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【 恭喜、恭喜 】 [金沢]

【 恭喜、恭喜 】

 

私の中学1年以来の友人が、晴れて教授になりました。 実は既に我々の中学、高校、大学時代の友人には大学教授になった人がたくさんいます。 ですから彼の実績・実力からみて、もっと早くなっても良かったのではないか?という気もしますが、なにはともあれ、おめでたい話です。 連絡のメールを読んで、思わずニヤッとしてしまいました。

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そこで、ふと思ったのです。 他人の事、特に古い友人におめでたい事があって、素直に喜び、こちらまで朗らかな気分になることは、最近なかったな・・。

そして、ふと思いついて、あるフレーズが口からでてきました。

「友の憂ひに吾は泣き、吾が喜びに友は舞ふ」 

 

この有名な一文の出典を思い出そうとして、それを忘れた事に気づきました。

確か、旧制高校の同級生や寮生の友情を表した言葉だったはず・・・。

・・・・・・

インターネットで調べれば、出典はすぐに判りました。

旧制一高の寮歌、「仇浪騒ぐ濁り世の」の四番の歌詞でした。

 

岸巌・作詞/内海磐夫・作曲

一、
仇浪騒ぐ濁り世の 汚れを永久に宿さじと
春や昔の花の香に 結び置きけん友垣や
十七年の東風吹けば ゆかしく萌ゆる若緑

ニ、
野路の村雨晴るゝ間を しばし木蔭の宿りにも
奇しき縁のありと聞く 同じ柏の下露を
くみて三年の起き臥しに 深きおもひのなからめや

三、
み空に星の冴ゆる夜は 圓かに更くる夢と夢
一つに結ぶ露の玉 雲紫の朝には崇き希望の胸と胸 

同じ調べに躍るかな

四、
友の憂ひに吾は泣き 吾が喜びに友は舞ふ
人生意氣に感じては たぎる血汐の火と燃えて
染むる護國の旗の色 から紅を見ずや君

五、
流るゝ水に記しけん 消えて果敢なき名は追はじ

めぐる幾世の末かけて たゞ我が魂の清かれと
昔ながらの月影に 歌ふ今宵の紀念祭

               (明治四十年)  
・・・・・・

しかし、インターネットで調べてみると、面白い事に、この歌詞は実に多くの歌の歌詞や文章に引用・転記されています。

ちょっと下品な言葉で言えば、パクられています。

そして一部の引用した歌や詩では、そちらがオリジナルのように理解されたりしています。

最も有名なのが、旧制大阪高校の寮歌「嗚呼黎明は近づけり」です。

その中に 「 君が愁いに  我は泣き 我が喜びに 君は舞う 」という、

ほぼ同じフレーズが登場します。
・・・・・・

この「嗚呼黎明は近づけり」も非常にいい歌であり、愛唱されてしかるべきなのですが、歌詞の中に一高の寮歌を模倣した部分があってはいけません。 どうしてこんな事になるのか・・・。

・・・・・・

ちなみに、一高の「仇浪」では「友」だったのが、大阪高校の「嗚呼黎明」では「君」になっています。 そして「仇浪」の「吾」が、「嗚呼黎明」では「我」になっています。

どうでもいいことですが、現代中国語の一人称は、北京語では我、広東語では吾だったように記憶します。 広東語は習った訳ではなく、香港映画の字幕を見ていてそう理解しただけなので、あまり自信はありませんが・・・。 実は2つの漢字の意味は微妙に違ったはずですが・・。

・・・・・・

戦前を懐かしむ懐古趣味の老人達が「昔は良かった・・」と語る最たるものは旧制高校での寮生活であり、そこで培われた友情こそ本物・・という意見を耳にします。

いかなる友情か?と問えば、それは「仇浪騒ぐ濁り世の」の歌詞に象徴される友情だ・・という事になります。

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「ミミズだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ友達なんだ」というあまりに平易な歌詞で友情が語られる、戦後の民主主義で育った私には、それに反論する勇気がありません。 ひとり敢然と旧制高校の友情に噛み付いたのは、今は亡き名コラムニスト 山本夏彦です。

・・・・・・

彼は「そりゃ友達の幸福は一度は喜んで舞も舞うだろうが、何度も友達の幸福や幸運が続けば、複雑な気持ちになり妬みの感情も持つ。 それが人間として当然だし、そうでなけりゃ鈍感だ」という趣旨の事を語り、旧制高校の友情に水を指しました。

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シニカルに人間存在を眺め、寸鉄で人の心を刺すのが生業の、山本夏彦らしいコラムですが、私は、このコラムについては「ちょっと待てよ」と思いました。

私オヒョウは、身の不運や自分の不甲斐なさを呪わざるを得ない、そして世の中に絶望する事、数多しという蹉跌の人生を歩んできました。 しかし、一方で友人の栄達に嫉妬した事はありません。 むしろ自分が不遇な時こそ、友の幸福を嬉しく感じてきました。 まあ、鈍感なお人好し・・とも言えますが。

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だから、この件については、山本夏彦の意見にはちょっと賛成できないのです。

多分、この意見の違いは、当時の夏彦がまだ生臭くて、今のオヒョウが少し枯れているという事かな? と勝手に解釈します。 別に私が旧制一高の秀才生徒達にシンパシーを感じている訳ではありません。

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友の慶事を屈託なく喜べるという事は、私も真の友情に近いものを持っているのかも・・と少し愉快になったところで考えました。

友情という概念の本家本元の中国ではどうだろうか・・・・?

・・・・・・

中国の歴史には友情にまつわる物語が多数登場します。 親友達のメッカです。

でも、普通の友情もありますが、義侠心が友情の形をとっているのもあります。

施耐庵か羅貫中の作とされる「水滸伝」の豪傑達も友情で結ばれているのか、義侠心でつながっているのか、ちょっと分かりません。

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現代中国では、共産主義は全く流行りませんが、拝金主義、プラグマティズムが大流行です。したがって利害を超えた純粋な友情は育ちにくいかも知れません。

私は、その中国語の中で「恭喜」という言葉が大好きです。 発音はゴンチーです。

これは単純に「おめでとう」という意味ですが「あなたの為に、恭しく私は喜ぶ」という訳ですから、相手の幸福で自分も喜ばせてください・・という事になります。 つまり、あなたの喜びに舞を舞わせてくれと言っているようなものです。

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ところで旧制高校の寮歌を歌う人達は急速に減少し、将来誰もいなくなるでしょう。

そして寮歌も忘れ去られるでしょう。 しかし歌詞の中には不変の真実があるのも

事実です。 その内容を信じるならば・・、他人のために、自分が喜ぶ・・やはりこれが本当の友情かも知れません。

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まあ、それはともかく、これから弊ブログに登場するY博士またはDr.Yは、Y教授またはProf.Yになりましたので、よろしくご了解願います。 

(とても嬉しいけれど、ああ、オヒョウだけは、ただの人のままだなぁ・・)

 

まずはともあれ、恭喜、恭喜、Y教授。


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夏炉冬扇

こんばんは。
ご友人大学教授ですか。
私の友人にも1人、大学の先生やれるなぁという人います。宮沢賢治研究家。でも欲のない人です。そこがまたいい。
「ただの人」の人生も67年。親子3人でぎゃらりぃ楽しめるのも「ただの人」故と思っております。
秋深しですね。
by 夏炉冬扇 (2011-10-18 18:57) 

wolfy

オヒョウ様へ
ご無沙汰をしております。
私、思いますにオヒョウ様には世間一般の肩書きは全く似合わないと思います。また肩書きは持って欲しくありません。
by wolfy (2011-10-19 07:28) 

yusai-zenji

オヒョウさま。色々お気遣い下さり、ありがとうございます。お電話などで話した通り、当方は今の所、何の変化もありません。
たしかに、お書きになっている通り、私は高校・大学の友人の大学関係者の中で、いちばん出世が遅れておりました(よく我々の間で話題に出るTくんは、関東圏の有名大教授になっているらしい)。でも、今はそのことにとくにルサンチマン的な感情はありません。
もともと、大学は昇格基準があいまいな場合が多く、私の知人で早くから学位があり、単著も出していても、旧帝大で50歳前後なのにまだ助手(あるいは助教?)、という驚くべきケースもあります。一方で、学位業績は反対なのに、30代後半とか40膳後から教授、という人もいますよ。
それから、オヒョウさんは取締役かどうかは別にして、いわゆる管理職でしょ? 
by yusai-zenji (2011-10-20 14:31) 

笑うオヒョウ

夏炉冬扇様 コメントありがとうございます。
別の方も書かれていますが、学位や学者としての地位・肩書きと、本人の人格や教養は必ずしも対応しないかも知れない・・と私は考えております。私の周囲を見渡せば大学教授に匹敵する学識を持ち、人を教えるのにふさわしい人格を持つ人が野にあって、教壇とは遠い場所にいたりします。 夏炉冬扇様のお知り合いの宮沢賢治研究家もその一人かと思います。
・・・・・・
でも学問の道を進むと決め、研究に没頭する人生を選ぶなら大学教授の地位は、その一つの到達点として区切りになるものだと思います。 それに、私の知る大学の先生方は、少なくとも専門分野については本当に学識豊かで尊敬に値する人です。
だから、大学教授を尊敬するけれど、そうでない人でも尊敬する方は多い・・というのが私の理解です。 余談ですが、大学の研究者というのは、私が若いころ憧れ、そして実現しなかった夢の一つです。

またのコメントをお待ちします。

by 笑うオヒョウ (2011-10-21 02:50) 

笑うオヒョウ

Wolfy様 コメントありがとうございます。
確かに無責任なブログを書き続けられるのは、私が公的地位になく、無位無冠の立場にあるからで、間違って社会的影響力のある立場なら、気楽な駄文は書けません。
ですからつまらない文章ですが「笑うオヒョウ」を書き続けられることをありがたいと思います。
そうは言いながら、サラリーマンの仕事もそれなりに忙しく、ブログを書ける時間が短くなり、更新が滞っております。申し訳ありません。
私が理想とする生き方は、隠遁生活とまでは言いませんが、自由人として生きるスタイルです。 昔のブログ【 俺達の帰去来の辞 】にその辺りを書きましたが、現実にはなかなか難しいと理解しています。 CURURU時代のブログはもう消滅して読めませんが・・。

またのコメントをお待ちします。

by 笑うオヒョウ (2011-10-21 02:52) 

笑うオヒョウ

Prof.Y様 コメントありがとうございます。
私の事ですが、お陰様でやりがいのある仕事にありついております。といっても高位顕官の地位に就いたという訳ではなく、平凡な一企業の管理職です。
そして、私の仕事は、家族を養うため、自らの糊口を潤すためのものです。
出世した人、自己実現をなしとげた人と比べると、権力や地位、収入の額などは微々たるものですが、しかしなんとか生活を維持できております。 
そして当たり前のことですが、収入の多寡によらず、地位の高低によらず、仕事の責任は重大です。だから私の場合、仕事が困難な局面にあるなか、ブログ更新の余裕がなくなりつつあるのが、悩みの種です。 世間には器用な人がいて、サラリーマンと作家の二足のわらじを履いて、どちらも確かな実績をあげていますが、私などは小説家どころか、ブロガーとサラリーマンの二足のわらじも履けません。
ああ、会社勤めを辞めてブログ三昧の日々をおくれたら・・と時々夢想しますが、それはブログを書きたいという熱意からなのか、それとも単に仕事から逃げ出したい現実逃避志向なのか、自分でも分かりません。
またのコメントをお願いします。

by 笑うオヒョウ (2011-10-21 03:12) 

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