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【 パナソニック遁走 その1 】 [中国]

【 パナソニック遁走 その1 】

 

2012年のある日のことです。当時N商事に勤務していた私は西安の反日デモのさなか、逃げ帰る様に東京に戻り、その報告もかねて、Y専務の昼食のお伴をしていました。山手線のガード下の定食屋で、サバの味噌煮定食を突きながら、Y専務は、「オヒョウ君、今度の反日デモの意味が分かるかね?」という質問です。

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Y専務は、N製鉄におられた頃、中国宝山製鉄所とN製鉄の合弁企業の経営もされた方で、国際派が揃ったN商事でもきっての中国通です。

「オヒョウ君、今回の反日デモで特筆すべきことというのは、パナソニックの工場がデモ隊に襲われたことだよ。昔を知る人にとっては、まさか・・という思いだね」

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遠くを見つめるようにY専務は昔のことを話し出しました。

1978年、中国の指導者である鄧小平が来日し、冷静な目で日本と中国の経済格差、科学技術の格差を観察しました。 東海道新幹線に驚き、近代的な君津製鉄所に驚き、松下電器のカラーTV工場に驚いた彼は、「君津製鉄所と全く同じ製鉄所を中国にも作ってくれ」と要望しました。そして松下電器にも、「中国にカラーTVの工場を作ってくれ」と要望しました。

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新日鐵の発祥は、官営八幡製鉄所です。その建設資金には、日清戦争の結果、清国から得た賠償金があてられています。だからという訳ではありませんが、当時の製鉄会社の経営者は、知的財産とか、技術移転の是非などということは考えず、天下国家、世界の為にと考えて、上海郊外に宝山製鉄所を建設しました。

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一方、純然たる民間企業である松下電器の松下幸之助翁も、鄧小平という一国の指導者からの要請なら受けるべき・・と考え、中国進出を決めました。しかし、松下翁は意気に感じて決定した訳でなく、冷徹な計算をした上で進出を決めたのです。

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私が子供の頃、一つの事業を興すには、3つの要素が不可欠と言われました。

それは、人と金と土地です。どんなに素晴らしいビジネスモデルで、どんなに社会のニーズに応える事業であっても、それを実行する優秀な人材がいなければ話になりません。 また工場を建設するには、広い土地が必要です。 そして設備投資と運転資金となる金が必要です。 そのどれか一つが欠けても、事業は成功しません。

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大人になってから、私は多くの工場に勤務しましたが、基本的には広い平坦な敷地に工場はありました。例外的に、山の斜面、しかも大変な豪雪地帯にあった工場がありましたが、果たして、事業はあまりうまくいっていませんでした。

松下電器は日本各地そして世界各地に工場を持ちましたが、松下翁は、必ず3条件が揃った場所に工場を建設し、そうでない場所には建てていません。 ちなみに松下幸之助は自分の出身地である和歌山県には工場を建てませんでした。 その理由は和歌山製鉄所を持つ製鉄会社に勤務した私にはよく分かります。

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脱線しましたが、松下翁は中国に進出するにあたって、その3条件が揃っているかを調査し、決定的に問題があることに気づきました。それは人であり、その背後にある政治体制です。 日本の様に、勤勉で学力があり、かつ等質な能力を持った人材が揃う訳ではありません。学習すべき青少年時代に、文化大革命に明け暮れ、学力は低いうえ、勤労者としてのモラールにも不安もありました。 その中で、松下翁が進出を決めたのは、鄧小平という政治指導者の裏書があったからです。

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何かあれば、例えば、暴動とか、政治的に不安定な状態になった時どうすればいいのか? インフラが整備されていない点は、松下がお金を出して整備すればいいだけです。 土地は中国政府が用意します。 しかし人の問題と政治不安をどう考えればいいのか? 松下電器は、中国政府の保証の元に中国に進出しました。

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実は、デモ隊というのは、無分別に無作為に暴れる訳ではありません。 これは古今東西、同じです。 私の母方の先祖は、江戸時代、飛騨天領の地役人でした。天領でも飢饉はあり、農民一揆は起こります。 高山の市街に農民一揆の勢力が押し寄せ、武家をかたっぱしから襲い、略奪した時、オヒョウの先祖の家の前にも現れました。

しかし、デモ隊の首領は、「この家はこれだけでいいんだ」と言って、門柱に鳶口をガツンとぶつけて疵をつけ、門の中には入らずに、次の家に行ったとのこと。

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それは、オヒョウの先祖の地役人が、普段から農民寄りの立場を取り、郡代以下の飛

騨の官僚の中では、理解のある人物として認識されていたからだそうです。

その疵のついた門柱は、明治時代に先祖が高山を離れるまで残っていたそうです。

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話が脱線しましたが、中国の場合も、デモは統率されています。紅衛兵のデモだって、21世紀の反日デモだって、中国のデモは全て官製のデモであり、政府が保証しその庇護下にある工場は襲われないのです。実際、その10年前の江沢民時代の反日デモでは松下電器の工場は襲われていません。

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「だから松下電器は他の日本の企業と違って、中国にとっては特別の存在なのだよ。それなのに、今回はパナソニックの工場がデモ隊に襲われた。この事の意味が分かるかね?」とY専務は、食後のコーヒーを飲みながら尋ねます。

「鄧小平の神通力というか、御威光が薄れたということでしょうか?」とオヒョウ。

「無論、それもあるだろうが、それだけではない」と専務。

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中国人も、中国政府もすべからくプラグマティストです。自分に必要な物は大切にし、不要なものは、すぐに捨てられます。 つまり、松下電器の工場は中国にとって不要な存在になったから、デモ隊の襲撃の対象になったということです。

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鄧小平が来日した頃、中国は日本の近代的な情報家電の工場と技術を渇望していました。今は違います。家電製品はコモディティ化し、高い技術が無くても、土地と未熟練の労働力があれば製造できます。 だからもはや松下電器は不要なのです。

私が中国にいた10年前、チンタオ(青島)のハイアールの大きな工場を見て驚きました。 昆山ではフォックスコンの巨大なパソコン工場が稼働していました。もはや、日本資本と日本の技術による工場は必要ないのか?と私は思いました。

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その頃、私のアパートの部屋のエアコンは、中国の松下電器製でした。ソンシャーと言えば、一流ブランドとして通用したのです。 しかし今、中国は自国製品の品質についても自信を持ち始めました。 実際には本当の品質より自尊心の方が先行していますが・・・。

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そしてもう一つは、世代交代です。中国政府も松下電器への裏書き保証を無くしてもいい頃だと思ったのかも知れません。

鄧小平の来日から11年後の1989年に松下幸之助は世を去りました。

そしてその2カ月後に北京では天安門事件が発生しました。文化大革命以降、中国で初めて政府がコントロールできないデモが発生したのです。

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天安門事件で中国と外国の関係は一斉に冷え込みましたが、既に中国松下電器は地元に根付いており、動揺は無かったはずです。

しかし、日本の松下電器産業の方が大きく変化しました。松下幸之助から直接の薫陶を受けた世代が、経営の第一線から引退しました。 そして経営危機に陥り、松下翁が嫌った首切りを断行し、社名から松下の名前を消してパナソニックになってしまいました。

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中国政府から見れば、もはや松下電器は変貌し、果たすべき義理も何も無い・・と考えても不思議はありません。

以下 次号


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