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【 人生はトライアウト 】 [広島]

【 人生はトライアウト 】

 

2月に入って、晴れた日の暖かい陽光の中、私が工場の製品ヤードを歩いていると、人生の先輩とも言うべきNさんに会いました。 Nさんは、定年をだいぶ前に過ぎていますが、再雇用の形で、まだ現場で働いています。すでに年金もフルに出る年齢で、引退して悠悠自適の日々を送ってもいい状況です。 しかし、彼は会社に残り、現場の作業をモクモクと続けます。

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実は彼のご子息は地元の球団で活躍する内野手で、かなり有名な選手です。しかし、ここ2,3年は一軍で活躍する機会は少なく、二軍で各地を転戦する日々が続いています。そしてNさんは、地方で試合をするご子息の“おっかけ”をしていて、各地の野球場を訪問しています。

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「会社を辞めて年金生活になってもいいのだけれど、倅(せがれ)の試合を見るために、各地を旅行するお小遣いが欲しいのですよ。だから会社に残してください」

彼は会社の人事担当にそう言って、雇用契約を更改してきたのです。

しかし私は、彼が工場で仕事を続けるのは、お金のためだけとは思いません。厳しいプロスポーツの世界で歯を食いしばって頑張っている息子のことを考え、息子が現役でいる限りは、自分も現役で働き続けたい・・・そんな思いがあるはずだ・・と私は思います。

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「そう言えば、「巨人の星」の星一徹だって、飛雄馬がプロの選手になってからも土方を続けていたしなぁ。(途中で中日のコーチになったこともあったけれど)」と昭和の時代の漫画を思い出します。

プロ選手の親子というのは、やっぱり一種の「父子鷹」なんだな・・と思いました。

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そのNさんが私の顔を見ると、ボソッと話しました。

「とうとう、倅が戦力外通告をされてしまいました。現役引退ですよ」。

さてこれからどうしようか・・・?という風に彼は遠くを眺めています。

その表情につられて、私も自分の事を話します。

「私もね、60才を過ぎて再雇用の身の上です。戦力外とは言いませんが、会社での活躍の機会は減りそうです。 そこで転職することにしましたよ。 なに、スカウトとかヘッドハンティングだとか、格好いい呼び方をしますが、私の感覚としては、お払い箱になったサラリーマンが、仕事にしがみつくというか、もう一度、活躍の機会を得たい思いで、必死に転職先を探した訳で、これはプロ野球で言うところのトライアウトですよ」

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「だから、私は3月から東京で新しい会社に勤務するのです」。

Nさんは少し驚いた表情で、「そうですか、オヒョウさんはトライアウトしたのですか」

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それから、私達は天気の話などを少ししました。広島県北部の積雪の話になると、彼は、昔小学生だったご子息を連れてスキーに出かけた話などを懐かしそうに話しました。 しかし、目の前の空は晴れていて、気温は2月だというのに暖かです。

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唐突に私は、芭蕉の俳句を思い出しました。

 

「行く春を 近江の人と 惜しみけり」

 

これは不可解です。 場所も季節も全く違います。今は初夏ではなく、冬ですし、ここは近江ではなく安芸です。 でもなんとなく、この句の気分です。

 

どうしてこの俳句を思い出したのかな? そんなことを考えていると、暫く沈黙していたNさんが、もう一度つぶやきました。

 

「そうですか、オヒョウさんはトライアウトしたのですか・・」

 

私は、あと3週間で呉の地を離れます。


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