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【 デンマークのグルメ映画 】 [映画]

【 デンマークのグルメ映画 】

 

TVのバラエティ番組は、ひところほどではないもの、グルメ番組のオンパレードです。人間の2大欲求は性欲と食欲だそうですが、性欲の方はTV番組であからさまに表現することはできません。だから食欲を取り上げることになり、勢い食べ物番組が増えることになります。

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最初は一流の料理人が、世界の珍味を料理して豪華なごちそうを振舞うという番組が目立ちましたが、すぐにネタが尽きたか、予算の関係なのか、地方の珍しい食材を紹介したり、果ては街のラーメン屋の食べ比べまで番組で取り上げています。

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別に食堂のラーメンを紹介しても構わないのですが、見苦しいのは、登場するタレント達のリアクションです。どんな料理でも、皆さん、一様にあまりのおいしさに驚き、大きな声で褒め称えます。 しかし、困ったことに、表現する言葉は限られています。 せいぜい「おいしい!」か「うまい!」か「これ最高!」くらいです。 たまに「マイウー」と言うタレントもいますが・・。

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これは仕方ないことです。どの国の語彙でも、食べ物の味覚を表現する単語は限られています。 ある作家が、性行為の感覚とごちそうを味わう感覚は誰が書いても同じ表現になり、工夫の余地が無い・・と言っていました。 個人の感覚を他人が共有することはできませんし、それを積極的に伝えるのも下品です。だからどの言語でも、おいしさを表す単語は限られ、表現者は苦労します。

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その難問に果敢に挑戦したのは、最近休載に追い込まれた雁屋哲の「美味しんぼ」です。評論家関川夏央は、この漫画を評して「浪費される表現」と言いました。 ありとあらゆる日本語の中から食べ物に関する形容詞を探しまくって、まさに浪費していました。 たしか「まったり」と言う表現もこの漫画から広がりました。

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それならむしろ、全く食べ物の味を言葉で表現せずにグルメ番組をできないか? 言葉での説明をせずにごちそうを紹介できないか?・・・などと逆説のオヒョウは考えます。なんだか禅問答で無理な話のようですが、誰か挑戦した表現者はいないのか?

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そこで、私は考えました。ヨーロッパの映画監督なら挑戦するかも知れない。

ヨーロッパの映画監督には2種類あります。セリフの量が膨大で常に話しまくっている映画を撮る人と、沈黙の画面が多く、寡黙な出演者ばかりの作品を撮る人の2種類がいます。 前者の代表は、イングマール・ベルイマン、後者の代表はテオ・アンゲロプロスや、ビクトル・エリセかも知れません。 後者のグループなら、沈黙のグルメ映画を撮るかも知れない・・。

そう考えたところでデンマークの映画「Babette’s Feast」邦題「バベットの晩餐会」が見つかりました。 これは不思議で面白い沈黙のグルメ映画です。勿論、ごちそうは本当のテーマではなく、田舎に生きる人々の人生の哀歓を、極めて抑制された表現で語る上質の映画です。

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ネタ晴らしを覚悟で言いますが、19世紀、デンマークのユトランド半島の海沿いの寒村に、小さくて質素なルッター派の教会と牧師館があり、そこに牧師の娘である老姉妹が暮らしています。その姉妹の家に、ある事情からフランス人の女性がたどり着き、3人で暮らすことになります。 フランス人女性は、不幸が棲んでいるような哀しい孤独な女性ですが、ひょんなことから大金が入り、村人に素晴らしいフランス料理のごちそうを振舞うことになります。 招待された村人たちは、フランス料理など食べたこともなく、とまどいます。 そして、食材のおどろおどろしさに慄き、また質素な生活を説く教会の教えに従って、決してフランス料理のごちそうを味わうまい・・と心に決めるのです。

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一種の義務として、口には入れるけれど、決して味わうまい。料理や味のことは一切考えず、牧師の教えを思い出して語ろう・・という決意をして参加し、実にお通夜のような晩餐会になってしまいます。 「おいしい」とか「まずい」とかといった言葉は全くなく、たんたんと食事は進みます。

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唯一、村の外から参加したスェーデン軍の将軍だけが、食前酒に「アモンティリャードだ!」と驚いたり、本物の海亀のスープやシャンペンの銘柄に感激したり、「ウズラのパイ石棺風」に、「これは昔パリのあるレストランで食べた創作料理だ!」と思い出したりしますが、周囲があまりに静かなので料理についての会話を始めることもできません。

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笑顔も笑い声も全くない晩餐会は続き、やがて終わり、出席者は星降る夜空のもと帰路につきます。 デンマーク人だけではありません。料理を振舞ったフランス人女性バベットも全く笑わず、疲労感と満足感の表情は見せますが、淡々としています。

料理に対する論評は全くありませんが、私にはそのごちそうが至高のものに見えました。 可能であるなら、私もその席に加わって話に加わりたい・・と思ったほどです。

(実際には、この映画のセリフはデンマーク語(スカンジナビア語)に、フランス語と英語が加わったもので、私には会話に参加する術はありませんが)。

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ごちそうだけではありません。 この映画の表現は全てに抑制されています。 秘められた恋愛は登場しますが、キスシーンも抱擁もありません。それどころか恋人達の笑顔さえ登場しないのです。 ラブシーンと歓喜の表現の代わりに登場するのは、極めて控えめで婉曲的な表現での、長年の片思いの告白であり、女性(牧師の娘)は、その表現を理解し、男の愛情に答えます。しかしそれだけで、二人は笑い合うこともなく、手を握ることもなく、別れてしまい、男はスェーデンに帰っていきます。

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現代の感覚から見れば、もどかしいほどのやりとりですが、それが実現したのは、パリの一流のレストランの料理長が作った一世一代のフランス料理のおかげです。

表情からはうかがえませんが、おいしい料理と上等なお酒が、二人の精神を鼓舞して、前向きにさせたようです。 バベットが作ったごちそうは素晴らしい料理だったのです。

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それにしても実に不思議な映画です。 残念ながら見る人を選ぶ映画です。

例えば、ある日、パリから来たオペラ歌手が牧師館を訪れた時です。牧師は客に「カトリックか?」と尋ね、歌手が「そうだ」と答えると、「それならどうぞ」と招き入れます。異教徒だからこそ招き入れるという牧師の発想がなかなか理解できません。スカンジナビアで、新教と旧教がどういう関係になっているのか理解できなければ分からないのかも知れません。

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実は私はユトランド半島に行ったことがありません。デンマークは何回か行った事がありますが、コペンハーゲンのあるシェルランド島(シェラン島)やオデンセ島(オーゼンセ島)しか知りません。でもそこで見た荒涼とした景色は、今回の映画の景色と同じです。だから幾らかの既視感を覚えるのですが、実は全くデンマークの事を知らなかったのだ・・と私は気づかされました。 それどころか、私はデンマーク映画というものを初めて観たのです。 

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言葉少ない田舎の人々を描きつつ、究極のグルメ映画をガブリエル・アクセル監督は作ったのです。なんだか、賑やかな日本のTVのグルメ番組のアンチテーゼみたいです。「これから、ますます日本のバラエティ番組やグルメ番組を見るのが嫌になるなぁ。そしていつか、私も究極のフランス料理「ウズラのパイ石棺風」とやらを食べてみたいな・・」などと考えたりします。


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