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【 朋あり遠方より来る 】 [広島]

【 朋あり遠方より来る 】

 

作家、阿川弘之は、戦前の教養人について、どれだけ論語を暗唱できるかで、その教育の深さを測ることができた・・と言っています。納得できるのは、彼は学歴には拘泥していないことです。明治期、大正期から現代に至るまで、上級学校に進学するか否か、あるいは卒業するか否かは、家庭の事情や、その他のもろもろの個人的事情が絡み、学歴は必ずしもその人の知性や能力と対応するものではありません。心豊かな人の知性と教養は、大学を出たか否か、或いはどの大学を出たか・・・とはあまり関係ありません。

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教育システムが今ほど充実していなかった戦前の時期、学校教育に比べて家庭教育や社会教育(職場教育)の比重が高かったそうです。戦前には、学校に入る前に父親や祖父から漢文の素読を習い、論語を憶えた子供も多かったとか。自身は東大卒の阿川弘之が、敢えて学校教育とは関係が薄い、論語の暗唱にこだわったのは、そういう背景からでしょう。

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しかし、敢えて私はそれに異を唱えます。論語を読むだけなら、初音ミクのようなコンピューターソフトにもできます。文言を覚えても、その意味を理解しなければ「論語読みの論語知らず」となってしまい無意味です。そして論語を本当に理解することは、少年には無理です(多分)。だから幼年期や少年期の論語の素読にどこまでの意味があるかは疑問です。実際、世の中には「論語読みの論語知らず」が溢れています。

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かく言う私は、無教養で、論語をマスターしている訳ではありません。しかし、論語を知らない私でも、幾つかの文は、ふと頭に浮かぶことがあります。

「朋あり、遠方より来る また楽しからずや」

川崎のご隠居が呉に来ると聞いて、すぐに頭に浮かんだのは、やはり論語の中でも最も有名なこの言葉です。

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しかし、そこでまた悩みます。「待てよ。どうして友ではなく朋なのか?」

日本では朋友という表現で、「友」と「朋」は同じ意味で使われます。教育勅語にある「朋友あい信じ」にも登場します。一方、中国では朋友(ポンヨウ)は単純に友達の意味で使われます。漫画「北斗の拳」ではポンヨウについて奇妙な説明がされますが、私の知る限り、友人と同じ意味です。

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しかし「そこに注意が必要です」と指摘したのは、昔の私の中国語の家庭教師です。彼女に言わせれば、朋と友では微妙に意味が違うということです。

「朋」の場合、幼い頃からの友達や、机を並べて一緒に学んだ同級生の意味となり、日本風に言えば、竹馬の友、或いは筒井筒の幼馴染、或いは学園の同期の桜・・といった友達を意味するようです。

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一方、「友」の方は大人になってからでもよく、お互いに理解しあい、共鳴する思想を持ち、堅い友情と信頼関係で結ばれた存在ということになります。 中国の古典の水滸伝などには、熱血漢同士が意気投合して義兄弟の契りを結ぶ場面が多く登場しますが、これなどは「友」の方でしょう。

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どちらも人生を豊かにし、貴重でありがたい存在ですから、遠方から来てくれて嬉しいのは、「朋」も「友」も同じです。それなら、なぜ孔子は「朋」としたのか?

それは恐らく、少年時代からの友達である「朋」の方が、長い時間が経過した「老朋友(ラオポンヨウ)」だからでしょう。 <余談ですが、中国語の発音をカタカナで記すことに、いつも後ろめたさを感じます>。

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友情も、上等なお酒と同じように、長い時間の経過で熟成されて深みが増すということでしょう。或いは、古い友達は滅多に来ませんから、珍しい来客は特にありがたい・・ということかもしれません。 そこで逆説で考えるオヒョウは英国の諺を思い出します。「いつも来る客は歓迎されない」・・・両者は、裏返しの表現というだけで同じ意味なのかも知れません。

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話は変わりますが、50代後半から還暦ぐらいになると、やたら同窓会の案内が増えてきます。それはなぜか?

若い頃、つまり壮年期の頃は忙しく昔を振り返る余裕はありませんでした。そして壮年期までは一種の競争社会を生きることになります。ヨーイドン!で一緒に学校を卒業し、早く出世し、早く幸せな家庭を築き、早くお金持ちになり、さらには社会に対して何らかの影響を与えたい・・と言う競争原理の中で生活します。その時期「朋」は競争相手でもありました。だから同窓会はできなかったのです。

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それが、定年を迎え、「ノーサイド」の笛が吹かれたあとは、生き甲斐が変わります。そして今までの人生はこれで良かったのか?という不安も感じます。その不安を確かめるために同じ時代を生きた、同世代の友達と会いたくなります。同窓会とは、古い友達を介して自分の人生を再確認するためのものだと私は思います。

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孔子先生にお尋ねしたい。なぜ古い朋と会うと心が弾むのですか?なぜ古い朋と語り合うことが楽しいのですか?

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そこで、思い出します。「『朋』とは、そんなに簡単なものではありません」と語ったのは、件の中国語の家庭教師です。

彼女によれば、「朋」は年齢も近く、上下関係を意識しなかった子供の頃に培われた対等の人間関係です。 しかし一方、大人の社会には、上下関係が常に存在し、対等な関係は、あまりありません。 対等な友情を感じにくい社会なのです。これは、とりわけ儒教文化の影響を受けた中国や朝鮮・韓国で明確です。

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儒教の世界には、秩序を重んじ、それを維持するためには、必ず序列をつけて上下関係を明確にしようという発想があります。(論語を読むと、必ずしもそうとは思えないのですが、儒教文化の影響を受けた社会は概ね、そのように思えます)。中国に行くと、国家一級認定とか、AAAだとか格付けや箔付けにとても拘る人や会社がありますが、その背後にもこの思想がありそうです。

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兄弟姉妹についても、中国と韓国、朝鮮では長幼の序が大事です。兄なのか弟なのか、姉なのか妹なのかが重要な意味を持ちます。一方、英国では、どちらもBrother、どちらもSisterです。

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国家間の外交においても、中国の場合、常に序列を意識して、本当の意味で対等なパートナーシップというのは、理解されません。そして冊封体制を今でも信奉し、自国を最上位に置く中華思想を隠さない中国の場合、習近平国家主席は、外国の要人と会う時、絶対に自分から歩み寄る様子を撮影させません。必ず、相手が近寄ってきて握手を求めるのに応じる形をとります。朝貢に訪れるアフリカの国家元首の方が、背が高い場合、中国の国家主席はしばしば台に乗って、目の高さが客人より高くなるようにします・・・なんだか子供じみていますが。

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西欧では当たり前の、対等な友人としての付き合い方が、儒教国家には苦手なのかも知れません。 自分より上と認めた相手には、やたらと卑屈になったり事大し、一方で自分が上だと判断したら、やたらと尊大になり、傍若無人に振舞ったりします。

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それが中国や朝鮮・韓国の世界の中での孤立をもたらしているのではないか?そんな風に思えます。「友邦」はあっても、対等な「朋邦」は難しいのかな?そうだとすれば孔子先生の呪縛は今も続いていると言うべきかも知れません。

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古い朋が来て帰った日、とりわけ大きな月を見ながら、そんなことを考えました。

朋来る 夕べの月の大きさよ


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李陵

朋と友の違い、良く分かりました。ちなみに広辞苑には、朋は同門、友は同志と書かれていました。話しは変わりますが、私が今出席している麗澤大学の生涯学習講座の日本語講座の授業で、韓国人は身内の目上の人間を外部に対して表現するときにも尊称や敬語を使うということを聞いてびっくりしました。たとえば日本では,当社の社長はまだ参っておりませんので・・・というところを、韓国では当社の社長様はまだいらっしゃっていないので・・・に近いような表現をするそうです。中国でもそこまでは言わないので,同じ儒教圏でも、韓国における儒教の弊害は一番ひどいような気がします。
by 李陵 (2016-11-23 10:36) 

笑うオヒョウ

李陵様
コメントありがとうございます。韓国の敬語については知りませんでしたが、日本でも謙譲語を使うべきところに敬語を使ってしまう人がいますね。
ちなみに、「朋」についてのこだわりは過去に何度か、ブログにしたためております。比較的最近のものをご紹介します。
お時間がある時に、ご覧いただければ幸いです。

http://halibut.blog.so-net.ne.jp/2013-05-09

またのコメントをお待ちします。
by 笑うオヒョウ (2016-11-23 12:29) 

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