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【 8月5日 宮島一日行 その3 】 [広島]

【 85日 宮島一日行 その3 】

 

豊国神社の巨大な建物の中にいると、秀吉の権力の大きさに思いが至ります。敢えて厳島神社を見下ろす場所に建立し、桧皮葺の代わりに金箔を押した屋根瓦を配した構造は、平清盛に対抗しようとしたかのようです。摂政関白と位人臣を極め、それでもなお、清盛には辿りつけないコンプレックスを彼は感じていたに違いありません。

皇室の外戚となれなかったことか、貧農の出身であったためか、そこは分かりません。

いずれにしても、晩年の秀吉の焦りがこの建築を建てさせたのでしょう。

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「それにしても、太い柱ですね。どこでこの材木を手にいれ、どうやって丘の上まで運んだのでしょうか?」 こんなに太い柱を見るのは、吉野の蔵王堂以来ですが、あそこは山の中ですから巨木も調達も可能だったでしょう。 しかし、この宮島では?・・・。

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「それと古い釘がありますね」 殆どの釘は隠してありますが、一部が露出しています。

「よく錆びずに残っていますが、私はもっと古い釘を持っていますよ。紀元1世紀の釘です」 「えっ?本当ですか?」とAさん。

「本当です。但し、日本の釘ではありません。今度機会があればお目にかけましょう」

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晩年の秀吉の老いと焦り、その近くにいた光成や、その盟友だった大谷吉継の話などをしながら、私達は、再び丘を下り、茶店でカキ氷を食べて一服しました。

ここにもたくさんの外国人がいます。 立っている男性に「トイレの順番を待っているのですか?」と尋ねると困惑した顔で返答します。その返事は広東語と思われますが、意味は分かりません。 どうしてこんなに外国人が多いのだ?

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我々は波止場に戻り、停めてあった車に乗り込みます。まだ4時前です。「やっぱり宮島を一回りしたいですね。 先ほどと逆の方向に行ってみましょう」。

私は、厳島神社から戻る観光客の群れと、頻繁に現れる鹿を避けながら、車を西に走らせました。

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道は細く、右側は切れ落ちた断崖でその下は海です。 「うーむ車がすれ違うこともできない」 どういうことだ?

観光みかん園を過ぎると、原生林のおもむきで、道路の両側はシダ植物が覆っています。 なんだかジュラシックパークみたいです。 後から来る車も対向車も無い中を走っていると、前方から学生さんらしき人が運転する小型車が現れ、かろうじてすれちがいます。

 

「オヒョウさん、どうやら、島を一周する道路は無いみたいですね。引き返すしかないでしょう」 しかし引き返そうにもUターンできる場所がありません。

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やがて、道路は終点になり、広島大学農学部の施設が現れました。そこから奥は演習林のようです。やはり宮島を一周することはできませんでした。

弥山を含む宮島全体が御神体だと考えれば、周囲の森林は原生林のままで当然です。大学の研究施設としては最適でしょう。

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そこで我々はやっとUターンして、波止場への道を戻りました。 あさってKさんに会えば、きっと言われるだろうなぁ・・・。

「えっ?知らなかったのですか? そうなんですよ。宮島には一周する道路が無いのです」

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帰りの船の中で考えます。 「今回は紅葉谷公園などを見る事はできなかったが、次回は紅葉の季節に来よう。だって『秋の宮島』と言うもの」と下手な駄洒落を口にします。 その私の隣に立っているのは国籍不明の青年です。 それにしてもどうして外国人が多いのかな?

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その翌日、86日、私はTVを見ていました。広島の平和公園では原爆71周年の追悼の儀式が行われています。 アナウンサーが「例年、外国からも多くの方が祈りに来られていますが、今年は特に多いようです。今年広島を訪問したオバマ大統領の影響でしょうか?」と語り、主に外国人が座る席を写します。

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ガツンと殴られたような気がしました。 「そうか、昨日、炎天下の宮島を訪れていた外国人には、今日の平和公園での式典に参加するために来ていた人も多いのか。ただの観光客ではなかったのか・・」

 

今から何百年も後の時代、厳島神社と原爆ドーム、どちらがより有名な存在になっているだろうか? 私はTVを見ながらそんな事を考えました。


【 8月5日 宮島一日行 その2 】 [広島]

【 85日 宮島一日行 その2 】

 

浅瀬の中に涼しげに浮かぶ厳島神社を後にして、我々は長い砂嘴を歩いて平清盛神社に着きました。源平の戦いのエピソードの中ではどちらかというと、後白河上皇につぐ悪役として語られ、娘を天皇のお妃に送り込んで外戚となり、国政を壟断し、しかも日没を妨げるという天をも恐れぬ不遜の行い・・・となっていますが、安芸の国に暮らすと彼の偉業が目に付きます。清盛は、本当は偉大な人物だったのだ・・・。

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昭和20年代に建立された清盛神社は、ささやかで質素な神社です。「なんだ、意外に新しいのだな」そう思いながら、少しおなかがすいたことに気付きました。観光客相手のレストランはたくさんあります。さて、どこに入ろうか? やはり宮島の事情に通じているFさんかKさんにご一緒願うべきだった。彼らならおいしいお勧めのお店を知っているはずだ・・。 でもこの炎天下に一緒に来てくれとは頼めないなぁ。 そこで目に付いた清盛神社の隣にある食堂に入ります。 まだ12時前です。

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Aさんは宮島名物のアナゴ丼を注文し、私はそばを注文しました。食事の話題は源平時代の話です。 私は「平家物語」こそ日本最高、いや世界にも類の少ない一大叙事詩だと思います。 これは単なる戦記文学ではありません。

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王朝文化の雅、武家の戦争の非情と悲惨、全編を貫くバックボーンである仏教のものの哀れや無常観が壮大で膨大なストーリーの中に貫かれています。 そして厳島神社こそが平家物語を象徴する場所だ・・と、私はおそばを口に入れながら平家物語賛歌を力説します。 無論A部長にも異論はないようです。

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食事を終えると、我々は丘の中腹にある多宝塔に向かいましが、木立に隠れて場所がよく分かりません。 ふと道の横の塀の隙間を見ると、よく手入れされた日本庭園が見えます。別に覗き見をする趣味はないのですが、どんなお屋敷なのだろう・・と玄関に回ると、宮島歴史民俗学資料館とあります。 興味が半分と、残り半分は冷房を求める思いで入ってみると、落ち着いた佇まいの邸宅で、かつての豪商のお屋敷のあとだそうです。 そう言えば、大崎下島の御手洗集落にも旧家を利用した資料館がありました。

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中に入ってみると、厳島神社に関する資料・展示物も多く、手入れされた庭も見事です。 平家に関する資料・展示物だけでなく、毛利氏と陶氏の厳島の戦いについての説明も充実しています。 説明によれば、戦をするにしても、厳島神社の境内は戦闘区域から外したとのこと。 なるほど天晴れ・・というか、あの時代にも太平洋戦争時のウォーナー博士のような文化財保護論者がいたのかな? それとも中世の時代は、社寺仏閣は戦場から除外するのが一般的だったのかな?その辺りをちょっと突っ込みたくなります。

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そして面白いことが一つあります。展示内容には、NHKの大河ドラマから引用した資料や絵が多くあるのですが、その昔の仲代達也主演の「新平家物語」のものばかり、松山某が主演した「清盛」のものは全くありません。 考えてみれば当たり前でしょう。

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平家物語を彩る王朝文化の雅さは、後者のドラマには全くありませんでした。中世は恐らく不衛生で埃っぽかっただろうという、漠然としたイメージに基づいて、コーンスターチの粉をまぶし、顔を垢黒い色に化粧したドラマは、厳島神社の説明には全くそぐわないでしょう。 あのドラマの演出家は「汚し」に奇妙なこだわりを持つ人物で、その演出が批判されると、TVのインタビューに答えて「『汚し』に生き甲斐を感じています。

これからも『汚し甲斐』がある場面が続くので、どんどん汚くしていきますよ」と笑っていました。 たしかに清盛個人を描くならそれもいいけれど、「平家物語」の美を語るにはふさわしくない演出だったなぁ・・と、消えていった松山某という俳優を思い出しながら考えます。

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資料館を出て、多宝塔を見学し、宝物館に入ります。ここにも見事な備前の名刀などが並んでいます。昔の能装束、古備前の壺などもあります。 鎧兜、金覆輪の鞍なんてものもあります。まさしく平家物語の世界です。 そしてここにも外国人観光客が多くいます。 日本刀や鎧兜などは面白いかも知れません。

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宝物館を出たところで小さな金比羅様を見つけました。瀬戸内の島々には、海の神様である金比羅様が必ずあるはずだ・・・と思っていたのですが、この島には見当たらず、不思議に思っていたのです。 既に厳島神社があるから要らないのでは?と思う反面、いやきっと多くの神社やお寺に混じってどこかにあるはずだ・・・と思ったのです。

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宝物館を見た後は、厳島神社からも見上げた、豊国神社へ向かいます。ここには千畳敷きと言われる巨大な本堂と五重塔があります。千畳敷きの方は、建造中に秀吉が他界したため、作りかけで放置されたそうですが、塗装されない素木の柱と床、天井の無い構造は、開放感があってかえって素敵です。 吹き抜ける海からの風は、安芸の風ではなく、遠く周防の国から吹いているようです。

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眼下には、厳島神社の寝殿造りの社が見下ろせますが、今は干潮の時間帯であるため、先ほどの海面が干潟になっています。目の前には、独特の斉一性の美を誇る五重塔です。

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エアコンではない、天然の風を受けながら、再び私は饒舌になります。

「(法隆寺の)五重塔と(薬師寺の)三重塔ではどちらの方が美しいと思いますか?」

それから、議論は見下ろしている厳島神社の社殿の話に移ります。

Aさんが「海上に寝殿造りの社を建立しようと考えた清盛の発想は素晴らしい」と言うので、

私は「寝殿造りの建築はいいですね。僕は、宇治の平等院も大好きですし、奥州の毛越寺も大好きです」

Aさんは「毛越寺は、庭園は素晴らしいけれど、建築は殆ど残っていないし、寝殿造りというのは、不正確では?」

そこは確かに私の勇み足ですが、私が考えたのは左右対称に建築を配し、それらを回廊で結ぶ構造のことです。左右対称形で翼楼と呼ばれる構造を張り出した点は、毛越寺も同じで、毛越寺も、平等院鳳凰堂も、厳島神社も寝殿造りと言えるのではないか? ・・・私はそう言いたかったのですが、いかんせん、建築が残っていない毛越寺でそれを主張するのは、ちょっと無理です。

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日本の寝殿造りでは建築は幾何学的な対称形なのに、池などの庭園はそうではありません。 庭全体にも幾何学的な斉一さを求める西洋の宮殿とは明らかに違います。

厳島神社の場合、池の代わりに海岸があるのですが、潮の干満でその形は時々刻々変化し、趣も千変万化です。 清盛がそこまで計算したのなら、本当に優れたデザイナーです。

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「日本の庭園の池が複雑な形状になり、いわゆる『心字池』として評価されるようになったのは、もっと後の時代でしょう」とAさん。

「たしかにその通りでしょうが、日本の庭園はもっと早くから自然との調和を志向していたはずで、厳島神社の境内はその証拠ですね」

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四方が開放された大空間は、素晴らしい眺望とともに、涼しい風を提供します。 吹いてくる風は、安芸の風ではなく、海路を挟んだ西の陸地からの風のようです。

 

歩み来て 周防の風に涼みおり

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【 8月5日 宮島一日行 その1 】 [広島]

【 85日 宮島一日行 その1 】

ある日、ふっと「宮島へ行こうかな」と思い立ちました。そこで、以前私の上司だったW専務が、会社を辞める前、広島の生活の記念に宮島観光に行かれた事を思い出しました。W専務にとって、宮島は漱石の「倫敦塔」なのかも知れません。

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ご承知の方も多いでしょうが、漱石はその作品「倫敦塔」の中で、「ロンドンに滞在する者は記念に一度ロンドン塔を訪ねるがよい。しかし、一度きりで二度行くべきではない」という趣旨の事を語っています。事実、彼は2年間のロンドン滞在中、一度しかロンドン塔を訪れていません。 その地を離れる前に訪ねる場所というものあるなら、ある人にはそれがロンドン塔であり、ある人にはそれが宮島なのかも知れない・・・。ちなみに私はロンドン塔を複数回訪ねています。

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そして、なんとなく私も宮島に行きたくなった訳ですが、顔をあげると、目の前にA部長の顔が見えます。そう言えば、彼も宮島を訪問したいと言っておられました。「Aさん、突然ですが、明日の休日、宮島にご一緒しませんか?」と尋ねると二つ返事でOKです。

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去年、一緒にスナメリを見にいったKさんとFさんにも声をかけますが、こちらの二人は先約があったりして、明日は一緒に行けないとの返事です。しかし、それは禍根となりました(後でわかったことですが)。

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そして翌朝、呉から宮島までのドライブは快適です。Aさんとは、これから当社はどちらの方向に経営を進めるべきか、問題は何か、そしてその為に我々は何をすべきか・・という話題でひたすら盛り上がります。 うーむ、私は、もっぱら下品な話とくだらない話が好きなのですが、Aさんと話すとどうしても硬い話になってしまいます。

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宮島口のフェリー乗り場に着くと、係員が、車を置いて人だけで宮島に渡るのか、それとも車ごとフェリーに乗るのか?と尋ねます。さてどうしたものか・・と一瞬迷いましたが、車ごと乗船することにしました。

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着いた先の宮島で、海岸線を一周してみたかったからです。この島はかなり大きく、歩いて一回りは無理だと思ったのです。少しの時間、瀬戸内海の潮風に吹かれて私たちは1030分、宮島に上陸しました。狭い波止場を出ると、私たちは敢えて厳島神社とは反対方向の左側に車を進めました。時計回りに島を一周しようと思ったからです。

しかし、海岸通りを走り、まだ誰も泳いでいない海水浴場の包ケ浦を過ぎると、道は細くなり行き止まりになっています。 「あれぇ? 宮島一周道路は無いのかな?」

しまった!やっぱり広島県の観光地に詳しいFさんを連れてくれば良かった!

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至る所に野生の鹿が歩いている道路を我々は波止場まで引き返し、今度は厳島神社の方角に向かいました。神社の近くの駐車場に車を停めるためです。しかし、道路は観光客と鹿でごったがえしています。おしゃもじとアナゴ丼の看板が並ぶお土産物店が軒を並べる狭い街には、駐車場はほとんどありません。 神社の前まで行ってから、やむを得ず引き返します。大勢の観光客、そして鹿が歩く小路を、車で引き返すのは、どうにも、バツの悪く肩身の狭いことです。外気温は既に30℃を超え、車椅子の人も炎天下の中を神社の方角に進んでいます。 それなのに嵩張る自動車で邪魔をし、エアコンの利いた社内にいる事が、ちょっと恥ずかしくも思われます。

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結局たどり着いたのは、先ほどフェリーを下船した波止場の駐車場です。「なんだ、最初からこの港に車を置いて、歩けば良かった」

そこから私たちは、今戻ってきた道を歩いて引き返し、今日一番の目的である、厳島神社に入りました。

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美しい朱塗りの柱、白壁、上品な檜皮葺の屋根、借景となる背後の弥山の緑、そして海の青色。 実にバランスが取れていて、落ち着いた美しさです。噂には聞いていましたが、さすが日本三景のひとつだけあります。

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特に海面上に連なる回廊、舞楽の舞台、能舞台は見事です。海上に置くことで、開放感と涼感を醸し出し、通常の陸上の建築物とは全く違う風景を創出しています。これが全て平清盛のアイデアだとすれば大変なことで、彼はただの権力者ではなかったのだ・・と気づきます。

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それにしても、観光客には多くの外国人がいます。日本人以上に多いようです。宮島/厳島神社は、学校の修学旅行の定番でもあり、春や秋は高校生や中学生が多いそうですが、今は夏休みでいません。その代わりにおびただしい数の外国人です。

そういえば、岩国の海兵隊基地にいる米兵とその家族は宮島をしばしば訪れると聞きますが、聞こえてくるのは英語だけではありません。英語はむしろ少数派で、フランス語、イタリア語、ロシア語、北京語や広東語も聞こえます。まるでヒースロー空港のターミナルみたいです。聞こえないのはドイツ語と韓国語ぐらいです。岩国の米軍人だけではありません。 いえ、もちろん、私はそれらの外国語を解する訳ではありません。でも何語かぐらいは分かるのです。

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「でも、どうしてこんなに外国人が多いのかなぁ?」

海外に日本を紹介するポスターやパンフレットには、必ず、富士山や浅草の浅草寺、京都の金閣寺などと並んで、海上に屹立する厳島神社の朱色の大鳥居の写真があります。やはり、安芸の宮島は外国人観光客に最も知られた観光地なのでしょう。

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本殿に続く回廊で、フランス語でささやくカップルを見ると、「ここはパリのボンヌフ橋か?」と錯覚する・・こともないのですが、不思議な感覚です。カップルの反対側には、おみくじやお守りが並ぶ売店があります。「何か、お土産物を・・」と見渡すと、細身の便箋が目に留まります。 ちょっと懐かしい思いがします。

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随分前ですが、短冊状の縦書きの便箋に手書きの手紙を時々もらったことがあります。典型的な理科系の人ですが、敢えてプライベートではインターネットもパソコンも電子メールも使わない人です。 美しい手書きの手紙をいただきました。

その方からは私のプログに登場する許可は得ていないので、これ以上は説明できません。

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それはともかく、郵便で頂いた手紙には、やはり手書きの手紙でお返事を出すべきだ・・・と私は考えました。そこで私も便箋に返事を書こうとしたのですが、いかんせん、小学生も呆れるような金釘流の悪筆です。 悪戦苦闘しながら、毎回自己嫌悪に陥りました。

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最近では、私からお便りを出す場合は、ほとんど電子メールです。紙の手紙でもワープロで作成しプリントアウトして送っています。しかし、それでは風情が無い。私も短冊状の便箋に手紙をしたためてみたいな・・。 ふとそんな思いに駆られ、私はお土産として厳島神社の便箋を買い求めました。でも考えてみたら、もう書く相手もいないのですが・・。

夏便箋 書くあてもなく 求めけり

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高舞台を過ぎて、先を望めば、能舞台が見えます。そちらは朱塗りではなく素木の造りです。 朱塗りと素木の建築が混じるのは鹿島神宮と同じですが、それはそれで調和が取れています。 そういえば、A部長は一度、能を見てみたいと言われています。

毎年、冬には厳島神社の薪能が予定されていますから、その時また来ようかな・・と思いながら、厳島神社を後にして、我々は砂洲の先にある清盛神社に向かいました。

それにしても、どうしてこんなに外国人が多いのかな?

以下 次号


【 ピエール・ロティと芥川龍之介 】 [広島]

【 ピエール・ロティと芥川龍之介 】

 

先日、呉の座禅道場に遅れて駆けつけたところ、玄関でまず俳句を書けと、促されました。単なる宴会ではなく、俳句の句会も兼ねていた事は知っていましたから、いずれ俳句は作らなければ・・と思っていたのですが、まだ作っていませんでした。

そこで咄嗟に浮かんだ駄句を書き込みました。慌てたので、その直前まで頭の中で考えていた事を盛り込みました。

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我が駄句を、そのままここに紹介するのも厚顔の極みですが、恥を忍んで書きます。

 

「 漆黒に 汝(な)がVie(ヴィ)の如く 花火降る 」

 

Vieは、フランス語で人生の意味ですが、俳句の文句にフランス語の単語を入れるのは、かなり気障ではないか・・・と自分でも思います。では、なぜそんな気障な言葉を使ったかと言えば、その直前まで、芥川龍之介の「舞踏会」のことを考えていたからです。

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芥川龍之介の「舞踏会」は、フランス海軍の士官だったピエール・ロティが書いた小説「お菊さん」を元に、そのモデルとなった老婦人との会話を書いた短編小説です。

作品「お菊さん」自体は、エキゾチックな存在と思われた鹿鳴館時代の日本人女性をロマンチックに紹介するだけの駄作と言うべき小説だったようです。(私はあらすじだけを知っており、本文は読んでいません。・・・フランス語を読めないので)。

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西洋人の青年と、アジア人の女性が恋に落ち、やがて男性が去って女性が残されるというパターンは、よくあります。 私はこれを「蝶々夫人型」と呼びますが、「ミス・サイゴン」も映画「慕情」も皆このパターンです。ピエール・ロティの「お菊さん」も典型的な蝶々夫人型作品です。

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面白いのは、芥川龍之介がこの作品を研究し、そのモデルとなったH夫人へのインタビューを小説にしている事です。小説ですから、本当にH夫人に面会したかは不明です。

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そして、その「舞踏会」に、フランス人将校と日本人女性(明子)が、舞踏会場の外に出て、夜空に上がる花火を眺める場面があります(以下、青空文庫から引用)。

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 その時露台に集つてゐた人々の間には、又一しきり風のやうなざわめく音が起り出した。明子と海軍将校とは云ひ合せたやうに話をやめて、庭園の針葉樹を圧してゐる夜空の方へ眼をやつた。其処には丁度赤と青との花火が、蜘蛛手に闇を弾きながら、将に消えようとする所であつた。明子には何故かその花火が、殆悲しい気を起させる程それ程美しく思はれた。
「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生(ヴィ)のやうな花火の事を。」
 暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下しながら、教へるやうな調子でかう云つた。

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この中で、フランス人将校は人生(Vie)を花火に例えています。鹿鳴館に集い、ダンスに興じる人達も、一生を通じて華やかな生活が続く訳ではなく、若い男女がきらめいているのは、花火のごとくほんの一瞬です。そして日本の歴史を見ても、鹿鳴館を中心として、ヨーロッパ的な社交界が存在したのは、ほんの一時期です。

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その刹那の輝きを花火に例えたのは、多分ピエール・ロティではなく、芥川龍之介でしょう。 不思議なことに、芥川龍之介も菊池寛も、処女作は老人をテーマにした作品です。 自分自身が若い頃に、敢えて老人の視点を研究して小説を書いているのです。

そして芥川の場合、「舞踏会」でも、既に老境に達した女性が若き舞踏会の日々を回顧する形の小説にしています。 これも、よくあるパターンで、私は「舞踏会の手帖型」と名付けています(誰も支持してくれないけれど)。

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面白いのは、芥川の「舞踏会」を三島由紀夫が研究していることです。彼が指摘したことですが、芥川は、初版と後期の版で、小説の結末を変更しています。

最初の版では、H老婦人は、かつて自分がダンスの相手をしたフランス人青年がピエール・ロティその人であり、自分が「お菊さん」のモデルであることを知っていましたが、後の版では、それを知らないことになっています。

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これは芥川が推敲した結果の変更であり、私如きがコメントする事はできませんが、変更後の、老婦人がピエール・ロティと「お菊さん」を知らない結末の方が、小説として優れているように思えます。 三島由紀夫はどちらがいいとは書いていません。

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しかし、三島がこの作品をリスペクトしていたことは間違いなく、それに対する回答として、戯曲の名作「鹿鳴館」を書いたのだと・・私は思います。 ちなみに、芥川と同じ早熟の天才作家、三島由紀夫は16才で処女作「花盛りの森」を書いていますが、これは老人の視点で書いた作品ではありません。 芥川と三島の違いの一つです。

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そんな事を考えた直後に、俳句を書くよう迫られたので、私は思わず花火をVieに例えて表現しました。 「なんだ、芥川の小説からの盗用か・・・」と言われる前に、このブログで白状します。

本当なら、ピエール・ロティ=芥川龍之介=三島由紀夫と続く系譜の後にオヒョウも文学作品で表現できればいいのですが、そんな才能は全くありません。

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せめて、呉の花火大会を眺めて、また駄句でもひねりたいな・・と思うだけです。


【 毒ガス論 その2 】 [広島]

【 毒ガス論 その2 】

現在、国際的に大量破壊兵器とされるA(Atomic:核兵器),BBio:生物兵器),C(Chemical:化学兵器)の使用はタブーとされ、もし使用すれば厳しい制裁を受け、場合によっては同種のA,B,C兵器で報復を受けるので、使用をためらわざるを得ません。いわゆるモラトリアムです。

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しかし、比較的に安価で容易に製造できる化学兵器(毒ガス)については、「貧者の核兵器」と呼ばれるごとく、世界中で製造され、一部は使用されています。神奈川大学の常石敬一教授は、ホームセンターで売っている肥料や農薬から毒ガスが製造できるかのように言っていますが、それは言いすぎとしても、世界中のどこでも毒ガスが製造可能で、使われているのも事実です。

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例えば、シリアの内戦ではサリンや他の毒ガス(多分、タブン)が使用されています。使用したのはシリア政府軍で、被害者は反政府系の組織やクルド人の団体です。そこまで分かっていますが、ABC兵器の使用に対するペナルティは課されていません。

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使用される前に察知していた米国は「非人道的な大量破壊兵器が使用されるなら、アメリカも覚悟がある」と牽制しましたが、背後にロシアがいるシリア政府から警告は完全に無視され、結局毒ガスが使用された後も、米国は何もできないままです。

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大量破壊兵器の拡散と使用を防ぎたい、自称「世界の警察官」こと米国は、ガセネタに基づいてイラクに侵攻し、多くの悲劇を生み出しました。しかし、シリアで実際に使用された毒ガスについては何もできず、だんまりです。

毒ガス使用に対する懲罰として米国がこれ以上にシリア内戦に介入すれば、ベトナムと同様の泥沼が予想されるからです。オバマ大統領は、禁じ手である毒ガス兵器を使ったシリア政府に対して何もしなかったのです。

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これは、一部に間違ったメッセージを発信する結果になりました。 「アメリカは大量破壊兵器が使用されても、自国が襲われない限り、何もしない・・」。

アジアにある米国の同盟国に対して大量破壊兵器を使用しても、最後のところで米国は報復攻撃に出ないかもしれない・・という期待を、特定の国に抱かせた可能性があります。

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日本のようにアメリカの核の傘の下にいる国に対して核兵器を使用しても、米国は反撃しないかも知れない・・。 最近の中国や北朝鮮の傍若無人の振る舞いの背後には、その手の発想が透けて見えます。 米国が韓国にTHAADミサイルとレーダーの配備を迫ったり、副大統領が中国に、日本は一晩で核兵器を開発保有できる能力がある・・などと語った背後にも、なめられ始めた米国の威信があるのかも知れません。

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実際のところ、原爆や毒ガスなどの大量破壊兵器は本当に非人道的で禁止すべきものなのか? これについて、被爆国の日本では、議論の余地がありませんが、外国では議論されることがあります。

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通常兵器も大量破壊兵器も、最終目標は殺人です。人を殺す事自体が絶対悪なのだから、殺す手段によって良し悪しを決める・・ことに違和感を持つ人々がいます。

彼らの主張とは「同じように人を殺すのだから、小銃で一人ずつ30万人殺すのも、原爆で一瞬に数十万人殺すのも、一緒ではないか?」という意見です。

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ちなみに中国では南京大虐殺は原爆投下以上の残虐行為とされています。(原爆は日本の非道な行いに対する懲罰だから可とするという意見もあります)。

南京大虐殺では、ほんの12日間の間に、ほぼ3箇所の処刑場で、日本刀や小銃で実に30万人(一説では、一晩で1億人)が殺されたそうです。

もっともそれについて、私が納得する証拠は皆無ですが・・・。

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今回、バングラディシュのテロでは、人質がコーランを暗唱できるかを試し、非イスラム者と分かると、銃で撃ち、更に絶命する前に、手足を切断して失血死に追い込む残虐な殺し方をしています。それに対して、例えば神経ガスのVXで一瞬に死亡させる方がまだ人道的ではないか?と言われたらどう答えるか? 確かに、この意見には、否定できない部分があります。

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毒ガスが最初に使用されたのは、第一次世界大戦で、最初は塩素ガスだったそうです。 被害者の苦しみ方、後遺症のひどさなどから非人道的な兵器として禁止された訳ですが、まるでゲームのように戦争にルールを設けるというのは、当時、かすかに残存したヨーロッパ的な騎士道精神に基づくものだと思います。しかし、気取ったところで所詮殺し合いです。人道的な殺し方が無い以上、非人道的な殺し方も無いのです。

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日本で戦後最悪のテロとされるのは、オウム真理教による地下鉄サリン事件ですが、イスラム過激派が日本に潜入した場合、それを上回るテロ事件の発生が予想されます。彼らが使用する武器・凶器がなんであるかは分かりませんが、通常の銃や爆発物の他に化学兵器(つまり毒ガス)が使用される可能性は否定できません。

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日本がすべきことは、20世紀の戦争で、大陸の人々に与えた災禍への反省や謝罪と同時に、今後の日本への理不尽な大量破壊兵器の使用に備えることです。その多くはテロの形で行われるでしょうし、それを完全に防ぐことは不可能です。

悲しいことですが、対策は、大都市では毒ガスへの解毒剤を常備するぐらいしかありません。

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それ以外の有効な対策・・とは、憂鬱なことですが、大量破壊兵器特有のモラトリアムを最大限活用することです。すなわち、もし日本や日本人を対象としてテロを行い、しかも大量破壊兵器を使用するなら、憲法を停止してでも、報復攻撃を行う・・と宣言することです。 相手がISだろうが、アルカイダであろうが、はたまた北朝鮮であろうが、犯行国が判明したなら、相手の政権や国体、あるいは民族が存続できないような報復攻撃を行うぞ・・と脅すことです。

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かなり非現実的ですし、平和国家日本の理念に反することは明らかですが、毒ガスなどの化学兵器あるいは炭疽菌などの生物兵器のテロを抑止するにはそれしかありません。 米国もフランスも、トルコも、バングラディシュも「報復を前提としたモラトリアム」に成功していません。テロリスト達をためらわせるには、文明国とは思えないほどのエゲツナイ脅かしが必要だからです。かろうじて成功しているのは、ロシアと中国です。 それはそれで問題ですが・・・・

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大久野島の毒ガス生産の記録を、20世紀の汚点として紹介する記念館は、それはそれで有意義です。しかし、毒ガスが21世紀も使用され続けている現状を考えると、どうしたら日本がその被害に遭わずに済むか・・ということを考えさせる展示でなければ不完全です。

そこまで踏み込まなければ、大久野島はただの「ウサギの島」になってしまいます。


【 毒ガス論 その1 】 [広島]

【 毒ガス論 その1 】

 

毒ガス島変じて、ウサギの島となった大久野島には、毒ガス記念館なる建物があり、戦前に製造された毒ガスに関する資料などが展示されています。

 

しかし、そこには欠落した情報や誤謬というべき情報があります。

 

それらについて、係員に尋ねても、要領を得た回答はありません。まるで南京の大虐殺記念館の捏造資料に関する質問への中国人学芸員の回答のようです。

 

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まず第一番の疑問です。大久野島での毒ガス製造は、終戦を待たずに、太平洋戦争の途中で終了しています。それはなぜか? 説明には、通常兵器の製造に転換した・・とありますが、大久野島で通常の火薬(TNTや下瀬火薬等)が製造された記録はありません。また、効率的に人を殺傷できる毒ガスを途中で止めた理由がわかりません。取り扱いが難しいから?それとも非人道的すぎるから? まさか。

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そして、展示物にあの有名な写真を見つけた時、私は憂鬱になりました。

1939年の支那戦線の写真で、毒ガス作戦の写真だそうですが、遠くに真っ黒な煙がモクモクと幾筋も立ち上っています。これは、砲撃戦で相手の視界を遮るためにだした煙幕であり、毒ガスではありません。かつて朝日新聞が、日本が大陸の戦争で非人道的な大量殺戮兵器を使用した証拠として新聞に掲載したものですが、よほど毒ガスに無知な人が写真の採用を決定したのでしょう。たちまち、炎上し朝日新聞はその写真に付けた毒ガスという説明を撤回したはずですが、瀬戸内海の小さな資料館には残っていたのです。

管内撮影禁止なので、その時の写真はありませんが、下記のURLで紹介されています。

http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/asahi-hodo/gas.html

 

係りの人に、「毒ガスが煙モクモクなんて訳がないでしょう。毒ガスは、本来空気より重く、地表に垂れ込めます。その結果、塹壕や平地にいる兵士がやられるのです。色や臭いの付いたガスもありますが、相手に気付かれないため、無色無臭が良いとされます。真っ黒な煙が上空に立ち昇って何が毒ガスですか?バルサンジェットじゃあるまいし、これはただの煙幕でしょう」

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応対した係員は、困った様子で「確かに毒ガスは空気より比重が大きいはずですよね。この写真は間違っていますね。でも、申し訳ないけれど、私の立場ではどうしようもない。竹原市の町づくり推進課に言って貰えませんか?」

私もサラリーマンなので、彼の立場はよく分かります。その場で、間違っていると自分で理解できることでも、自分の立場ではどうしようもない・・という事がしばしばあります。

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しかし、この毒ガス資料館には他にも不可解な点が幾つかあります。展示には、中国東北地方で旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器に触れた地元の被害者の顔写真で展示されています。毒ガスが非人道的な兵器で、日本は過去に、かくも悪逆非道なことをしたのだよ・・という説明ですが、肝心な説明が欠落しています。

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問題が、日本軍が降伏して武装解除になった後に遺棄された兵器なのか、戦争継続中に地中に隠匿された兵器なのか・・という事です。前者であれば、武器兵器の管理義務はソ連軍または中国軍側に存在し、日本軍に責任はありません。後者であれば、日本が責任を負う形になります。 河野洋平らが中国と交わした協議では、その責任所在に触れず、遺棄された毒ガスの処理費用と被害者への賠償は日本が負担することになり、1兆円が支払われています。実際には毒ガス処理工場にそれだけの金額が必要とは思えません。多くは対日本向けの軍備拡張などに流用されているものと思われます。

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ソ連軍に降伏する土壇場のあわただしさの中で、多くの武器・兵器の中で毒ガスだけを地中深く埋めて秘匿するなどという余裕が日本軍にあったとは思えません。それに旧満州にいた日本軍(関東軍)の多くの武器は、武装解除後に接収され、朝鮮戦争で使用されています。どう考えても不可解ですが、そこに触れず日本が行った悪行として展示されていることに違和感を持つのです。

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いや、毒ガスを作り、所持した事自体が人道に反する・・というのなら、それも一理あります。それなら、今現在、毒ガスを盛んに製造し、所有し、使用している国や団体を責めるべきではないでしょうか? 70年以上前のことよりも、「今ここにある危機」について語るべきです。

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記念館だから、戦時中または戦前のことだけに焦点を絞るのは、ある意味当然ですが、この記念館を見学する子供たちにとって重要なのは、現在と未来の平和です。もし毒ガスについて語るのなら、今世界で起こっていることと、人々の考え方について説明すべきです。

 

それについては次号で管見を申し上げます。


【 大久野島とウォーターシップ・ダウン 】 [広島]

【 大久野島とウォーターシップ・ダウン 】

読者諸兄は、瀬戸内海に“ウサギの島”と呼ばれる小さな島があるのをご存知でしょうか? 広島県竹原市の忠海の沖合にある大久野島です。かつて第二次大戦前に毒ガスのイペリットを製造した島で、当時は軍事上の機密から地図に無い島と呼ばれたとのことです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E9%87%8E%E5%B3%B6

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戦後、進駐したオーストラリア軍によって、施設は解体・処分され、今はレンガ造りの廃墟というか残骸だけが残っていて、天空の城ラピュタを彷彿とさせます。 この島で製造された毒ガスは古典的なイペリット(マスタードガス)が主です。糜爛性の毒ガスであるイペリットの困った点は、適切な解毒剤や中和剤が無いことです。だから、この島には毒ガスの痕跡が残っているはずで、立ち入り制限区域もあります。対策として、地表下に厚さ3cmのカルキを敷き詰めた・・とのことですが、それで十分なのでしょうか?少し疑問ですが、しかし島の土壌が無毒化されたことを示す説得力のある証拠があります。

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それは島の至る所に棲息するアナウサギです。ヒトより毒ガスに弱く、ヒトより地表に近い位置で暮らし、ヒトより土に接しているウサギが、健康に暮らしている島なら、OKであると言えます。21世紀の大久野島は野生のウサギの島なのです。

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しかし、そのウサギが野生なのか、飼育されたものなのか?と言えば、野生とは言いがたい・・と言えます。もともと、ここのウサギは、戦後に人間が持ち込んだものが、野生化したものと言われますが、ウサギの食料事情を考えると、人間が飼育していると言うべきです。 この小さな島に700羽以上ものウサギを養えるだけの天然の植物があるとは思えません。 年間10万人の観光客が与える餌で生きていると考えるべきです。

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そしてもうひとつ、野ウサギと人間が、普通にスキンシップできるということが、普通の野生動物と違う点です。本来なら、野生のウサギには野兎病(そのまんまの名前です)に感染する危険があり、みだりに触れることはできません。これはウサギだけでなく、多くの齧歯目の野生動物について言えることです。

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そして日本ではその可能性は非常に低く、ウサギでの例も少ないのですが、狂犬病(恐水病)の可能性もあります。だから、本当の野ウサギにはみだりに触れてはいけないのですが、この島のウサギ達は安全です。小島という隔離された環境にあって、観光客などの外来者は犬や他の動物を持ち込まない等、管理が行き届いているから安全なのであって、どこでも実現する世界ではありません。 つまり換言すれば、この島のウサギ達は、管理されていて、野生ではない・・ということです。

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ところで、アナウサギなら、英国には普通にいます。特急列車がロンドンのビクトリア駅やパディントン駅に近づき、速度を落とすと、線路脇の土手にたくさんの巣穴があるのに気づきます。そして列車に驚かない野ウサギ達が顔を出しています。RabbitではなくHareです。そして、多くのウサギが登場する英国の寓話といえば、「ウォーターシップ・ダウンのウサギ達」です。ウサギを擬人化し、集団の中でのリーダーシップや確執、英雄の一生と死などを寓話的に示した作品です。

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この小説は、独特の宗教観があり単純な子供向けの童話とは言えないこと、動物の擬人化が中途半端で不自然なこと・・などが引っ掛かり、私にはしっくりときません。

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そして一番引っ掛かったのは、集団の中にリーダーとなるエリート階級が存在することです。 英国は厳然とした階級社会であり、リーダーシップを期待されるエリート階級が存在します。だからウサギの世界にもそれを持ち込んでいるのですが、どうもピンときません。確かに動物の中にもニホンザルのようにリーダーが存在する種がいますが、ウサギの場合は果たしてどうか?大久野島の大規模なウサギの集団を見る限り、リーダーも階層も無いように見えます。

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集団で暮らしていても、リーダーもいなければ序列や階級も無いという動物があります。 鳥類はだいたいそうで、南極のペンギンにも、渡り鳥の集団にも、リーダーはいません。その為にアナーキーで無秩序な社会ができるかというとそうではなく、夫婦=番(つがい)単位の平和で落ち着いた社会を維持しています。(もっとも、本当のところはペンギンにならなくては分かりませんが)。

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話が脱線しますが、鳥山明の漫画”Dr.スランプ”の舞台はペンギン村ですが、これは変なリーダーや支配者がいないという意味かな?なんて考えたことがあります。

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「ウォーターシップ・ダウンのウサギ達」は童話ではなく寓話(fable)ですから、人間社会を反映した寓意(allegory)があります。

強いリーダーに率いられた集団は、多くの危機に出くわし、苦難に遭遇し、裏切りや邂逅、和解を経験します。描写されるのは、不安の中でさまよう集団です。これは人間社会そのものです。特に、英国や欧州、北米に暮らす人たち全体に共通した世界です。

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そしてこれは、氏族(クラン)や、一族(キン)が「約束の土地」を求めて移動した古代や中世までの話か?と言えば、そうではなく、現代にも共通する世界です。

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今、英国に求められているのは、強烈なリーダーシップを発揮して、EU脱退後の英国の進むべき方向を明示してくれる首相です。しかし、今のところいません。 英国も米国も欧州各国もポピュリズムが流行ります。その根底には、一種の反知性主義とも言うべき思想があり、大衆受けのする過激で排他的な言説がもてはやされます。

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それでいいのか?と問えば、外国の事情を知る人、広い視野を持つ人は「否」と答えます。でも大衆民主主義では、被害者意識の強い大多数の庶民の意見が通ります。本当はポピュリズムではないリーダーシップが必要なのですが、それがありません。

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英国の政治家には、「ウォーターシップ・ダウンのウサギ達」の主人公のような、能力が求められるのに、実際には平和に暮らす大久野島のウサギ達のような人物しかいません。 本物のウサギはリーダーシップとは無縁で、臆病でひたすらおとなしいのです。

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おっと、考えてみたら、これは英国だけの問題ではありませんね。日本の政治家にも真のリーダーシップを持った人など、いないようです。 「ウォーターシップ・ダウンのウサギ達」以下の人々です。

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それはそれでいいのかも知れないけれど、日本には解決すべき問題がたくさんあります。 それで大丈夫なのかな?と思いながら、島を歩いていると、毒ガス資料館なるものを見つけました。早速入ってみます。

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そして、その展示物を見ると、内容がデタラメなのです。 「一体これは何だ?」

それについては、稿を改めてまた申し上げたいと思います。


【 布良(めら)星 】 [広島]

【 布良(めら)星 】

いささか古い話題ですが、読者諸兄は、先日、地球に大接近したスーパーマーズこと、火星をご覧になられたでしょうか?私は深夜、南の空にギラギラとオレンジ色に輝く明るい火星を見て強い印象を受けました。

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マイナス2等という桁外れの明るさは、明るい都会の空でもすぐに見つかりました。

すぐ下には夏の星座、さそり座があり、その「サソリの心臓」こと1等星アンタレスも近くに光っています。アンタレスは赤く鈍く光り、その名前の由来も「火星の敵」ですから火星と赤色を競う形です。それらの左上には土星が光っています。

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この3つの星を南天に見て、私はちょっとした感慨に浸りました。私の人生を振り返ると、何かの天体ショーを見たときに、人生の岐路を迎えるというか、いろいろの判断をしました。流星群の降る夜に最初の転職を決断した思い出があります。今回の火星を見ながら、「この次に自分に訪れる人生の転機とは何か?」ということを、夏の夜空の下で考えました。

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そして、「しまった布良星のことを忘れていた」と思い出しました。

実は、今暮らしている広島県呉市は、私がこれまで暮らした日本の土地の中で、最も南に位置します。そして南の土地で暮らすなら、見てみたい・・と思っていた星があるのです。それが布良星です。

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実は私が暮らした町に海外も含めると、中国の昆山は、呉よりもっと低緯度となるのですが、こちらはダメです。中国の空はいつも白っぽく霞んでいて、星を観察することはほとんど無理だったのです。

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布良星の布良とは、南房総の漁村の名前で、布良星とは、真冬の頃に、その町から南の海を見た時に、水平線近くの低い高度を飛んでいく、極めて明るい星のことです。天体の名前はカノープス。全天の星の中で、2番目に明るい星だそうです(太陽と月を除く)。

しかし、これは殆ど南半球の星で、東日本で見るのは難しい星です。前述の通り、わずかに冬に、水平線上に見える訳ですが、角度は56度と、波間に隠れる高さであり、天候次第では見る事ができません。

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沖合いに稀に見えるこの星を、漁村の人達は海で遭難した人々の魂が明るい星になって現れたと考え、祈りの対象にしたとのことです。

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その話を知って、私もこの明るい布良星を見たいと思いました。しかし、当時暮らしていた茨城県鹿嶋市では、緯度が高くて見えません。第一、鹿島の海は南を向いていません。 ・・・いつかもっと南の海岸に暮らすことになった時、この布良星を見てみたい・・・。そんなことを考えました。

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こう考えるのは私だけではありません。毎年冬になると、房総半島の南端に、布良星を観察する人達が集まるのだそうです。 しかし・・天体観察というのは、徒党を組んで行うものではないと、私は思います。

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この星が、海の遭難者の霊魂の象徴であれば弔いの対象であり、不吉な存在のようですが、この星を見ることは幸運の印とされているようです。

これは日本だけでなく、外国(北半球の国々)でも同じです。 日本と同じくらいの緯度にある、南欧の国では、水平線上に稀に現れるこの星を目撃することは幸運の予兆だそうです(当たり前ですが、北欧では見えません)。

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カノープスとはギリシャ神話に登場する水先案内人で、特に幸運な人物でもないのですが、あまりに明るいこの星を眺めることは、いい予兆に違いないということでしょう。

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面白いのは、中国で、華南では当たり前に見る事ができますが、華北では見えません。 微妙な位置にある華中の地域では、夏場に稀に見える訳でこれは幸運または福の象徴となります。 中国では、福と言えば、富貴と長寿の2つです。カノープスを見ることは、長寿に繋がるということで、寿老人の星になっています。

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南半球では・・・、よく知りませんが、当たり前に何時でも見えるので、この星を見ることに特に意味は無いようです。

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別に長生きしたい訳でもお金持ちになりたい訳でもないオヒョウですが、やっぱり布良星こと、カノープスを見てみたい・と思った訳です。

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呉に来た時、

1.房総半島より緯度が低い。

2.海が南側に開けている。

と考えて、これは大丈夫だろう・・と考えました。

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呉には、見晴らしのすばらしい展望台が多くあります。郊外に行けば、空は暗く、無数の星が降ってきます。晴天の確率も高いのです。 

「これは野呂山の山頂当たりで観察すれば、いいだろうか? いや、満天の星を仰げることで有名な大崎上島の展望台の方が適しているだろうか?」 密かに私は、ほくそ笑みました。

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しかし、駄目だったのです。 確かに呉の南には瀬戸内海が広がります。しかし、様々の島の向こう側には四国が存在します。つまり呉の海には水平線が無いのです。低い高度を飛ぶカノープスを、四国山地が遮って見ることはできません。

「うーむ、これは高知県あたりに行かなくては、カノープスを見る事はできないな。坂本竜馬は脱藩する前、桂浜でカノープスを見たのだろうか?」

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想像だけはたくましく飛躍しますが、どちらにしてもカノープスは見えません。幸せの予兆はつかまりません。 大山や剣山、石鎚山といった西日本の高山の山頂から見る方法もあるでしょうが、私の場合、非現実的です。

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やはり、南国の南向きの海岸で、冬の夜に見るしかありません。

私はこれからの人生でカノープスを見ることができるだろうか? 

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しかし、そこでふと気付いたのです。 「あちらのカノープスはどこへ行ったのだろう?」

私が最初に自作したパソコンのグラフィックボードはカノープス電子製でした。 アナログのTV放送時代、私が最初に購入したPC用TVチューナーもカノープス電子製でした。

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あの当時、パソコンでTVを見て、録画できる・・ということが珍しくてちょっと自慢だったのです。 カノープス電子製のパソコン部品は、かなり高価だけれど、自尊心を満足させてくれる、素敵な製品だったのです。 しかし、今はグラフィックボード(ビデオカード)売り場に並ぶのは、他社製品ばかりです。 カノープス電子は社名も変わり、そして製品群もグラフィックボードから違う分野にシフトしているみたいです。もはや、秋葉原の街では、カノープス電子の名前は滅多に見かけません。

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なんだかとても寂しいのですが、「滅多に見られないのが、カノープスというものさ」と言われると妙に納得してしまいます。


【 AIS情報を開示せよ 】 [広島]

【 AIS情報を開示せよ 】

 

マスコミがセンセーショナルに取り上げてきた話題や事件の追究記事が、ある日突然ピタリと止むことがあります。その理由は伏せられますが、概ね2種類の理由があると考えられます。

 

1.マスコミが無視できない、権力を持つ団体または個人から圧力があった。

2.マスコミが誘導しようと思った方向と違う結論が予想され、都合が悪くなった。

 

ひとつひとつの事例を挙げるときりがないのですが、最近では海上自衛隊の護衛艦と釣り船が衝突した事件が該当します。

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具体的には、昨年(私が広島に来る少し前ですが)、海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」と遊漁船(釣り船・・と言いますが、本当はプレジャーボートでした)の「とびうお」が衝突し、とびうおが沈没し、2名が亡くなられた事件です。

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海上自衛隊の護衛艦または潜水艦が民間の船舶と接触・衝突する事故は時々あります。その中で、死者が発生したものを列挙しますと、

 

1963年(昭和38年) 

護衛艦「てるづき」と貨物船「賀茂春丸」が衝突

少年自衛官など自衛隊側に5人死者がでています。

 

1988(昭和63)  

潜水艦「なだしお」と釣り船「第一富士丸」が衝突

釣り船が沈没して釣り客約30人が犠牲になりました。

この事故の責任は双方にあり、特に回避義務は釣り船側に多くありましたが、マスコミは、潜水艦側の責任だけを追及しました。

 

2008(平成20)  

イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」が衝突し、清徳丸が沈没し、乗組員2名が亡くなりました。この時も双方に見張り義務と衝突回避義務があったのですが、マスコミは自衛隊の責任のみを追及し亡くなった若い漁船員は英雄になりました。

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そして、2014年の輸送艦「おおすみ」と遊漁船「とびうお」の事故です。この事故でも非難の対象になったのは自衛隊の艦船です。

事故の原因究明がなされていない段階では、どちらに責任があるかは判断できない訳ですが、NHKの大越キャスターは「衝突の直接の原因とは別に、自衛隊側が本来的に持つ責任がある」という奇妙な理屈を展開しました。彼の説明は明確ではなく、彼の主張が、軍用艦船は本来民間の船に進路を譲りその安全確保と保護に努めなければいけない・・という理屈なのか、大型の艦船は小型の舟艇に注意して配慮する義務がある・・という考えなのかは不明です。

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しかし、民放各社の報道は後者でした(表向きは)。 空母と間違えるような大型艦である「おおすみ」を「こーんなに大きいんですよ。小さい釣り船なんて当たれば木っ端微塵ですよね。 当然、見張り義務と衝突回避義務は『おおすみ』側にあった訳で、悪いのは自衛隊ですよ」という主張です。

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これに類した意見は、「あたご」の衝突事故でも「なだしお」の衝突事故でも聞かれました。 ちょうど道路交通法において、自動車は交通弱者である歩行者や自転車の安全に配慮し保護する義務があるという発想に似ています。 ひたすら艦の大きさを強調して、非難されるべきは大型艦の方だというのですが・・・

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実は全くそれと逆の主張をマスコミがしたことがあります。それは1971年に岩手県雫石の上空で発生した全日空機と自衛隊機の衝突事故です。 航空自衛隊の飛行訓練生であった市川二曹が操縦する、朝鮮戦争時代の骨董品というべきF86戦闘機に、優速であった全日空のB-727旅客機が追突する形で発生した空中衝突です。この事故では、自衛隊側は脱出し、全日空側は墜落して全員が死亡しました。

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多くのマスコミは航空路を飛ぶ大型(というほどではない)旅客機に、機敏に障害を回避する機動性は無く、当然自由に動き回れる小型戦闘機の方に見張り義務と回避義務があったと主張し、悪いのは自衛隊側だ・・と断定的に報道しました。

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最終的に、裁判では双方に見張り義務があったが、より多くの責任は自衛隊側にあったとして、指導教官の隈一尉は有罪となりました。衝突防止警報装置が無かった時代、旅客機側が衝突回避を行うのは難しかった訳で、個人的には概ね妥当な判決だと思います。 

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それはともかく、結局、マスコミは、艦船や航空機が大きかろうが、小さかろうが、悪いのは自衛隊側だ・・という結論にしたい訳で、それは技術論ではなく反自衛隊のイデオロギーから来るものなのです。とにかくマスコミは技術論で自衛隊を悪者にしようとします。

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広島県の海で発生した「おおすみ」と「とびうお」の衝突事故でも、多くのマスコミは自衛隊側の非をならしました。救助された釣り船の乗客の、自衛艦側が違法な操舵を行って釣り船に衝突したという証言や、第3の大型船舶が近くを航行して、釣り船の自衛艦への接近はやむをえなかったという主張を全面的に採用しました。 しかし、操船していた訳でもない、ただの乗客の老人の証言には限界があり、その内容も矛盾が多かったため、説得力に欠けていました。

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自衛艦やその他のレーダー記録を調べると、第3の大型船など存在せず、虚偽の証言であることがすぐに判明しました。

すると今度は朝日新聞が、GPSの記録を調べよ!と主張しました。

http://www.asahi.com/articles/DA3S10937854.html

飛行機のブラックボックスと同じように、沈没船からGPS装置を回収して、航跡を解析せよというものです。 レーダーの記録もGPSの記録も自衛艦側のデータはありますが、それは信用できないということでしょうか?

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しかし、その後、ピタリと各マスコミはこの衝突事故の報道を止めました。 それはAIS情報が開示されたからです。

http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_jiko-ship-oosumi20140118j-02-w310

http://ameblo.jp/bangkokoyaji/entry-11754140948.html

これは第三者機関が、レーダーで得られる海上の船舶の識別や位置、進路などを記録し、図示できるシステムで、船舶衝突などの海難事故の原因と責任の調査では抜群の威力を発揮するものです。

多くのマスコミは、当初AISの存在を知らず、生存者の証言やGPS情報で自衛艦の責任を追及できると思っていたのですが、AISによって釣り船側の主張が全て覆される事が分かったのです。

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その日からNHKをはじめ、全てのマスコミはこの衝突事故の報道を止めました。それから約1年、海難審判の結果が出ました。

主たる原因は、左側にあった釣り船側の操船ミスと判断された訳です。

これは、相手を右側に見る船(つまり左側の船)に衝突防止または回避義務があるという規則に基づくもので、この事故では、釣り船側にその義務がありますが、それに反して釣り船が右旋回したことが、直接の原因と判断されたのです。

ずっと沈黙していたマスコミも海難審判の結果は報道せざるをえませんでした。

そして、朝日新聞は、「右転はありえない・・」という釣り船側の証人の意見を見出しに掲げました。

http://www.asahi.com/articles/ASH293J2RH29UTIL00B.html?iref=com_alist_6_01

関係者の証言ではなく、客観的なGPSデータを使えと言っていた朝日新聞は、逆にAIS情報を信用せず、釣り船側の証人の意見を全面的に支持するというのです。

でも、この証人は、ありもしない第三の大型船の存在を主張し、信ぴょう性に疑問を持たれた人物です。はっきり言って無茶苦茶です。

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今、海難事故では、AIS情報とレーダー画像の記録、そしてGPSの航跡情報の3つの証拠が強力な証拠能力を持つ時代になっています。利害関係がある証人の水掛け論の時代ではなくなったのです。

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事故があれば、何としても、自衛隊を悪者にしたいというのが、いわば左派系マスコミのエトスですが、悲しいかな理論武装が足りません。AIS情報を知らないまま、自衛隊に責任があるというキャンペーンを展開しましたが、覆されました。 そして報道自体をストップしました。 その中で理屈も客観証拠も無視して、無理筋をおす朝日新聞はある意味見事ですが、もう賢明な読者には通じません。特に自衛隊や瀬戸内海に詳しい呉市民からは嗤われるだけです。 そして、次にマスコミが何らかのキャンペーンをして、それが突然パタリと止まった時、多くの読者はその背後に何があるのかを探ることになります。 新聞の新しい読み方の始まりです。 


【 広島空港の雪 その2 】 [広島]

【 広島空港の雪 その2 】

東へ向かう高速道路の表示は「この先ユキ 注意!」の表示です。おそらく福山から岡山へかけては、もっと激しい雪なのかも知れません。しかし、不思議です。この先でユキが降っているからといって、一体どうしたらいいのでしょう。

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世界有数の豪雪地帯を通る関越自動車道の場合、途中にチェーンの着脱所があります。

冬用タイヤでない場合は、そこでチェーンの装着が義務付けられています。場合によっては警察官が、すべての自動車を確認して、チェーン装着場に誘導します。

そして上り線の場合、今度は関越トンネルの手前でチェーンを外せ・・という指示がでます。当たり前ですが、トンネル内には雪が無く、チェーンは舗装を傷めるだけで有害なのです。しかし、関越トンネルの群馬県側だって雪は降るだろうに・・と思いますが、群馬県側は徹底して融雪処理を行い、路面に雪は無い状態になっています。

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しかし、それは世界有数の豪雪地帯を通る高速道路の場合だけです。山陽自動車道には、チェーン着脱のためのパーキングはありません。積雪の無い区間が大半ですから、チェーンを付けっぱなしで走ることもできません。 結局冬用タイヤを装着して安全速度で走るしかないのだな・・と思いながら、普段より少し遅く走ります。

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まもなく、空港方面への出口に差し掛かり、私は粉雪のちらつく駐車場に着きました。

空港の出発カウンターに行っても静かなものです。JALは早々と欠航を発表しており、

空港に来てから驚く・・という人はなさそうです。

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一方、春秋航空の方は、飛ぶか飛ばないか、いまひとつはっきりしません。すでに乗客はカウンター前に集まり始めました。 そこに緑色のジャケットを着た春秋航空の若い職員が来て、説明を始めました。

「現在、広島空港の付近に雷雲が発生し、非常に不安定な天候です。皆様にお乗りいただく飛行機は、現在、広島に向かって飛行中ですが、着陸するかどうかは未定です。 もし広島空港に着陸せずに引き返すことになった場合、本日の成田行きの便は欠航となります。どうかご了解を願います」

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IMG_0076s.png

昔、別のLCCのエアラインで、土壇場の欠航を通知された時に比べるとはるかに分かりやすい説明です。 そりゃ確かに、乗る飛行機が来ないんじゃ欠航するしかないわな・・。 そこで誰かが質問します。

「それで、その結果は何時分かるのですか?」 これは重要な問題です。もし欠航と分かれば、すぐにバスに乗って広島駅に向かい、新幹線に乗車する手もあります。

・・・・ただ、今からでは東京まで行くことは無理だろうな・・・。

若い係員は、「18:00時つまり午後6時までに機長から連絡が入り、広島に着陸するかどうかが決まる見込みです」 うーむ、これは少し遅れるな。 折り返し成田行きの便の出発時刻は19:25分です。

・・・・・・

待っている乗客は静かに午後6時にカウンターにかかってくる電話を待つしかありません。 暫くの沈黙の後に、6時ちょうどに、電話がなりました。先ほどの係員がすぐに受話器を取り、我々に向かって「到着便は予定通り着陸します。折り返しの成田行きも予定通り出発します」と叫びます。

周囲は安堵と喜びの声でちょっとざわめきました。

・・・・・・

やがて、到着便は、18:40に着陸し、我々は予定通りに乗ることができました。

カウンターでは、「空席待ちのお客様~」と呼んでいます。キャンセルされた羽田行きのJALから乗り換える乗客がいるのでしょうか? 羽田に行く予定が成田着陸ではちょっと困るでしょうが・・。

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でも今回の空の旅はそれほど快適ではありませんでした。 周囲は雲ばかりで窓の外の視界は全くひらけません。 地上の景色を楽しみにしていたのに・・・。

広島=成田間の空路は、実は製鉄所を眺める旅でもあります。

成田側からの順番で言うと、鹿島、君津、千葉、京浜、名古屋、神戸、加古川、姫路、水島、福山・・と日本をというか、世界を代表する製鉄所群を眺められます。それぞれに設備のレイアウトに工夫があり、それぞれにある種の設計思想を持って建設された製鉄所であることが理解でき、とても面白いのです。 勿論、これはその中で働いていた私だからかも知れませんが、夜間でも製鉄所を見つけることはできます。

オレンジ色のナトリウムランプが分布する特徴的な空間だからです。

・・・・・・

今回はそんなこともなく、少し揺れながら、飛行機は飛び、やがて成田空港16Rの滑走路に滑るように着陸しました。空港の敷地内に入ってからも、ロール(左右に回転する揺れ)が激しく、着陸できるかな?と思ったのですが、直前の地面効果で機体は水平に安定し、車輪が接地した瞬間が感じられないほど、静かに着陸しました。

まだ数回しか経験していませんが、丸山機長の操縦は「すばらしい!」の一言です。

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飛行機はわずかに逆噴射したあと、速度を維持したまま誘導路に入り、駐機スポットに向かいます(残念ながらLCCは沖泊めで、ターミナルビルにはバスで向かいます)。

・・・・・・

でも問題はこれからです。時計の針は午後920分です。既に成田空港から潮来方面へのバスはありません。 家内にまた向かえに来てもらうしかありません。

・・・・・・

空港内の預け入れ荷物の引き取り場所で私は、最近使い始めたLINEで「今到着。成田空港まで迎えに来てくれるか?」と尋ねます。

ああ、もし返事がNOだったらどうしよう。このまま成田で1泊してそのまま東京の出張先へ行くしかないのかな?

・・・・・・

そこで私は、なぜか中国語の授業を思い出しました。 実はその翌日、中国語の達人達と会食を予定していたのです。もともと初心者の域にも達していない私の中国語ですが、それもほとんど忘れています。 思い出さなくては・・。

中国語では、物理的な不可能や不都合、拒絶や否定を表す表現は幾つもあります。

不可以、不能、不要、不行、不是、・・・・ それぞれ物理的な不可能を意味したり、自分にはできないという謝りだったり、意思に基づく拒絶だったり、意味も違えば、使い方も違います。でも外国人の私にはどうも違いが分からなくて、使い方が分からない・・と中国語の家庭教師に尋ねたことがあります。

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すると、普段はまじめな彼女が笑って「女性たちをデートに誘ってみたらいいでしょう。彼女達は、一様に断るでしょうが、その場面や状況に応じて、いろいろな言い方で拒否するに違いありません。その経験をすれば、それらのニュアンスの違いはすぐに理解できます」と説明しました。 結局、私は女性を誘ったりせず、中国語の拒絶と否定の表現についても、理解できないままなのですが、さて、ここで、成田空港へ迎えに来てという私の依頼に対して、家内からLINEで「不可以」とか「不行」などと言って来たら、どうしよう・・・

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幸いにして、家内からの返事は「今すぐ迎えに行く」というものでした。 私は人がめっきり少なくなった、第二ターミナルビルの出発ロビーで、家内の車を待ちました。既に出発予定は国際線の2便を残すだけになり、ベンチにはアメリカ人らしいカップルと幼子を連れた中国人家族だけです。 時折、警備員が、巡回してきて、行き先を尋ねたりします。 突然、中国人の家族の赤ん坊が泣き出しました。 若い母親は、苦笑いしながら「不好!(ブハォ)」と言います。

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「不好!」という言葉も、否定や拒絶の中に含めていいのかな? でもこの言葉は引き受けた後に、悪態をつくときに話す言葉でもあります。 拒絶ばかりではありません。「多分、成田に向かって車を走らせている家内も、心の中で「不好!」と言っているかも知れない」 私は既に10時を回った、成田空港のロビーでそんなことを考えていました。


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