通です。

主役の男性は、頼りない中年男ではなく、大学の冶金学科を首席で卒業して製鉄会社に入り、すぐにオーナー経営者の秘書に抜擢されるバリバリのエリートです。

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上昇志向が強くて、女性をものにしようという野心家・・というなら、「赤と黒」のジュリアン・ソレルをイメージしますが、だいぶタイプが違い、ひたすら真面目で実直な、技術屋の男です。

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不倫の恋愛関係になる相手・・オーナー社長の妻・・もそれほど美しい女優ではありません。それでも、普通の女性を最大限魅力的に見せるところが、この監督の才能です。

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話は脱線しますが、日本の映画監督は、女優を美しくみせようという努力を怠っているように思えてなりません。 今をときめく是枝裕和監督も、いい映画を撮ることには心を砕くけれども、女優を美しくひきたてよう・・という努力が足りません。 綾瀬はるかに、いい演技を期待するというのは、ネズミにネコを捕れというのと同じくらい無理がありますが、せめて可愛らしく撮ってあげればいいのに・・。 カンヌ映画祭の雛壇に日本の女優を並べて、その横に是枝氏が立つのもいいですが、何の豪華さも感じません。

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昔、美しい女性の代名詞・・と言えば、映画女優でした。山本富士子型、あるいは吉永小百合型・・と言う具合に美しい女性のメルクマールになっていました。

映画館に通った男性の幾らかは、映画を見に行ったというより、美しい映画女優を見に行った・・・というのが本音だったはずです。

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でも今はそうではありません。映画女優以外にも美しい女性が大勢いるからかも知れませんが、映画に登場する女優が、普通にいる近所のちょっと綺麗な女性・・・ぐらいに、レベルダウンしたことも理由です。

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そして監督も女優を美しく撮ろうと努力しません。独断と偏見で言えば、女性を美しく描くことに拘り、ある程度成功したのは、近年の監督では、岩下志麻を撮影した篠田正浩、草刈民代を撮影した周防正行あたりではないか・・と思います。

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日本の映画監督は、美しい女優をより美しく描く工夫をヨーロッパの監督、特にルコント監督やポランスキー監督に見習ってほしい・・などと私は考えます。

余談ついで言えば、美少女を美しく描くことに関しては、スペインのビクトル・エリセ監督、美少年を美しく描くことに関しては、ルキノ・ヴィスコンティ監督が一番だと思います。

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しかし、映画は美しい女優だけを撮影していても、作品になりません。相手の俳優が重要です。ルコント監督は、女性に翻弄される男性に演技力のある一流の人物を使います。 「イボンヌの香り」では味のある演技をする二枚目イポリット・ジラルドを起用しています。

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そして今回の「暮れ逢い」では、女房に浮気される「寝取られ男」役にあのアラン・リックマンを起用しています。 映画「ダイ・ハード」の第一作で、テロリスト集団の首魁を演じ、徹底的な悪役になり切った男が、若い妻を残して、朽ちていく晩年の実業家を演じ切っています。 彼さえいれば、若い男女の俳優の方は大根役者でもいいというくらいです(実際にはそうではありませんが・・)。

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今回の「暮れ逢い」には、穏やかで上品な女性美を描く、これまでのルコント作品の切れ味はないものの、一定のレベルは維持しています。しかし残念なことが2つあります。

ひとつは、ドイツが舞台なのに、全てのセリフが英語であること。 全ての出演者が上品な話し方ではあるものの、アメリカ英語で話します。アラン・リックマンは英国人なのに・・。 唯一、少年が家庭教師にフランス語を習う場面でのみ、ちょっとだけフランス語が登場しますが、教える側も教わる側もドイツ人のはずなのに、英語で会話します。

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ヒロインがメキシコに行った若い恋人に出す手紙もなぜか英語で書かれています。一方で、街の看板や標識、人々が持つプラカードはドイツ語です。 なんだか興ざめです。 どうせ字幕スーパーを追うことになるのだから、ドイツ語でやって欲しかったなぁ。

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もう一つ、残念なのは、「暮れ逢い」という陳腐な表題です。引き裂かれた二人が何年も経って、中年になってから再会するので「暮れ逢い」でもいいのかも知れませんが、残念な名前です。 原題は「A Promise」で、これはメキシコに旅立つ時に、きっと帰って来るからまた会おう・・という約束が、最後に果たされるからです。

それを言ってしまうとネタバレなのですが、そのままの名前の方が良かったなぁ。

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それはともかく、私は全く別の観点から、この映画には興味深い点が2つあったのです。それについては、次回、申し上げます。


【 Espejismo 】 [映画]

【 Espejismo 】

今年、修士課程の1年になる私の長男が、ペルーに行くそうです。観光旅行かな?と思うと、指導教授の先生のお伴としての研究旅行だそうで、しばらく共同研究先のリマの大学に滞在する予定だとの事。

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「やれやれ、お金がかかるな・・・」と思ったところで、それを見透かしたように、「文科省の科研費から旅費と滞在費は出るから大丈夫だって」と家内が言います。それはそれで、ちょっと複雑というか、不愉快になります。

(僕の頃は、そんなに簡単に研究で外国に行くことなんて無かったなぁ)

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長男が専攻するのは、ナス科の植物の植物病理だそうです。 そしてペルーは、ジャガイモ、トマト、ナスといったナス科の植物の原産地であり、そこで研究するのは大変意味があることだそうです。

ふむふむ・・と聞きながら、私は再び複雑な思いに捕らわれます。私には植物病理は分かりません。

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子供達が幼かった頃、全ての面で、私は息子達に教える立場にありました。全ての知識に於いて、私は優位にあり、子供達が知っている事で、私が知らない事は無く、そして博学の象徴である父親の私が知らない事は、この世界に無い・・と子供達に信じ込ませる事に成功していました。 息子達が小学生だった頃です。

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それがいつの間にか、そうでなくなりました。子供達はポケモンの名前を多く知り、ゲームの攻略法を知り、アイドルタレントをたくさん知っていましたが、私は何も知りません。子供達は、私より知識が多い分野がある事を知って得意になりました。

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しかし、所詮、それらは遊びの世界や娯楽に関する事であり、大人の私は「そんな事はくだらん」と軽蔑する事が許された世界でした。 人格の裏付けとなる、一般教養・専門知識の面では、父親たる私には全く敵わないのさ・・とタカをくくっていたのです。

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でもそんな時代はあっという間に終わってしまいました。彼らが大学に入り、まがりなりにも、自分自身の専門分野というものを持つと、もう、そこは父親といえども、立ち入れない専門家の世界です。 学校の専門だけではありません。コンピューターなどのITの知識も、何時の間にか、息子達に追い越されました。

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「お父さんは、お前たちが生まれる前からパソコンを組み立てていたのだ。プログラムだって、Windowsの前のMS-DOSいや、その前のBASICFORTRANの時代から馴染んでいるのだ。お前たちに負けるものか!」と威張ってみても、スマホの使い方や、最新のCPUの知識などでは、息子達に後れを取り、教えてもらう側です。 家内などはパソコンの調子が悪くなると、私などは相手にせず、息子に相談して修理してもらっています。

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その昔、高橋和巳の小説「我が心は石にあらず」に登場した一場面を思い出します。大学で専門知識を身に着けてインテリとして帰郷した息子を前に、無学な父親が部屋の隅で、寂しそうに遠慮がちにしている場面です。

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とにかく、子供達に自分の専門ができて、その世界では、もはや私は父親として先輩風を吹かせることはできなくなったのです。 喜ぶべきか悲しむべきか…複雑です。

ここはダジャレでごまかすか・・。

「そうか、ペルーはナス科の植物のルーツなのか。確かにナスカの地上絵というのもペルーにあったしな」

「おとうさん、お願いだから、そのあまりにくだらない駄洒落だけは、ブログに書かないでね。これ以上ブログの品位を落とすと、読者がますます減りますよ」

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そこで、私は重要な事を思い出しました。

「そうだ、ペルーに行くのなら・・・(頼みたいことがある)

私は、実はこれまでペルーの映画を観た事はありません。スペイン映画をはじめとしたスペイン文化圏の映画は大好きなのですが、ペルーの映画を観た事が無いのです。

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スペイン映画には、ある種の特徴があります。 回想の場面が多く折り込まれ、時間が前後して、混乱する場合があります。そして独白や心の中のセリフが多用されます。

最初は、「ミツバチのささやき」や「エル・スール」で有名なビクトル・エリセ監督固有の特徴かと思ったのですが、そうではなく、アルゼンチン映画でも同様です。「娼婦とクジラ」や「ブエノスアイレスの夜」などが該当します。 だからペルー映画もそうだろうと思いますが、これを見る機会がありません。

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1972年のペルー映画「砂のミラージュ」は、傑作の誉れ高い映画です。しかし、この映画が公開された時、私は田舎の中学生で見ることができませんでした。そしてそれから40年経ちますが、まだその機会を得ていません。

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原題(Espejismo=蜃気楼) 邦題:「砂のミラージュ」は、仄聞するところでは、非常に幻想的な映画で、夢に登場する砂漠を走る男、誰もいないサッカーグラウンドでの友達の別れ、等、不思議な場面が連続するそうです。その中に男女の悲恋、地主と使用人の葛藤、貧しさゆえの故郷からの旅立ち、少年達の友情など、盛りだくさんなテーマが語られる、ある種奇妙な作品なのだそうです。

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この映画には、スペイン文化圏の映画のお約束の回想シーンもふんだんにあるようです。 これもスペイン文化圏映画の特長かも知れませんが、子役の使い方が上手だそうです。 それも主役だったり象徴的な使い方で登場するそうです。

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それとは別に、その昔、恋を引き裂かれた人の亡霊が現れる場面などは、ブロンテの「嵐が丘」を彷彿とさせるかも・・・と期待するのですが、観てみないと分かりません。

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You Tubeでは、「砂のミラージュ」の予告編や断片的なシーンを見ることができますが、本来、映画を観るのにYou Tubeを使うのは邪道です。だから、どこかにDVDかビデオテープが無いかな?と・・思っていたのです。

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息子がペルーのリマに暫く滞在するのなら、その間にDVDやビデオを探す時間もあるかも知れない。 「砂のミラージュ」もあるかも知れない。

外国でDVDやビデオを買い求める時に困るのは、以下の点です。

DVDならリージョンコードの不一致、ビデオなら、映像方式の違い(NTSCPALSECAM方式)それに、ビデオテープのタイプ(VHSかβ-MAX)の違いなどです。

・・・・・・

しかし、パソコンで視聴する前提なら、そして海外共通仕様のビデオデッキがあれば再生できます。 DVDであれ、ビデオテープであれ、日本に持ってくれば、何とかできます。 「砂のミラージュ」を手に入れたい。 最大の問題は、私がスペイン語を理解できない点ですが・・・、これもまぁ何とかなるでしょう。

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では、長男にお土産を頼もうか・・と思ったところで、家内の声がします。

「ペルー滞在中は、訪問先の大学に缶詰になって、研究漬けになるそうだから、街に出てお土産を買う時間的余裕なんて無いみたいよ。 だから、くれぐれも、変なお土産なんて頼んだらダメよ!」

・・・・・・

私にとって、なかなか見られない、このペルー映画は、本当にミラージュでしかないようです。


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