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【 孤立無援のアラモの砦 その2 】 [アメリカ]

【 孤立無援のアラモの砦 その2 】

1836年、メキシコからの独立を目指したテキサス人が籠るアラモの砦は孤立し、やがてメキシコ軍の総攻撃を受けて陥落し、守備隊は全滅しました。その際、遠隔地のテキサス軍に救援を求める為に脱出し、援軍要請をした後に再び危険な砦に舞い戻り、そして戦死した男がいます。ジェームス・ボーナムという軍人で、敢えて死地に戻ったその義侠心が讃えられています。

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これを、武田軍に包囲された長篠城を脱出し、岡崎城の織田・徳川軍に応援を依頼したあと、再び長篠城に戻ろうとして武田軍にとらえられ、長篠城の味方に援軍の到来を伝えて殺された鳥居強右衛門の故事になぞらえて、顕彰した志賀という日本人がいます。残念ながらアラモの砦跡に彼が建てた石碑は、日本語で書かれているうえに、表面が摩滅して読みづらいため、ほとんどの観光客からは無視されています。

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私は、太平洋戦争中と戦後の反日感情が高まった時期に、この石碑が破壊・撤去されなかった事を不思議に思いますが、ほとんど注目されていなかったお陰かも知れません。そもそも漢字の碑文は、アメリカ人には中国語か日本語かもわからなかったでしょうし。

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それはともかく、孤立無援の状態で援軍を待つ・・という切なさは、万国共通のものかも知れません。

その中でも、第二次大戦中に兵站の維持に無頓着だった日本軍は、各地に守備隊が取り残され、彼等は救援を待ちながら敗北していったのです。

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その記憶がある訳でもないのでしょうが、現代の日本人は、とにかく孤立や孤独を忌避する傾向にあります。孤立する事は、即ちその時点で敗北する事でもあるかのように、仲間を求めます。そして意見の対立を恐れます。

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「我に信念あれば、百万人といえども、我ゆかん」という信念を持つ人はごく小数です。 民主主義の要諦は、多数決の原理ですが、決して少数意見を無視してよいという理屈ではありません。意見の対立も議論の段階では可なのです。決めた事には従うが、その前の段階では意見の相違を認め合うのが民主主義ですが、今は違う意見の存在も認めない雰囲気が、日本の社会にはあります。

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例えば、今の時点で、原子力発電に賛成する意見は小数でしょうが、その意見を表明する事は重要です。 そんな事を言えば、周囲で孤立するから・・とか袋叩きにあうから・・という事で黙っていては、民主主義が成立しません。

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今の政府は、原発廃止を明確に断言できません。経済面や国民の福祉面であまりに影響が大きいからです。しかし原発継続を言えば、袋叩きです。国民世論で原発を擁護する意見があれば、議論ができますが、それがありません。

だから原発廃止でもなく維持でもなく、実に歯切れの悪いコメントしか発表できず、政府の信用は下落するばかりです。

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これは少数意見を言えない、全体主義的、ファッショ的な雰囲気が世の中にあるからです。何時から日本は、少数意見を言えない国になったのだろうか?

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かつて、高橋和巳は、自分の論文集に「孤立無援の思想」だの「孤立の憂愁を甘受す」などという名前を付けました。

左翼的、進歩的思想を強く持ちながら共産党の思想とは一線を画して、自分自身の思想を語る時、孤立するのもやむを得ない・・との発想からでしょう。

今思えば、30代の思想家が自らを「孤立無援の思想」と語るのは、やや肩に力が入っているかな・・と思いますが、彼が孤立を厭わなかったのは事実です。

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彼が孤立を厭わなかった理由の一つは、彼は「弁がたった」からでしょう。頭がよく、自分自身で考えたオリジナルの意見がある人は、議論を厭わず、弁論に勝ち、他に流されずに済みます。

残念ながら今の日本はそうでない人が大半です。

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ドイツ人やアメリカ人は、他人と自分の違いを大切にします。違う意見を持つ人を見つけると喜び、debate(議論)を楽しみます。彼等にとって討論は一種のスポーツとも言えます。

一方、日本人は自分と同じ意見を持つ人を見つけると喜びます。議論はせず、相手には自分への同意を求め、それを得ると満足します。意見の対立が表面化するdebateは極力避けます。

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国民性の違いや、討論に慣れているかどうかという問題もありますが、とにかく日本人は孤立無援を嫌います。

中国の哲人は、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言っています。

対立を避け、孤立を嫌う日本人は「同じて和せず」であり、「和して同ぜず」の欧米人とは明らかに違います。本来は「和を以て貴しとなす」のが日本人なのですが・・・。

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原発問題に話を戻します。

原発問題に関し、その危険性やエネルギー問題について、自分で考えない人は、福島の被災地の報道を見て、それだけで全てを判断します。

破壊された発電所の建物、遠隔地に避難を余儀なくされた人々、放射能不安、・・つまり「原発は許されないもの」というマスコミに誘導された結論が全てです。それに異議を唱える事はタブーであり、その意見は排除されます。

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原発反対論者を「集団ヒステリー」と評した野党の政治家に対するツイッターを見ると、いまだに原発を擁護するその姿勢に呆れた・・とする意見がほとんどです。すでに世間は原発の評価についての議論を封殺しています。

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かつて高橋和巳が孤立無援である事を潔しとした世界では、少数意見の持ち主も生きてゆけました。しかし現代では難しいかも知れません。

マスコミの高度な発達は人々の思想を単一化していく・・という予想は以前からありました。 しかし、インターネットの発達で情報発信がインタラクティブ化(双方向化)して、その弊害は防がれたと・・と私は期待していたのですが難しいようです。

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今、日本人は孤立を恐れ、連帯を求め、他人と価値観や思想を共有する事を望みます。でも私のようなへそ曲がりは、それに逆らい、何時も孤立無援の思想を持ちます。そして私が感じる精神の孤立は、テキサスの草原の中での孤立に共通する事があります。

いつか、ヒューストンから援軍が来ないか・・と期待する事もありますが、まず絶対に来ません。援軍でなくても、勇気づけてくれる鳥居強右衛門のような人物が声をかけてくれるならありがたいのですが、それもありません。

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そして「ああ私は一人だ」と感じる時、アラモの砦に吹いていた乾いた風の音を思い出すのです。




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おじゃまま

原発に関しては、私はやはり縮小すべきだ、と思っています。
特に老朽化しているものはもう、稼働させないほうが無難だと・・・
そしてこれから今のような「軽水炉」とかいう原発を増やす予算、
研究費などは、自然エネルギーの研究に回して欲しい・・・
(以前書いておられた、今よりずっと安全な原発の研究は、
続けてみるといいかも・・・と思いますが。)
ただ、そうはいってもいますぐに!即刻!原発を止めよ、
というのは、無理だとも思います。
あ、なんか、どっかの首相みたいになってきました ^ ^;
by おじゃまま (2011-06-16 12:03) 

笑うオヒョウ

おじゃまま様 コメントありがとうございます。
そして返信が遅くなり申し訳ありません。

たしかに仰るとおり、今の原発、特に老朽化した原発を使い続けるのは
無理だと、私も思います。 原発はあるべきか否か?と問われれば、
「そりゃ無い方がいいさ。しかし電力無しという訳にもいかないし、他の発電方法にもそれぞれ問題があるから仕方なしに原発は必要だと考える」というのが
私の考えです。

使い続けなければならない以上、少しでも安全なものに改良していこうというのはある意味当然の考えだと思います。飛行機だって自動車だって、絶対安全にはならないけれど、便利だから使う。そして使う以上は、少しでも改良して安全にしていこう・・という発想は自然だと思います。

以前から政治的なイデオロギーを理由に原発反対を訴えていた人が、この地震による事故を好機ととらえて「それ見ろ、だから原発を止めるべきだと言ったのだ」と得意になって語るのを聞くと、正直なところ、愉快ではありません。 なぜなら技術論・現象論以外のところで議論され、結論が導かれる事です。

自然エネルギー・・という言い方は変ですね。再生可能エネルギーを開発せよ・・という意見には賛成ですが、最も古典的な自然エネルギーである水力発電についても、民主党はダム建設につい最近まで猛反対していたのです。民主党も自民党も責任ある考えを持っているとは到底思えません。

このあたり、またブログに書こうかと考えております。

またのコメントをお待ちします。
by 笑うオヒョウ (2011-06-22 02:33) 

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