SSブログ

【 人間・山本五十六 その4 】 [新潟県]

【 人間・山本五十六 その4 】 

軍人や官吏は、身分・職階によって、権限が大きく異なります。そして、そこで働く人にとって、出世する事、昇進する事は、無条件で良い事とされます。だから、皆さん、上の地位に就く事を目指すのですが、オヒョウが、傍から観察した結果では、偉くなった人々は、その人生観によって2種類に分類できる事に気づきます。

・・・・・・

一つは、出世自体が目的であった人々。もう一つは、何かを実現するために、出世する必要があった人。つまり出世自体は目標ではなく手段であった人。

・・・・・・

出世自体が目的であった人々は、偉くなるために精根を使い果たすので、偉くなってからはろくな仕事をしません。最近の総理大臣は、たいていその口です。 一方、偉くなってから何かをしようと考えていた人は、確かに偉くなってから活躍するのですが、その前に潰される人も多いのです。

・・・・・・

山本五十六の場合、出世する事が目標ではなく、出世した後に行うべき事を、真剣に考えていたことは明らかです。

・・・・・・

軍隊では、その地位によって、考える事が異なります。

下士官や兵は、具体的な作戦の遂行を考えます。

尉官や佐官は、戦術を考えます。 そして部下の兵の事を考えます。

将官は、戦術だけでなく、戦略を考えるべきです。

もっとも、戦術と戦略という分類が、戦前の日本軍に明確にあったかは不明ですが・・・。

・・・・・・

そして最後の政治的な判断は、文民統制の場合、文官が行いますが、戦前の日本では文民統制ではありませんでした。このため政治や外交については能力不足とも思える武官が政治判断を行い、そして失敗しました。

・・・・・・

山本五十六の場合、米国駐在武官時代に石油資源の状況などを詳しく調査しています。 これは戦術ではなく、広義の戦略というべきものです。もし日米戦わば、勝敗の帰趨を決めるのは、個々の作戦の巧拙ではなく、戦略物資・資源の量だと見抜き、その研究をしています。彼は佐官の時代から、戦略を考えていたのです。

・・・・・・

だから、彼が戦略を決定しうる高位顕官に就いた時点で、若かった頃の研究成果をもとにして、石油資源確保の作戦を立案するか、開戦を止めるべく活動する事になります。

・・・・・・

実際、彼は石油が不足するため長期間戦えないと、分かっていましたし、開戦を阻止すべく行動してもいますが、どうも不完全です。本気で石油の事を研究していれば、以下の2点の失敗をしなかったはずです。

・・・・・・

1.開戦後に南方に進出し、インドネシアのパレンバンの油田と精油所を確保するという、泥縄的な南方作戦を実行した。(パレンバン油田の採油量は、日本の戦争遂行に、かつかつ足りる量だったようですが、インドネシアから日本への輸送の困難を考えると、全く十分ではありません)。

・・・・・・

2.黒龍江省(旧満州)での石油探査を徹底して行ない、戦後発見される大慶油田を活用する事ができたはずなのに、見落とした。もし戦前、または戦中に大慶油田が発見されていれば・・・、戦局は大きく異なったはずだし、或いは太平洋戦争は無かったはずだ・・・という、歴史のifを考える人はたくさんいます。

・・・・・・

実際には、戦前に日本軍は、黒龍江省で若干の石油埋蔵を確認したが、重質油で高粘度の特性だったため、当時の日本の技術では採掘できないと判断したとか、油層が地下1000m以上の深さにあり、当時の技術では採掘できなかったと言われていますが、どうも腑に落ちません。

・・・・・・

油田の採掘可能深さは、4種類の技術で決まります。

1. 大深度の油層を発見する探査技術。

2. 大深度まで掘る鑿井技術。

3. 大深度に到達し、機能する油井管の技術。

4. 大深度から高粘性流体を吸い上げる、汲み上げ技術。

・・・・・・

どれも、当時米国が最先端であったのは事実ですが、日本の技術が極端に遅れていた訳ではありません。開戦前の時点で深さ3500m程度の油田掘削は可能だったと聞きます。ちなみに、3の油井管とは、高性能の継ぎ目なし鋼管ですが、その製造技術は、大砲の砲身製造技術と共通点があるそうです。オヒョウは全くの素人ですが、その分野で当時日本が極端に遅れていたとは思えません。

・・・・・・

大慶油田については、油層を確認したものの、その採掘可能性を真剣に検討せず、放置したというのが真相だと思います。 つまり政府や軍部が予想される石油不足を、重大な問題だと認識していなかった訳で、山本五十六らのアピールが足りなかったのだと、オヒョウは思います。

・・・・・・

海軍に比べ陸軍は、燃料不足の深刻な意味を理解していなかったとも言えますし、旧満州は関東軍の支配下にあり、海軍が介入できなかった可能性もあります。事情を知っていた海軍の人々の意見は通りませんでした。

・・・・・・

いずれにしても燃料の手当については、完全に準備不足のまま戦争に突入した訳で、偉くなったら使うはずだった山本五十六の知識は使われないままでした。 彼は開戦時点で既に無念だったに違いありません。

・・・・・・

翻って、今の日本のリーダーに、若い頃の研鑽があったのか疑問です。 通勤途中の電車の中で思いついたようなマニフェストを掲げても、勉強不足はすぐに露呈します。

・・・・・・

CO2 25%削減という、鳩山イニシアチブも、若い頃から彼が地球物理を真剣に研究した結果ではないでしょう。 

・・・・・・

沖縄の基地問題も60年以上前からありますが、若い頃からこの問題を真剣に考えてきた政治家は、本土にはいないかも知れません。

(一部、現実離れした提案をする政党はありますが)。

首相の普天間飛行場移設案には、案と言えるものですらありませんでした。

・・・・・・

偉くなる前の段階で、各々「偉くなり、権限を持ったら、あれを実現しよう。その為には、今、これを勉強しよう・・」と考えて行動しなかった人達が、国政や地方自治の桧舞台に立ちます。

偉くなる事が手段ではなく、それ自体が目標であった人達に、政治判断が委ねられています。


【 胡瓜と総理大臣 】 [新潟県]

【 胡瓜と総理大臣 】 

朝、工場の同僚が雑談をしています。畑のキュウリが美味しくできあがり、毎朝畑でもいでいるとの事。ちょっとしたキュウリ自慢です。

「自分ちの畑で穫れたキュウリを食べると、スーパーで売っているキュウリなんて、不味くてとても食べられないね」

「全くだ。うちなんて、孫が来ても家の中に入らず、まっすぐに畑に行って、キュウリをもいで来るのさ。 孫もうちのキュウリが大好きで店で売っているキュウリなんて食べないよ」

畑も家庭菜園もないオヒョウとしては、黙って聞くしかありません。

・・・・・・

一般にスーパーなどで売っている野菜と、畑でとれたばかりの野菜では、味も栄養も違い、当然ながら後者の方が良いとされます。では、それはなぜでしょうか?

・・・・・・

雁屋哲の漫画「美味しんぼ」では、畑で完熟させたトマトこそ美味なるもので、完熟前に収穫した店頭で売っているトマトなど、賞味に値しないと切り捨てています。 トマトの場合、畑から店頭までの物流に要する時間や、店頭での販売可能期間の確保を考えれば、どうしても完熟前の緑色の段階で収穫しなければならない訳で、しかたないのですが、完熟度の違いは味に影響するでしょう。お店で野菜を買うしかない一般消費者には、どうしようもない事なのですが・・・。

・・・・・・

同じような話は、バナナでもあります。まだ緑色のうちに収穫し、倉庫内で炭酸ガスによって黄色にして店頭に並べる訳ですが、バナナ園で完熟したバナナを食べれば、もっと美味しいのかも知れません。

・・・・・・

しかし、キュウリの場合は、事情が違うようです。同じ様に畑のキュウリとお店のキュウリの味が違うとしても、理由は正反対の様です。そこで昔、母に聞いた話を思い出しました。

・・・・・・

母が教えてくれたのは、昔、家政学の授業で、母が学んだ科学実験です。野菜や果物の栄養価を同定する実験だったのですが、キュウリを分析してもなぜかビタミンCが抽出されません。緑色野菜の典型の様なキュウリだから、当然ビタミンCが含まれているだろうと予想したのですが、結果はゼロです。何度実験を繰り返しても同じ事なので、途方に暮れたところで、先生が、「そうです。このキュウリにビタミンCは無いのです」と説明されたそうです。

・・・・・・

なぜキュウリにビタミンCが無いのか?・・・母の長年の疑問でしたが、その解答はやがてオヒョウが知る事になります。実は取り立てのキュウリにはふんだんにビタミンCがあるのですが、急速に劣化して失われるとの事。 従って新鮮でないキュウリからはビタミンCが検出されないのです。

・・・・・・

つまり女子大で実験用に準備したキュウリは、店頭で調達したもので、新鮮ではなかった・・という事になります。先生はキュウリのビタミンCが急速に劣化する事を考え、敢えて家庭の台所に合わせて古いキュウリを用意したのか、それとも古いキュウリしか入手できなくて仕方なくそうしたのか・・不明です。 それにしても、先生はその事を学生に教えるべきだったのですが、なぜ言わなかったのか?言っても仕方なかったからなのか?

・・・・・・

子供の鋭敏な味覚は、ビタミンCの喪失と同時進行するであろう、味の劣化も感知し、新鮮なキュウリにこだわるのかも知れません。

・・・・・・

知らぬが仏とは言いませんが、キュウリの鮮度の劣化が早く、現在の流通機構ではそれに対応できない事を、社会的に訴えても、現実問題として解決策が無ければどうしようもありません。生鮮食料品を扱うスーパーマーケットからは、営業妨害だとクレームされるかも知れません。

・・・・・・

しかし、キュウリについては、これまで流通システムについて、いろいろな議論がされています。 例えば、まっすぐなキュウリには商品価値があるが、湾曲したものは捨てられるが、それは怪しからん・・とか、いや箱詰めの際、まっすぐでないとパッキング出来ないので湾曲品は逆に高くつくので使えないのだ・・とか、それなら福神漬の材料にすべきだ・・とか、オヒョウから見れば、くだらない議論ばかりがマスコミに登場します。

・・・・・・

それなら野菜の鮮度を確保する方法について、もっと議論すべきではないか?流通システムを変革すれば、改善の余地はあるはずで、全ての消費者が、畑でもぎ取ったばかりの完熟でかつ新鮮な野菜を食べる事が可能になるはずです。 しかしその議論はないなぁ。 干渉されたくない小売業者や流通業者が検討を妨害しているのかな?

・・・・・・

ところで、鮮度が肝心と言えば、日本の政治家もそうです。新政権が発足すれば、最初は高い支持率を示すのですが、急速に低下します。その下降曲線たるや指数関数的です。 その結果、どの政権も短命です。

サミットやG20に集まった各国の首脳から、「日本からの出席者は、毎回顔が違うね」と揶揄されたら、どう答えましょうか。オヒョウならこう言います。

「日本人は食べ物の鮮度に特にこだわる民族だ。同様に総理大臣も鮮度が劣化したら我々は支持しないのさ。 残念ながら昨今の政治家はまるで鯖かキュウリの様に急速に色褪せる。 だから交換するしかないのさ」 

「権力は必ず腐敗する・・と言ったのは、西欧の人だけど、我々は腐敗以前に、ビタミンCがなくなったら、人々は見向きもしないのさ」

・・・・・・

古いキュウリしか食べず、雑談の輪に入れないオヒョウですが、最後に一言、話しました。「博多の人々は、祇園山笠の期間はキュウリを食べないそうですね。旬の季節なのに勿体無いことです」

しかし、新潟人の同僚は、オヒョウの発言には無反応でした。


【 人間・山本五十六 その3 】 [新潟県]

【 人間・山本五十六 その3 】 

山本五十六を評価する声に、彼が偉大なる指導者かつ教育者であり、部下・後輩から慕われた人だった・・というものがあります。実際、彼に接した部下・後輩をして、尊敬せざる能わざるの人物だったようです。 そして彼は優秀な部下を重用し、思う存分の活躍の機会を与えています。 もっとも、マリアナ沖の空戦で七面鳥撃ちみたいな一方的な敗北を喫したのも、部下に「生きて帰ってくるな」と言って出撃させる特攻作戦を立案したのも、山本五十六が育てた部下達ですが・・・・。

・・・・・・

実は上司が後輩思い/部下思いであるという事は、えこ贔屓と紙一重です。

・・・・・・

部下の査定を経験した人なら分かりますが、人事評価の査定ポイントはゼロサムです。誰かに加点すれば、その分、他の誰かを減点しなくてはなりません。

・・・・・・

優秀な部下を育てた人、部下思いという評判の人を調べてみると、本当に親身になって指導したという事もありますが、人事評価にメリハリを付けた人だという事が分かります。

・・・・・・

普通の上司なら、2人の部下に対して、60点と40点と査定するところ、特にメリハリを付けて、80点、20点の査定を付けたとします。80点を貰った人は感激し、より職務に励みます。頑張る事と、特別に高い評価点を貰った事で、その部下は、さらに高い地位で大きな仕事をして昇進します。 その人は、当然上司に指導していただいたおかげだと語り、査定した上司は、良き指導者または名伯楽と言われます。

・・・・・・

問題は20点を付けられた方が、どう思うかですが、低査定を貰った人には発言の機会もありませんから、彼らの声は無視されます。高査定を貰った人だけが目立ち、その上司もよき育成者として、評価されます。 だからそれを狙う人は、査定のコントラストを強くします。 

・・・・・・

しかし実際のところ、メリハリをつける事、評価のコントラストを強くする事が、良い事か否かは難しい問題です。ただ言える事は、より伸びる部下を育てる為に、意図的にメリハリをつけ過ぎるのは、公平ではなく、組織にとっても悪いことだという事です。

・・・・・・

オヒョウが駆け出しのサラリーマンだった頃、名工場長、名部長とうたわれた上司がいました。工場の多くの部下の心をつかみ、若い部下を感激させ、尊敬させる人物でした。 その人の指導を受けた人は多く、幹部に昇進した人も大勢います。その一人は、今某製鉄会社の副社長です。 しかし、殆どの部下から慕われるとは、どういう事なのだろうか・・?やがてからくりが分かりました。

・・・・・・

その部長の乗った飛行機が墜落して不帰の人になったのです。その日、オヒョウは会社にいませんでしたが、後で聞いたところでは、搭乗者名簿にその部長の名前を発見したとたん、職場では「ざまあ見ろ!」と歓声をあげ、拍手した人がいたとのことです。 実にさみしい話ですが、 その人は、その部長から不当ともいえるほど低い査定を受けて冷遇されていたのです。

・・・・・・

言われて考えてみれば・・・・、その会社では副長(参事補)段階では、追い越し人事は非常に稀なのですが、製鋼部では、懲罰的とも言える昇進遅れがありました。 同じ課の中で大学の後輩に追い越される屈辱を味わった人もいたのです(拍手したのは別人ですが)。 ゼロサムの人事評価の中で誰かを抜擢すれば、誰かを低く評価せざるを得ません。

・・・・・・

五十六の人物像を読むと、この部長の事を思い出しました。山本五十六も人事評価にメリハリを付けた人物ではなかったか?今、山本五十六を絶賛する人は、彼に評価してもらった人達です。では低く評価され、冷遇された人はどうなったのか? 語る機会もないまま南溟に沈んだのかも知れません。

・・・・・・

彼は、郷土の後輩に対して面倒見のいい人物としても知られています。郷土の後輩が彼を頼ればこころよく面倒を見、一方で長岡の後輩でありながら自分に頼ろうとしない人物についても評価しています。「彼は、コネに頼ろうとしない。見所のある男だ」と褒めています。

・・・・・・

「人間・山本五十六」には海軍提督の来阪に合わせて、大阪で長岡中学の同窓会を緊急招集した時の話があります。 住友財閥にいる彼の後輩が、一定時間住友本社の全電話回線をストップさせて、関西地区のOB呼び出しの為に電話をかけさせたというエピソードがあります。(当時、住友財閥は合資会社で、グループ全体で一つの会社でした)それに感心した山本五十六は、住友の重役に、無名の管理職だったその後輩 「秋山君をぜひ宜しく」 と頼んでいます。その結果、ほどなく秋山氏は、住友の重役に抜擢されています。

・・・・・・

あれ?まてよ? 今も住友グループに秋山さんという有名な幹部がいるな。彼のご子息かな・・・?それにしても「人間・山本五十六」ではこのエピソードを美談として取り上げていますが、果たしてそうか? 住友本社にとってはたまったものじゃありません。

・・・・・・

山本五十六の長岡贔屓、後輩贔屓は、取りも直さず、他の地域の出身者にとっては差別に過ぎないのですが、その視点が、山本五十六の人物像を語る時に欠落しています。 そしてそれが海軍の為によかったかは疑問です。

・・・・・・

明治維新の際、賊軍の汚名を受けた長岡の人々が名誉を獲得するため、団結して奮闘したというのは、美談でしょう。 昭和に到るまで、薩摩出身者の閥が残った海軍で、伊予松山出身の秋山真之や、長岡出身の山本五十六が奮闘したのも、事実でしょう。また明治人には自分の郷土へのこだわりと、ふるさとを共にする人々の仲間意識が特に強かったのも事実でしょう。

・・・・・・

しかし、国全体を考えた場合、結果としてそれらが組織の弱体化をもたらしたのだと、オヒョウは思います。

・・・・・・

それはともかく、部下をひきたてようにも、えこ贔屓しようにも、自分にその権限がないとできません。つまり昇進しないとできません。次号では、そのあたりについて管見を述べます。


【 店の名前 その2 】 [新潟県]

【 店の名前 その2 】 

人間・山本五十六という本を読んでいると、記述内容が極めて精確な部分とかなり大雑把な部分が登場します。

・・・・・・

大雑把な部分の代表は、五十六自身が大東亜戦争開戦前に「1年半くらいは暴れてみますが、それ以降は責任が持てません」と語った内容です。 何時、彼が誰に対して発言したものか・・が、ややあいまいです。

同書によれば、近衛公の手記の引用として「昭和15年、荻外荘で近衛首相と山本五十六が面会した際、初め半年や一年の間の間はずいぶん暴れてご覧に入れる。然しながら二年三年となれば全く確信は持てぬ」となっています。

同時に、山本大将の参謀長だった福留氏の証言として「昭和十六年一月に、再び近衛公に会い、持続が一カ年半と説明した」と、なっていますが、歴史の証言とするには、正確さが今ひとつ欠けます。

・・・・・・

一体、山本五十六はどう発言したのか?というオヒョウの疑問に対する回答にはなっていません。

 一方で、非常に精確に記載されている箇所もあります。彼が、星ヶ岡茶寮で安岡正篤らと会食した話などは出席者や日時が正確に書かれています。さらに詳しい記載もあります。五十六や、彼の親族が長岡から上京した際に利用した旅籠と宿賃までが記載されています。

・・・・・・

鉄道の上越線が無かった明治時代、彼らは徒歩で直江津まで来て、「いかや」という宿屋に泊り、翌朝、信越線の列車で長野・高崎経由で上野に向かっています。 宿賃は125銭なり。明治33年当時の「いかや」の宿賃が正確に記載されています。

・・・・・・

「いかや」というのは、オヒョウが直江津の地で最初に泊まった宿屋ですが、そんなに古くからあるとは知りませんでした。 今は「センチュリー・イカヤ」とかいう、洒落た名前になっていますが・・・。

・・・・・・

私の為に「いかや」の予約を手配してくれた先輩に「『いかや』とは面白い名前ですね」と話すと、「ひょっとしたら、昔は魚屋だったのが、鉄道開通に合わせて宿屋を開業してそれが本業になったのも知れないね。商売は変わっても、屋号は残したということかも。 でも、お店の名前が面白い・・という点では君の家がある鹿島はもっとすごいじゃないか 」

・・・・・・

そう、茨城県鹿嶋市には変な名前のお店がたくさんあるのです。直江津のうわてを行きます。学校を出て、その街に暮らし始めたオヒョウはちょっと面食らったのを覚えています。

・・・・・・

げたやというのは 実は天ぷら屋、

イシヤというのは、石材店の近くにあるけれど、実は写真屋、

あまさけ屋というのは、実は家具屋、

鍛冶屋というのは、製鉄所の事かと思えば、さにあらず,せんべい屋の事なり・・・。

・・・・・・

後年、シカゴから鹿島に転勤になった同僚夫婦に、オヒョウが鹿島の街を面白おかしく紹介した際にも、この店の名前の食い違いというか、商売との不一致を紹介しました。 まるで間違った組み合わせのフリップフロップみたいな名前と屋号の不一致に彼らも驚いたのですが、この現象は歴史の浅い街では、あまり見かけません。歴史のある、鹿島と直江津の数少ない共通点かも知れません。

・・・・・・

話が著しく脱線しましたが、次号では再び、山本五十六の人物像について管見を述べます。


【 人間 山本五十六 その1 】 [新潟県]

IMG_0002.JPG

【 人間 山本五十六 その1 】

匿名さんのお薦めにより、反町栄一氏の著作「人間・山本五十六」を図書館で借り、先ごろ読了しました。初版は昭和20年代の本で、買い求める事は困難ですが、昭和39年版のものが、市内の図書館では郷土史のコーナーに置いてあります。 長岡出身者に関する書籍が上越市の郷土史の資料に該当するか?という質問はさておき、山本五十六を研究する上では、貴重な資料と言えます。 読み終えると同時に、よい本を紹介していただいた・・と感謝の念を持った次第です。

・・・・・・

なにより、著者が直接五十六本人の謦咳に接し、その薫陶を受けた人物であり、登場するエピソードの多くが伝聞ではなく、著者が経験したり確認した事実であるのがすばらしいと言えます。

・・・・・・

「そうか、昭和期の人物であれば、直接会った人の記録や記憶があるから、信ぴょう性が極めて高い文献を作成できる・・・。これが明治期だとこうはいかない。直接会った人が皆他界しているので、エピソードが伝聞になる。従って、そこにフィクションの入る余地があり、作者の思想が入ってしまう・・・。」

・・・・・・

山本五十六は、厳密には昭和期の人というより、明治・大正期の人物と言うべきかも知れませんが、まだ彼を知る人が多く存命です。 司馬遼太郎などは、幕末・維新・明治期を背景にした作品を多く書きましたが、この時代となると、本人を知る人から直接インタビューする事は困難です。だから、彼の作品の多くは小説になるしかありませんでした。 もっともそれでよかったとも言えますが・・・。

・・・・・・

無論、この反町氏の文献にも問題は多くあります。

1.     複数の人から聴取したため、同じエピソードや記述が重複して登場します。 これは、そのエピソードの信ぴょう性を確保する上ではいいことですが、本の構成としては難があります。

・・・・・・

2. 証言した人が、全員、山本五十六ファンであり、当然ながら褒めるべき話や、いい話しか登場しません。贔屓の引き倒しになりかねません。人物像を語る文献では、褒める話7割り、貶す話3割の比率が適当であるとオヒョウは考えます。 その方が中立的な評価ができ、人物像の彫りが深くなります。

・・・・・・

3. 資料文献としてみた場合、記述方法に曖昧さがあります。発言内容に対して、主語が省略され、山本五十六本人が話したのか、周囲の人物が話したのか、それとも著者の意見なのか、判然としない箇所が一部にあります。

・・・・・・

4. 若干、不正確な記述があります。例えば、女子高等師範(現、お茶の水大学)と書くべきところを、単に高等師範(現、筑波大学)と書いています。

或いは、五十六の実兄の死に際して「あるたけの花投げ入れよ棺の中」という俳句が登場しますが、誰が詠んだものか書いてありません。 五十六本人か?或いは著者か? そして困惑することに、それとそっくりの俳句をオヒョウは知っているのです。夏目漱石が、初恋の人である大塚楠緒子が亡くなった時、それを悼む句として「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」と詠んでいます。

・・・・・・

時代的には漱石の句の方がかなり昔です。漱石の俳句は友人正岡子規に教えられたものですが、独自の趣があり、他の人の俳句とは全く違います。 どうみても、五十六が上記の句を作ったとは思えないのですが・・・。

・・・・・・

欠点をあげつらうのは本意ではありません。オヒョウはこの本に書かれた五十六の人格の魅力について書きたいと思います。

・・・・・・

多くの偉人伝を読む時、読者は主人公と自分に共通した部分と、共通しない部分を見出し、敏感に気づきます。前者については親しみを感じ、後者については畏敬の念を強めます。ひとつひとつのエピソードについて書くときりがありませんが、一部を書きます。

・・・・・・

オヒョウの場合、ニヤリと笑いたくなったのは、やはり五十六の海外駐在時代のエピソードです。

「三食きちんと摂る必要などない」とか「外国語の習得は、最初の短期間に集中して努力しなければ駄目だ。 その機会を逃すと、その後だらだらやっても身につかぬ」という彼の意見には全く同感で、オヒョウにも経験のあるところです。

・・・・・・

また、この本には、彼が人情家で、同輩や後輩思いの人格者であった事を示すエピソードが再三登場します。殉職した部下の氏名を手帳に書いて肌身はなさなかったとか、郷里の後輩の就職に奔走したとか、苦学する少年の身の上を聞いて涙していたとか、リストラされた親友堀悌吉を思って憤慨した・・という話です。

・・・・・・

日本では思いやりのあるリーダーが最も慕われます。そして目下の者を慈しむ人物は、尊敬されます。彼はその条件を満たしています。そして、彼の人生観を示す記述も、ところどころに登場します。その多くは人口に膾炙したものですが、それらが後世に作られたものではなく、実際に彼が発言したり、書き記したものである事を確認するだけでも一定の価値があります。

・・・・・・

彼は詩作に優れ、能書家で、文学の教養にも富んでいましたが、その教養を端的に示すものとして、ある歌人が詠んだ「乃木将軍を稍々口悪く、素っ気なく描けば そこに山本がいる」という言葉は実に妙です。

・・・・・・

しかし実際には、山本五十六の軍人としての才能は、乃木希典にはるかに優っていたはずです。彼に限らず、明治時代に教育を受けた教養人は、すべからく漢籍を読み、英語を理解した訳ですが、その中で山本五十六個有の部分とは何か、或いは、他の人々と共通の部分は何か、次号で検討したいと思います。


【 山本五十六記念館 その3 親ドイツ派との対立 】 [新潟県]

isoroku-kinennkan s.jpg

【 山本五十六記念館 その3 親ドイツ派との対立 】 

誰もが口を揃えて言うのですが、山本や米内、井上らは、米国に負けた以前に、日本国内の親ドイツ派に負けた・・のだそうです。

・・・・・・

陸海軍に限った事ではなく、明治期~太平洋戦の間の知識階級の間では、親英米派と親ドイツ派が存在したように思います。今回は五十六を離れて、親ドイツ派について考察します。

・・・・・・

オヒョウが思い出すのは、中学校の時に聞いた、中川善之助先生の講演です。 ちなみに、ドイツ法学(民法)の泰斗であった中川先生は長く東北大学で教鞭を取られ、今でもキャンパス内に中善並木と言う名前の通りがあるそうです。 一教官の名前が、キャンパスの地名に採用された例は、これと東大本郷キャンパスの矢内原門の2つしかない・・・とオヒョウは思っています。(他にありましたら、ご教示を)。

・・・・・・

以前、東北大学の法学部を卒業した女性に中川善之助の話をしたところ、彼女はその存在を知りませんでした。 東北大学の金属工学科を卒業した人達にも尋ねましたが、ひとりを除いて彼らも知りませんでした。(まあ冶金屋は知らなくても仕方ありませんが)。

・・・・・・

その中川善之助先生が、オヒョウの中学校で昔話をされた事があります。「私が、大学でドイツ法学を学んでいた頃、第一次大戦があり、ドイツが敗北した。 私はドイツが滅んだのに、このままドイツ法学を学び続けるべきか悩んで教授に相談した。その時、先生は『国が滅んでも、ドイツ法学が滅ぶ訳ではない。研究を続けたまえ』と言われて、私は迷いが吹っ切れた」というエピソードです。

・・・・・・

国家が滅んでも、文化や学問、芸術が滅ぶ訳ではない・・というのはその通りです。 (一応)第一次大戦の戦勝国であった日本は、敗戦国のドイツを侮る事なく、自然科学の分野でも芸術でも社会科学でも、レスペクトする状態が続きました。

・・・・・・

そのドイツへの偏愛的な思い入れが、ワイマール共和国後に成立したチンピラ政権とも言うべきナチスドイツに日本が肩入れする事につながり、やがて国を破滅させた・・とオヒョウは考えます。

・・・・・・

しかし、このドイツへのレスペクトというのは、日本だけではないのです。中国に暮らして、彼らも似た思いを持つ事を知りました。第一次大戦前、山東半島(青島)の辺りは、ドイツの植民地でした。当然、中国人はそのドイツに対して反感を抱いてよいのですが、実態はそうではありません。 ドイツが持ち込んだワイン醸造技術は見事に開花し、ビールの醸造技術もドイツに学んだもの・・と中国人は理解します。山東省の長城ワインも青島ビールも、いまや生産量世界一です。

・・・・・・

かつてドイツ風の街並みだったという青島は、巨大な近代都市になってその面影をなくし、一部の人からは惜しまれています。黄海の対岸にある遼東半島の大連がロシア風の街並みを残すのとは対象的です。

・・・・・・

ワインやビールだけではありません。 つい10年前まで、中国を走る乗用車はほとんどドイツ車でした(中国との合弁メーカー製)。上海浦東空港と都心を結ぶリニアモーターカーはドイツのそれです。上海の地下鉄1号線はシーメンスです。

・・・・・・

本当は技術と品質に関しては、日本製もドイツ製と並んで素晴らしい事を彼らは知っていますが、日本をレスペクトする事には心理的に抵抗があるのかも知れません。

・・・・・・

そして、それをよく理解できるのは、トイレです。中国ではトイレの便器は、品質ではTOTOブランドを最上としますが、高級イメージではKohlerブランドも互角です。中国では、マイホームを購入した同僚にトイレの便器を自慢された事がありますが、それはKohlerブランドでした。便器はともかく、中国人はドイツの技術とドイツ製品が好きなのです。

・・・・・・

脱線が長くなりましたが、戦前の日本にもドイツファンがたくさんいた訳です。 そして親英米派と対立した訳でしょうが・・・、悲しいかな、両方について詳しく、中立的な立場から判断できる人がいなかったのでしょう。 アメリカ人にも、イギリス人にも、ドイツ人にも尊敬にあたいする友人を持ち、ドイツの実力もアメリカの実力も知っている人が、政府や軍部の指導者にいたなら、太平洋戦争は避けられたかも知れません。

・・・・・・

山本五十六の遺品には、オーストリアのウィーンからの葉書があります。しかし、彼はドイツについては、詳しくなかったのかも知れません。彼が海軍兵学校で選んだ第二外国語が、ドイツ語なのかフランス語なのか・・・、記念館にはそれを示す資料はありませんでした。


【 山本五十六記念館 その2 】 [新潟県]

isoroku-kinenkan002.jpg

【 山本五十六記念館 その2 】 

よく巷間に言われる事ですが、日米開戦不可避となった時、山本五十六は「2年間は、思う存分に戦ってみせるが、後は責任が持てない」と語ったそうです。 但し、資料によって微妙に言い回しが違うので、何時、どの場面で語ったのかはオヒョウには分かりません。

・・・・・・

実際には、ミッドウェイ海戦で日本海軍は勝ち目を無くした訳ですから、2年間はもたなかった訳です。 米国の実情をつぶさに把握している五十六でさえ、判断が甘かったか?と オヒョウは思います。

・・・・・・

彼の気持ちを忖度すれば、武人としてやるだけの事はやるけれど、外交交渉で、2年以内に戦争を終結させてくれ・・・という事でしょう。彼は外交に期待していたのでしょう。 海軍次官であった五十六が、対米交渉や国の政策についてどれだけの発言力を持っていたかは疑問です。 彼には、戦争を防げなかったし、始まった戦争を止める事もできなかったのは事実でしょう。しかし不可解です。

・・・・・・

今だから何でも言えますが、上手な喧嘩とは、落とし所と、終了するタイミング、仲裁役の3点を念頭に置いて始めると言います。太平洋戦争ではそれがありませんでした。

・・・・・・

完全に勝てる戦争ならともかく、そうでない場合は、終戦の方法を予め考えてから、戦争を始めるべきです。勝負事がとりわけ上手だった山本五十六の場合、それが分からないはずはありません。 そしてアメリカ人の性格を知っていれば、日本から仕掛けた戦争に、彼らが適当なところで妥協して、和平に応じる可能性が無いことも理解していたはずです。

・・・・・・

山本五十六の戦略として、真珠湾で相手の出鼻をくじけば、アメリカはそれまで侮っていた日本を見直し、戦意を喪失して早い時期に終戦・講和できるのでは?と踏んでいた・・・という説がありますが、オヒョウには信じられません。

・・・・・・

また、卑怯な行いを特に憎むアメリカ人の性格を理解し、真珠湾攻撃がだまし撃ちにならないよう、何度も「in timeか?(最後通牒は攻撃開始に間に合うか?)」と確認したという話がありますが、それもちょっと信じられません。 米国を攻撃するのに、わざわざ英語で尋ねる辺りが面白いと言いますが、ちょっと不自然です。

・・・・・・

映画「トラ・トラ・トラ」には山本が最後に「アメリカを怒らせてしまった」と憂慮する場面が登場しますが、それは事実かも知れません。でも、そんな事は攻撃する前から予想された事ではないか? 戦争を避けたかった名将が、どうしてその愚を犯したのかが分かりません。

・・・・・・

ひょっとしたら、彼はバクチにでたのではないか?戦争に勝つ確率は明らかに低いけれど「天佑を保有する」日本帝国ですから、ひょっとしたら勝てるかも知れない・・・。この発想は、借金で追い詰められた男が、イチかバチかに期待して、有り金全部で大穴馬券を買うのに似ています。1億人の国民の生命財産と、日本という社稷を託すには乱暴過ぎます。

・・・・・・

ミッドウェイ海戦の敗北後、賭けに負けた事を悟った山本五十六は、責任をとって自ら死地に赴こうと、ブーゲンビルの前線視察に出かけたのかも知れません。 前線の指揮官に、珍しいスコッチウィスキーを届ける為に出かけたという説もありますが、真偽は不明です。

・・・・・・

頭脳明晰な彼は、ミッドウェイ海戦後、逆立ちしても日本に勝ち目が無い事を知っていたはずです。 その後も生き残って敗戦処理に力を尽くすべきか、潔く戦死すべきかという判断に迫られたのかも知れません。昭和17年のハムレットです。

・・・・・・

残骸として回収された一式陸攻機の主翼はそれほど壊れていません。一緒に回収された長官座席は、小さなジュラルミン製の椅子で弾痕もなければ、血痕もありません。ひょっとしたら、墜落時に彼は存命だったのかも知れない・・・とオヒョウは予想します。或いは彼は、墜落後に地上で自決したのかも知れません。しかし、その部分は想像です。確実に言える事は彼の椅子は小さく、オヒョウのヒップではとても納まらないだろうな・・という事だけです。

以下次号


【 触れていたのは中指 】 [新潟県]

miroku-bosatu002.jpg

【 触れていたのは中指 】 

昨日、5/29日 オヒョウは長岡に出かけました。「奈良の古寺と仏像展」を見る為です。一緒に行っていただいたのはK部長です。仏像と歴史と飛行機に造詣がある人・・・つまり、オヒョウの貴重な情報源のひとりです。

・・・・・・

以前、このブログでも紹介しました、中宮寺の半跏思惟像(弥勒菩薩)が長岡の新潟県立近代美術館で公開中なので、土曜日を待って我々は出かけたのです。しかし、一方でいやな予感はあったのです。

・・・・・・

前日、長岡に支店のある某商社の人が、オヒョウの勤務先を訪ねてきました。雑談の中で彼は語ります。

「 へえ、オヒョウさんもあの仏像に興味があって、明日出かけるのですか? そりゃ結構ですが大変ですよ。今朝も前を通ってきましたが、美術館の前は長蛇の列でしたよ。平日だし、しかも小雨模様で肌寒いというのにです。 なんですかね。並んでいるのは年配の夫婦が多かったようですが、明日土曜日ともなると、さらに人が押しかけるでしょうね」

彼は続けます。

「文化庁が新潟市の美術館での展示を認めなかったので、すったもんだの末、長岡で開催する事になった事、新潟の美術館長が更迭された事など、随分話題になりましたから、人々に広く知られたのでしょうね。だから人が集まったのでしょうが、明日は土曜日だし、もっと混雑するでしょうね」

・・・・・・

彼の発言はポイントを突いています。以前からの仏像ファンでない人にも今回の美術展は興味深いものであり「弥勒菩薩を見たい!」と思わせる何かがあります。 

「そうか・・・混雑が予想されるのか・・」

・・・・・・

当日朝、上越市を出発して長岡インターで高速を降り、会場に着くと、すでに大勢の人です。駐車場はどこかな?と思っても、どこも満車です。警備の人に尋ねると、この辺りの駐車場は全て満車との事。しかたなく国道8号線を越えた、ずっと遠くの駐車場に車を停めて会場に戻りました。

・・・・・・

「傘は持ってる?」「いや、忘れてきた」 幸いにして雨は降っていませんが、何時降ってもおかしくない天気です。会場を取り巻くように、入場待ちのお客さんが並んでいます。玄関を先頭に、列はずっと続いており、会場を一回りするのではないか・・という長さです。会場の裏手に周り、列の最後尾に付くと、案内係が「ここから約1時間待ちです」と語ります。

・・・・・・

やれやれ、ちょっと肌寒いけれど、5月でよかった。これが、真冬の季節だったら耐えられません。そう、長岡は雪国です。

・・・・・・

実際には、入場待ちの列はスムーズに進み、1時間も待たずに入り口にたどり着きました。しかし、入場券を買い求め、もぎりを過ぎて中に入ると再び長い行列です。館内はごったがえしています。警備の人が、声をからして「携帯電話の電源は切ってください。万年筆は禁止です。ペットボトルや飲料の缶も持ち込み禁止です」と叫んでいます。 しかし列を離れる事ができないので、飲み終わった飲料缶を捨てにいく事もできません。

・・・・・・

ガードマンに缶を示すと「そうですね。じゃ私が預かりましょう」たちまち彼は、ゴミの収集係になってしまいました。展示室の前で再び、ストップがかかります。「ただいま、展示室は大変混んでおります。 入場制限をしておりますので、ここでお待ちください」のアナウンスがあり、3分おきに間欠的に一定人数しか入れません。

・・・・・・

列に並んでいる人々をみると、団塊の世代、もしくはそれ以上の年齢のカップルが多いようです。これは不思議な事です。マスコミに報道された、今ブームの仏像愛好者は若い女性が主体です。アシュラーと呼ばれ、特に飛鳥の阿修羅像を愛好する彼女達は本当に仏像美術を理解するのか、ひとつの流行に過ぎないのか、それはわかりません。しかし、仏像美術で阿修羅像と人気を二分する弥勒菩薩については、若い女性のファンはあまりいないようです。それはなぜか?

・・・・・・

若い女性は、少年のマスクにだけ興味があったのかな?オヒョウはちょっと拍子抜けし、残念な気持ちがしました。少なからぬ観客は年配の人ですが、車椅子を必要とする人はほとんどいません。杖をつく人もいません。 これも不思議な事です。 仏教芸術を愛好する人は健康なのか、それとも健康な人だけが会場に来れたのか?

・・・・・・

おそらく、この地方都市の美術館にこれだけの人が押し寄せた事は、これまでなかったのでしょう。だから係の人は大変張り切っているに違いありません。 混雑はしていますが、混乱は最小限という事で、観客の列は展示室に送り込まれます。

・・・・・・

「主催者は儲かっているだろうね」などと他愛ない会話をしながら、やっと我々は展示室に入りました。

・・・・・・

展示品は、たしかに見る人を圧倒するものばかりです。話題の弥勒菩薩ばかりではありません。どれも素晴らしい美術品です。もし、自分が斑鳩に出向いて、奈良の諸寺を廻って、それらを見学しようとすると、相当の時間が必要です。 今回の美術展に来たのは、実に合理的な判断だった。

・・・・・・

しかし、ある程度の喧騒は我慢しなければなりません。ショーケースの前の最前列にたどり着くのは大変です。幸いにして、オヒョウは身長がありますから、背後から展示品を見る事はできますが、背の低い人には辛いところです。

・・・・・・

背後からは案内係の声が聞こえます。

「前の列の方は止まらずに左に歩いてください。とどまらないでください!」

「やれやれ、何時から日本では、仏像とはせかされながら鑑賞するものになったのかね・・」

・・・・・・

他の展示物では、明るい照明があたっているのに、主役の中宮寺弥勒菩薩半跏思惟像の展示室は、薄暗くなっています。 仏像自体が黒光りする暗い色ですから、下手をすると闇夜のカラスになってしまいます。それでも、顔の表情など、重要なところは確認できます。

「やはり素晴らしい。 最高だ。 ああ、やっぱり頬に触れている指は右手の中指だけだ」 オヒョウは幸せな気持ちになって展示室を後にしました。

・・・・・・

しかし、より専門的な観察をしたかったK部長には、展示室の暗さが困り物でした。

 「あれでは、光背の模様や、裏に何が書いてあったかを確認できないよ。 何であんなに暗くしてあるのかね?」

「或いは、中宮寺の環境をそのまま再現しているのかもね」

「やはり仏像は、本来の場所、つまりお寺に出かけて拝観するのが一番だね」

・・・・・・

全くその通りですが、オヒョウは別の事を考えていました。世の中は3DのハイビジョンTVの時代です。 仏像を非接触の三次元測定器を用いて形状測定し、画面上に立体的に表す事が可能です。テレビの液晶画面でなくても、レーザー光線の干渉を利用するホログラムという古典的な手法でも立体表示は可能です。新潟県でもその方法で仏像を常設展示できるはずです。

・・・・・・

「そうだ、弥勒菩薩のミニチュアのレプリカがあれば、買ってみよう」外の売店に行けば、ミニチュアを売っています。プラスチック製は1万円、ブロンズ製は12万円の価格です。「うーむ、プラスチック製は安っぽいし、ブロンズ製は高価すぎる」結局、我々は小野道風をきめこむ事にしました。

・・・・・・

小野道風・・・かわずにみとれてる・・・大正時代のダジャレです。

・・・・・・

美術館を出た我々は腹ごしらえをする事にしましたが、そこでオヒョウはK部長に話しました。 「この後、山本五十六記念館に行かなくてはなりません」    以下、次号


【 五十六の祭 】 [新潟県]

【 五十六の祭 】 

既に旧聞ですが、長岡市では山本五十六まつりなるものを、516日に開いたそうです。彼の好物とされる、水まんじゅうなどの即売会や講演会が開かれたそうですが、オヒョウは出かけませんでした。

・・・・・・

それにしても、なぜ、今山本五十六なのか? そこが分かりません。長岡出身者には有名人が何人かいます。直江兼続も河井継之助もそうですし、三波春夫もそうです。オヒョウは個人的には大漢和辞典の編纂を行った諸橋轍次博士を尊敬します。(厳密には、直江兼続と諸橋轍次は、長岡生まれではありませんが)。その中で、太平洋戦争開始とも絡んだ人物である山本五十六を選んで讃えて祭をひらく理由がわかりません。 ちょっと興味があります。

・・・・・・

日本の文化では、生きていた人間が死ぬと神になる事もあります。靖国神社には多くの軍人・兵士が祀られますが、一部の軍人は自分の神社を持ちます。乃木希典や東郷平八郎ですが、彼らは戦死した訳ではなく、靖国神社に祀る対象ではありません。 でも未曾有の国難を切り抜けた功績抜群の軍人ということで、神社に祀られたのでしょうか? オヒョウは、坂上田村麻呂も祀られて坂上神社になったのかと思っていましたが、これは違うようですね。 山本五十六の場合、戦死していますが、神社に祀ったり、お祭りをして讃える対象とは、ちょっと違うのではないか?とオヒョウは思います。

・・・・・・

五十六は人気のある軍人ですが、日本を守りきった人物ではありません。 ある種バクチ好きの性格で、太平洋戦争の開戦も彼のバクチの一つだったかのように言う人もいます。 本当にそうなら国民はたまったものではありませんが・・・・。

・・・・・・

彼の場合、頑迷な陸軍と違い、日米の彼我の実力差を認識して、長期戦では勝ち目が無いことを冷静に見ぬいていた事、大艦巨砲主義を廃し、早くから航空戦力を重視する開明的な思想を持っていた事、自ら前線に赴いて戦死した事などから、英雄視され、敬愛されています。同じ海軍高官でも、戦後も生き残り、弁解に終始した嶋田繁太郎などとは大違いです。

・・・・・・

また、山本五十六個人の問題ではありませんが、かつて海軍軍人が日本で格好良く、人気があった理由も考えるべきです。

・・・・・・

戦前の日本では、学歴エリートとして立身出世するには、大別して2種類のコースがありました。 旧制高校から帝国大学を出るコースと、陸軍士官学校から陸大、あるいは海軍兵学校から海大に進むコースです。

・・・・・・

旧制高校=帝国大学のコースを進むには、秀才であるだけでなく、家庭が裕福であることも必要条件でした。 一方、士官学校や兵学校を出て軍人になるコースは、学費がかかりません。衣食住も国家が保証します。 だから、家が裕福でなくても進学可能であり、それらの家庭に育った男子には、立身出世の唯一のチャンスでした。

・・・・・・

明治政府の思惑は2つありました。

国家の近代化を急ぐ上で不足する人材を確保するには、就学の条件を魅力的にして、優秀な人材が集まるようにしなくてはならない。だから育成が焦眉の急だった軍人と教員を養成する学校は、学費を無料とするだけでなく、俸給生活者として通用するだけの奨学金を与えました。 具体的には、高等師範学校、陸軍師範学校、海軍兵学校等です。 

・・・・・・

政府のもう一つの思惑とは、高等教育を裕福な家庭の子供に独占させる事への懸念です。教育の機会を平等にして広く人材を求めなければ、貧しい階層の人達には不平不満も出るし、本当に優秀な人を確保できない・・・という考えです。

だから、お金持ちのための高等教育のコースと、庶民のための高等教育のコースの2本立てで、教育機関を用意しました。

・・・・・・

余談ですが、そのニ種類のエリート達が、お互いに反目したかは歴史の教科書には書いてありません。しかし、二・二六事件や五・一五事件の青年将校の反乱の背景には、ニ種類の人々の相剋があるとオヒョウは考えます。

・・・・・・

小説「坂の上の雲」に登場する秋山兄弟は、官費の学校を卒業して出世していく典型ですが、同じ道に憧れた少年は数多くいたはずです。家庭の事情を考えると、とても旧制高校には行けないけれど、士官学校や兵学校なら進学できるかも・・・と考えた人々です。

・・・・・・

それに加えて、学校側も演出をしました。

兵学校の生徒は、入学後、最初の夏休みに、母校の中学を訪問する事になります。 真っ白な制服を着て、腰には短剣を下げ、二等車で帰省するのです。 二等車・・・というと怪訝に思われるかも知れませんが、これは今のグリーン車に相当します。

・・・・・・

戦前、日本の鉄道の乗客が利用したのは、ほとんど赤い帯が入った三等車で、これは現在の普通車に相当します。 白い帯が入った一等車は、東海道本線などの幹線の優等列車に限られ、地方では見られませんでした。 だから青い帯の二等車とはグリーン車に相当し、これに乗るというのは、地方では晴れがましいことなのです。

・・・・・・

兵学校に入学した先輩の颯爽とした姿を見て、後輩の中学生も兵学校に憧れた訳です。

ちなみに今も横須賀の防衛大学校の学生は、真っ白な制服で外出しますが、短剣は下げていません。それに乗車しているのが京浜急行では、ちょっと格好良くありません。 せめて横須賀線のグリーン車に・・・。

・・・・・・

少年たちが憧れた海軍兵学校を卒業して海軍士官になり、司令長官として最先端の科学兵器を用いた作戦を遂行する山本五十六は、たしかに北陸の地方都市の英雄でありえた訳です。

・・・・・・

しかし、この格好良さは現代に通用するものではありません。

あるアメリカ映画で「軍人は昔ほどもてる存在ではありません」と自嘲気味に主人公が語る台詞がありますが、日本でも同様です。戦争中に人々が憧れ尊敬した山本五十六像を無批判に継承して、今、山本五十六祭を開くのには疑問があります。

・・・・・・

もし山本五十六を偲ぶイベントを開くなら、お祭りではなく、コントラクトブリッジの大会などはどうでしょうか? 海軍士官のたしなみとも言われたブリッジを、五十六は大変好み、かつ強かったそうです。ゲーム機におされたのか、今では愛好者が少ないと言う、ブリッジを広める催しなら、実にスマートだし、格好良いではないか・・・とオヒョウは考えます。


【 一粒の麦死なずば 】 [新潟県]

【 一粒の麦死なずば 】 

ヨハネ書にあるこの有名な言葉は、ジィドの小説の名前にもなっていますが、ちょっと考えると理屈にあいません。一粒の麦が地面に落ちて、もし生き残れば、そのまま一粒の麦だけれど、それが死ねば、多くの麦の栄養になって、多くの作物が実る・・という文章ですが、解釈すれば、自己犠牲には大きな価値があるとか、ものごとの成果はしばしばこの世を去った後に現れる・・という意味でしょうか。

・・・・・・

でも実際には、植物の種子は自分が死ぬのではなく、命を繋ぐ訳でこの例えは少し違うように思います。 ただ、かつては日本の冬の風物詩だった麦踏みを考えると、麦という植物は早い時期に痛めつけられる事で、収穫が増すのは事実みたいです。ヨハネ書とは関係ない事ですが・・。

・・・・・・

そして実社会には、「一粒の麦」というべき現象がしばしば見られます。例えば大企業の倒産です。2001年新潟県の主要企業の一つであったガタテツこと、新潟鐵工所が倒産しました。 倒産といっても、事業そのものがなくなった訳ではなく、生体解剖の様に事業ごとに、別会社になり独立したり、引取先の企業に吸収されました。

・・・・・・

勿論、新会社が全ての事業と従業員を引き取れるはずもなく、多くの人材が流出しました。 地元新潟県のメーカーにとっては優秀な技術者を中途採用できる千載一遇のチャンスだった訳ですが、いかんせん当時はどこの会社も不況のど真ん中で、人材を新規に抱える余力はあまりなかったようです。 新潟鐵工所なごりの人材派遣会社には、今でもガタテツの背番号を背負った技術者集団がいて、非常に高い評価を受けています。

・・・・・・

新潟鐵工所が倒産した時の詳しい事情は分かりませんが、分社化や職場転換、さらに収入の大幅減などで、多くの社員がつらい思いをした事は、インターネットに広く紹介されていました。

・・・・・・

その後、どうなったか・・・。 オヒョウは気にしていなかったのですが、最近案内が届いた技術セミナーの講師には、新潟原動機の技術者がいます。 3D CADの活用についての講演ですが、ああこの会社は新潟鐵工所の原動機部門が分社化したものだと思い当たりました。

・・・・・・

そして、ボンヤリと考えたのですが、新潟鐵工所の各部門は、会社倒産後も大健闘しています。

・・・・・・

特に、鉄道オタクのオヒョウに印象深いのは鉄道車両の分野です。かつて新潟鐵工は、鉄道車両の中堅メーカーとして一定の地位にあり、国鉄やJRに相当数を納めていました。しかし新幹線車両や在来線の高速特急の開発製造となると、日立や川重などの大手にかないません。 JRは新幹線の事業を拡大する一方で地方ローカル線は、縮小・撤退する方針でしたから、ローカル線の軽車両を得意とするガタテツには逆風が吹いていました。

・・・・・・

しかし、近年は新交通システムや、LRTの導入が話題になり、新潟トランシス(新潟鐵工所の鉄道車両部門と富士重工の鉄道車両部門が合併したもの)製の車両が脚光を浴びています。北陸に暮らす、オヒョウに馴染みがあるのは、富山市のLRT車両、高岡市の路面電車万葉線、そして北越急行の各駅停車の電車です。

・・・・・・

ちなみに、北越急行が経営するほくほく線・・・といっても、特急はくたかを利用する人が大半です。こちらの683系などの特急電車の製造では新潟トランシスは、一部分しか担当していません。 でも各駅停車の電車の方は、アルミ合金の車体以外は、新潟トランシスの製造です。列車の等級によって、一種の棲み分けがあるのは、鉄道車両業界の特徴ですが、新潟トランシスはニッチなマーケットで生き残っています。新しい麦が育ち、穂がついた状態と言えます。

・・・・・・

今後、新幹線車両の技術は、JRや国が主体になって海外に販売されるでしょうが、ライトレールやローカル線用の軽快車両の輸出は難しいでしょう。アルストムやボンバルディアなどの強豪のライバルがある上、軽快車両を求めるローカル鉄道は、どれもお金がなく、厳しいビジネスとなるからです(日本のODAも減っていますし)。日本の第三セクターの鉄道も、財政的にはどこも厳しいですが・・・。だから同社は、国内での鉄道車両のシェア確保に注力すべきでしょう。

・・・・・・

国内についても、新潟トランシスが生き残るには、現在持たない

1.ハイブリッド車両技術

2.蓄電池走行型の電動車両技術

3.アルミ合金車体製造技術

の3点が必要です。3以外はJRとのタイアップが必要ですが、競合する川重や日立は既に、1.2.の技術を持っており、グズグズしていれば国内市場も失い「新潟鐵工所は二度死ぬ」と、映画の題名になってしまいます。

・・・・・・

新潟鐵工所の場合は、地に落ちた麦が死んで、新しい麦の芽が多数育った例と言えます。 勿論、内部の人は大変だったに違いありませんが、旧態をとどめた会社を清算して、新しい事業が成功しつつあるのですから。

・・・・・・

これからも、多くの企業が分割したり、合併・事業統合したりして流動化の時代に入ります。造船重機の業界では、分野別の会社統合と、分社化が大いに進みました。多くの場合、倒産前の企業は合併と統合に走り、倒産後は生体解剖になります。 技術力があるメーカーはたとえ倒産しても、後に多くの麦が育ちます。しかし、非メーカーの場合、あるいは技術力の乏しい会社の場合、後には、麦の一株も育ちません。

・・・・・・

一般に会社の将来を憂う場合、経営者は経営破綻後の会社の事は考えません。一般従業員は、自分が生き残れるかだけを考えます。しかし、会社が破綻した後、そこに新しい事業がどれだけ始まり、育つかを考える人もいていいのではないか・・とオヒョウは思います。


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。