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【 めしいの国 】 [雑学]

【 めしいの国 】

 

ソフトバンクの孫氏が講演で“めくら”という言葉を用いたために、訂正と謝罪に追われています。

http://www.asahi.com/articles/ASK7N5J41K7NULFA01M.html?iref=comtop_8_06

不倫事件でも交通事故でも、相手が有名人なら、なにかことあるごとに謝罪を求めるという社会の風潮には、なにかひっかかるものがありますが、“めくら”という単語を口にしただけで謝らねばならないのでしょうか?

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話は脱線しますが、20世紀の終わりにソ連が崩壊して共産主義が否定され、日本の左翼たちは精神的支柱を失いました。その後、彼らは環境保護論者と人権論者に分かれて生き延びています。どちらも理想論を掲げて、既成の権力を糾弾し、弱者の味方を装えるという点で似ており、昔のスタイルを踏襲できるから居心地がいいのでしょう。

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そして人権論者たちは言葉狩りを始めました。多くの単語が、差別的ニュアンスがあるという理由でやり玉にあがり、消されました。困ったことに、“言葉狩り”は一種の過去法で、昔の文学や映画にも遡って適用されます。昔の映画をみていると、音声が消されてピー音だったりします。しかもその判断は一方的です。

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人権論者の“言葉狩り”の奇妙なところは、外国語あるいは外来語には適用されないということです。悪いのは日本と日本の文化であり、それだけを否定するという思想です。

だから、支邦(シナ)という単語は差別用語で使えないけど、中国というのは外国に阿る(おもねる)ようで嫌だ・・という場合はチャイナと言ったりします。チャイナもシナも同じなのに・・(笑い)。尾形大作の「無錫旅情」では唐突に「チャイナの旅路を行く俺さ」という歌詞が登場します。

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その延長で、メクラ、メシイという言葉が差別用語で使ってはいけないというのなら、ブラインドと言えばいいではないか?という、これまた奇妙な理屈があります。どうにも外国人には説明できない理屈です。

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先日、私が大腸の内視鏡検査を受けた際、私はC医師に「ここが盲腸ですか?」とは言わず、「ここがブラインドガットですか?」と尋ねました。まさか「目の不自由な腸ですか?」とは言えませんからね。

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それにしても、“めくら”とか“めしい”という言葉は、それほどまでに忌み嫌われなければならないのか?

昔、TVで放映していたドラマ「逃亡者」(ハリソン・フォードではなく、デビッド・ジャンセンが主役だった作品)では、冒頭で矢島正明のナレーションが流れます。「正しかるべき正義も時として、めしいることがある。この男リチャード・キンブルは・・」という名調子でしたが、今ならまず認められない表現です。

かといって、「正しくあるべき正義も、時として目が不自由になることがある・・・」ではさっぱりです。はてさて困ったことです。

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ジャニス・イアンの名曲に“Lobe is Blind”があります。日本語に訳せば「恋は盲目」となりますが、この日本語は今はもう使えないでしょう。

「恋が盲目」なのは、経験者として頷けるのですが、では最初に“Love is blind”と話したのは誰でしょうか? 私の記憶が正しければ、シェークスピアで、彼の作品「ベニスの商人」の中に、”Love is blind“という表現が登場します。

シェークスピアには早すぎる結婚を戒める言葉もあります。「ヘンリー六世」に登場する、“Yet hasty marriage, seldom proveth well” で、他の作品でも同趣旨のことを言っています。彼自身が自分の結婚を後悔したかは分かりませんが、シェークスピアに言わせれば、独身時代、男はみんな盲目だった時期があるということかも知れません。シェークスピアにとって、盲目はしばしば愚かさの象徴ですが、愛すべき性質であるともいえます。

このシェークスピア作品も、原文の”blind“はOKで、邦訳の「盲目」はダメになるのでしょうか?

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一方、日本での「盲目」は、必ずしも能力の欠如を強調するものではありません。

古川柳に、「番町で 目明きめくらに 道を聞き」という作品があります。

これは、江戸時代、麹町番町に暮らした盲目の国学者である塙保己一に、多くの人がものの道理を訊いたという話で、当然ながら盲目の人を軽蔑するものではありません。めくらの人に尋ねる意外性を考えるなら、めくらを“情報弱者”として差別するとも言えますが、それはうがち過ぎです。

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バカげた「言葉狩り」で、シェークスピアの日本語訳が制約を受けたり、古川柳が失われるとしたら、愚かなことです。そのように一方的で「盲目的」な行動がなされるのは、いわゆる人権論者には、ものが見えないからです

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外国の諺に、「めしいの国では片目の者が王様である」というものがありますが、人権論者は全員が盲目であり、盲目的に言葉狩りを進めるこの国では、このような諺も禁止されてしまうでしょう。

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やれやれ、今の気持ちを言えば、若山牧水の歌になります。

「海底に眼の無き魚の棲むといふ、眼の無き魚の恋しかりけり」

 

おっと、いけない。メクラウナギもイザリウオも、不適切な名前として消されてしまいました。


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