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【 花子とアン について考える 再び 】 [雑学]

【 花子とアン について考える 再び 】

 

NHKの連続TV小説「花子とアン」の人気が衰えず、民放各社のドラマをはるか引き離して好視聴率を維持しているそうです。 その人気の秘訣は多くのマスコミが分析して書き立てているので、今更書くのも何なのですが、私の気づいた点を述べます。

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1.吉高由里子と仲間由紀恵という事実上の2人の主役を持ち出し、それぞれに個性を引き出してストーリーを面白くしていること。

2.女学校時代、教員時代、編集者時代、翻訳者兼主婦の時代、震災後という具合に区切りが明確についていること。

3.夫婦間、恋人間の呼称に工夫があること。

つまらない事ですが、妻が夫をどう呼ぶか、夫が妻をどう呼ぶかは重要な問題です。

例えば橋田壽賀子のドラマでは、妻は夫を呼び捨てにします。面と向かってではないのですが他の人に対しては呼び捨てです。無論家族以外、身内以外の人に対して、呼び捨てにするのは当然ですが、家族の中でも、特に夫の親に対しても呼び捨てにします。夫に一番近い存在は自分(妻)なのだから、夫以外の全ての人に対して夫をと呼び捨てにしてもいいのだ・・・という判断もありましょうが、橋田壽賀子の場合、奇妙なフェミニズムが根底にあるように思えてなりません。橋田固有の女尊男卑に近い思想を、ドラマではごまかそうとして、一般的な敬語の使用のようにみせていますが、それが私にはスニークに感じられます。

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「花子とアン」の場合、夫も妻も互いにさん付けで呼んでいます。他人行儀とも取れますが、互いに信頼していることは明らかですし、相互に尊敬しあっている様子が伺えて、好感が持てます。少なくとも、現代の多くの男女にとって、妻が夫を呼び捨てにする橋田ドラマに比べて違和感が無いのではないでしょうか?

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NHKの連続TV小説は、基本的にしっかりとした自我を持った女性が活躍していく話であり、女医や服飾デザイナーなど独立心があり、尊敬される職業人が主人公になることも多い訳です。夫から常にさん付けで呼ばれることは不自然ではありません。

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4番目に取り上げる点は、男優陣のキャスティングが実にピッタリで、最も適した役者を選んでいることです。特に出色なのは、九州の炭鉱王(加納伝助)を演じた吉田鋼太郎です。彼は今後、大物の役者になるに違いありません。

強面の役柄とは言え、彼が登場するだけで場面が引き締まり、視聴者まで巻き込んで皆が緊張する役者はそう多くはいません。

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もともとシェークスピア劇を専門とする舞台俳優だったようですが、TV界はもっと早く彼を発見すべきでした。民放の「カラマゾフの兄弟」で難しい悪役を見事にこなした上での抜擢でしょうが、加納伝助も難しい役柄です。

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最初は、粗雑にして無教養、蓮子以外の人物(視聴者を含む)から憎まれても仕方のないキャラクターでしたが、途中から変わりました。実は情愛に満ちた人物で思いやりに満ち溢れた人物になり、花子は彼の理解者になります。

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普通、朝の連続ドラマでそんな複雑なキャラクターの人物を登場させると、単純さを求める視聴者(主に主婦)は混乱して不評になるはずですが、吉田鋼太郎が演じると違います。

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一つには、NHKの籾井会長が同じく筑豊の炭鉱経営者の子孫であり、「伊藤伝右衛門はそんなに悪い人物ではなかった。奨学金を出す篤志家であり、大人物であった」と弁護したので脚本が変わったという説、更にはあまりに福岡県の事を悪く書き、福岡県人の怒りを買うことを恐れたという説、はたまた加納伝助の人気が高いので、離婚後も登場させたいという思惑でストーリーを変更させた・・という説がありますが、何れにしても、吉田鋼太郎だからできた話です。

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準主役である蓮子が愛想を尽かす相手ですから、本来悪役なのですが、両方共、善玉でも構わないのです。良き人同士でも諍いは起こりますし、離婚も悲劇も起こります。その方が上質なドラマになります。

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傲岸で不遜だった加納伝助が時に弱さを見せ、そして時に慈愛の情に満ちる・・・面白い役柄です。石田礼助風に言えば「粗にして野だが卑ではない」というところでしょうか? そして男優にとって一番難しいのは、テ・コキュつまり寝取られ男の役です。

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いまだかつて、寝取られ男の役をうまく演じた日本の俳優は、杉浦直樹の他に私は知りません。 その他に、あえて言えば「ドデスカデン」の芥川比呂志かな?

そう、吉田鋼太郎は日本のシェークスピア役者としては、芥川比呂志以来の存在になるでしょう。 彼のロミオには興味がありませんが、マクベス、リヤ王、それになにより彼のオテロに興味があります。そして彼なら「チャタレー夫人の恋人」の夫役もうまくこなせるでしょう。

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一方、男優陣で唯一ダメだな・・と思うのは、蓮子の恋人になり結婚する宮本龍一役の青年です(ごめん、つまらない役者だと名前も覚えられない)。

幼稚な左翼思想を振り回す、気障なインテリ青年という役どころでしょうが、さっぱりです。相手が大女優というべき仲間由紀恵では、見劣りするのは仕方ないとしても、全てがしっくりきません。主義に燃えた帝大生が恋に落ちるというのに、あの演技は何なのか? さらに言えば、間男をしたその相手の夫に発見された時の演技も、中学生以下です。

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間男がバレた以上、ふてぶてしく開き直るか、ひたすら謝るか、ブルジョアの象徴として相手を難しい言葉で攻撃するか・・・どれかしかないのですが、彼の演技にはその覚悟がありません。 あの俳優は間男をして見つかった経験が無くて分からないのか? まあ、かく言うオヒョウもそんな経験は無いけれども・・。

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後、「花子とアン」で好感が持てるのは貧富の差を衣装などで細かく表現している点です。山梨県の小作農は木綿の服。花子は絹ですが「銘仙」のようです。一方蓮子は駆け落ちする迄「お召」を着ています。同じ和服ですが、そこには明確な格差があります。思えば、明治から昭和の戦前まで、日本にはもっとひどい貧富の差がありました。そしてそれは衣服からタバコに至るまで明確な違いとなって存在しました。一種の記号論の世界です。

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例えば、タバコですが、お金持ちは外国タバコか、敷島、貧乏人は朝日やゴールデンバットと相場が決まっていました。タバコの銘柄で懐具合が判るという次第です。 今でも中国や朝鮮には階級によって吸うタバコの銘柄が違うという前世紀的な習慣が残っています。

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今より女性の和服が一般的だった時代、銘仙は普段着、お召はよそ行きの晴れ着でした。 しかしそれ以外に大きな価格の差があり、裕福な人はお召、庶民は銘仙という区別があったのです。その辺りの話は、菊池寛の戯曲「時の氏神」にも登場します。

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甲府を離れてから、それぞれに違う人生を歩んだ安東家の三姉妹は、全員が揃ってみると、皆、着ている服が違います。やはり花子が一番裕福で恵まれている・・と彼女たちの台詞を聞かなくても分かります。それが優秀な演出というものでしょう。

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無論、「花子とアン」だって苦言すべき点は多くあります。

花子と蓮子が「腹心の友」だというのも解せません。普通、腹心・・・という場合、上下関係があって、上の者が下の者を評する時に使います。「腹心の部下」や「腹心の子分」という具合で、詳しく言わなくても、部下は自分の思いや考えを察して動いてくれる存在・・という場合に使います。

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対等な友達関係なら・・「肝胆相照らす仲」という表現がぴったりですが、女学生同士の場合に、この漢文調の言葉はしっくりとしません。だから「腹心」と表現したのかなぁ? 

それと「虹色」という主題歌に登場する歌詞の「空は高鳴る」という言葉もいけません。

高鳴るのは心臓の鼓動であり、胸が高鳴るのです。空が単純に高い・・でいいのです。 どうやら、ストーリーで重要な意味を持つ「ニジイロ」と頻繁に登場する言葉「パルピテーション」をくっつけたかったのでしょうが、どうもね。

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アラ探しばかりしていると、「笑うオヒョウ」の品格も下げてしまいますので、批判はそこまでにします。

これから物語は、昭和の戦争の時代に入っていきます。その時代の経験者にはご存命の方も多くおられます。時代考証のアラもどんどん見つかるでしょうが、それで興味を無くされたり、人気が衰えるようでは、それまでのドラマです。 吉田鋼太郎が出なくなった後も、このドラマをうまく引き締めていけば、そんな事にはならないでしょうが・・。

 

 

 


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