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【 瓢鮎図について考える 】 [雑学]

【 瓢鮎図について考える 】

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読者諸兄もご存じかと思いますが、禅宗には、いろいろな逸話や公案を絵の形にした禅画というものがあります。絵の技法としては、水墨画に分類されますが、具象画から抽象画までさまざまあるうえ、絵の背景にある禅の哲学を理解しないと、その価値が分からない・・というものです。

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その禅画の最高傑作は、雪舟が私淑したという如拙が描いた「瓢鮎図」ではないか?と私は思います。有名な瓢箪で水中のナマズを捕まえようとする男を描いたものですが、その男が実に情けない惨めなありさまで、それでいながら哲学的な行動をとろうとするアンバランスが実に禅的です。実は私もこの絵の印刷を1枚持っていて時々眺めています。

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瓢箪でナマズ(鯰ではなく鮎の漢字を用います)を捕まえられるか?という不条理な問いかけが公案であり、禅問答ということになりますが、もともと公案に対しては、常識の延長上で答えを探しても、解は得られません。常識を超えた、いわば頓智の利いた回答が求められます。

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瓢箪でナマズを捕まえるという非常識・不条理に人々はどう答えるか?

先人の禅僧たちは、それなりに面白い回答をしています。

「面白い、瓢箪に油を塗ったらもっとよいのではないか?」というやけっぱち的なものから、

「ナマズが捕れたら、吸い物にしよう。一緒に飯を炊けばいいが、米が無いなら、砂でも炊こう」というナンセンスな回答まであります。

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どれも正面から、どうやったらナマズを捕まえられるかを考察した回答ではありません。 「瓢箪に油を塗ったら?」という回答は、「どうせ無理難題なんだから、余計難しくして茶化してやろう」という、斜に構えた回答かも知れません。

「砂の飯を炊いてやろう」というのは、瓢箪でナマズを捕まえるという、ありえない前提を元にしたものですから、どんな事を言っても真であり、間違いではありません。

論理的にはそうなります。

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しかし、禅問答は、論理学の遊びではありません。ではどう回答するのが適切なのか?

京都の某大学では毎年、学生にこの問題を問いかけているそうです。

「瓢箪でナマズを捕えるにはどうすればいいか?」に対する学生の回答は、

いろいろユニークです。

1.     瓢箪を水に投げ込めばいい。瓢箪が水面に波紋を広げ、ナマズはその水紋の円の中に捕捉される。つまり、立派に瓢箪で捕まえたことになるではないか。

2.     大きくなったナマズを捕まえるのではなく、孫の段階のオタマジャクシなら、瓢箪で掬うことができる。 → リパブリック賛歌を念頭に置いているのか?

3.     瓢箪の内と外に何の違いがあるのか?瓢箪の表面と裏面は繋がっている。位相幾何学では、栓を抜いた時点で、瓢箪の内と外の区別はなく、ナマズはすでに瓢箪の中にいると考えても良い。 つまり、瓢箪の栓を抜いた時点ではナマズは瓢箪で捕まえられたと言える。

4.     瓢箪を縦に2つに割り、それを箸のように使って、ナマズを挟み込めば捕まえられる。

屁理屈、ダジャレのオンパレードですが、禅問答の回答として一番つまらないのは、4.でしょうね。個人的にひっかかるのは、3.の位相幾何学的に瓢箪の中と外は同じで区別しない・・・という考え方です。物理学でも、運動量を精確に求める場合は、精確な位置は決められない・・・というハイゼンベルグの不確定性原理があります。 その延長上で、ナマズの位置にこだわることはできない・・・という考えです。 これが一番禅の考え方に近いのではなかろうか?

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臨済宗に限らず、禅宗は、いや仏教は、物欲・所有欲からの解放が必要だと考えます。ナマズを捕まえて自分のものにしよう・・あるいは取って食おうという発想が卑しいのかも知れません。

考えてみれば、オヒョウは所有欲の塊です。だから最も悟りと遠いところにいます。

それでも財産も無いのに涼しい顔をしているのは、所有欲から解放されたのではなく、単なる負け惜しみです。

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私は子供の頃、セミやトンボなどの昆虫を見れば捕まえたくなり、虫かごに入れなければ気が済みませんでした。 海や川で泳ぐ魚を見れば、捕まえて水槽に入れることができたらどんなにいいか・・と思いました。 別に取って食おうという訳ではありません。 逃げられない水槽や虫かごに入れて、自分の支配下に置くことを夢見たのです。 これは、多分、太古の昔、私の祖先が狩猟生活を行っていた頃の記憶が遺伝子に残り、私を狩猟本能に働きかけているのです。

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水槽で泳ぐ魚や、かごの中の虫の方は、オヒョウの所有物になったという意識はないでしょう。 しかし、捕えられる時には必死で抵抗し、逃れようとします。自由を奪われることへの抵抗なのか、それとも殺されて食われるのではないかという恐怖からかは分かりませんが、本能的に逃げます。当たり前ですが。

私の方は殺そうという意識は無かったのですが・・。

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それが何時からか、私の気持ちが変化しました。自然の中にある魚も虫もそのままでいいではないか・・と思うようになりました。野原を飛ぶ蝶は、そのまま飛ばせてやればよい。それを見て愛でればよいではないか・・。

海を泳ぐ魚は必ずしも水槽で鑑賞する必要はない。海で眺めていて美しければいいではないか・・・。捕まえる必要などないではないか?

いずれ、鳥も蝶も飛び去り、魚は泳ぎ去るでしょうが、引き止める必要もありません。

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この感覚の違いをどう表現するか?

敢えて例えれば、釣り人とダイバーの違いです。 魚を愛する人には2種類あります。

ひとつは魚釣りを趣味にする人です。もう一つはダイビングを趣味にして、海中の魚を眺める人です。ダイバーは目の前をおいしそうな魚が泳いでも捕まえて食おうとはしません(そうじゃない人もいますが)。

私の変化とは、釣り人の感覚からダイバーの感覚に変化したということなのか?それとも単に年をとったということなのか?

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私なら、瓢箪を持ってナマズを捕まえようとする男に一喝します。

「貴様、まだナマズを捕まえたいと思うか? 瓢箪でとらえようが、水の中にいようが、ナマズはナマズで同じではないか? よほど食い意地が張っているのか?」

でもね。私もナマズを捕まえたいという欲望はないのですが、これがウナギだとちょっと事情が違い、捕まえたいと思うかも知れません。 そしてそのウナギが蒲焼になって、食卓の上にあれば、食べたい!という欲望にかられます。 所有欲や物欲から離れたくても、食欲だけはどうしようもありません。 やっぱり私は解脱や悟りから遠くにいるな・・と実感する次第です。


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