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【 糟糠の妻は堂より下さず 】 [中国]

【 糟糠の妻は堂より下さず 】

 

上海の都心にある豫園という庭園を歩いていて、ある建物でガイドさんから説明を受けました。

「これはあるお金持ちの正妻のための住居です。しかし玄関の段を下りて、奥方が地面に立つことはありませんでした」との説明です。昔、高貴な女性は纏足をしており、足が小さすぎて、地面を歩けなかった・・という事情もあるかも知れませんが、「糟糠の妻は堂より下さず」の教えの通り、大切にする女性には土を踏ませなかったということのようです。まあ、本当の糟糠の妻なら纏足はしていなかったと思いますが・・。

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この「糟糠の妻は堂より下さず」という言葉は、若い時に苦労させた妻、或いは一緒に苦労した妻は、成功してお金持ちになった後も特別に大切にしろよ・・という戒めですが、逆説で考えるオヒョウはこう思います。

「つまり、そういう戒めの言葉があるということは、実際には逆で、成功してお金持ちになったとたん、古女房をないがしろにして、若くて綺麗な女性に乗り換える手合いが多かったということだな」

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実際、その通りなのでしょう。中国では共産党の幹部になれば、愛人を持つのが半ば当たり前のようです。いろいろ嫌な噂話を聞きました。また私がいた昆山には台湾の企業から派遣されて、総経理や董事長を務める台湾人がたくさんいたのですが、その中には現地妻というかお妾さんを持っている人が多かったようです。

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中国のようなお妾さんはダメだとしても、古女房と離婚して、地位や財産にふさわしい若くて美しい女性と再婚する男は、洋の東西を問わず、たくさんいるみたいです。

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特にお金持ちになった後に、離婚と再婚をするのは、映画俳優やスポーツ選手に多くいます。成功した後に結婚する相手の美しい女性を、糟糠の妻の反対語として、トロフィーワイフと呼ぶそうです。成功の証ということでしょうか?糟糠の妻とは逆で、なんだか下品な言葉です。女性の人権を全く無視しています。

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話は変わりますが、実は、我が家に残る昔の写真を調べていたら、私の祖父と祖母の金婚式の写真が出てきました。

得三てる金婚式1.JPG

壬辰(みずのえたつ)の年と言いますから1952年、これは私が生まれるよりかなり前の写真です。撮影したのは、当時大学生だった従兄です。そしてその写真の裏に祖父がしたためた漢詩が載っていました。七言絶句の形で、私の駄作と違い、ちゃんと平仄が合っています。一読して、私の心に沁みる詩です。

得三てる金婚式2.JPG

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特に、最後の一行がいいと思います。

「辛酸に報いるに遅く、未だ堂に昇らず」 堂から下さずどころか、まだ堂に上げてもいない。

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私見ですが、漢詩は、起承転結のストーリーの他に、最初の一行で読者を惹きつけ、そして最後の一行でちゃんと締めくくる必要があります。この文はその体裁に則っており、特に最後の一行が心に残るのです。(身内の作品を褒めている訳で、ブログといえども、少しためらいますが)。

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豫園に限らず、中国の家屋には段階と順序があります。 まず堂に昇り、その後に室に入ることになります。論語では、孔子が子路の楽器演奏の腕前を評して、「いいところまで来ているのだが、今一歩だな」という意味で、以下の言葉を語っています。

 

由や堂に升れり。未だ室に入らざるなり

 

私の祖父の場合は、老妻に報いるに、まだその入り口にも入っていないということで、堂より下さずどころではない・・ということになります。 堂と言うほどの家でもなく、富貴になった訳でもない・・という自嘲もあります。その前段にある、室家というのは、家室とも書きますが、これは家屋の部屋のことではなく、家庭という意味です(詩経に登場します)。

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金婚式で糟糠の妻をねぎらい、労に報いていないことを恥じるだけの、たった28文字の文章ですが、それに共感できるのは、私も結婚してから随分時間が経過したからでしょう。 勿論、金婚式にはまだ随分時間がありますが、結婚してからもう30年以上経っています。 ええっと何年だったかな?

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まあいいや。とにかく私にも糟糠の妻はいます。でも私には金婚式に漢詩を作ったりする能力はありません。 妻を上げるための堂というかお屋敷もありません。そのあたりは祖父と同じです。 そして勿論、トロフィーワイフなどとは全く縁がありません。(羨ましいとも思いませんが)。 

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そして私の場合、単身赴任が長く続くと、妻への感謝の気持ちが希薄になるのでは?という懸念もありますが、そんなことはない・・と言いたい気持ちです。実際には、時々忘れますが・・。

 

ぬかみそも、トロフィーもなし、秋の暮れ


【 朝ごはん食べた? について考える 】 [中国]

【 朝ごはん食べた? について考える 】

<今回の内容は以前に書いたものとかなり重複しますが、お許しください>

かつて中国には朝の挨拶に「吃飯了?」という言葉があったそうです。直訳すると「ご飯を食べましたか?」という質問ですが、「おなかはすいていませんか?もし空腹なら、うちでご飯を食べていったらいかがです?」・・と続く訳です。 その後、この言葉は形式化して、ただの挨拶言葉になり、それも今はあまり聞かれません。

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この背景には中国の人々が経験した深刻な飢餓の記憶があります。中華人民共和国建国後、この国は「大躍進」というプロジェクトに取り組みましたが失敗し、深刻な食料不足に見舞われ、多くの餓死者を出すことになりました。人々にとっての最大関心事は、その日、口にする食料があるかないか・・であり、親しい人と会った時に、相手が空腹か否かが重要な問題だったのです。

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この「吃飯了?」というのは、その悲惨な時代の名残だ・・ということで、豊かになった後の世代では、この挨拶を、「何だか貧乏たっらしい」とか、「惨めなニュアンスがする」ということで、嫌がる人も多く、もはや死語の世界らしいです。

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私がその話を聞いた時は、全く別のことを考えていました。

「文法的には、『吃飯了?』と『吃了飯?』では、どちらが正しいのだろうか?或いはどちらも正しいのだろうか? でも慣用句として話されるのは『吃飯了?』だけだな・・」 その回答はまだ得られていません。

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中国の食料不足はその後解消しましたが、朝ごはんを家で食べる人の割合はあまり高くないようです。都市部では、老若男女、朝ごはんは外食・・という家庭を多く見かけました。 朝、通学する児童や生徒が、露店で売られている饅頭や中華ちまきを頬張って学校に歩いていくのです。昔から女性が社会に進出し、夫婦共働きが当たり前だった中国では、朝ごはんを外で摂るというのは、ある意味で当然だったのです。 同じく社会主義国で、多くの女性が社会で活躍するベトナムもそうでした。 尤も最近は社会主義国の定義が揺らいでいますが・・・。

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しかし、これは私に混乱を与えました。「これは困った。どう解釈すればいいのか?」

実は、当時私は、国というか社会の豊かさを測るバロメーターを探していました。いろいろな統計資料がバロメーターの候補になりましたが、どれもしっくりきません。 世界全体が貧しく、戦後の混乱期にあった20世紀の中頃には、国民一人当たりの石炭の消費量だの砂糖の消費量だの、紙の消費量だのが豊かさのバロメーターになるという、実に珍妙な説がありました。 社会科学というのは自然科学に比べてかなりいい加減な学問なのかも知れません。

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そして私は、豊かさのひとつの指標として、家庭の外食比率を考えていたのです。生まれて初めて海外出張した時、米国の生活の豊かさに驚きましたが、そのひとつはレストランでの食事です。普通のサラリーマンの家庭で、週に1回くらいは夫婦で外食に出かけます。ちゃんとテーブルクロスがあってキャンドルが灯る食卓でコースのディナーを食べるのです。「なんて豪華なのだ。そうだ、レストランでの食事の回数はその家庭の豊かさの指標になるな・・」

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その後、日本でも一億総中流化の時代が訪れ、ファミリーレストランがあちこちに登場し、そしてバブルの時代とグルメブームがやってきました。だから私は家庭の外食比率は、その国あるいは社会の豊かさのバロメーターになると考えてきたのです。

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「でも中国はまだまだ貧しいのに外食比率がとても高い。これはどう解釈すればいいのか?」 結局、外食比率は、夫婦共働き比率との相関はあるけれど、それ以上の意味は無さそうだ・・という結論に達しました。あまりに当たり前のことしか言えなかったのです。

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話を日本に移します。食料不足の時代は日本にもありました。それと関係があるのかないのか分かりませんが、来客に対して、とりあえず朝ごはんを振舞う・・という人が日本にもいます。 その代表は、今は亡き田中角栄です。

彼は、目白の屋敷を訪れる地元からの陳情者や、予算や国政の事で相談にくる官僚に対して、「朝めしは食ったか?とりあえず、めしを食べていけ」と半ば強引に食事を摂らせたそうです。 彼が宰相の地位にあった時には、陳情者が門前市をなす有様で、一升炊けるお釜で、1日に何度もご飯を炊いたとのことです。

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この角栄の「オモテナシ」は非常に有効でした。 切羽詰った思いで現れた陳情者達も、魚沼産のコシヒカリを炊いたご飯を食べることで、落ち着き、ゆとりができたそうです。学歴エリートとは正反対の田中角栄が、大蔵省などの高級官僚の心をつかみ、子分に取り込んでいくことができた秘訣とは、案外「朝ごはん食べた?」の言葉にあったのかも?・・というのは牽強付会でしょうか?

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実は、この「ご飯は食べたか?」という問いかけは禅宗の言葉にもあります。

この場合、「ご飯は食べたか?」を文字通り解釈してはいけません。本当の意味は、「悟りは開けたか?」という問いかけなのですが、これ自体がひとつの公案であり、この答えがまた難しそうです。だから、実際にご飯を食べたか、あるいは空腹か否かとは関係なく、自分自身が悟りの境地にあるか否かに基づいて当意即妙な答えをしなければならないのですが、それは私には無理です。 肥満体にして飽食のオヒョウですが、禅に於いては私はまだ空腹の餓鬼なのです。

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禅寺で「飯は食ったか?」と尋ねられ「空腹です・・・」と答えたら、食事にありつけるかも知れません。 しかし、準備の間、待たされるかも知れませんし、食事は出されないかも知れません。 金牛和尚のたまわく、「一日働かざれば一日食らわず」です。

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空腹とは、悟りをいまだひらいていないということですから、ひたすら座禅三昧するしかありません。しかし、空腹です。食事を待つ間、或いは食事が出されないならば、空腹を忘れるために、石でも抱いて座るしかありません。・・・・まさか、そこから世界で最も上品で高級な料理「懐石料理」ができたとは、昔の修行者も思わなかったはずです。

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悟りとは永遠に無縁の愚か者でも、空腹を我慢していれば、なにがしか良い事があるはずです。その後の食事がおいしくなるはずで、西洋の諺の「空腹は最良のソースである」は、まさに真実です。

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しかし、良くないこともまたあります。空腹を我慢したあとのドカ食いは肥満のもとです。オヒョウはまさにそれを憂います。しかし、最大の問題は、個人の空腹と肥満の関係ではありません。民族として、社会として、この問題が存在するのです。

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非常に奇妙なことですが、飢餓を経験した世代の後の世代で糖尿病が増えるという現象があります。第二次世界大戦では、米国以外の多くの国が飢餓を経験しました。

欧州でも、戦地となったソ連、ドイツ、オランダ、フランス等では深刻な食料不足があった訳ですが、その後の世代・・つまり親が飢えを感じた世代で糖尿病が増加しているのです。(ここでいう糖尿病は2型です)。

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「親の因果が子に報い・・・」という見世物小屋の口上がありますが、普通、遺伝学では獲得形質は遺伝しないことになっています。つまり、親が経験したことが、子供の遺伝情報には反映されないはずなのですが、この奇妙な糖尿病の増加はそれと矛盾します。20世紀中頃に全世界的に発生した戦争による飢餓の時代と、その後に出現した食料過剰の時代、そして糖尿病の増加の現象をどう解釈すればいいのか? 単に成人病(生活習慣病)の一種である糖尿病の増加を、過去の飢餓と結びつけた偽相関なのか、それとも本当に因果関係があるのか?

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2型の糖尿病と遺伝の関係については、いまだ不明の点が多くあるようですが、あまりにマクロ的な飢餓と糖尿病の関係については定説が確立していません。

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以前のブログで申し上げましたが、第二次大戦後に発生した深刻な飢餓として、前述の中国の「大躍進」、ナイジェリアのビアフラ紛争、北朝鮮の「苦難の行進」などがあります。その後の糖尿病の発生状況をトレースすれば、親の時代の飢餓と時間差をおいた子供世代の糖尿病の因果関係が明確になるのですが、データがあまりないようです。 北朝鮮の飢餓は現在も続いていますし、中国もナイジェリアもあまりデータを公表しないのかも知れません。

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最近はやりのビッグデータ解析技術は、マクロ的な疾病増加の因子分析に非常に適しているのですが、飢餓と糖尿病の因果関係の研究では、まだ戦力化できていないようです。癌ほど注目されていませんが、糖尿病の激増は日本、いや世界の大問題なのに・・です。

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空腹を抱えて座禅をし、本来無心の境地に至るべきなのに、そんな事を考えてしまうあたり、オヒョウは修行が足りないようです。


【 ハリファックス事故の再来 】 [中国]

【 ハリファックス事故の再来 】

 

核爆発を除いた通常の爆発で、都市が見舞われた歴史上最大の爆発事故は、何時、どこで起こったものでしょうか? これはご承知の方も多いでしょうが、カナダのハリファックス港で1917年に起こった事故が、最大・最悪と思われます。

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ちょうど第一次大戦中、ヨーロッパ戦線へ弾薬を運ぶ途中の貨物船が、港の入り口で別の船と衝突事故を起こし、火災を発生した上、コントロールを失って、港の岸壁に衝突し、消火にあたろうとした消防士、岸壁に集まった野次馬、そして全く無関係な港町の市民を巻き添えにして大爆発を起こしたのです。

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詳しくは、下記のホームページをご参照願います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%A4%A7%E7%88%86%E7%99%BA

この事故がさらに悲劇的だったのは、小さな街にあまりにも多くの怪我人が発生したため、救急医療が対応できず、むざむざ多くの人命が失われたことです。更には、冬季であったため、家が倒壊した下に残され、凍死した人もでたそうです。

犠牲者の数は、即死が約1500人、その後2,3日以内に死亡した人が約400人だそうです。

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しかし、悪いことばかりではありません。 この事故を聞いた米国のボストンから救援隊が駆けつけ、さらに多くの救援物資が届いたのです。 それが縁になって、ハリファックスとボストンは今でも友好関係が続いています(姉妹都市だったかどうかは失念しましたが)。 世界地図でみれば、ボストンとハリファックスはそう遠くではありませんが、実際の距離は1000Kmもありますし、第一外国です。今回の天津の大爆発に、福岡から救助隊が向かったようなものかも知れません。

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このハリファックスの事故と、今回の天津の事故の規模をそのまま比較することはできませんが、舞い上がった煙の高さからみれば、ひょっとしたら似た規模かもしれません。 爆発の規模を比較するには、燃焼した火薬や化学薬品の種類と、その量が重要な意味を持ちますが、今回の天津の事故は、当局がその情報を公開しません。

当局は、1回目の爆発がTNT火薬3T2回目が21Tと説明していますが、到底、そんなレベルではないと思われます。 第二次大戦でB29が落とした大型爆弾が1T爆弾です。 それが合計20数発分・・というのは被災範囲や爆心地の状況からみて、全く信用できません。 そうなると、やはり爆煙の高さで比較するしかありません。両者は多分同規模の爆発です。

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不謹慎な計算ですが、天津の爆発が、ハリファックス事故と同規模だと仮定した場合、被害の大きさの違いが不可解です。 人口5万人の小さな港街ハリファックスで死者が約2000人。人口1000万人を超える天津市で死者が100人程度・・というのがどうも引っかかります。天津の事故での犠牲者数は多分1000人を超えるだろうという、縁起でもない予想はそれなりに根拠を持ちます。

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ハリファックスだけではありません。世界では戦争や炭鉱の事故以外でも大爆発が発生し、多くの人が亡くなっています。そして、そのワースト10の中には、日本の事故も複数含まれます。例えば、終戦後間もない時期に発生した福岡県田川市の二又トンネル爆発事故がその一つです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8F%88%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E7%88%86%E7%99%BA%E4%BA%8B%E6%95%85

これは、旧日本軍の残された弾薬を占領軍が焼却処理しようとして、トンネルというより山ごと吹き飛んで、百数十人の人が埋まって亡くなったという事故です。

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ほかにも、悲惨な大爆発事故はたくさんありますが、そこには共通点があります。戦争用に準備した火薬・爆薬の扱いに誤りがあり、爆発してしまったという事例が多いのです(都市ガスのガス爆発はそうではありませんが・・・)。 ハリファックスも田川の例も戦争中または戦争直後に発生しています。

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そう考えると、天津の大爆発の原因物質についても疑問が湧きます。天津港のコンテナヤードには、本当は軍用の火薬がたくさんあったのではないか?

当局は火災を起こしたコンテナの内容物、または爆発した化学物質について、詳しく語りません。カルシウムカーバイドに水を掛けてアセチレンガスが発生して爆発した・・と言う意見もあれば、硝酸アンモニウムという爆発物そのものみたいな物質が爆発したという説もあります。(それにしても、カーバイドでアセチレンとは懐かしいです)。

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さらには猛毒の青酸ナトリウムが現場に大量にあって、青酸ガスが立ち込めている・・という物騒な情報もあります。これなどは、人を避難させ、近づけないための口実ではないか?とさえ考えてしまいます。

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そもそも、カルシウムカーバイドや、硝酸アンモニウムは普通のコンテナに保管したりはしません。1トン程度の円筒形の鋼鉄タンクをコンテナサイズの鉄枠の中に固定したISOコンテナを使用することは考えられますが、内容物は鋼鉄のタンクに封入されているので、それは水を掛けても問題ありませんし、火災にもなりません。

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やはり別の危険物が・・それも存在を公にできないものが置かれていたのではないか・・。 通常のコンテナだけであんな大事故は考えにくいのです。

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もう時効でしょうから、白状しますが、私は中国から危険物の輸入を考えた事があります。その品物とは、猛毒物質であるフッ酸です。万が一にもタンクから漏れれば、周囲の人は助かりません。 これは兵器として用いる毒ガスであるイペリット、ホスゲン、VX、サリン、タブンにも引けを取らない毒薬です。 (どうでもいいけれど、オウム真理教のお蔭で、我々はずいぶん毒ガスの名前に詳しくなりました)。

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ホタル石の一大産地である中国でホタル石を焼いてフッ化水素を取り出し、無水フッサンとしてタンクに入れて輸入しようとしたのですが、その扱いの難しさから挫折しました。 その検討の際、読んだ安全上の但し書きを覚えています。

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天津港から日本への積み出しにあたって、コンテナのタンクからの漏出がないか、厳密にチェックすること。もし漏出を確認した場合、対処しようとせず、速やかに逃げること・・と書いてありました。無水フッ酸を吸い込めば短時間で死亡しますし、水をかければさらに大変なことになります。

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結局、オヒョウの提案は実現せず、頓挫しましたが、代わりにごく限られた専門の商社が天津港から無水フッ酸を日本に輸出しています。特殊な技術のもとに、厳重な安全管理を実行したうえでです。 ああ、あの爆発の炎の中に、フッ酸のタンクがあったのだろうか? もし、あれば、付近は火災の後にも大きな災難を抱えることになります。この化学物質の恐怖は、ハリファックス大爆発や、田川の二又トンネル爆発では考えられなかった問題です。

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ここで私が期待するのは、中国の当局がつまらない秘密主義に走らず、被災者の医療や、火災の鎮圧、化学物質の中和・無毒化処理のために、外国の応援を仰ぐことです。特に近くにあって、救援活動を行う能力のある、日本と韓国に応援を要請すべきです。 カナダのハリファックスと米国のボストンは、悲惨な大爆発の後、友好関係を構築しました。 日本の緊急救助隊が天津に駆けつけても、日本と中国の関係が好転するかは分かりませんが、苦しむ被災者の助けにはなります。「禍を転じて福となす」能力と度量が中国の指導者に求められます。

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俗に「雨降って地固まる」と言うではありませんか・・。おっといけない、今回の爆発事故に水は禁物でしたね・・。


【 港が欲しい 】 [中国]

【 港が欲しい 】

 

中国は大国ですが、その国土のわりに海岸線が長いとは言えません。そしてこの国は太平洋沿岸諸国のメンバーのひとつですが、実は太平洋に面している訳ではなく、南シナ海と東シナ海に面しているだけで、その他の海岸は黄海、渤海湾、トンキン湾・・という内海に面しているのです。

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でも海洋国家として一流になりたい、7つの海を制覇する外洋艦隊(最近はブルーウォーターネービーと言うそうですが)を持ちたい、太平洋を我が物にしたい・・・とかの国の軍人は思っています。 なんだか一世紀前の日本海軍と似たことを考えています。

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そのために、何の役に立つのか知りませんが、航空母艦を建造したりしています。でも大型軍艦だけでは外洋艦隊を作ることはできません。外洋に面した港、あるいは外洋の中に拠点となる港を確保しなければなりません。

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今も昔も海軍の作戦は、全て兵站が重要です。特に航空母艦を運用するとなると、原子力推進艦か否かはともかく、のべつ膨大な量の燃料、食料、弾薬等を補給しなければなりません。 外洋を航海する場合、本国から補給艦がひっきりなしに駆けつけるのでは不自由で仕方ありません。 外洋に拠点となる港が欲しい・・・中国は考えます。

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そして温故知新の国、中国では歴史を調べ、過去に外洋型艦隊を持った多くの国が、国外に港と港湾都市を租借して活用してきたのを知っています。ああ、何とか自分達も国外に軍港を持ちたい・・・。

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日露戦争の前、ロシアは中国の旅順を自国の軍港として使っていました。軍港ではありませんが、英国は長く香港を租借していましたし、ポルトガルは澳門を租借していました。もっぱら中国は港を外国に貸す側だったのです。

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一方、日本は租借地ではなく委任統治領ですが、トラック島を連合艦隊の泊地にしていました。 米国は植民地であるフィリピンのズービックを自国の海軍基地にしていました。 

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そしてアジアの軍港の中で特筆すべき存在である南ベトナムのカムラン湾は数奇な運命をたどっています。 ベトナムが仏領インドシナだった頃、カムラン湾はフランス軍が使用していましたが、太平洋戦争開始と同時に南下した日本軍に占領され、日本が使用しました。そして戦後はアメリカ軍が使用し、ベトナム戦争が終わってベトナムが統一されると、今度は旧ソ連の海軍が使い始めました。 そしてソ連が崩壊したあと、やっとカムラン湾はベトナムのものになりました。しかし悲しいことにベトナムにはろくな軍艦がなく、この港を有効活用できません。 そこにまたアメリカが現れ、カムラン湾を使いたい様子です。 なんとも面白いことですが・・。

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実はこのカムラン湾でのやりとりが、20世紀の歴史に大きな影響を与えたのです(毎回、こんなセリフを話していますが・・・)。

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第二次世界大戦は、鉄と石油とジュラルミンの戦争でしたが、日露戦争の時代、戦争は鉄と石炭の戦争でした。 この2つの物資で、より良質なものを、よりふんだんに使った方が勝利したのです。

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20世紀のはじめ、日露戦争が勃発し、ロシアはバルチック艦隊をはるか北欧から日本海に派遣することになりました。 途中、英国の植民地では、英国の妨害を受けるので、なるべくフランス領の植民地を経由して、日本に向かいましたが、それでも各地で妨害されます。マダガスカルでも、いい石炭や食料、水を集めることができませんでした。やがてマラッカ海峡を経た後、バルチック艦隊は仏領インドシナのカムラン湾に寄港します。そこでたっぷりと良質な燃料や食料を調達するはずでした・・。

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読者諸兄の中に石炭に詳しい方がおられるかも知れませんが、ベトナムには良質な無煙炭を産するホンゲイ炭田があります。北ベトナムの有名な景勝地であるハロン湾の近くです。無煙炭は製鉄原料としては使えませんが、燃料としては最高級です。明治時代、軍艦の燃料として無煙炭を使った場合、その性能は大きく向上したのです。

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もし、バルチック艦隊がカムラン湾でホンゲイ炭を燃料として積み込んでいたら、歴史は変わったかも知れません。無煙炭はカロリーが高くて、スピードが出せる上、燃焼室の石炭ガラの処理も容易です。それに、乗組員は煤煙に悩まされることもなく、健康にも士気の向上にも、最適です。 それになにより、煙が少ないので遠くから敵に発見されません。

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しかし実際には、バルチック艦隊はカムラン湾で無煙炭を積む事はできませんでした。英国の妨害という説もありますが、三井物産の現地支店が妨害したという説もあります。 仕方なく代わりに劣悪な石炭を積んだバルチック艦隊は、もうもうと煙を出しながら、ゆっくりと日本へ向かいました。 その煙はすぐに日本の信濃丸に発見され、琉球の漁民にも発見されて、木浦にいた連合艦隊に伝えられました。そして準備万端の日本の連合艦隊は対馬沖で、バルチック艦隊を迎え撃ったのです。カムラン湾での物資調達の成否が、日本海海戦の結果に影響したのは間違いありません。

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そのカムラン湾が欲しくてたまらないのは、今の中国です。パラセル諸島やスプラトリー諸島の岩礁を埋め立てたところで、滑走路はできても、大型の軍艦が錨を下ろす港はできません。南シナ海やトンキン湾を我が物にするためにはどうしてもベトナムの軍港が欲しい・・と思うはずです。

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その昔、日本やアメリカやソ連が使ってきたカムラン湾を自分達も使いたいよぉ・・という中国の声が聞こえてきそうですが、ベトナムと中国は、大昔から仲が悪いのです。租借も割譲もまず無理です。

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カムラン湾が無理でも、世界中に拠点を作りたい中国は、いろいろな国に働きかけます。 一時期、インドと対立していたスリランカに擦り寄り、軍港を借りる契約寸前までいきましたが、失敗しました。 日本では報道されませんが、韓国済州島にも、モーションをかけています。日本に圧力をかけ、中国海軍が太平洋へ進出するには、済州島に軍事基地を設けるのが適切だからです。 しかし、いくら中国寄りといわれる朴槿恵でも、済州島の港を中国に渡すことには強い抵抗があります。

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ついには財政破綻に至ったギリシャに擦り寄っています。エーゲ海の中に、中国の海軍基地を作ろうという算段でしょうか・・。ちょうどジブラルタルを占領して軍事基地を置いている英国のように・・・。 でもバルカンの火薬庫のすぐ南に軍事基地など置くと、いらない火の粉を浴びることになると思うがなぁ・・。

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実は20世紀の時代、他国の港を租借して海軍が使う・・・という事態は、全て戦争の結果として発生しています。それに対して中国は、戦争の結果ではなく、お金と政治圧力で港を手に入れようと考えるのですから無理があります。

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ギリシャ人ならきっと知っています。向こうから揉み手をしながら近づいてきて「お金をご用立てしましょう」と、猫なで声で話しかける男ほど怪しい者は無い・・と。中国からお金を援助されれば、きっとそれは高くつきます。如何にお金に窮しても闇金や高利貸しには手を出してはダメなのです。

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しかし、それでは中国はエーゲ海の海軍基地を諦めねばなりません。どこか他に、お金で港を売ってくれる国はないか?

ああ、そう言えば一つだけありました。太平洋に浮かぶ島国ナウル共和国です。

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このナウルと言う国は実に不思議な国です。 私が子供だった頃、ナウルは産油国以上に豊かな金満家の国でした。小さな島には分不相応な航空会社を持ち、国際線を飛ばしていました。なぜか日本の鹿児島空港にも飛んで来ていましたが乗客がいたかどうかは知りません。 なぜ鹿児島に?・・と訊いてもよく分かりませんが、国際線を飛ばしたかったからでしょう。 なぜナウルにお金が溢れていたかというと、鳥のフンの堆積物に由来するリン鉱石で大儲けしていたからです。 しかし、多くの人は、小さな島のリン鉱石はやがて採り尽くされてしまう事を知っていました。 資源の枯渇の時期は正確に予測されていたのに、ナウル共和国は何の手も打たずに、贅沢を続け、やがてその日を迎えました。 そしてナウル共和国はド貧乏な国家に転落しました。

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それどころか、リン鉱山の廃墟は自然を破壊し、見苦しい国土を残し、観光産業にも期待できない有様です。 ナウルに比べれば、ギリシャは遥かにましです。 今なら、ナウルはお金で港を中国に売るかも知れません。 ナウルは何よりお金を欲しがるでしょうし、リン鉱石の積出しに使った港は、今は閑古鳥が鳴いているからです。

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中国がお金でナウルを取り込めば、念願の海軍基地を太平洋のど真ん中に持つことができます。 しかし、そこにはもう一つの問題があります。

多くは泳げないという中国海軍の水兵は、ナウル共和国に到達するまで、船酔いを我慢できないであろう・・という大問題です。中国がこの大問題をどう解決するか・・私は知りません。


【上海の秋葉原を求めて】 [中国]

今回は、約 10年前に中の昆山市にいた頃、江陰仮面氏にお送りした私信を転載するものです。私信をブログに公開するのはいかがなものか?と思いますが、もう時効でしょう。登場するPCやWindowsのバージョンがあまりに古いので、驚かれるかと思います。

昨年、10年ぶりに、太平洋数碼を訪問する機会がありましたが、雰囲気はあまり変化していませんでした。ただ、お客も店員もかなり上品で落ち着いた雰囲気になっていましたが・・・。無論パソコンもOSも全て様変わりして、本文に登場する幾つかの事情も現在は通用しません。 そう言えば、パソコンも変化しましたが、人も変化しました。本文に登場するS氏とは、今も時々、お酒を飲みますが、お互い、かなり年をとりました。

【上海の秋葉原を求めて】

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私は、中国へは旧式の東芝のノートブックを持ってきました。東芝の海外仕様ノートPCであるTシリーズ(Portage)で、灰色のプラスチックのやや分厚い筐体に、英数字キーボードと小型の高精細TFT液晶がついています。

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これは、Windows3.195の頃の機械で、さすがに今ではそのままでは使えません。

CPUの速度を変更し、RAMを目一杯搭載し、ハードディスクも大型に交換し、そしてOSはWindows98SEに交換しました。

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今ではオリジナル部品は液晶画面とキーボードだけという有様です(CPUのクロック周波数を上げた際、筐体も熱変形したので交換しましたし、液晶のバックライトも暗くなったので交換しました)。機械そのものは非常に堅牢で今でも現役です。

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会社から貸与のシャープのノートPCMebiusWindows XPCPUはアスロン)を主に、東芝のPortageをサブ機として使用していますが、出張時は小型のPortageの方が便利で重宝しています。

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しかし、いかんせんブロードバンド用としては、いかにも非力です。アパートにADSLが引かれた際に、ついに決心し、新たに中国でパソコンを1台、自作する事にしました(自作となるとデスクトップとなります)。そこで部品集めです。

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上海には日本の秋葉原みたいな街が複数あります。それぞれは秋葉原より小さく専門店ビルが2、3並ぶだけですが内部はかなり充実しています。私は特に、徐家匯にある太平洋数碼の一角が好きです。

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そこに行ってパソコンを買おうとした訳ですが、注意すべき事がたくさんあります。

 

1.デスクトップ型とノート型の価格差は、中国の方が日本より大きい。即ち、ノート型は割高、デスクトップは安い。

 

2.ノート型は日本メーカー、米国メーカーの製品が非常に高価で、中国メーカーのものは安価。韓国メーカーのものはその中間。 (中国製は、非常にデザインも優れているが信頼性が?すぐ壊れる?)

 

3.ペリフェラル(周辺機器)は日本より割高。特に、メモリーやデジカメは値段が高い。マウスなどはピンキリだが、安い物はセンスが悪い。

 

4.日本語仕様のパソコンを日本から導入するのは愚かです。当地で日本語仕様パソコンを購入するのは、もっと愚かです。現在のパソコンはどの国の仕様でも、日本語対応が可能です。ですから、ハードウェアには安い中国製を用い、日本語ソフトをそれにインストールして使用するのが合理的。 日本語キーボードは当地にはありませんが、英数キーボード(ローマ字入力前提)では困るという人はいません。

 

5.自作した場合、完成品よりかなり安価。これは、日本と異なります。日本では量産効果の影響が大で、大手メーカーの量産品(完成品)の方が、自作機より安価な場合も多いのです。この結果、日本ではPCオタクが自分でパソコンを組み立てる事は、実益を伴わない単なる道楽となってしまいました。

 

私などは、自作パソコンを家内に使わせていますが、故障などしますと非難の嵐を受ける事になります。いわく「素人が作るから故障するし、しかも値段も割高ではないか」と・・・・。 (厳密にはこれは正確ではありません。スペック的には市販品よりかなり高性能なので、コストパフォーマンスでは勝っているのです。(もっとも、家内はCAD3次元数値解析もしないので、**に真珠ですが)。

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しかし中国では、パソコンを自作することに立派な大義名分があります。但是、パーツを安く購入する能力があれば・・・の話ですが。

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数碼地区のビルの売り場に行くと、壁際の棚に製品が並び、部屋の中央に商談のテーブルがあります。そこで店員と客が口角泡を飛ばして大激論をしています。

即ち、 客は「もっと安くしろ。この価格では買わない」

店員  「安くはできない。代わりにオマケを付ける。或いは他のパーツとセットで買えば、値引きを多くする」

客「セットは不要だ。代わりにスペックを上げてグレードアップしたい」

店員「この構成で(安いチップセット、CPU)でビデオカードだけ高級化しても無意味。それならメモリーをもっと買え」

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つまり、客は少しでも出費を減らそうとし、店員は少しでも全体額を増やそうとするので議論は並行線です。 いよいよ掴み掛からんばかりの喧嘩腰になり、席を立って交渉決裂か・・・という瞬間に、双方譲歩して売買成立したりします。(見ている方には肩すかしです)。

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日本では、専門知識の無い客に、商品知識の豊富な店員がアドバイスして幇助するのが一般的ですが、当地では逆で、専門知識の量を競って、相手を言い負かし、少しでも有利な取引をしようというのですから、素人には辛いです。(オタクには好都合ですが)。

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それに加えて、商談に於ける、中国固有の交渉技術、中国語会話能力が必要です。こういう芸当はとても私にはできません。従って、本当に安い買い物もできません。恐らくは雅兄にも無理であろうと思い、当地でのパソコン購入をお勧めしませんでした。

しかし、今はS氏がおられます。Sさんの語学力と交渉力を用いればお得な買い物が可能です。

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私は結局、市販の完成品よりはかなり安く、しかし、当地のパソコンオタクよりは

割高な価格で部品を購入し、組み立てました。 雅兄には、パソコンに加え、webカメラの導入をお勧めします。無料で、IPによるTV電話ができるからです。

TV会議なら、小倉と江陰で手軽にできる」と言うでしょうが、私が考えているのは

家庭間の日々の連絡です。

 

私のシカゴ時代は、国際電話でした(我が家にFAXはありませんでした)。

ロンドン時代は、既に電子メールがありました。

しかし21世紀の海外赴任者通信手段は、もはやIP方式のTV電話で決まりです。

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それから「日本語のOSやアプリケーションソフトはどうするのか?」というご質問については、「ここは中国です」と回答するしかありませんが、詳しくは別の機会にご説明いたします。


【パンストM氏の憂鬱】 [中国]

今回も、昔の中国の話です。今はだいぶ事情が変わりました。 長江の北側にある南通市には、帝人や東レの大きな工場ができ、高品質のナイロンや炭素繊維を量産しています。以下に書くのは、あくまで昔の話です。

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【パンストM氏の憂鬱】

 

かなり昔、北杜夫だったか斉藤茂太だったかのエッセイに、彼らの母堂である斉藤輝子がモスクワ旅行中に倒れた時の話がありました。医者である息子は、すぐに旧ソ連時代のモスクワに駆けつけるのですが、大事な携行品として、真珠のネックレスとパンストをたくさん鞄に詰め込んで飛行機に飛び乗ったとの事です。

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真珠のネックレスは主治医である女医(ロシアは女医の比率が高い)への、パンストは看護婦(看護師?)へのお土産です。

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著者は、共産圏では消費物資が不足しており、一見、贈答品とはなりえない、パンストが当地では喜ばれるのだ・・・とトクトクと解説するのですが、読んでいて不愉快でした。なぜなら、自身が医療従事者であるのに、医師への付け届けを当然の事として肯定し、かつ医師と看護師で格差を付ける身分制度を、当然の事として、書いているからです。

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それに、旧ソ連ではストッキングが貴重品で、女性達は伝線したストッキングを繕って履いている・・・という話は、既に誰でも知っていたからです。

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著者の意見で、オヒョウが全面的に同意したのは

「ロシアの女性はある年齢から急速に肥満する。若い看護婦か熟年の看護婦かで、靴下のサイズも当然異なる筈で、うまくサイズが合うか心配した・・・・」というくだりだけです。

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それから20年数年後、私(オヒョウ)は、中国のお土産として天津甘栗を持って、当時の勤務先の東京の本社にいました。 OL達に甘栗を配ると、その中の1人が、「オヒョウさん、中国に戻る際、日本からのお土産はいらないのですか?」と尋ねるので

「そうですね。なにか日本のお菓子でも買って帰ろうかな」と答えた瞬間、

OL達の間にクスクス、ゲラゲラという笑い声が沸き上がったのです。

笑い声の間に「パンストMさん」との声が聞こえます。これはいったい何か?

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その時、総務部長のOさんが目配せして、私をコーヒーに誘いました。以下、コーヒーを飲みながらのO部長の話です。

「オヒョウさんの前任者であるMさんは、有る意味、非情に律儀な人でした。 一時帰国の際、向こう(昆山)の飲み屋の女の子に、パンストを買ってくる様、頼まれたようですな。彼はOKと言って日本に来たものの、自分で買うのはあまりに恥ずかしく、かつ奥さんに頼む事もできず、考えた結果、こともあろうに本社総務部のOLにパンストを買ってくる様、頼んだのですね。しかし、OLに個人的な頼み事をするという事は、即ち情報の秘匿については諦めろという事です。たちまちその話は社内に広まり、ついたあだ名が「パンストMさん」です。ちょっと気の毒ですな。

中国でハメを外そうが、如何なる生活をしようが、いい大人ですから構いません。しかし、日本でつまらん噂が流れると、中国駐在員全員がそういう目で見られるので困った事になります。」

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再び、中国へ戻った私は、M氏がかつてなじみだった飲み屋に顔を出しました。

私が「今日本から戻ったところだ」と小姐に告げると、初対面の彼女は

「次に帰る時には教えてね。日本製のパンストのお土産をお願いするから・・・」と

言うではありませんか。一瞬で酔いが醒めました。

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その翌日、会社で同僚のL君に「驚いたね。つばさの王小姐にパンストをねだられてしまったよ」と話したところ、彼は怪訝な顔をして、

「それがどうかしましたか? 昆山では日本のパンストが珍重され、お土産として喜ばれていますが・・・。僕の女房も日本からの出張者のお土産のパンストを喜んで穿いていますよ。」 

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私が不可解な表情をしたためか、彼は更に話しを続けました。

「そもそも、日本のパンストと中国のパンストでは性能、品質が全く違います。全ての繊維は、細くて、長くて、強靱である事が理想ですが、中国の場合、30デニール未満の細いナイロンは、まだなかなか作れない筈です。それ以外に、カプロラクタンか6-6ナイロンかという違いもあります。また日本の伸縮性のあるパンストはナイロンにスパンデックスを織り込んだりしていますが、そんな芸当は中国ではできません。

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繊維が細くできないとどうなるか?全体に布地が厚ぼったくなります。厚くなると編み方の自由度もなくなり伸縮性のある編み方ができません。また、布地が厚くなると、着用時に暑いので夏場は穿けません。日本の女性の様に夏でもパンストを穿くなんていうことはできないのです。かつ靴下が透明でないので、格好悪く(やぼったく)見えます。 つまり中国のパンストは、厚ぼったくて蒸し暑く、かつ伸縮性が無いので履き心地が悪いのです。」

私は大いに驚きました。無骨が信条とばかり思っていた、機械技師のL君がこんなにパンストについて詳しいとは思わなかったからです。

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「それで、君はパンストの履き心地を知っているのかい?」

彼は慌てて首を横に振り

「あくまで女房に聞いただけですよ。あぁ ところで中国のパンストと日本のパンストの簡単な見分け方を教えましょう。中国のパンストは伸縮性に欠けるのでかかとの上(くるぶし)部分に皺がよります。皺があれば中国製、無ければ日本製です。」

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話題を転換して窮地を脱したL君は、工場に去っていきました。国産品の外見だけは、西側先進国の製品に似せる事ができても、本当の性能は劣っており、越えられない差があるという厳然たる事実を、産業界の人だけでなく飲み屋の小姐までが(文字通り)肌で感じているのが中国です。

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その次の週に、再びつばさに行った私は、顔を合わせた老板の女性に

「この前、君のところの小姐に日本製パンストをねだられたよ。いったいどういう了見なのかね?」と尋ねると、彼女は顔を曇らせて、こう答えました。

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「スナックでは、お客様におねだりしてはいけないという指導はしていないのでそこまでは、把握していませんでした。 でも私個人の行動と考えはこうです。

 1.お客様に日本の品物をお願いする事はあるけれど、それはあくまで中国では

手に入らない特殊なもの。実際にはMD等の電器製品やイタリア料理の本など。

中国で手に入る衣類などは頼みません。それに勿論、代金はお支払いします。

 2.直接肌に触れるもの(化粧品とか装身具、下着)などを家族以外の女性にプレゼントするのは失礼なのでは?また依頼する女性の方もずうずうしいというかなれなれしくて、失礼だと思うわ。」

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私は少し安心しました(なんだ、中国にもちゃんとまともな考えを持った、常識のある人がいるではないか)。

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でも次の瞬間、私は気づいたのです「アレッ?」

何気なく眺めた彼女の足のくるぶしに、ストッキングのたるみや皺は全く無かったのです。


【 義和団事件と日本軍 】 [中国]

【 義和団事件と日本軍 】

多国籍部隊の隊長に、初めて日本の自衛官が就くことになりました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150507/k10010071931000.html

これまでは、同盟国からの慫慂で、ある意味、しかたなく、しぶしぶPKF参加やPKO参加という形で、自衛隊を海外に派遣し、お付き合いのアリバイを作ってきた日本政府ですが、今度は自衛隊が、前面に出て積極的に旗を振ることになります。

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国内的には、集団的自衛権や憲法の問題が解決したとは言えないので、これはフライングと言えます。 「おい、ちょっと待ってくれ!」ということになりますが、これはあくまで国内の事情で、海外には通用しません。

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今回の多国籍部隊とは、ソマリアの海賊退治のための部隊で、国家間の戦争に与する訳ではありません。それに外国からみれば、貿易の恩恵を最も受けている国のひとつで、かつ世界有数の海軍力を持つ日本が、海賊退治に参加しないのはズルイと見られます。憲法を口実に自衛隊派遣をしぶれば、これまた逃げるための言い訳・・と解釈されます。日本国内では良心の象徴とされる日本国憲法が、サボるための口実と解釈され、日本の評価を下げる理由になるとすれば、皮肉なことです。 それはともかく、外国から見れば、日本は何をしているんだ? となってしまいます。

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そして私は、全く別の観点から、このことを考えます。これでいいのか?

実は多国籍部隊の指揮を日本の軍人が取る・・というのは、115年ぶりなのです。そして、前回、日本が陣頭指揮をとった多国籍部隊は獅子奮迅の活躍をして、その結果、20世紀の世界を大きく混乱させることになったのですが・・・(これは大げさではありません)。 一旦成功した軍事行動ですが禍根となったのです。

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前回とは、清国で勃発した義和団事件の時のことです。この事件について語るのはこのブログの趣旨から外れますし、丁寧に書けば、予定の枚数を大きく超えます。だから、一部だけを書きます。

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義和団の事件の中に、いわゆる北京篭城戦がありました。その戦いでは、義和団の攻撃によって、租界にいた外国人達が脅威にさらされ、全滅の危機に瀕したのです。

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欧米列強とロシアそして日本に国土を蚕食され、屈辱の中にいた清国人が、打倒外国人を叫び、外国人居留区(租界)を襲撃したのです。日本で言えば尊皇攘夷派の活動ですが、中国では半世紀遅れて勃発しました。 西欧各国は自国民保護のためにそれぞれ少数の守備隊を派遣していましたが、行動は鈍重、軍隊としての能力も低く、うまく機能しません。その中で、日本陸軍が派遣していた柴五郎中佐が率いる一隊は、行動は機敏、戦闘に強く、信頼に足る部隊でした。 

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柴隊は日本人を保護すると同時に、英仏等の諸外国人も保護し、ついには、柴中佐が各国の守備隊を統合した多国籍部隊を率いて、清国の暴徒・・というか軍隊というかテロリストというか・・不明・・・を蹴散らしました。

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この活躍を見て、「しめた!」と思った国があります。 当時、台頭するロシアを押さえ込むために、代理戦争を起こしてくれる国を探していた英国です。実際、義和団の事件の際、自国民と自国の権益保護のために、多くの軍隊を中国に送り込んだロシアは事件終結後も撤退せず、中国東北部のロシアによる支配を既成事実化しようとしていました。

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英雄柴五郎の活躍に惚れ込んだ英国は、「優秀な陸軍」を持つ日本と日英同盟を結び、日露戦争をそそのかしました。 ロシアは日本にとっても脅威だったので、やむなく戦争を始め、大変な犠牲を出しながら、辛くも勝ちました。しかし、このことが日本に災いします。勝ったことで、妙な自信をつけた軍隊にブレーキをかけることはできず、日本の軍隊の暴走が、20世紀の日本とアジアと・・世界全体に災いをもたらしました。

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日本だけではありません。西欧の列強も義和団事件の総括を怠りました。

アヘン戦争やアロー号事件の結果とはいえ、外国の都市や地域を占領して租借し、その国の国民を二級市民として差別し、その上に君臨することが、いかに危うく、反感を買うことであるかについて、西欧諸国はあまりに鈍感でした。 20世紀のアジアの戦争の多くはその鈍感さが背景にあります。そして沖縄、イラク、その他、多くの地域で、米国は21世紀の今も、その鈍感さを引きずっています。西欧諸国と微妙に立場が違う、ロシア/ソ連も同じことです。

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そして、義和団事件から最も多くを学ぶべきだったのに、それを怠ったのは中国です。

外国に国土を占拠され、国権を侵された時、どう対応すべきか・・。市民による反乱や暴動の形ではなく、国際法に則った、正々堂々とした対応をすべきなのに、それを清国はしませんでした。 

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義和団事件は、清国政府に対する反乱の形をとっていますが、実は西太后は義和団の思想を理解し、密かに彼らの行動を支持していました。つまり政府がしたいことを市民運動の形で行っていた訳で、義和団のテロは一種の白色テロです。 外国に対する排外活動という点では、中華民国になった後の、通州事件や済南事件につながり、今の中華人民共和国の反日デモにつながっています。しかし、このやり方は、外国の理解や賛同を得られず、事態をエスカレートさせるだけです。

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そして、本来政府が行うべき軍事行動を民間人にやらせる行動は、いたずらに民間人の被害を大きくします。軍人と民間人の区別をわざと曖昧にし、便衣兵を多用する戦法は、日中戦争や八路軍と国民党の内戦に登場し、被害を大きくしています。敵となる側は、やむを得ず民間人も攻撃対象とせねばなりません。いわゆる南京大虐殺の真偽は不明ですが、背景に便衣兵の存在を挙げる人もいます。

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そして、義和団事件の経緯を、自国民に適切に説明しないことは禍根となります。

私が中国にいた頃、森羅万象に詳しい中国語の家庭教師に義和団事件の話をした時です。彼女は「義和団事件・・ああ、あの農民一揆のことですね?あれは単なる農民一揆ですよ」と答えて、話は途切れました。

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しかし、義和団事件は単なる農民一揆ではありません。背景には、当時清国で布教が進んだキリスト教の存在があります。そして西欧列強に対する反抗の意味があります。それに何より、義和団事件を理解しなければ、その後に起こった日露戦争の原因が理解できません。 敢えて今の中国はそこをごまかして隠そうとしているのか?

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中国では、日露戦争は単なる日本の中国大陸への侵略戦争と教えているようです。ロシアは、白馬の騎士として清国を助けに来たけれど、日本に負けてしまった・・というとんでもない解釈です。

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現在、中国のキリスト教はその存在を認められていますが、共産党(つまり唯物論者)の指揮下での宗教活動・・という矛盾した存在です。ローマ教皇は中国のカソリックを正統と認めていません。 そして、中国政府は、共産党を超える規模の結社を決して許しません。法輪功に対する弾圧は、その構成員の数が共産党を上回る事への恐れがあります。 中国は義和団事件の背後にキリスト教が存在することを隠したいのでしょうか?

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そして、義和団事件の背後にある屈折した西欧諸国への感情が最大の問題です。そのコンプレックスは今の中国にも残ります。 中国は、日本をはじめ、アジア諸国には自国の国名に中華を使って呼ぶ事を強要します。 一方、欧米諸国に対してはこれを要求せず、シナ(あるいは同じ意味の別の発音)で呼ぶことを認めます。

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中国の政府および国民に抜きがたく残る西欧へのコンプレックス・・これを克服しなければ、本当の近代化はできないのですが、義和団事件の真相を隠す中国はその事に消極的です。

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租界に暮らす英国人、フランス人、米国人は、中国人を軽蔑し、侮辱していた訳ですが、今の中国政府にとって、彼らは友好国で、ともに日本軍国主義と戦った仲間です。どうにも義和団事件は具合が悪いのです・・。

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海賊掃討におもむく多国籍部隊を率いる日本の海上自衛隊の司令官は、おそらく適切に行動し、作戦は大成功をおさめるでしょう。日本の海自は非常に練度が高く、特に将官クラスは、外国の将官クラスより優秀だ・・という評価もあります。

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しかし、自衛隊が活躍しすぎても困るのです。そして日本人司令官の評価が高くなりすぎても困るのです。 旧日本陸軍の軍人として西欧で最も高く評価された柴五郎中佐はその後、大将まで昇進しますが、終戦の年、自決を試み、その後亡くなっています。


【燕窩】 [中国]

今回も、昔の中国時代のエピソードです。新しい話題でなくて申し訳ありませんが、未読の方はご覧ください。 

【燕窩】

外国で暮らすと、一時帰国する際のお土産をどうするかで、頭を悩ます事があります。何か珍しい日本では入手できない品物を・・・と思うのですが、今時そんなものはありません。 それに、中国の工業製品は基本的には「安かろう悪かろう」のイメージを引きずっていて、贈答品には不向きです。

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では、美術工芸品は? となりますが、これは趣味の世界なので、贈り先を選びます。受け取った人の趣味に合わなければ最悪ですし、価格も千差万別で、本物もあれば偽物もあり、高名な作家の作品もあれば、工場で大量生産したものもあります。従って、お土産とする品物の価格が妥当かも判らないし、受け取った人がその価値に気付くかも不明です。

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高価な食品や嗜好品も同様です。以前、豪華なパッケージに入った中国茶を贈答品で貰った事がありますが、恥ずかしながら、おいしい中国茶のいれかたも知らないし、それほどおいしいとは思いませんでした(減肥茶の方がありがたかった・・・)。

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なにか、お土産になる面白い品物はないかなぁ?

そんな事を考えながら、昆山の街を歩いていると、偶然【燕之屋】というこじんまりとした商店を見かけました。「雀のお宿なら知っているけど、この店は何なのか?」と綺麗に飾ったショーウィンドウを覗くと、ガラス棚の上に、プラスチックでパッケージした小さな塊が見えます。これはどうやら「燕の巣」というものではなかろうか?

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実は私は燕の巣なるものを食した事がありません。或いは、スープの中に少量混じっているのを口にした事はあるかも知れませんが、記憶にありません。(少なくとも、自分で注文し自分でお金を払った食事では、食べた事がありません)。

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「これは面白そうだ。日本へのお土産に使えるかも知れない。でも、知らないものだけに、不安もある。事前調査してから、店に入ろう」

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翌日、会社で中国人社員に燕の巣について質問しても、誰も知りません。何十年も中華料理を食べていても知らないのです。そこで、中国に関して、オヒョウの何倍もの経験と数十倍の知識を持つ、同僚のK藤さんに質問してみました。

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彼曰く 「燕の巣ですか・・。本物なら数千元もしますよ。非常に高価なものです。 もし安ければ偽物です。それに、あれは結構調理方法が難しくて、素人には手に負えないものです。」

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なぜか「素人には手に負えない」という一言で、ムラムラとチャレンジ精神が湧いた私は、燕の巣を買ってみたくなりました。(つまらぬ事にチャレンジ精神を感じる男です。もっと価値有る事にチャレンジ精神を興せばよかったのに・・)。

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その翌日「燕之屋」に行く事にした私は、商品が高額であったら種々の交渉が必要になるな・・と考え、K藤さんに、一緒に行って貰えないかとお願いしました。彼の同意を得て、仕事の帰りに、「燕之屋」に寄りました。

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店に入った瞬間、なにか場違いな雰囲気を感じました。そう、例えて言えば軽自動車を買おうとして、間違ってレクサスのディーラーに入ってしまった様な・・そんな感覚です(経験はありませんが)。 宝石店を思わせる店内の装飾と、陳列棚には、先日見た小さな物体が並んでいます。やはり燕の巣です。

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奥の棚の商品を見ると、1,825元とか、2,500元と書いてあります。容器も豪華です。

「うーん。やはりK藤さんの言う通りだ。何千元もするのだ。これは贈答用かな?黄金の月餅と同じく、越後屋が代官様にプレゼントするのかな?」でも手前の商品を見ると、50元とか65元とか書いてあります。

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「おや、ではこれは偽物なのかな?」と思ったところで、ネクタイをした店員が近づいてきました。食料品店の店員というより、ホテルのフロントの男の感じで慇懃な口調で声を掛けてきました。

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彼は、50元や65元の商品も本物であること。当店の商品はインドネシア産である事、などを語り、更に赤い物と白い物がある点について、燕が使う材料(海草)の違いであり、赤い方が栄養価が高い事などを説明しました。

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そこで私は、65元の赤い商品を、買う事にしました(別に燕の巣で栄養を取ろうとは思いませんが、何となく赤い方が珍しい様に感じたのです)。私は、お菓子屋でエクレアでも買う感覚で、(金沢のお土産、鹿島で食べる分、それに横浜へのお土産と、あと友達にも必要かな?)と考え、「6個ほど見つくろってください。まとめて買うのだから、少し安くしてね」と言いました。

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すると、店員は、奥の女性店員に目配せし、さっと電卓を取り寄せました。「なにせ高価な品物ですから、6個揃えてお求めなら、5%引きと致しましょう。」

でも彼の電卓に表示された金額は、3,705元(=54000円程度:当時)となっているではないですか。 「え?165元じゃないのかい」と言うと、彼は「当店の価格表示は、1個当たりではなく、1g当たりです」と言います。

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「ええ? 困ったな。それなら6個じゃなくて4個でいいや。 いや3個だ。ううん2個にしてください」店員は、このみっともない日本人の客に対して、「でも2個ですと、5%も値引きできませんが・・・」

「いや待ってくれ。おいしく調理できるかも判らない冒険なのだから、1個でいいや」

「しかし、それでは、値引きは出来かねますが・・・」

私は結局、定価で1個だけ買いました。たった10gですが、それでも650元です。

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「このたった1個の燕の巣を、金沢で家族が揃った機会にスープにして頂こう。」でも一人当たり、1gくらいしかないな」

「オヒョウさん、「燕の巣」のスープが、これでは「雀の涙」のスープになってしまいますね」とはK藤さんです。

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それにしても、奥の方に陳列してあった1gあたり数千元の商品は、一体誰が買うのでしょうか?


【上海泰康路の夢】 [中国]

今回も10年ほど前の中国の話です。私が日本に帰任する少し前に書いた雑文ですが、当時、中国の人民元はまだ通貨として信用度が低かったのです。 昨年、泰康路を訪問する機会があり、散歩したのですが、昔と何も変わっておらず、嬉しく思いました。 

【上海泰康路の夢】

多くのサラリーマンは、引退した後どこに住みたいか・・・という事を時に考えたりします。私の場合それに加えて「どこに住みたかったか」という、建設的でない他愛の無い事を考える時があります。特に20代の前半の時期をどこで過ごしたかったかという、最早考えても仕方ない事を考えるのです。

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普段はそんな事を考える余裕も無いのですが、ある日突然、住みたかったであろう街や風景に出くわした時に、その思いが頭の中をよぎります。例えば、パリならモンマルトルの丘、アメリカの東海岸ならボストンか、ニューヨークのブルックリン、西海岸ならバークレーという街です。(実は私はバークレーに行ったことはありません。ちょっと嘘をつきました)。

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そして中国であるなら、そして上海であるなら、泰康路に住みたかったと、その街を訪れた時に思いました。できれば10代後半から20代の頃に・・・・。泰康路から思南路の辺り一帯は、ごく小さな街並みですが、芸術村があり、多くの美術品や骨董の店が並び、自由な雰囲気があります。もともと上海は国際都市ですが、泰康路には西洋人も多く、種々の街の表記は英語だったり、日本語だったりします。

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おそらくこの街で、往来を行く人に英語で道を尋ねても、ちゃんと英語で返事が来るのではないか(昆山では考えられませんが)。

そしてなにより、この町で活躍する人は皆若い人達です。

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中国の若い世代の希望とは、何なのか?昔からある、エリートコースに乗って立身出世する事か?それともITベンチャーでも企業して、思い切り金儲けする事か?或いは、海外に飛び出して、自由な環境で創作活動を行う事か?

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天安門事件以来の窮屈な思想統制、中国社会の根底に漂う貧困の匂い・・・、それらを若い世代が受け入れる筈もなく、そこからの脱却をまず目指す筈です。泰康路には、比較的自由な雰囲気と貧困を感じさせない、洒落た感覚があります。若い人には魅力的な街にちがいありません。そして昔若かった私にも魅力的な街です。

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売れるか売れないか分からない油絵を描き続ける事、自分に才能が有るか無いかも分からないまま創作活動に突っ走る事・・・といった冒険を、この街の若い住人は実行しています。

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それにしても、冒険は若い人の専売特許なのか?好きな事に人生を賭けるに当たって「必要なものは 希望と勇気とsome money」と語ったのはチャップリンですが、この街の人々は皆その3つを持っているのか?逆に、私はその3つを持っていないのか?(moneyは確かに無いけれど)。

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ひょっとしたら、私がこの街を好きな事の奥底には、冒険をしている若い人への、羨望があるのでは?と、自分で分析してみます。私の場合、モンマルトルだってブルックリンだって、街の雰囲気に憧れたなどというより、そこで活躍している人々への羨望や嫉妬を感じた・・・というのが本音ですからね。

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ところで、泰康路の美術商の店を覗いていると、時々、欲しい作品に出くわします。

無名の作家の絵画ですから、価値があるのか無いのか、本当のところは私には分かりません。でも蘇州あたりの観光地にある美術品店の様に、工場で大量生産した印刷の書画や、機械で編んだ刺繍、偽物の彫刻ではありません。思わず「欲しい!」と思って値札を見ると、それでも数千元の値段がついています。

・・・・・・

「やれやれ困ったな。徐家匯の電脳屋の時と同じ様に、値引き交渉をしなければならないのか。苦手だなぁ。昆山の小姐でも上海に誘い出して、通訳兼値引き交渉をさせるか。でも断られるだろな。」 と考えながら、昆山に戻り、外灘での食事を餌に女性を誘ったところ、意外にも答えはOKです。

・・・・・・

彼女に拠れば、泰康路の店には、掛け値なしの店と値引き交渉ありの店の両方があり、最初に店員に確認する必要があるのだそうです。

「それでは今度・・・・」と話し掛けると、

「オヒョウさんが、あの街で美術品を買うとしたら、本帰国する際に、中国の記念として 買って帰るのでしょう?何時帰国になるのですか?その時、一緒に行きましょう。」と嬉しそうに言うのです。

・・・・・・

彼女がそう言うのには訳があります。かつて昆山の日本人が日本に帰任する時には、いろいろ散財したようです。それはハードカレンシーでない人民元を持ち帰っても仕方ないから、現地で使いきったという事なのですが、散財の方法にはいろいろあった様で、その人の趣味というか、人生観が反映された使い方と言うべきでしょうか。

・・・・・・

「そうか、私より先に彼女を泰康路の美術商の店に誘った男がいたのかい」と少し詰まらなく思い、そして将来の自分の帰国を予想して、更に詰まらなくなりました。私には使い切る人民元も無い・・・・・。

・・・・・・

中国政府が人民元の切り上げと通貨バスケット制への移行を発表したのはそれからまもなくです。

以上


【犬と狗】 [中国]

今回も以前の中国の話で、中国語の話題が登場します。ご記憶の方は、今回は飛ばしてください。 

【犬と狗】

 

江蘇省常州市に住むKさんは、台湾の人。高周波焼き入れの工場を経営しています。同じく江蘇省昆山市のQさんは、大陸中国の人。同じく鉄の熱処理の工場を経営しています。

・・・・・・

共通点は2人とも犬好きな事で、Kさんは4匹、Qさんは2匹、2人とも大型のシェパードを飼っていました。シェパードはペットであると同時に、工場の番犬としても活躍していました。

・・・・・・

ある日、Qさんの犬が2匹とも、いなくなりました。どうやら、放し飼いにしている時に誰かに捕まったようです。今ほど、狂犬病対策の野犬狩りが厳しくなかった頃ですから、野犬駆除とは別の目的で捕まったものと思います。「食用として捕獲されたのでは?」という人もいましたが、冗談なのか本当なのか分かりません。

・・・・・・

Qさんの犬がいなくなった話をKさんに言うと、日本語を話すKさんが言うには、「1匹、2匹飼うというのはダメだよ。飼うなら4匹飼わなきゃ」 とのこと。

「だって、口の数を数えてごらん」

 → 中国では、家に棲む動物の数を、口の数で数えます。

   日本でもpopulationを人口と言いますが、中国でも同様です。

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「一匹(一頭)だったら、「吠える」

 二匹(二頭)だったら、「哭く」 という縁起の悪い字になるではないか。

 四匹(四頭)だったら、「器」となる。器というのはとてもいい意味だ。

 オヒョウさん、犬を飼うなら4匹飼うことですよ」

 → 器の場合、犬じゃなくて、大ではないか? → 細かい事は気にしない!

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Kさんが言うには、

「でもね、この事をQさんに言ってもだめなんですよ。彼らにとって、イヌは犬ではなくて、狗ですから」

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中国(大陸)では一般にイヌの漢字は狗なのです。発音はカタカナなら、グゥォとでも表現すべき発音です。そして「犬」と「狗」には漢字の形と発音以外に大きな違いがあります。「犬」の方は一つの動物の種を意味し、深い意味はありませんが、「狗」の方は、権力の走狗としての卑怯な存在という意味があり、侮辱する時の言葉として用います。相当辛辣な表現とされます。

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映画「紅コーリャン」に、日本兵におどされた中国人が同胞を処刑する場面で

殺される男が「日本の狗!」と相手に叫び続ける場面があります。

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Kさんは、

「大陸中国の人にとって、イヌは本当のペットではなく、しょせん狗なのさ。 犬ではないから、漢字を用いた洒落も理解できないはず・・・」と語ったのです。

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しかし、中国の市民生活はどんどん豊かになっていき、犬を愛玩する人も増えてきました。犬はもはや軽蔑すべき対象ではないはずです。でも狂犬病騒動を見ていると、中国の犬事情はまだまだ文明国の水準ではありません。

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おそらく犬が一番幸せに暮らせる国はイギリスでしょう。日本の犬よりも幸せな筈です。でも英国人によれば、最も犬が幸せなのはアイスランドとの事。アイスランドは、昔エキノコックスの大流行が原因で、犬を飼う事を厳しく制限し、英国からの犬の輸入も禁じました。犬の飼育については絶大の自信を持っていたイギリス人は、プライドをひどく傷つけられ、一時期両国の国際関係はかなり悪化したとのこと。

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「つまり、犬などいないのだから、アイスランドの犬は幸せであると言っても 間違いではない」という一種の皮肉です。実際には、アイスランドにも飼い犬はいるそうですが、そう多くないそうです。(野犬はいません)。

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もっともオヒョウはアイスランドには行った事がないので本当のところは分かりません。 いずれにしろ、アイスランドの犬や英国の犬は、中国の犬ほど窮屈ではなさそうです。

中国では狂犬病対策で、一軒一匹に飼い犬を制限するそうです。一人っ子政策がペットにも及ぶ訳ですが、常州に暮らすKさんにも、その締め付けが及ぶかは不明です。 Kさんは台湾籍なので、子供も複数持つ事ができますし、飼い犬の数も治外法権なのかも知れません。

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彼ならば恐らくこう言うでしょう。「1匹というのは良くないね。『吠える』になっちゃう」

確かに、文化大革命以降の中国のキャンペーンは、全てどこかに「万犬、虚に吠ゆ」という感覚があるのです。


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