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【新華書店の謎】 [中国]

今回も昔のブログの焼き直しで、申し訳ありません。時期的には早春の頃に書いたもので、初夏の今頃に書くのも、どうかとは思うのですが、お許しください。 

【新華書店の謎】

 

私が一番好きな本屋は、米国のチェーン店であるBurns & Nobleです。シカゴ郊外の住宅地にもありましたが、広くて居心地のいい本屋でした。落ち着いていて、書物は充実しており、そこで1日過ごしてもいいと思った程です。

そこで、私はコーヒーとクッキーをとりながら雑誌を読み、幼稚園児だった長男はカーペットに寝ころんで恐竜の図鑑を眺めていたのを思い出します。推測ですが映画のYou got a mailモデルになった書店はBurns & Nobleだろうと思います。

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しかし、中国にはBurns & Noble やアマゾンが束になっても敵わない巨大な書店グループがあります。(経営形態が西側のチェーン店とは異なるので、単純には比較できませんが・・・・・)。

それが新華書店です。大都市だけでなく、中国全国、津津浦々の小集落にも必ずあり、同じ看板で店を開いています(私自身は中国中を旅行した訳ではないのでやや誇張があります)。

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しかし、ひとつ疑問があるのです。ある日、調べ物があって、昆山の目抜き通りにある新華書店(2階建て)にいって適当な本を探したのですが見あたらなかったのです。翌日、会社に行って同僚にその事を言うと、彼らはちょっと馬鹿にした顔で「新華書店なんかに行ったのですか?」と言ったのです。

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「昆山では一番大きな本屋なのに何故?」

姚君という部下が、「オヒョウさん、石牌鎮の新華書店には行きましたか?」と言うので、後日、前を通った時に石牌鎮の新華書店の中を覗きました。中にはおよそ本らしい本はなく、埃を被った大衆向けの雑誌が数冊申し訳に置いてある程度でした。「これはどういう事か?」

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早速、同僚の陳副総経理に尋ねてみました。彼の説明は時々まわりくどいのですが・・・・。

以下は彼の説明です。

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文化大革命当時、中国の一般大衆に革命思想をいち早く教える必要があり、書物の配布が急務だったのです。しかし、それまで教養はブルジョアが独占しており、本屋はそれに奉仕する存在でしたから、その経営者は革命によって駆逐されて書物の流通ルートは無かったのです。そこで、毛沢東語録や、種々のプロレタリート思想を啓蒙する書物を置く書店を国営で開き、全国に展開した訳で、それが新華書店の起こりです。

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当時は(陳君は)生まれていなかったので伝聞ですが、売り上げの多くは毛沢東語録だったのだと思います。

その後、改革開放経済の元で新華書店も民営化されたのですが、その地域の有力者(ボス)が経営権を簒奪し、世襲で書店を引き継いでいるのです。(既得権の世襲のあり方などは、日本の特定郵便局のそれに近いかも知れません)。なにせ地方では本屋など少ないですから競争もなく、経営努力などいらないのです。

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ですからやる気の無い経営者の店では本も充実せず、石牌鎮の新華書店の様になるのです。しかも、国営時代の名残で、政府刊行物や堅いつまらない本が中心ですから、若い人には敬遠されるのです。

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今は上海に新しい完全民営の本屋があって、その方が書物も充実していますから 上海に行ける距離の街に暮らす、教育を受けた人はそちらをとり、新華書店は無意味な存在なのです。姚君の発言にはその意味があるのです。

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なるほど、言われてみれば、昆山の新華書店にあるのも、

・共産党の検閲を受けたかのような政治書

  「林彪がいかに卑劣漢であったか」「狡猾な蒋介石の野望」とか

・実用書ハウツウ物の本(日本にあるのと同じ)。

  「電気工事士試験問題集」とか「情報処理技術者養成」

・成功者が語る啓蒙書

  「ビルゲイツの、余は如何にして富豪となりしか」とか「ナポレオンヒル博士もの」の類、

  「ハーバードビジネスクールの経営術」とか

・夥しい数の受験参考書と幼児教育書 ばかりです。

 (アメリカ人などほとんどいない、中国の田舎の幼稚園児に 蟷螂=Mantis と教えて何の意味があるのか?日本ならおおいに価値がありますが)

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みるからにつつましい服装の青年が、ビルゲイツの手柄話の本を立ち読みしているのはちょっと滑稽ですが、私が欲しい本はまずありません。

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一方、昆山の完全民営の本屋には興味深い本が多くあります。中国人の目で日本の禅を解析し、高く評価した本などは、中国人の知識人の懐の深さを感じさせます。

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ところで上海市に徐家匯という私の好きな副都心があり、時々出かけます。そこには新華書店と民営の別の本屋(名前を忘れた)が隣同士のビルにあって、私はその両方に行きます。両方ともかなり大きく、八重洲ブックセンターには負けますが、金沢の「うつのみや書店」よりは遙かに大きく、渋谷の紀伊国屋書店くらいでしょうか?

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私が好きなのは、当然民営(新華書店も現在は民営)の本屋の方です。実は私は、各国で小津安二郎をその国の言葉で紹介した本を蒐集する事を、密かな楽しみにしているのですが、勿論その本屋には、中国語の小津論がありました。 さらに驚いたのは、エリカジョングの「飛ぶのが怖い」という詩集があった事です。70年代から80年代の退嬰的な米国文化を象徴する様な文学も既に紹介されていたのか・・・。 それにしても「飛翔之恐怖」という、あまりに直訳の題名を考えた翻訳者の頭をカチ割って、その中身を分析したいと思いました。おそらく脳みそがスカスカになっているのではあるまいか?

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そこで「降る雪や、書架に異国の詩集あり」です。

 

上海はともかくとして、

「それにしても、人口60万人の昆山市にしては本屋が寂しいではないか?」と再び陳君に尋ねると、彼の回答は、昆山には全日制の大学すら無いですからねぇ。それと本を読む人の数ね。中国は約20年前に階級闘争を完了しました(或いは放棄した)。しかし現実には、暮らし向きや資産その他で区別される階級は残っています。最も明確なのは読書階級と非読書階級です。

但し、ここでいう中国での読書階級には3種類の意味があります。

  1.読書により、情報を吸収消化し、人生を豊かにするだけの教養がある人々。

  2.(中国人にとっては決して安価ではない)書籍を購えるだけの資産のある人。

  3.文字の読める人。

→中国の文盲の件は、以前コオロギ(=蟋蟀)について書いた手紙で紹介したので省略しますが、中国の識字率(或いは文盲率)の問題はやや複雑で、日本との単純な比較はできません。

読書階級が限られていれば、書籍の市場規模にも限界があり、本屋は大規模になりにくいのです。

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そこで「現代中国では、ほぼ全員が読書階級ではないのか?」と私が言うと、

「オヒョウさんは中国の一面しか知らず、また一部の人しか知らないのです」と、ぴしゃりとやられました。陳君は続けます。

「それに、上海には大きな書店があるといっても、せいぜい一般教養書があるだけです。本当に専門的な文献が欲しければ、大学内の書店に行くしかありません。理科系なら、復旦大学か、上海交通大学、文化系なら上海外国語大学に行くといいです」。

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私は、もはや専門書や学術文献とは遠い世界で暮らしているので、大学まで本を買いに行くことは無いのですが、その話を聞いて、日吉の大学生協の本屋にいたおばさんの顔を思い出しました。

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「春近き、書店にこぞの雑誌あり」

中国では、春節までが去年であり、雑誌の年末進行とか、新年特大号も春節に合わせて出されます。 昆山のある江南地方は、春節を過ぎるとゆっくりと春がやってきます。

私は、春節を過ぎるとパッチを脱ぐ事にしています。

 

以上


【コオロギ】 [中国]

今回も、中国時代の古いブログの再掲です。私の漢字コンプレックスについて書いたものですが、ご記憶の方は飛ばしてくださって結構です。

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【コオロギ】

私が中国に来てからの1年で、その間、落ち込んだ事は、数限りなくありますが、その中に、日本人がよく経験する漢字での問題があります。日本にいた頃、なまじ自分を教養人だと思い、漢字には詳しいと思っていると中国で複雑な思いを抱く事になります。

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当初、中国語が聞き取れず、また喋る事もできず、困った時でもメモ帳さえあれば、筆談ができる事に救われた事が多々あります。

中国に赴任される皆様にお勧めするのは、何時でも筆談用のメモ帳とペン、それにコンサイス程度の辞書を携行される事です。(勿論電子辞書でも結構です)。

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「なんだ、漢字を知っていれば不自由は無い」と思い、私はワープロに近い速さで漢字を羅列し、中国人とコミュニケーションしてきました(今でもそうです)。しかし、それでは中国語の上達が遅れるばかりだと気付いたのは、間もなくです。

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それに加え自分の漢字の知識など、中国人に比べれば子供みたいなものだと、気付かされる事になりました。

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中国で新聞を読む際に登場する漢字の種類は2,0003,000字です。毛沢東語録には約6,000字の漢字が登場します(藤堂明保東大教授)。それに比べ、私が小学校で習った教育漢字は881字、当用漢字が1,100字強では、とても歯が立ちません。日本で日常的にカタカナで表記していたものを、突然漢字で書けと言われてもお手上げです。

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高校時代の同級生でT大に入った男と、東京で飲んだ事があります。彼は田村正和みたいに髪を掻き上げ眉を寄せて、女子大生に「これ知ってる?」とコースターに、憂鬱とか檸檬とか薔薇とか伯爵夫人という難しい漢字を書き並べて見せます。女の子は既にT大生というだけで幻惑されており、すなおに感心します。負けてはいられないので、私も黴菌とか蚯蚓とか掏摸とか書く訳ですが、さっぱり尊敬されず、相手にされませんでした。

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(このT大生のパフォーマンスは漫画家高橋春男のエッセイの模倣だと後で判りました)

さらにその女子大の学園祭に押し掛けたのですが、「徽音祭」というその学園祭の名前を間違えて、私は黴音祭と書いてしまいました。そのコンプレックスから漢字博士を目指したのですが・・・、衒学趣味はうまくいきません。

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因みに「徽音」というのは中国では女性の名前です。高名な芸術家に林徽音という人がいて、彼女は一般には五星紅旗のデザインをした人として知られています。

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中国で、漢字の知識不足を思い知らされたのは、最初は永井荷風事件です。日本文学に明るい中国人と、永井荷風の話をした時、私が「荷風」の意味を知らないのに彼女が気付き、どうしてあんな有名な人の名前なのに知らないの?と私を一瞬軽蔑しました。荷風という言葉は中国語ではごく当たり前に登場します。荷は蓮の意味で、蓮のあいだを吹いて来る、いい香りの心地よい風の意味です。

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また彼女からは、遠藤周作の狐狸庵という名前の狐狸が狐と狸の意味ではなく、単に狐の意味である事なども教わりました。どうでもいいけれど、荷風も狐狸庵も、あまり中国文学では有名でない大学の出身です。

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次がコオロギ事件です。秋になると当地ではコオロギ売りが街に出現します。私のアパートの近くにある橋の上でも、近郊の農村から来た、私と同年代の物売りがコオロギを売っていました。

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中国でコオロギを飼うのはごく一般的で、コオロギ相撲をさせて、それが賭博にもなるのはご承知の通りです。映画ラストエンペラーの最後には、玉座の影から昔のコオロギが生きて登場する場面がありますが、これは蒲松齢の聊斎志異に登場する逸話そのもので、しかもそれは邯鄲の夢の故事を味付けしたパクリですから、知っている人には下らない話でした。

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コオロギ売りは、見るからに教養と無縁の風貌で、おそらくはPhDMBAも持たず(私も持ちませんが)、自己の矜持の裏付けとしては、物質的な物しか考えない者と思われました(物質的にもあまり恵まれているとは見えませんでしたが)。

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しかし驚くべきことに、彼は、ちゃんと漢字で蟋蟀と札に書いて売っていたのです。「僕も興梠君なら知っているが・・・・・。そう言えば確かにコオロギを漢字で書けば蟋蟀だったな。見るからに教養の無い一般庶民でも僕よりずっと漢字を知っているのだ。」と、私は気づき愕然としました。

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でも私は、すぐに立ち直りました。

「酔ってなければ、それに少し時間を掛ければ、僕だって蟋蟀という字ぐらいすぐに思い出すし読み書きできるぞ」と。

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しかし、彼は蟋蟀だけでなく、隣でなんとハムスターも売っていたのです。ハムスターは漢字で書くと倉鼠です。これはスナックの小姐でも知っています。でも私は知りませんでした。日常的なペットの名前さえ私は漢字で表記できないのです。

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蟋蟀売りのおじさんにも負ける程度の知識しか無い、僕は何なのか?と、私は打ちのめされました。もっとも、橋の上の蟋蟀売りには、何でこの日本人がハムスターを前にして蕭然としているのか理解できなかったでしょうが。

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後日、会社で上役の日本人にその事を話すと「君は漢字の知識で中国人とはりあおうとしたのかね。それは、まるでスキー場で北海道出身のスキーヤーに喧嘩を売るようなもんだ」と意味不明の事を言いました。(彼はスキー場で喧嘩した経験があるのか?)

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中国人の漢字に関する知識量には敬意を表しますが、中国の教育界では、初等中等教育の段階で漢字の習得にあまりに労力を割く事に疑問の声が出ています。その分サイエンスの教育に充てる時間が不足し、アルファベット言語圏の人々に対して、科学技術開発の競争でハンディキャップになるというものです(日本や韓国との競争は考えないのか?)。

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でも漢字擁護論者も多くいます。いろいろな議論がありますが、例えば以下の例です。メンデレーエフの周期律表の元素名は、中国では全て漢字ですが、金属元素名には概ね金偏がついているので、一目で金属元素の分布が判り、電子軌道の構成と金属としての性質の関係が理解できるというものです(本当かね?)。

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上海を訪問した阪大教授一行にその話をして「学生へのお土産には中国語の周期律表が最適ですよ」と話したところ、皆が賛意を示したので、自然科学書籍の本屋に

案内しました。しかし結局誰も買いませんでした。

以下、次号


【杭州一日行】 [中国]

今回も古いブログの再掲です。ご記憶の方は本件は読み飛ばしてください。10年ほど前の話で、今は事情も変わったはずです。文中に登場する母も今年他界しました。 

【杭州一日行】

 

私が、中国に赴任する前、老母から、唐突に

「その昆山という町は杭州からは遠いのか?機会があったら行ってみたらよい」と言われました。なぜ、杭州の名前が出てきたのかは不明です。

しかし、もともと西湖という風光明媚な公園があり、また古い中国の面影を留めた都市という事で、日本でも有名ですし、母が興味を持っていたのかも知れません。

或いは、その頃、母が読んでいた芥川龍之介の支邦旅行記に杭州が登場したからかも知れません。

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実際には、昆山と杭州とは近いとも遠いとも言えない半端な距離です。以前は、日帰り往復はちと大変でした。今は高速道路のお陰で容易です。母の話は、とんと昔に忘れていましたが、先日、中国語の家庭教師との雑談で再び登場しました。

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「今、住みたい都市と言えば、大連、青島、上海の旧租界あたりかな・・」と家庭教師が言うので、「どれも美しい街だが、大連はロシア、青島はドイツ、上海の租界はフランス、英国と、旧植民地ばかりではないか。異国情緒が漂うといえば、その通りだが、中国オリジナルの良さを持った都市で美しい街は無いという事ですか?」と皮肉を言うと、彼女は口をとがらせて反論し、「そんな事はありません。内陸部には、植民地にならず、古い中国の趣を残す街も多いのです。 沿海部でも、杭州などは美しい上に昔の雰囲気があり、素晴らしい街です。でも、その為に、最近杭州の不動産価格は急騰し、よほどのお金持ちでないと 暮らせない町になってしまいました。それが何とも残念・・。」

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最後はお金に絡んだ愚痴になってしまうのは、彼女の常で、一つの限界なのですが、そこで私は母の話を思い出しました。

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その週の土曜日は、朝からいい天気で、そよ風が吹いていました。「窓を開け、チュンテンライラと つぶやけり」など駄句をひねりながら、ひとつ杭州へ行ってみるか? と考えました。

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実は、高速道路網が整備される前に、杭州へ行こうかと思った事があります。しかし、上海乗り換えの鉄道は便利とは言えず、日帰りは難しかったので断念したのです。

 

さて、高速道路のできた今はどうか?とバスターミナルに出かけてみると、丁度、朝の杭州行きのバスの切符が買えます。そのままバスに飛び乗りました。杭州までは、2時間半のドライブで実に快適でした。

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西湖は、大都市杭州の中心から少し外れていて、対岸には緑の山山が広がります。

舟で沖に出て、後方を見れば高層ビル群が見えます。面白い対比です。環境に無神経と言われる中国人も、西湖の借景となる景色は保っているのです。湖岸の公園は、老若男女が集まる憩いの場所で、ちょっと西欧的です。ローザンヌのレマン湖のほとり、または・・・例えて言えば、スーラの「グランドジャッド島の日曜日」の雰囲気です。

西湖湖岸の公園.jpg

西湖湖岸の公園

 

脱線しますが、実際に、この絵を見ると、その大きさには圧倒されますが、意外に暗い絵だと気付きます。肌色を示すのに、青い絵の具を使うくらいですから。それに、本物のグランドジャッド島も大したことはありません。それに比べれば、西湖の湖岸の公園はもっと明るく、もっと陽気でした。

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ところで、予想と大きく異なったのは、昔からの街並みというのは、殆ど保存されていなかった事です。確かに、湖岸通りの家屋は外壁を残して内部をリニューアルするという方法で再開発されていますが、ブリュッセルの再開発ほど徹底して元の景観を留めておらず、新しい建物といってもいいほどです。しかも中にあるのが、欧州の高級ブランドのブティックとあっては、老杭州の雰囲気を求める私には興ざめです。上海の新天地みたいなものです。もっと庶民が穏やかに暮らしている、古くて、こぢんまりとして、しかし清潔な街はないのか? 

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デュッセルドルフのアルトシュタットの様に。私が探したところでは、わずかに、裏通りに一区画残っていたのみでした。「沈先生、あなたのいう、古き良き中国の街並みはありませんよ」とつぶやきました。

杭州の路地裏.jpg 

 杭州の路地裏

 

西湖は構成が北京の頤和園と似ていますが、もっと雄大です。舟で沖合の幾つかの小島に出かけると、それらの島自体が、それぞれ庭園であり、趣があります。島から湖面の全方向を眺めると、それぞれ美しい景色が広がります。観光客が多すぎるのを除けば、実に素晴らしい場所で、小島の茶屋の一つで休憩する事としました。

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当地の名産である、蓮根の粉末からこしらえた葛湯の様なものを食べ、さらに暑さを覚えたので、アイスクリームを食べて、散策しました。アイスクリームは2元(当時 約30円)でした。

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次回の日本への帰国時に、病床の母に渡す、蓮根の粉末も買い求め、「杭州はとても風光明媚な街で昆山からも近かったよ」と母への報告の言葉も考えました。更に、生まれて初めて、七言律詩を詠もうか・・・などと考えました。

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江南庭園湖池多  江南の庭園湖池多し

蘇州晩鐘湖畔聴  蘇州の晩鐘は湖畔より聴き、

杭州碧山舟上看  杭州の碧山は舟上より看る

山是峨峨水是平  山はこれ峨峨たり、水はこれ平らなり

朝遊島楽柳色青  朝、島に遊びて、柳色の青きを楽しみ

晩巡岸眺夕照紅  晩、岸を巡りて、夕照の紅なるを眺む

君莫忘夜半荷風  君忘るなかれ、夜半の荷風を      

惜是水上月光寡  惜しむらくは、これ水上月光のすくなきを

 

いやはや駄作駄作、韻と平仄があっていません。これから修正します。でも、それにしても今日は愉快だと、湖を渡る風を心地よく感じた次第です。

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夕刻の舟で、対岸に渡り、杭州のバスターミナルから、再び高速バスで昆山に戻りました。 今度も、2時間半の快適なバス旅行の筈でした。

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ところが、まだバスが淅江省を走り、江蘇省にはだいぶ距離がある頃、突然、私は下腹部に妙な感覚を覚えました。下痢の兆候です。続いてしみじみとした腹痛が訪れました。

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「さては、あのアイスクリームか?」

そこで・・・ 中国語の家庭教師の言葉を思い出します。

「中国では1元のアイスクリームを食べてはいけません。おなかを壊します。それらは水道水を凍らせて作っているとの噂もあります。2元のアイスクリームは、大丈夫かも知れません。」

「今日食べたのは2元のだけれど、観光地価格だから特別だ。あるいは、品物は1元の品物だったかも知れない。しまった。」

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昆山までの時間はとても長く感じられました。高速道路で100km/h以上の速度なのに、バスはとても、遅く、さらに遅く感じられました。その途中、脂汗を流しながら、私は金沢に里帰りした時、杭州について母になんと報告しようかな?と 再度考えていました。

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「オヒョウよ、杭州は昆山から遠かったかい?」

「いや、往きはとても近く感じたよ。新しい道路ができていたから。 でも、帰り道はとても、遠く長く感じたよ。アイスクリームのせいで・・・。」


【張家港の茜ちゃん】 [中国]

【張家港の茜ちゃん】

今回も10年前の中国の話です。ふざけた表現で、女性とのやりとりを書いていますが、実際の私はそんなに遊んでいた訳ではありません。 昔の自分の名誉のために少し補足しておきます。 

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私が昆山に赴任した時、古参(といっても私より若い)の中国人副総経理が私に言いました。

「中国の諺に、- 兎は自分の巣穴の近くの草を食べない - という言葉があります。 分かりますね?」私は何の事か分からずに「我不明白」と答えると、彼は突然中国語になって「也就是説、遊ぶのなら上海や蘇州の遠隔地で遊ぶ事です。昆山には部下の中国人の目があります。また、水商売の女性に自分の住所を知られるというのも禍根になります」

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しかしその後も、私はお酒を飲む時は、たいてい昆山の周辺で飲んでいます。

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前置きが長くなりましたが、私は張家港へは滅多に行きません。従って張家港で遊興にふける・・・という事も殆どありません。しかしこの前、ある接待で張家港で食事をして、その後KTV(包廂)へくりだす事になりました。そこで私が指名した小姐は驚いた事に、不完全ながら日本語を話しました。

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昆山と違い、日系企業も殆ど無く、日本料理店も少なく、日式カラオケも無い街でどうして?と思ったのですが、彼女曰く、「少人数ながら日本人が張家港に住んでいて、その人達の為に日本語を覚えた。張家港のKTV小姐では自分一人しか日本語を解さない(本当かね?)」

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彼女は顔もスタイルも良く、性格もよさそうでしたし、日本語が話せたおかげで、私はおおいにくつろげた訳です。彼女の名前は茜、または茜茜。

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但是、「あかね」ではなく「xi」です。勿論源氏名でしょうが、中国の女性の名前です。問題はその発音です。xishiとは異なりますが、カタカナで表すとやはりシーとしか書けません。私は比較的xiの発音は得意な筈なのですが、酔っている時は全くダメです。彼女に発音を矯正された訳ですが、KTVの薄暗い片隅で男女が「シー、シー」と言い合っているのは、奇怪な風景と言うべきです。そもそも、「x」には苦い思い出があります。

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以前、私がメキシコへしばしば出張していた頃、かの地で地名や固有名詞にxの文字が登場するのに気づき、「ラテン語系列のスペイン語にxの字は無いはずなのに何故?」と現地の人に尋ねると、驚いた風もなく、こう答えました。

「スペイン人が中南米に渡来した頃、原住民が話す言葉で、スペイン語には無い発音の単語については表記できず、やむを得ず、それらは、何でもかんでもxで記述してしまったのです。スペイン人のおおらかさとでも言うべきでしょうが、その為にスペリングにxが登場すると、綴りだけからは発音が推理できないという問題があります」。

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面白い事を聞いて喜んだ私は、出張から戻ると、当時の上司に得意げに説明し、「スペイン語ではxの字も発音も無くなったのに、xが未知のものや不可解なものを示す表意文字としての機能だけは残ったのですね」と言うと、シカゴ事務所長は「オヒョウ君の場合は、xの字も発音も無い。あるのは×(バツ)という記号とその意味だけだ」と意味不明な事を言いました。

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思えば、住金を辞めるべきは、本当はその頃ではなかったか・・・と思います。

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話が脱線しましたが、中国語のピンインくらい不可解なものは無いですね。東洋の言語が人為的にアルファベット表記を採用する時は、日本のローマ字の様に母音の発音が近いヨーロッパ言語を選択して、その綴りに倣った表記を取り入れると聞いているのですが、ピンインはどのヨーロッパ言語とも異なりますね。一部にドイツ語に近い母音があるから、ウンムラウトなども採用していますが、全体としてはドイツ語表記と全く異なりますし、私などは英語の感覚がこびりついているので、ピンインを読んで発音する事が全く苦手です。

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中学一年の頃、同級生が英単語をローマ字の発音で話すのを聞いて笑った事がありますが、その後35年たって、逆の立場で苦しんでいます。中国語会話の先生に、ピンインはどの国の言葉を参考にして作ったのか? と質問すると、「中国語は中国語です。アルファベットを用いるに当たって、他国を範とする事はありません」と中華思想を絵に描いた様な回答です。

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さて、私の発音を正してくれた、コケティッシュな張家港の中国語の先生は日本人客が少ない事に不満の様子です。そこで私が「私は昆山に住んでいて張家港には滅多に来ない。でも江陰には日本人の知り合いが何人かいて、彼らは張家港に来るかも知れない。紹介してあげよう」というと、喜んで電話番号を教えてくれたのですが、・・・・ その紙を落としてしまいました。なんと間抜けな事か。

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どうか江陰の若い兎達に勧めてください。「江陰の草を食べずに張家港の草を食べよ」と。但し、電話番号無しで茜ちゃんが見つかるかは不明ですが。


【La GolondrinaとRondine】 [中国]

La GolondrinaRondine

今回もCURURUに書いた10年ほど前の駄文の再掲です。中国の昆山に暮らした頃の話です。今、このレストランが残っていて、まだこの女主人がいるかどうかは分かりません。 2年ほど前に昆山に出張に行きましたが、この店に行く機会はありませんでした。 昆山の近況をご存知の方がいれば、お話を伺いたいと思います。 

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「翼」で食事をしていると、老板の高蘭小姐が、話しかけてきました。

彼女の方から話しかける事は滅多になく「はて、ツケは溜まっていないはずだが?」と思ったのですが、用件は別の事でした。彼女の話とは、彼女の親友にして、レストラン「La Taverna」の店長である胡燕小姐についての相談で、彼女のニックネームをどうするかという質問でした。

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タベルナとは「翼」の並びにある、昆山には数少ないまともな西洋料理を出す店です。尤も、店長はイタリア料理店だと言っていますが、店の名前はギリシャ料理風。しかもイタリア料理に付き物のグラッパは無いし、料理の味付けは南フランス風です。その上、店長は最近ドイツワインに凝っていて、フランケンワインが多いし、シェフはオーストラリアとシンガポールで料理の修業をした人で、経営者は中国人、お客は西洋人と日本人(ごく少数)という多国籍軍で、全く国籍不明の怪しげな店です。

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普通、私は国籍不明の怪しげなものは、人であれ、品物であれ信用しませんが、タベルナの料理はおいしいし、年代と地方を指定してヨーロッパワインが飲めるのもここだけなので、評価しているのです(昆山ではという条件付きです)。

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ここに集まる客は、昆山に2名棲息するドイツ人と、同じく2名暮らすイタリア人、人数不明(但し少数)のアメリカ人と私(日本人)です。かつて、私の母が、戦前の金沢に唯一あった西洋料理店「仙宝閣」について、そこに集う人達(旧制四高の教授等)が一種のエスタブリッシュメントというか独特のサロンを構成していたと話したのを思い出します。

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タベルナは昆山に於ける一種の「仙宝閣」かも知れませんが、残念ながら、私は日々の生活の問題から解放されて優雅に暮らす、サロンの住人ではありません。タベルナに行くのは、給料日の後ぐらいです。

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そのタベルナの客であるアメリカ人が、私的に英会話塾を始めたというのです。そこで誘われた高蘭や胡燕が生徒として教室に参加したのですが、最初の授業で生徒にニックネームを付け、それをE-mailアドレスにも使う事にしたのだそうですが、これが問題です。

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胡燕は自分の名前に「Swallow」を提案したのですが、高蘭の説明では、「先生が言うにはSwallowには呑み込むという意味もあって、名前には不適当なのよ。中国語の“呑み込む”も“嚥”で燕と似ているので、都合がいいのに・・・」。私は「Swallowに呑み込むという意味がある事など、君が生まれる前から知っているよ」とは言わずに「どうしてSwallowはだめなのかな?それじゃ日本語でTsubameというのはどうかな?」と返事しました。

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高蘭は「それじゃ私が困るのよ。お店(翼)にもツバメちゃんがたくさんいて紛らわしくなっちゃう。「翼・無錫店」の店長もツバメちゃんだし」。確かに、中国人女性の名前に燕はたくさん登場します。私の勤務する会社にも名前が「燕」のOLが複数います。多い理由は不明ですが、マグネシウムが女性の名前となる国ですから何があっても驚きません。

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私は「それならイタリア語でRondineとするか、スペイン語でLa Golondrinaとするのがいい。一応イタリア料理店を標榜しているのだから。どちらもラテン系言語で共通単語が多いけど、ツバメを意味する単語は違うんだ」。高蘭は目を丸くして「赤井さんは中国語はできないのに、他の国の言葉を知っているのね」、

<アレッ、この台詞には、この前にも誰かから聞いたような・・・>

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おだてられて調子に乗った私は更に続けました。

「でもLa GolondrinaにもRondineにも、別の意味があるよ。呑み込むという意味では無いけど。どちらもツバメから派生した意味で、スペイン語のLa Golodrinaは愛しい人の帰りを待つ時に例えとして使われ、メキシコ民謡にもなっている。イタリア語のRondineの方も、毎年同じ季節に帰ってくる愛しい人の例えとして使われるけど、特にアルゼンチンへ出稼ぎに行く人をRondineと言うのだ」

「どうして?」

「南イタリアは貧しい。農閑期には仕事が無く、農民は出稼ぎに行くしかない。南半球のアルゼンチンは、小麦の収穫期が逆なので、出稼ぎに行って農作業を行うにはちょうどいい。しかも、スペイン語とイタリア語は非常に近く、イタリア人は特別な教育を受けなくてもスペイン語の新聞が読める程だ。だから毎年、イタリア人やスペイン人は、季節になるとアルゼンチンに出かけて行き、季節になると帰ってくる。まるでツバメの様に。

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でも、地球の裏側に行く事は、お金と時間が必要な大冒険であり、そのまま行方不明になる場合もあっただろう。子供の頃に読んだクオレという小説に、子供がイタリアからアルゼンチンまで、行方不明になった母親を探して旅行する逸話があったよ。『アペニン山脈からアンデス山脈まで』という名前で、いい話だったが、後でTVアニメになった時には、『母をたずねて三千里』という、まるで二葉百合子の浪曲みたいな題名になっていたのは残念だった」

・・・・・・

(後半部分は、絶対に彼女には理解できまいと思いながら話したのですが、意外にも彼女は「母をたずねて三千里」を知っていました。中国で海賊版の日本アニメを放映しているからでしょう。)

「それって、マルコがアルゼンチンに行ってお母さんを捜す話でしょう?」

「いや、マルコはシルクロードを歩いて中国へ来たのだ」とは言わずに、「それだけでなく、異境の土地に行った家族や恋人の帰りを待ったり、異境の土地での苦労話というのは、昔からイタリア映画の重要なモチーフなのだ。例えば・・・・」

・・・・・・

高蘭は話を遮って、

「それなら、オヒョウさんもRondineですね。外国に出稼ぎに来て、時々思い出した様に、 家族の元へ帰る。ツバメみたいですね」

「確かに、私はツバメみたいなものです」

高蘭は、続けて

「日本語のツバメにも、別の意味があるのですか? お店のツバメちゃんの中で年下の方の小姐に『若いつばめ』と言ったら、お店の(日本人の)お客さんが嗤ったの」

・・・・・・

私はとぼけて、「さあ知らないね。呑み込むという意味かなぁ?」と答えました。

その時、高蘭が中国人女性にしては低い声で、小さくつぶやくのが聞こえました。

「オヒョウさんは日本語は詳しくないのですね。中国語もだめだけど」。

その後、胡燕のニックネームやE-mailアドレスがどうなったかは知りません。今度、タベルナに行って確かめてみようと思います。----- 給料日の後に。


【Tempus Fugit】 [中国]

今回も、10年前の昆山のお話です。

前回CURURUに掲載した時は、シカゴ様からコメントを頂きました。

・・・・・・・

 Tempus Fugit

私のアパートには、大家が据え付けた、大型の振り子時計があります。

身長は私の背丈より高く1.9mくらいでしょうか?

私の部屋だけでなく、銀行のロビーなどでも、この種の時計を見かけるので、恐らく中国では一般的なのだと思います。

日本ではもう見かけないゼンマイ式のこれらの時計は山東省の、烟台木鐘廠が主に製造しています。そしてその文字盤には Tempus Fugitと書かれています。日本でも、昔、愛知時計などが作っていた柱時計にはTempus Fugitと書いてあったらしいのですが、あまりに衒学的なので止めたみたいです。

ある時、私の中国語の家庭教師が「Tempus Fugitとは如何なる意味か?」と尋ねるので 「これはラテン語であり、英語に訳すと『Time flies ( like an arrow ).』となる。貴国の言葉では『光陰矢の如し』となる。日本語では・・・よくわからん。「時は過ぎ往く」と訳す人もいるけど、明らかに「時間を惜しめ」という叱咤の意味があるので、この訳は不完全だ。発音はテンパス・ファージットだったり、テンポス・フューギだったり、テンパス・フィジット、テンパス・フュージットと人によって異なるけれど、ラテン語は大昔に、音声を失い文字しか残ってないからそれも仕方ない」と説明すると、「オヒョウさんは中国語ができないのにラテン語は分かるのですか?」と聞くので、以下の如く説明しました。

「恥ずかしながら、私はラテン語は全く分からない。この言葉を知っているのは、卒業した大学の図書館の時計の文字盤にもこの言葉が書かれていたからだ」

・・・・・・

そこで、中国語の授業を中断して雑談になりました。 以下は私の説明です。

「今から80年程前に、関東大震災という大地震があり、当時日本で一番大きなT大学の図書館が焼失した。書籍は紙片となって燃え上がり、上野の寛永寺や不忍池まで飛んでいったそうだ(日本に行った事のない彼女には全く無意味な説明でしたが)。そこで、当時世界一の富豪であったロックフェラー財団は、T大学に2万冊の本を寄贈して、大学の復興に協力したそうだ。

・・・・・・

それから20数年後、第二次大戦の米軍による空襲で別のK大学の図書館が破壊された。 K大学の図書館は赤煉瓦造りで、美しいステンドグラスが有名だったが、多くの貴重な文献と共に失われた。 

話は脱線するが、当時K大学の図書館には泉鏡花の直筆の原稿が多く所蔵されていたが、行方不明になった。後年、私の母が「照葉狂言(てるはきょうげん)」の直筆原稿を求めてK大学の図書館に照会したが、行方不明との回答で落胆したのを記憶している。

(しかし泉鏡花を知らない中国人の彼女には、これも全く無意味な説明でした)。

問題はこれからだ。K大学は英語教育や英米文学に力を入れ、第二次大戦当時も 教員や卒業生には親英親米派が多かった。つまり太平洋戦争に反対する人が多かった。 それにも拘わらず、米軍によって破壊され、その後の復興・修復にも米国は 支援しなかった。米国は自然災害であるT大学図書館の喪失の復興には協力したのに、 自らが破壊したK大学の復興は無視したのだ。もっとも失われた文献は 後から本屋で購入して補填できる性格のものではなかったようだが・・・・。

・・・・・・

その時に失われた図書館の時計には『Tempus Fugit』と書かれていたそうだ。K大学のOBの俳句に『降る雪や 三田山上 テンパスファージット』とあるのは失われた戦前の学生時代を懐古する意味が入っているのだ。 他の大学の図書館にも『Tempus fugit』を冠した時計を置くところがあるけど、皆それはK大学のエピゴーネンだよ」

俳句には若干興味がある彼女は「その俳句の意味は何か?」と尋ねるので、「『降る雪や』とは単に冬の季語だが、中村草田男の『降る雪や明治は遠くなりにけり』という有名な句が出現してから、静かに雪を見ながら昔を思い出す、懐旧の意味合いを持たせる事が多いみたいだね。

因みに、中村草田男はT大学の方だけどね。

日本の明治時代は、その文化という意味では関東大震災で終了したと言われている。 昭和6年に草田男がこの句を詠んだ時には、T大学の図書館が焼失して10年ほど経過しているから明治時代を懐かしむには適当な時期だ。

『降る雪や 三田山上 テンパスファージット』の方は、明らかに草田男の句を意識した一種の「本歌取り」だと思うよ。もっともその大学の卒業生にしか意味が判らないのが問題。失われた図書館の恨みがあるとまでは言わないが・・・・」

「ではオヒョウさんは俳句を作らないのですか?」

「たまに作りますよ。『降る雪や昭和も遠くなりにけり』なんてどうですか?」

彼女は無視して「米国はイラクの大学の復興に協力するでしょうか?」

「日本のK大学の例からみて、たぶんしないのでは?バグダッドカフェはともかく、バグダッド大学なるものがあるか無いか知らないが、あっても古代メソポタミアの文献や、アラビア語やペルシャ語で書かれたイスラムの教典ばかりでは、米国も協力のしようが無い。金なら出すかも知れないが、それもブッシュの事だから日本に肩代わりしろと言ってくるのではないか?」

この授業を最後に、中国語の家庭教師は出産休暇に入り、私の中国語の授業は終了しました。江蘇省では大晦日に雪が降り、私が中国で見る最初の雪となりました。

一方昆山市では、これまでのシャビィな図書館に代わり、街の中心に巨大なガラス張りの図書館を建設中です。中華人民共和国設立後の焚書坑儒で、今どれだけの書籍が中国の巷にあるかは知りません。でも解放政策の中で、海外の本もどんどん増えており、インターネットのお陰で種々の情報へのアクセスもかなり改善されました。新しい図書館の立派な器に多くの書籍が入り、充実した施設になる事を、異邦人の私も期待しています。

「降る雪や 書架に異国の 詩集あり」


【 橄欖倶楽部からOlive Clubへ 】 [中国]

10年ほど前に、江陰仮面さんに勧められて、CURURUというプロバイダーのブログを書いていました。CURURUはなくなり、そこに私が書き殴った100件以上の駄文は消滅しましたが、一部がCD-Rに記録されていました。そこで、その一部を、時々、再掲させて頂きます。

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古くからの「笑うオヒョウ」の読者で、それらの雑文をご記憶の方があれば、 その記憶力に感歎するばかりです。

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舞台は約10年前の中国です。時代の差をご了解の上、お読みください。また文中、下手な中国語が登場します。その誤りをご指摘いただければ、ありがたいと存じます。

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【橄欖倶楽部からOlive Clubへ】 

私が一時期勤めていたガラス会社の社長は実にユニークな人物でした。彼は板ガラス加工事業を始める前に、化粧品容器の製造を始めたのですが、高度成長の末期の頃、彼は、日本での化粧品需要の見通しを確認する為、ある定点観測を行っていました。

彼は、毎月、銀行の窓口のOLの顔を見て、化粧の濃さを調べていたのです。

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社長曰く、「水商売の女性は最初から化粧が濃いので、参考にならない。一番堅い職業である銀行のOLの化粧の濃さが変わって行く様子を追いかけたのだ。」

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なんでも、最初は口紅から、次に頬紅、最後の目の回り(アイシャドウ、アイブロウ、アイライナー、マスカラ等)という風に進んでいくのだそうです。その観察の結果、化粧品市場全体が大きく成長するであろう事と、目の回りの化粧品が特に伸びる事を確信して、社長は目の回りの化粧品に注力し、市場開拓に成功したのだとか・・。  恥ずかしながら私には、良く理解できませんでした。

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化粧の濃さは、経済成長のバロメーターにもなるそうです。堅気の女性にとって、かつては濃い化粧というのは、はしたないものでしたが、いつしか市民権を得て、普通の人の化粧もだんだん濃くなっていきました。(尤も、さすがに女子高校生が化粧するのは、ちょっと頂けませんが)。

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「濃い化粧を「はしたない」と思うか、「綺麗な事はいいことだ」と肯定的に解釈するかは、単なる美意識の問題だと考えるだろうが、そうではない。実はそれが、経済の豊かさとも結びついており、生活にゆとりができると、化粧により多くの手間とお金を掛けうる様になり、かつ世間の常識も濃い化粧に対して、寛容になるのだ・・・・」と、彼は説きます。従って、経済成長によって、庶民の暮らし向きが良くなれば、化粧も盛んになるのだ・・・という事です。

・・・・・・

高度成長期に、経済発展の度合いを測るバロメーターとしていろいろなものが登場しました。昭和30年代には、白物(紙や砂糖)の消費量を豊かさの尺度にするという乱暴な意見がありました。この根拠は、実に簡単で、アメリカや(一足先に復興していた)西ドイツが紙や砂糖を大量消費する社会だったからで、今だったら噴飯ものです。実際、米国やドイツのお菓子はひたすら甘いのです。

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一方では黒物(石炭)の消費量を豊かさの尺度にするという、絶望的にひどい意見もありました。→ これについては、別稿で申し上げます。

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しかし、化粧の濃さを尺度にするというのは初耳です。そのときは、フンフンと聞き流していたのですが、中国に来て、実に「なるほど」と感じた次第です。

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この2年半で、昆山の田舎にある、当社のOL達の化粧も次第に濃くなりました。濃くなったというより、しなかった人がする様になった、というべきです。最初、赴任した当初は、ほぼ全員がスッピンでしたが、今は薄いとはいえ、多くの人が化粧する様になり、化粧をしない人はあまりいません。なるほど、暮らしが豊かになると同時に化粧が始まったのか。田舎のおばさんだって、少しでも綺麗にしたいのは当然ですから。

・・・・・・

更に不思議な物を見つけました。会社の事務所のOL達に、無料で送られてくる

化粧品の通販雑誌ですが、題名は「橄欖倶楽部」。

olive.jpg

彼女たちは休憩時間に事務所でそれを眺めています。中には、日本の女優が登場し、日本風の化粧と日本の化粧品が紹介されています。日本の人達が化粧品といえば、欧米(特にフランスの)化粧品に憧れるのに、中国の人達は日本の化粧品に憧れるのです。当たり前といえば当たり前ですが不思議です。

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特に、上海の女性達の化粧は、日本の女性のそれに似ています。昆山の女性達の化粧は現時点では国籍不明ですが「橄欖倶楽部」のお陰で日本の流行に近づくのかも知れません。

・・・・・・

中国では、政府が、日本を貶したり、中国の日本に対する優位性を盛んに説いて国民に自尊心を植え付けようとしていますが、庶民は真実を知っており、どうしても西側の文物に憧れるのです。身近なところでは台湾製の品物に人気があり、その次が日本製となります。しかし、一般に日本製の品物は高価であり、台湾製で代用する訳です。欧州や米国の品物となると、現時点では縁遠い訳ですが、やがて彼らのあこがれもヨーロッパの化粧品に移るのでしょうね。

・・・・・・

ところで、その橄欖倶楽部の表紙が変わり、「Olive Club」になりました。別に意味に変化はありませんが、全体に西洋風にアカ抜けてきました。中国では、アルファベット表記は珍しいのですが、敢えて「橄欖倶楽部」という古風な表現(古風と思うのは私だけか?)を止めたのも、化粧品の普及、外国文化の解放、本物志向によるものなのでしょうか? 即ち、改革・解放経済の産物なのでしょうか?

・・・・・・

そこで私は考えました。Oliveなら、殆どの日本人が読めるし、意味も知っている。(中にはポパイのガールフレンドだと思う人もいるでしょうが)。だが、橄欖と書いて、その意味を知る人はいるだろうか?

・・・・・・

実はいました。旧制大阪高校の寮歌に「橄欖咲いて海青き・・・」で始まる有名な歌があります。だから、その後裔であると自認する大阪大学の学生や卒業生は恐らく知っている筈です。でもそれは、日本国民のごく一部です。(S友金属にはたくさんいますが・・・)。

・・・・・・

私は、中国人に対して、尊敬と軽蔑、親近と嫌悪の入り混じった複雑な思いを抱いています。 しかし、日本人には読めない様な漢字表現が、日常生活にさりげなく

登場すると、やはり中国文化は奥深く素晴らしいものだと感じるのです。

・・・・・・

ところで、くだんの社長は、もう一つ言っていました。

「化粧品は春先に多く売れる。一つの理由は、学校を卒業した若い女性が、社会人になる時に化粧を始めるからだが、それ以外にも理由がありそうだ。 春になると、気持ちが華やぎ、開放的になって、化粧したくなるのだろうか?実は、そこのところがよく分からない」

・・・・・・

そう言えば、確かに、昆山太平洋のOL達にも、そんなところがあります。でも、その辺は、私には全く見当がつきません。 そこで駄句を一句。

「春雨や蘇州の人の便りあり」


【 パナソニック遁走 その2 】 [中国]

【 パナソニック遁走 その2 】

2012年の大手町の定食屋の会話は続きます。

「オヒョウ君、そうすると、次にどんな事態が予想されるかね?」とY専務。

私が答える前に、専務は説明を開始します。

「中国に進出する企業には2つの目的がある。 安い労働力を駆使して安価に製品を製造することと、もう一つは莫大かつ将来性のある中国の国内市場に、国産品として製品を販売できるということだ」。

・・・・・・

最初は頼まれたから進出した松下電器だろうが、この2つの目的を達成して充分にその効果を享受したはずだ。しかし、時代は変わった。中国人の賃金水準は急速に上がっている。 低コストで生産するという魅力はどんどん薄れている。 一方で中国人の所得水準は上がり、購買力は増加しているから、中国市場の魅力はある。

しかし、今回のデモで日本製品の打ち壊しが行われ、日本製品の所有者が多大な被害にあっている。正しくは、日本ブランドの中国製品だがね。 だから日本製品の中国市場でのシェアは今後減るかも知れないし、中国はパナソニックにとって魅力ある存在ではなくなるだろう」。

・・・・・・

「そうなるとどうなるか? 現在経営再建途上にある日本のパナソニックが、中国から撤退するかも知れないということだ。 もはや中国との約束、鄧小平との約束にこだわる時代ではないからね。 今は円高だが、もし円安に戻れば、その動きが予想されるね」

・・・・・・

それから2年半後、パナソニックは海外生産している数十品目について、日本国内の

生産に戻すことを検討しているという報道が流れました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150107-00000027-xinhua-cn

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150109-00000057-rcdc-cn

http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%8c%e3%83%81%e3%83%a3%e3%82%a4%e3%83%8a%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%83%83%e3%83%88%e3%80%8d%e3%81%ab%e9%99%b0%e3%82%8a%ef%bc%81%ef%bc%9f-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%bc%81%e6%a5%ad%e3%81%ae%e3%80%8c%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e9%9b%a2%e3%82%8c%e3%83%a0%e3%83%bc%e3%83%89%e3%80%8d%e3%81%a7%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%80%8c%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e3%81%8c%e5%a4%b1%e6%a5%ad%e3%81%99%e3%82%8b%e3%80%8d%e3%81%ae%e5%a3%b0%e3%82%82%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e7%89%88%e3%83%84%e3%82%a4%e3%83%83%e3%82%bf%e3%83%bc/ar-BBhBGXS?ocid=iehp

中国のネット上では、パナソニックが中国を必要としていないことへの落胆と、中国の雇用が失われることへの失望のコメントが多く出されています。 中国では景気が減速し、大変な就職難なのです。

・・・・・・

Y専務の予測は当たったな・・と、オヒョウは考える反面、もうひとつのことを考えました。 前回、産業を興すのに必要なのは、お金と人と土地だと申し上げましたが、それは昭和の時代の話です。今はそれに加えて、独自の技術という項目があります。

・・・・・・

物に溢れ、工業製品の供給が飽和した今の時代、新しい産業を興すには、他にマネのできない技術、そして品質またはコストで他の追随を許さない差別化技術が必要です。 その多くは日本では知的財産権によって守られています。

しかし、中国ではそうではありません。

・・・・・・

中国では依然、工業製品の供給量は足りず、市場は飽和していません。だから差別化しなくても、安価でさえあれば売れます。そして知的財産権はあまり尊重されません。

・・・・・・

それなら、人と金と土地に加えて、独自の技術を持つ企業は、あえて3条件しか満たさなくても事業ができる中国で勝負する必要がありません。 知財が尊重されない国ではいろいろなリスクがあります。 もし低コスト生産だけを追求するなら、他の途上国の方が適当です。

・・・・・・

だから、パナソニックは中国を離れるのだ・・と私は思います。

鄧小平も松下幸之助も世を去り、中国は昔の貧しい国ではなく、松下電器は既に名前も変わってしまった。 それに、知的財産など産業成立の条件も変化してしまった。 だから昔の約束を解き、パナソニックは中国を去るのでしょう。

・・・・・・

「松下にとって、昭和は遠くなり、中国にとって20世紀は遠くなってしまった」。

雪の降りそうな日はそんなことを考えます。


【 パナソニック遁走 その1 】 [中国]

【 パナソニック遁走 その1 】

 

2012年のある日のことです。当時N商事に勤務していた私は西安の反日デモのさなか、逃げ帰る様に東京に戻り、その報告もかねて、Y専務の昼食のお伴をしていました。山手線のガード下の定食屋で、サバの味噌煮定食を突きながら、Y専務は、「オヒョウ君、今度の反日デモの意味が分かるかね?」という質問です。

・・・・・・

Y専務は、N製鉄におられた頃、中国宝山製鉄所とN製鉄の合弁企業の経営もされた方で、国際派が揃ったN商事でもきっての中国通です。

「オヒョウ君、今回の反日デモで特筆すべきことというのは、パナソニックの工場がデモ隊に襲われたことだよ。昔を知る人にとっては、まさか・・という思いだね」

・・・・・・

遠くを見つめるようにY専務は昔のことを話し出しました。

1978年、中国の指導者である鄧小平が来日し、冷静な目で日本と中国の経済格差、科学技術の格差を観察しました。 東海道新幹線に驚き、近代的な君津製鉄所に驚き、松下電器のカラーTV工場に驚いた彼は、「君津製鉄所と全く同じ製鉄所を中国にも作ってくれ」と要望しました。そして松下電器にも、「中国にカラーTVの工場を作ってくれ」と要望しました。

・・・・・・

新日鐵の発祥は、官営八幡製鉄所です。その建設資金には、日清戦争の結果、清国から得た賠償金があてられています。だからという訳ではありませんが、当時の製鉄会社の経営者は、知的財産とか、技術移転の是非などということは考えず、天下国家、世界の為にと考えて、上海郊外に宝山製鉄所を建設しました。

・・・・・・

一方、純然たる民間企業である松下電器の松下幸之助翁も、鄧小平という一国の指導者からの要請なら受けるべき・・と考え、中国進出を決めました。しかし、松下翁は意気に感じて決定した訳でなく、冷徹な計算をした上で進出を決めたのです。

・・・・・・

私が子供の頃、一つの事業を興すには、3つの要素が不可欠と言われました。

それは、人と金と土地です。どんなに素晴らしいビジネスモデルで、どんなに社会のニーズに応える事業であっても、それを実行する優秀な人材がいなければ話になりません。 また工場を建設するには、広い土地が必要です。 そして設備投資と運転資金となる金が必要です。 そのどれか一つが欠けても、事業は成功しません。

・・・・・・

大人になってから、私は多くの工場に勤務しましたが、基本的には広い平坦な敷地に工場はありました。例外的に、山の斜面、しかも大変な豪雪地帯にあった工場がありましたが、果たして、事業はあまりうまくいっていませんでした。

松下電器は日本各地そして世界各地に工場を持ちましたが、松下翁は、必ず3条件が揃った場所に工場を建設し、そうでない場所には建てていません。 ちなみに松下幸之助は自分の出身地である和歌山県には工場を建てませんでした。 その理由は和歌山製鉄所を持つ製鉄会社に勤務した私にはよく分かります。

・・・・・・

脱線しましたが、松下翁は中国に進出するにあたって、その3条件が揃っているかを調査し、決定的に問題があることに気づきました。それは人であり、その背後にある政治体制です。 日本の様に、勤勉で学力があり、かつ等質な能力を持った人材が揃う訳ではありません。学習すべき青少年時代に、文化大革命に明け暮れ、学力は低いうえ、勤労者としてのモラールにも不安もありました。 その中で、松下翁が進出を決めたのは、鄧小平という政治指導者の裏書があったからです。

・・・・・・

何かあれば、例えば、暴動とか、政治的に不安定な状態になった時どうすればいいのか? インフラが整備されていない点は、松下がお金を出して整備すればいいだけです。 土地は中国政府が用意します。 しかし人の問題と政治不安をどう考えればいいのか? 松下電器は、中国政府の保証の元に中国に進出しました。

・・・・・・

実は、デモ隊というのは、無分別に無作為に暴れる訳ではありません。 これは古今東西、同じです。 私の母方の先祖は、江戸時代、飛騨天領の地役人でした。天領でも飢饉はあり、農民一揆は起こります。 高山の市街に農民一揆の勢力が押し寄せ、武家をかたっぱしから襲い、略奪した時、オヒョウの先祖の家の前にも現れました。

しかし、デモ隊の首領は、「この家はこれだけでいいんだ」と言って、門柱に鳶口をガツンとぶつけて疵をつけ、門の中には入らずに、次の家に行ったとのこと。

・・・・・・

それは、オヒョウの先祖の地役人が、普段から農民寄りの立場を取り、郡代以下の飛

騨の官僚の中では、理解のある人物として認識されていたからだそうです。

その疵のついた門柱は、明治時代に先祖が高山を離れるまで残っていたそうです。

・・・・・・

話が脱線しましたが、中国の場合も、デモは統率されています。紅衛兵のデモだって、21世紀の反日デモだって、中国のデモは全て官製のデモであり、政府が保証しその庇護下にある工場は襲われないのです。実際、その10年前の江沢民時代の反日デモでは松下電器の工場は襲われていません。

・・・・・・

「だから松下電器は他の日本の企業と違って、中国にとっては特別の存在なのだよ。それなのに、今回はパナソニックの工場がデモ隊に襲われた。この事の意味が分かるかね?」とY専務は、食後のコーヒーを飲みながら尋ねます。

「鄧小平の神通力というか、御威光が薄れたということでしょうか?」とオヒョウ。

「無論、それもあるだろうが、それだけではない」と専務。

・・・・・・

中国人も、中国政府もすべからくプラグマティストです。自分に必要な物は大切にし、不要なものは、すぐに捨てられます。 つまり、松下電器の工場は中国にとって不要な存在になったから、デモ隊の襲撃の対象になったということです。

・・・・・・

鄧小平が来日した頃、中国は日本の近代的な情報家電の工場と技術を渇望していました。今は違います。家電製品はコモディティ化し、高い技術が無くても、土地と未熟練の労働力があれば製造できます。 だからもはや松下電器は不要なのです。

私が中国にいた10年前、チンタオ(青島)のハイアールの大きな工場を見て驚きました。 昆山ではフォックスコンの巨大なパソコン工場が稼働していました。もはや、日本資本と日本の技術による工場は必要ないのか?と私は思いました。

・・・・・・

その頃、私のアパートの部屋のエアコンは、中国の松下電器製でした。ソンシャーと言えば、一流ブランドとして通用したのです。 しかし今、中国は自国製品の品質についても自信を持ち始めました。 実際には本当の品質より自尊心の方が先行していますが・・・。

・・・・・・

そしてもう一つは、世代交代です。中国政府も松下電器への裏書き保証を無くしてもいい頃だと思ったのかも知れません。

鄧小平の来日から11年後の1989年に松下幸之助は世を去りました。

そしてその2カ月後に北京では天安門事件が発生しました。文化大革命以降、中国で初めて政府がコントロールできないデモが発生したのです。

・・・・・・

天安門事件で中国と外国の関係は一斉に冷え込みましたが、既に中国松下電器は地元に根付いており、動揺は無かったはずです。

しかし、日本の松下電器産業の方が大きく変化しました。松下幸之助から直接の薫陶を受けた世代が、経営の第一線から引退しました。 そして経営危機に陥り、松下翁が嫌った首切りを断行し、社名から松下の名前を消してパナソニックになってしまいました。

・・・・・・

中国政府から見れば、もはや松下電器は変貌し、果たすべき義理も何も無い・・と考えても不思議はありません。

以下 次号


【 ある日の京成スカイライナー 】 [中国]

【 ある日の京成スカイライナー 】

 

先月末のことです。私は成田空港から日暮里に向かう京成スカイライナーに乗ろうとしていました。発車まで時間がなく、あわててエスカレーターを降りようとした時、30代と思われる男性とぶつかりそうになりました。彼はとっさに体を引いて私に道を譲りました。

お礼を言う余裕もなく、私はホームに入ってきた電車に飛び乗りました。

・・・・・・

電車が滑り出し、やがてトンネルから地上区間に出た頃です。窓の外には、成田市の秋の風景が広がっていました。通路を挟んだ反対側の席に中国人一家と思われる4人が着席しました。

「パパ、ここが空いているよ。座ろうよ」と子供の声が聞こえます。それは中国語(北京語)です。ふと見ると、その父親は、先ほどエスカレーターでぶつかりそうになった男性です。

・・・・・・

私は嫌な予感がしました。「この一家は日本に着いたばかりだろう。空港から東京行きの電車ということで、この電車に飛び乗ったのだろうが、スカイライナーは特急券が必要で、しかも全車指定席だ。彼らはそれを知らずに乗ったとして、必ずやってくる車掌の車内検札で、特急券を買わされることになる。でも、かっての分からない中国人は追加料金の徴収を理解できずに、車掌と揉めるかも知れない。 トラブルになったら気の毒だな。日本の印象も悪くなるだろう。 車掌が来る前に、僕が説明してあげようかな・・。でも僕の拙い中国語ではうまく説明できないし、トラブルに巻き込まれるのも嫌だな・・。さてどうしたものか」 と私はちょっと悩みました。

・・・・・・

やがて、車掌が現れ「切符を拝見」と言って、接近しました。

その時、くだんの中国人男性は、すばらしい日本語でこう言いました。

「すみません。 あわてて電車に乗ったので特急券を買う余裕がありませんでした。ここで買えますか? それからこの席に座っていていいですか?」

それを聞いた日本人の車掌は何と、こう答えました。

「没問題! (メイウェンティ)=構いませんよ」

そして手元の端末器で特急券を印刷して手渡し、料金を受け取りました。

・・・・・・

すると、切符とお釣りを受け取ったお客の男性は、今度はこう言いました。

「どうもありがとう」 私はだんだん混乱してきました。

私の知る中国の人は、サービスする事が当然の立場にある人(例えば、店員とかホテルのボーイとか、レストランのウェイトレス)に、チップを渡すことはあっても、丁寧にお礼を言うことはあまりありません。 なぜなら、サービス自体が彼らの本来の仕事だと考えているからだと思います。 お礼の言葉を言うのは、日本に留学して日本流のマナーを身に着けた人ぐらいです。 

しかし、彼はお礼の言葉を、日本語で言ったのです。

・・・・・・

すると、今度は車掌が、「不客気!(ブカチ)=どういたしまして」と話し、次の席に移っていきました。

・・・・・・

私は、ある意味で少し落ち込みました。

私より上手な日本語を話す中国人、私より上手な中国語で応対するスカイライナーの車掌、中国ではあまり見かけなかった上品なマナー、・・・どれも全く意外です。

・・・・・・

私は、中国に対してであれ、韓国に対してであれ、相手をあまり知りもしないで、決めつけたり、色眼鏡で見る人々を苦々しく思っています。 民主主義が未発達な国では、政府の姿勢と国民の意識や感情に、しばしば乖離がある訳で、政府が反日でも、一般国民が反日とは限りません。生き方も考え方も人によって千差万別です。

・・・・・・

だから、私は外国の人のことを考える時は、先入観無しで接しようと思っています。

しかし、そういう私も、何時の間にか、中国人とはこういうものだ・・とステロタイプをイメージしていたようです。そして、電車の車掌さんについても、中国語を話す人はいないだろう・・と根拠なくイメージしていたのです。恥ずべきことです。

・・・・・・

50代の後半に至ってなお、意外な場面に接して、驚き、考えを改めるというのは、喜ぶべき経験と言うべきか、それとも反省し恥じるべきことなのか・・。

だんだん近づいて来る、スカイツリーの姿を見ながら、オヒョウはそんなことを考えました。


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