【 ボブ・ディランは詩人 】 [雑学]
以前、青山のライブハウスで西島三重子の歌を聞いたことがあります。
その歌の中に「青春の扉(ドア)」という曲があり、その歌詞には「コースターの裏にディランの詩を書き、あなたの来るのを待っていた」とあります。(著作権の関係もあり、歌詞の全ては書きません)。
同じ名前の曲が最近いきものかがりから発表されていますが、それとは全く違う、ガロの「学生街の喫茶店」の時代の曲です。
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私は、その歌詞を「ディランの詞」だとばかり思っていましたが、最近調べてみると、そうではなく、「ディランの詩」でした。確かにディランはシンガーソングライターの先駆けですが、純粋に詩人といっても通用する存在だと私は思います。
拙稿【秋好天の大雁塔に登る】では、中国の詩人杜甫とボブ・ディランを並べておりますが、これは私がディランを紛れもない詩人だと思うからです。
http://halibut.blog.so-net.ne.jp/2012-11-07
(拙稿を引き合いに出すあたり、厚顔無恥のそしりを免れませんが・・)。
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では音楽家と詩人の境界はどこなのか? 両者を区別すべきなのか? 音楽家は文学者の一種なのか? 仮に作詞家は文学者でも、作曲家や編曲者はどうなのか? という問題があります。
いえ、本当はそんなことはどうでもいいのですが、ボブ・ディランをノーベル文学賞の対象とするか否かで、議論が沸き起こったので、少し考えてみたいと思います。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101400070&g=int
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かつて、前近代のヨーロッパには吟遊詩人が存在しました。 ヨーロッパといっても、地域によってタイプが異なりますし、語るのが叙事詩だったり、即興詩だったり、いろいろですが、物語や詩を楽器の旋律にのせて語り聞かせる訳で、当時の人々には娯楽というだけでなく重要な情報源だったようです。その当時、詩と音楽は不可分だったと思います。いや、ヨーロッパだけでなく日本にも彼らはいた訳で、琵琶法師はその一種と言えます。
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近代に入って、吟遊詩人は姿を消しますが、その理由は様々に分析されます。
私は印刷技術の進歩による活字文化の普及と識字率の向上が背景にあると思います。人々は、口と耳で伝達される情報以上に、紙に書かれた文字を目で読むことで得られる情報を重視しました。
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その頃から、紙に文字を書く文学者と、楽器と声で表現する音楽家を分けて考えるようになったのだろうと私は思います。 分かれていったのは音楽の方かも知れません。牽強付会を承知で言えば、楽器の呼び方に手がかりがあります。バイオリンを指す言葉にはFiddleとViolinがあり、演奏者にはFiddlerとViolinistがあります。両者の違いは何か? Fiddlerが伝えたいものは詩であり、Violinistが伝えたいものは、メロディーそのものだろうと、私は考えます。
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吟遊詩人は姿を消しましたが、詩を語る音楽家、あるいは音楽を用いる詩人がいなくなった訳ではありません。今でも英語のpoetには詩を語る音楽家も含みます。
サイモンとガーファンクルの歌に、「Homeward Bound」があります。その歌詞には
「for a poet and a one man band」という言葉が登場します。(前と同じく、歌詞の全ては記載しません)。
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私は、最初、この歌詞が意味するのは、詩を朗読するpoetと音楽を奏でる演奏家のコンビかと思いましたが、本当はひとりぼっちのアーティストのことを意味していました。
1960年代から1980年代、フォークソングやプロテストソングを歌う多くのボッチのシンガーソングランター、つまり詩人兼音楽家が活躍していました。その代表格がボブ・ディランです。詩人と音楽家は不可分です。
ここでpoetとpoemの違いも確認すべきかも知れません。私の解釈を言えば、poemは言葉や文字で書かれた狭義の詩そのものであり、poetはより広義で、詩的な存在、および詩的なものを作る存在も含まれます。
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恐らく、サイモンとガーファンクルの2人も、詩人と音楽家を区別することをナンセンスと考えているでしょう。
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一度、文学と音楽に分かれた芸術表現が、再び融合して、20世紀の後半以降、メタモルフォスを起こしています。今回、ボブ・ディランの受賞に異議を唱えた人々が持つ、音楽家を文学者とみなさずノーベル文学賞の対象としない・・という教条主義的な発想は、今後変化せざるを得ません。文学そのものが変化し、そのメディアも変貌していくからです。
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活字離れが進む多くの国では、既に多くの文学が映像表現で語られます。漫画は市民権を得ましたし、アニメも原作の小説以上に受け入れられています。小説家や詩人をノーベル文学賞の対象にするなら、映画監督や映像作家もその対象にすべきでしょう。演劇の監督や演出家、俳優も対象たりえますし、絵画表現をも対象に含むなら画家も対象とすべきでしょう。画家と詩人ももはや不可分です。
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やがて音楽家だけでなく、全ての芸術家がノーベル文学賞の対象となりますが、そうなれば、ノーベル文学賞ではなくノーベル芸術賞とすべき時代が来るかも知れません。
その結果、純粋な活字の世界で頑張る村上春樹氏の受賞は、少し先になるかも知れませんが。
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