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【 England as she is 】 [イギリス]

【 England as she is

 

直訳すれば、「あるがままのイングランド」とでも言いましょうか。 この薄い本が、私が高校2年の時の英語の副読本でした。Joseph Conradの詩なども掲載され、高校生にはかなり難解な英文でしたが、英国とは何か?を雑駁に理解するには好適な教科書でした。

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その中に英国の教育制度についての解説がありました。日本と違い、早い時期に、実科学校と、大学進学を前提とした普通教育校に分かれる件、そして日本よりずっと数が少ない大学についての説明もありました。

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大学は全国で30数校しかありません(当時:1970年代)。そしてその大学もオックスフォードとケンブリッジという名門2大学と、それ以外の駅弁大学に分かれる・・と書いてあります。 ははぁ、この本の著者はオックスフォードかケンブリッジの卒業生だな・・とそれを読みながら私は思いました。

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その20年後に、実際に英国で暮らしてみると、事情はかなり変わっていました。

大学の数はもっと多くなっており、大学進学率も高くなり、普通教育校に通う生徒もずっと多くなっていました。そしてオックスフォードとケンブリッジ以外の大学も素晴らしい研究をしており、私が尊敬する研究者も多くいました。駅弁大学と呼ぶなどとんでもないことで、失礼極まりない・・・と反省しました。

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無論、駅弁大学とは大宅壮一の造語で日本語です。英語の先生が翻訳する前の原文では red bricks つまり赤レンガです。 どうして赤レンガなのか・・と言われますと、13世紀に創設されたオックスフォードとケンブリッジは大理石でできているのに対し、19世紀以降に創立されたロンドン大学以降の大学は赤レンガでできているからです。

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あの夏目漱石が学んだロンドン大学もインペリアルカレッジも赤レンガでした。(今は鉄筋コンクリートの校舎が多いのですが)。

実際、ロンドンで暮らしてみると、主だった歴史的な建築はみな大理石でできています。歴史的価値のある建築で赤レンガなのはセントパンクロス駅ぐらいです。

しかし、この大理石の品質が悪いのです。

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地中海に面したギリシャやローマの大理石は真っ白で、かつ堅固で長持ちします。しかし英国の大理石は黄土色っぽく、そして柔らかいのです。柔らかいと切り出して加工する時は楽ですが、早く傷みます。大気汚染にさらされてもすぐにボロボロになります。だから、ロンドンの有名なビッグベンなどは、しばしば補修工事をしています。

オックスフォードのキングスカレッジなども、確かに大理石なのですが、ちょっと黄色っぽく、正直なところあまり美しくはありません。

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では赤レンガはどうか?と言えば、これも私の目にはあまり上等とは言えません。こちらはレンガ積みの技術、レンガ職人の腕がすべてなのですが、いまひとつです。

では最高の赤レンガ建築は何か? と言えば、これは大正時代に完成した東京駅でしょう。

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製鉄所の高炉や転炉のレンガを積むヤマザキ組には、レンガを積む専門の職人集団がいます。その一人、Yさんと話をした時です。 (Yさんと私は、たたら製鉄で、直刀を作る部活動をしていたのです)。

私が東京駅の駅舎の名前を出した途端、Yさんがギョッと驚いた顔をしたのです。

「オヒョウさん、あんた東京駅の丸の内側の駅舎の赤レンガを知っているのかね?」

建築の専門家という訳でもない、普通のレンガ職人であるYさんも、この駅のレンガ積み技術の精巧さを知っていたのです。 いやこの言い方は不適切です。

レンガ職人にとっては常識である、最高傑作を門外漢である私が知っていることの方が意外というべきでしょう。

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日本の赤レンガ建築は明治時代に始まり、大正時代に最高のレベルに達しました。しかし、関東大震災の後、大規模建築は鉄筋コンクリートに移行し、赤レンガ建築は廃れていったのです。だから大正時代にできた東京駅が最高傑作であるのは当然です。

駅舎は、通常のビルに比べて細長く、長距離にわたってレンガを積みます。寸法の狂いは次第に増幅され、端に到達した時点で、上下でレンガの位置が大きくずれるのですが、現存する東京駅の階段部分などは全く狂いがありません。

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その東京駅の駅舎は第二次大戦の空襲で破壊され、長い間応急措置を施した無残な形で放置されていました。 その駅が昨年、辰野金吾設計のオリジナルの形に復元された・・・・と話題になりました。今も東京駅の前を通るとカメラで写真を撮る人、スケッチブックに写生する人など、多くの人が建物を見物しています。

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でもよく見ると、復活した今の東京駅はかなりの部分がオリジナルと違い、まがい物になっています。 古いレンガ積み構造をなるべく残そうとして、戦前のレンガに新しいレンガを継ぎ足す形で、壁の色がまだらになっているのは仕方ありませんが、お客の目につかない、屋根のドーマー部分は、金属板をレンガ色に塗って、レンガ状の格子模様にしてごまかしています。強度上、安全上レンガ造りより金属板構造にした方がよいという判断でしょうが、泉下の辰野金吾は輾転惻惻、眠れないでしょうね。

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そこで気づきます。ああ、そう言えば、ロンドンにも継ぎはぎだらけの赤レンガ建築がたくさんあったな・・・。 ロンドンは東京ほどではありませんが、空襲で破壊されています。

第一次世界大戦では飛行船の空襲を受け、第二次世界大戦ではV2号ミサイルが多くの場所で炸裂しています。 戦後の東京駅のように、見かけは繕っても、中身はオリジナルと違った建物です。 

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ロンドンには、パリのように整然とスカイラインが揃った大通りはなく、雑然とした街並みがあり、そしてヘリテージとすべき大理石の建築と、かなり見劣りのする赤レンガ建築、そして戦後に急増したコンクリート建築が混じり合った街です。 ある意味で、ちょっと東京と似ている・・そう私は思いました。

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今、私が「England as she is」を書くとすれば、「戦後のロンドンは東京にどこか似ている。いたるところに東京駅がある・・」と書きたいのですが、その機会は残念ながらありません。


【 To be or not to be 】 [イギリス]

【 To be or not to be

 

世界最古の長編小説である源氏物語は、多くの文学者・作家によって現代語に翻訳され、それぞれに与謝野源氏、円地源氏などと呼ばれています。私の学生時代は、円地文子の源氏物語が最も新しかったのですが、最近は瀬戸内寂聴さんの瀬戸内源氏が流行っているみたいですね。 谷崎、与謝野、円地、瀬戸内らの翻訳は、それぞれに、なるべく原文の雰囲気を損なわずに現代語に近づけ、より多くの人々に理解してもらおうという工夫がほどこされたものです。

だから、翻訳の文章に極端な違いは無いとされています。

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一方、外国文学を翻訳する場合は違います。同じ原作に対し、何人もの文学者が翻訳を行いますが、それぞれの内容に大きな違いがあります。

その代表がシェークスピアです。

シェークスピアの場合、原文が現代英語とは少し違うルネサンス期の英語(初期近代英語)であることに加え、抽象と捨象と比喩と警句に溢れているので、その解釈の違いによって日本語訳が違ってきて当然なのです。

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私は母から、シェークスピアの翻訳は坪内逍遥に限る・・と言われてきました。

それは母が初めて読んだシェークスピアが、明治時代の坪内逍遥訳だったからで、

母曰く、坪内訳の古風なせりふの言い回しが、16世紀から17世紀の英国(シェークスピア作品の舞台は必ずしも英国ではありませんが)にぴったりだから・・とのことでした。シェークスピアには現代語訳は似合わない・・ということです。

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果たしてそうなのか? シェークスピアの作品で最も有名なせりふである、「ハムレット」の ‘to be or not to be ’で比べてみましょう。

このせりふを、翻訳者別に並べて比べてみます。

 

世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ。(坪内逍遥:明治42
生きるか、死ぬるか、そこが問題なのだ。(市河三喜/松浦嘉一:1949、岩波)
長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ。(本多顕彰:1951、角川)
在るか、それとも在らぬか、それが問題だ。(大山俊一:1966、旺文社)
生か、死か、それが疑問だ。(福田恒存:1967、新潮社)
このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。(小田島雄志:1983、白水社)

ちなみに、これは自分で調べたのではなく、林田甫様の下記の出典に拠っています。
http://mohsho.image.coocan.jp/Hamlet.html

言い回しの古さという観点から比較すれば、「世に在る、世に在らぬ・・」という現代語的な表現の坪内逍遥訳よりも、「長らうべきか、死すべきか」という戦後の本多顕彰訳の方がいくらか古めかしく感じます。

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しかし、本当の問題は、せりふが古いか新しいかではありません。‘to be or not to be’の本質的な意味をどう考えるかです。

翻訳者の解釈は大別すると、2種類に分かれます。

1.     ハムレット自身が自殺すべきか否かで悩んでいることを示す。

2.     理不尽で悲劇に満ちているこの世の中の存在を許すべきか否かで悩んでいる。

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文章の前後のつながりから考えて、この時点で、ハムレットは既に自分が死ぬことを考えていることは明らかです。だから、1の解釈でも、問題なく文脈はつながります。

でも何かおかしい・・。 今後、自分が世に在るべきか否かを考えた場合、自殺は積極的で能動的な行為であり、生きながらえることは消極的で受動的な行為です。

だから、自殺を考えた場合、’to be or not to be’ではなく’to die or not to die’とするのが普通です。 では400年前の戯作者はなぜ’to be or not to be’としたのか?

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世の中の悪い部分があまりに明らかになり、その存在を否定したくなった時、自分ひとりが死んで逃げるというのは、ある意味で消極的な逃げる行為です。

(前言とやや矛盾しますが)。ハムレットは自分自身だけでなく、この醜い世の中を消滅させたかったのではないか? 無論、その場合彼自身も死ぬのですから、1.の自死の意味を包含するのは当たり前ですが・・・。

ハムレットは、世の中を、この悲劇の存在を肯定すべきか否定すべきか・・という問題で悩んだのです。自分が死ぬべきか否かという小さな問題ではなく、より大きな問題をハムレットは抱えていたことになります。その意を汲んだ翻訳としては小田島雄志の「このままでいいのか、いけないのか・・・」という翻訳が一番しっくりきます。

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2種類に分けて考えると、坪内、市河、本多、福田の訳よりも、大山、小田島の訳の方が適切ということになります。果たして、大文学者のそれぞれの翻訳に私オヒョウ如きが勝手にケチをつけていいものか・・ちょっと悩みますが。

ちなみに脱線しますが、個人的に会ったことがあるのは、上記の諸氏の中で福田恒存氏だけですが、正直なところ、あまり彼のことを記憶していません。

小田島雄志氏の訳は、最初に聞いた時は、あまりに現代語過ぎて違和感があったのですが、よく考えると、原文に一番忠実な訳にも思えます。

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高校時代の恩師、松田先生は悲劇とは何か・・という定義について語られましたが、それに照らし合わせると、ハムレットは全ての意味で悲劇であり、シェークスピア悲劇の代表です。

美しい婚約者もいる王子は、本来喜劇の主人公たるべきですが、実際のハムレットは世の中を悲しみの目で眺め、自分も世の中も消し去ろうとします。劇中で、最後に生き残るのは友人ホレーショだけです。

そして観客全員に、これは悲劇だと、最初に理解せしめるのが、このせりふ‘to be or not to be’です。

シェークスピアは悲劇と喜劇の両方を書き、そのどちらでもない作品は書きませんでした。 しかし、それで十分です。

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もし私に、本当に英語の素養があり、中世の英国の文化についての知識・理解があれば、シェークスピアを原文で読破し、自分自身の訳というものを書きたいと思います。でもそれは私の力量では全く無理なことです。 それなのに、先達の日本語訳についてあれこれ、コメントするなど、全くみっともない限りなのですが・・・。

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小田島雄志の後にも、シェークスピアの翻訳者は現れるか? 20世紀の時代、源氏物語もハムレットも、ほぼ20年に一人の割合で、翻訳者が現れました。しかし、21世紀になってからは、源氏物語もシェークスピアも新しい翻訳者は出現していません。

文学者としてそれなりの権威がなければ、翻訳がゆるされないのか?あるいは先達達の優れた翻訳に圧倒され、自分自身の解釈を世に問う勇気が無いのか?それとも、もはや源氏物語もシェークスピアも流行おくれなのか? 翻訳そのものが時代遅れなのか? そこのところがわかりません。 That is the question.

逍遙なら、「それが疑問ぢゃ」と言うところです。


【 幽霊と妖精 GHOSTとFAIRY、SPRITE、Nymph、ELF その1 】 [イギリス]

【 幽霊と妖精 GHOSTFAIRYSPRITENymphELF その1 】

先週の日曜日の午後、新宿で開かれた小さな朗読会を聞きに行ってきました。

「あやなす響き」という、美しい名前の会は、年1回程度の頻度で開かれているそうです。 これまで地方在住の私にはこの朗読会に参加することは無理だったのですが、東京転勤により可能になりました。

そもそも、この会に顔を出そうと思ったきっかけは、Y教授です。

私が自分のブログ(つまり笑うオヒョウ)に名前を出した中尾幸世さんについて、彼女は芸能人か一般人か?という話になったのです。 私の理解は、彼女の現在の職業は「朗読家」である・・というもので、芸能人と一般人の中間的存在と考えていました。

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その私の理解は正しいか? そこで彼女が朗読をする「あやなす響き」を聞きに行こうと決めた訳です。

昭和の時代、寡作のTVドラマ作家である佐々木昭一郎の作品に登場した中尾幸世はあまり有名な女優ではないかも知れません。 しかし一部の「昭和をひきずる人達」には、忘れられない人です。

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今回の朗読会は、中尾幸世さんの朗読と、守安功・雅子夫妻のアイルランド音楽を主体とした演奏を聞く会です。

守安功・・同性同名の、携帯ゲームの会社の経営者がいますが、全く別人です。

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そして、この日の彼女の朗読は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と夏目漱石の小品だったのです。 これはいきなり直球勝負ではないか・・。

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漱石と小泉八雲の関係は微妙です。 二人は若干の時間差をおいて旧制五高の英語の教授をしています。 そして東京帝大では漱石が八雲の後任として英語の講師をしています。しかし2人の教育方法は正反対でした。八雲は英語の詩をろうろうと歌い上げ、その芸術性を教えましたが、学問としての英文学や英語学の解説については不熱心でした。 後任として赴任した漱石は、学生達の学力不足に愕然とし、厳しく英文学を指導しました。しかし甘えていた学生達からは評判が悪く、前任の八雲を慕う声が強く、これは漱石を悩ませたとのことです。

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その両者の教育方法を比較し、両者の関係を解説するとすれば、大学の講義を1年続けても足りません。 ではいったいどんな解説がなされるのか?

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やがて定刻になり、中尾幸世さんが現れました。小さなスタジオに少人数が集まった空間で、最初に私と彼女の視線があいました。

彼女はにこやかに微笑んで、真正面から相手を見つめ、視線をそらしません。

その清楚な雰囲気は昭和の時代のままで、「四季・ユートピア」や「川の流れはバイオリンの音」の頃と変化がありません。 これなら今でも女学生の役を演じることができそうです(その眼鏡が老眼鏡でなければ)。

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一方、観客の方は・・と言えば、それなりの年齢で、いずれも「昭和時代の少年少女達」です。 還暦を挟んで、現役の人とリタイアした人が混じっています。年齢層としては、西島三重子のライブに集う人達と似ていますが、ちょっと違います。後者は普通のビジネスマンとそのOBが多いように思えますが、「あやなす響き」に集う人達は、どちらかというと、学者や教員、芸術家というタイプに見えます。

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やがて、中尾幸世さんはゆっくりと、朗読を始めました。夏目漱石の「永日小品」の中から「暖かい夢」を選んでいます。 実に素晴らしい朗読です。 目を閉じて聞けば、頭の中にロンドンの風景が広がります。 ひとつひとつの言葉が心に溶け込んでいくような朗読です。

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朗読は誰がやってもよいというものではありません。

私は、詩の朗読については、その詩を書いた本人が語るのに限ると思います。

草野心平の詩なら草野心平が、サトウハチローの詩ならサトウハチローが語るのが最高です。

小説やエッセイの場合は少し違います。

私はベテランの役者(俳優、女優)が最適だと考えます。

その次はNHKのアナウンサーです。

タレントまがいの民放のアナウンサーには、朗読は向いていません。

最悪なのは、台詞を読むのが本業の声優と呼ばれる人達です。

彼ら彼女らは、映像に音声を乗せるのには適していますが、キャラクターが強すぎて朗読には向きません。

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中尾幸世が出演した作品には台詞が多くありません。 だから彼女の朗読とはどんなものだろうか?と少し危惧していたのですが、それは杞憂でした。

彼女の朗読は本物であり、彼女の職業を訊かれたとして「彼女は朗読家です」と答えて何の問題もありません。 もちろん女優としても通用するでしょうが・・。

私はなんとなく安堵感のようなものを感じました。

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朗読に続いて、守安功・雅子夫妻による木管楽器とハープ、打楽器の演奏が始まります。 しかし悲しいことに、音痴で音楽についての教養も全くない私には、本当の価値が分かりません。スコットランド民謡とアイルランド民謡の違いを尋ねられても、的確に答えることができません。

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ただ、昔私がヒースロー空港の免税店で買ったCDアルバム「Celtic tides」には、アイルランド音楽が何点か収録されており、スコットランドともイングランドとも違う旋律を聞かせてくれます。 それを聞けば、アイルランドとブリテンは明らかに違う国だ・・と私にも理解できます。 

守安雅子さんのハープの音色は、昔どこかで聞いたアイルランドの旋律を心の中によみがえらせ、不思議な安心感と心地よさをもたらしてくれます。

この朗読会は目を閉じて聞くほうがいいかも知れない・・。

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さらに、アイルランド音楽とアイルランド文化に造詣の深い守安功氏の解説が始まります。ゴースト(Ghost)や妖精についての説明です。

脱線しますが、英国は世界で一番幽霊が多い国だそうです。

一方で、アイルランドは世界で一番妖精が多い国だそうです。

・・・・どうして計算したのかは不明ですが・・・・

ゴーストとは幽霊・亡霊ですが、守安氏は、それは違うと言うのです。

ゴーストには幽霊も含むけれども、目に見えない神秘的な現象、人知をこえた超自然現象、神の仕業として畏れるべき現象、妖怪等、森羅万象の不可解な事全てを含んでゴースト(もしくはゴーストのしわざ)なのだ・・と英国人は解釈すると言うのです。 ちなみに、これがフランスに行けばファントム(Phantom)となるようです。

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そんなこと言ったって、シェークスピアの「マクベス」には幽霊が登場するし、「ハムレット」のおとっつぁんも幽霊になって登場します。E.ブロンテの「嵐が丘」のヒースクリフの前に現れるのも幽霊です。 漱石の「倫敦塔」にも幽霊が登場するではないか・・と私は考えます。 やっぱりゴーストは幽霊ではないのか?

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しかし、ゴーストとは目に見えないたましいであり、存命中は肉体という殻をかぶっているけれど、亡くなったあとは、目に見えず知覚できないだけだ・・と解釈すれば、幽霊とは、落命後のゴーストの一形態にすぎないと考える事ができます。

ではゴーストとは、たましいのことなのか? 

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実は、それについて考えている人は、以前から多くいます。

以下 次号

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写真は、中尾幸世さんの許可を得て掲載していますが、転載の可否については諒解を得ておりません。 転載を希望される場合は、笑うオヒョウのコメント欄で、私にお知らせ願います。


【 イチジク 】 [イギリス]

【 イチジク 】

 

スーパーの店頭には、ほの甘いイチジクが並んでいます。夏炉冬扇様のブログにもいちじくのタルトが登場しました。 http://karotousen.blog.so-net.ne.jp/

イチジクは私の好物です。そしていくらかの思い出があります。

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もう10年以上前ですが、私がロンドンに到着して借家を探していた頃、パディントン駅の近くのホテルというか、下宿にしばらく滞在しました。その私の部屋の窓から往来を見下ろすと、道路の反対側に緑色の看板で、”European Food”とあります。食料品店であることは確かです。「さて、ヨーロピアンフードとは何の事か?」と考えてすぐにわかりました。

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島国人である英国人は自分の国をヨーロッパと考えていない時があります。

ヨーロッパとは、大陸の国々であり、自分たちは英国である・・という訳です。

日本人も同様で、アジアにありながら自分たちがアジア人である意識が希薄です。

アジア人というと、日本を除くアジアの国の人々を連想してしまいます。

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European Foodとは、ヨーロッパ大陸の農産物という意味であり、具体的には果物の事です。 これは英国に住むとすぐ理解できます。 高緯度にある英国ではろくな果樹が育たず、果樹園も貧弱です。 英国でとれる果物と言えばさほど大ぶりではないリンゴやイチゴくらいです。 まあ、英国のリンゴはニュートンの故事で有名ですが・・。

したがって、果物といえば、外国から輸入するものというのが、英国の相場です。

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「あれっ?シェリー酒というブドウ酒は英国のお酒じゃなかったっけ?ということは英国でもブドウがとれるのでは?」 と発言して笑われた事があります。

確かに英国人はシェリー酒を好み、英国のお酒のように錯覚しますが、これはフランスのブドウで作られます。 英国でとれるブドウは少なく、生産されるワインもごく少量です。

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かつて英国は熱帯や亜熱帯に多くの植民地を持ちましたから、南方からおいしい果物をたくさん輸入できました。 おいしい果物といえば、外国から船でやってくる・・というのが自然な理解です。植民地でなくても、オレンジなどの柑橘類、ブドウなどは基本的に大陸からのものなのです。だからEuropean Foodとは果物のことだ・・・と理解した上で、私は階下に降り、道路の反対側の果物屋に行きました。 食べ物がおいしいとは言えない英国ですが、果物なら万国共通の味だろうと思ったからです。

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店に入ると、まさに入り口にイチジクが並んでいます。既にロンドンは晩秋であり、イチジクの季節は過ぎているはずなのですが・・・、原産地をみればギリシャとあります。

「ああ、ギリシャなら一年中イチジクがあっても不思議ではない・・。」と思って、買うことにしました。 そこで、ウッと言葉に詰まりました。

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「イチジクって、英語ではなんていったっけ?」答えはfigですが、とっさに思い出せません。 やれやれロンドンに赴任する際、既に米国駐在の経験があるので英語は何とかなります・・なんて言っていたけれど、果物の名前も言えなくては、この先、思いやられる・・。

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それはともかく、イチジクのパックを指さして、果物屋の主人に、

“I would like to buy this one.” 主人は、首を縦に振って一言“OK”と答えます。

そこでかつてニューヨーク駐在をしていた上司の奥さんの言葉を思い出します。

彼女は、英語が不完全なまま米国に渡り、普通に暮らしました。ニュージャージー州の八百屋では、野菜や果物を指さして一言”This one”とだけ話して買い物をしたそうです。

「私なんか、ジスワンおばさんで通したけれど、それで問題なかったわよ」という言葉を軽く聞いていたのですが、私もジスワンおじさんになってしまったのです。

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下宿の部屋で、イチジクを食べながら考えます。

「これはギリシャからの輸入品か・・。 ところでソクラテスはイチジクを食べたのだろうか?」 ソクラテスの妻は悪妻で有名なクサンチッペで、彼女がソクラテスを悩ませたり困らせた逸話はたくさん残っているそうです。

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その中の一つに、久しぶりに家に帰ってきたソクラテスに、わざと彼が嫌いなヤギ肉の料理を出したという逸話があります。料理が食べられず、困ったソクラテスはせめてデザートの果物ぐらいは口にしたかも知れません。 ギリシャではイチジクは一年を通してふんだんにあり、ソクラテス家の食卓にもあったでしょうから、彼はそれを食べて空腹をいやしたのかも知れません。

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とういうことは、私はソクラテスと同じものを食べているのかも知れません。 そんな具合に妄想を膨らましてから、もうひとつ考えます。イチジクの果汁に漬けて肉を料理すると、とても柔らかくなるという・・。 ソクラテスが嫌いなヤギの肉もイチジクを添えて料理すれば、彼も食べたかも知れない。妻の工夫ひとつで世界的な哲学者の好みも変わったかも知れませんが、それをしなかったところが悪妻たる所以なのか・・。

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話は現代に飛躍します。 先日会社で行った暑気払いのバーベキューで、社長がかつて駐在したロシアの肉料理を出す事になり、社長からイチジクジュースはないのか?と質問をされました。 肉を柔らかくする為です。

私は「私が行くスーパーには、イチジクジュースはありませんが、今の季節、生食用のイチジクがありますから、それを使ってはどうですか?」と回答しました。 結局、料理の下ごしらえをした女子社員がイチジクを使ったかどうかは分かりませんが、出来上がった料理はおいしくできていました。

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イチジクを頬張りながら、もうひとつつまらない事を思い出しました。

子供の頃、歌手坂本九の本名、大島九(ひさし)を黒板に書いて、先生が「誰かこの名前を読めるか?」と質問されます。 勿論小学生に「ひさし」なんて読めるはずがありません。 クラスのみんなが沈黙する中、何とか解答を見つけなくては・・と考えぬいた私は、手を挙げて答えました。

「先生、九は、きっとイチジクと読むのだと思います」 一瞬、クラスは沈黙しましたが、すぐに大爆笑です。 先生も笑って「イチジクは無花果と書くのだ。その意味が分かるか?」と今度は別の質問です。

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実は、無花果という名前は、日本語オリジナルではなく、中国語の名前を取り入れたものです。私がそれを知ったのは、その35年後です。発音は勿論イチジクではなくメイファグォとなります。

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私は単身赴任で暮らした中国でも、イチジクをしばしば買って食べました。

しかしメイファグォという名前を最初は知りませんでした。やっぱり、イチジクのパックを指で示して、「ツリ、イーガ (英語で言えばThis one)」と言って買い物をした訳です。 私は英国でも中国でもジスワンおじさんでした。


【 スーパーマーケットプリンセス 】 [イギリス]

【 スーパーマーケットプリンセス 】

 

西欧の王室は万世一系の日本の皇室とは違います。国王や王室の地位と立場は、国民との一種の契約によって保障されたものと言えます。だから時には国民の人気取りとも言えるパフォーマンスが必要です。そして王室に美しいお嫁さんを迎えるというのは、国民が王室に親しみを感じ、ファンを作る絶好の機会とも言えます。

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ダイアナ妃の死去の後、明るい話題のなかった英国王室にとって、ウィリアム王子とキャサリン・ミドルトンさんの結婚は、その点で絶好の機会でした。 新婦に求められるのは、高貴さよりも明るく快活な性格、きさくで親しみやすい人柄、勿論美人であれば、それに越したことはありませんが・・。

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プリンセスは、庶民の間に溶けこむことも求められます。 オランダの王女は王宮から自転車で通勤していたそうですし、英国の王女も何か庶民性をアピールする機会が必要かな・・なんて余計な事を考えていたら、ケイト妃(ケンブリッジ公爵夫人)がスーパーマーケットでお買い物をした・・という記事が登場しました。

日本でも報道されましたが、英語版では例えば下記の新聞記事が報道しています。

http://www.dailyfinance.co.uk/2011/05/06/princess-kate-shops-at-waitrose/

英国の場合、タブロイド紙はパパラッチの巣窟ですから、ロイヤルファミリーの記事はしょっちゅう登場します。でもこの記事には特に興味があります。

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これで思い出すのは、昭和天皇の末娘だった貴子内親王が島津家に嫁いだ後の初のお務めが、島津家の姑に同行して日本橋三越への買い物だったというニュース映画です。「私の選んだ人を見てください」という名台詞で、天皇家の中で最もハキハキと自分の意見を言う人・・と言われた島津貴子さんですが、デパートの買い物は初めてだったとの事です。降嫁する前であれば、内親王がお買い物などありえない・・・という時代だったのです。

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逆に王室に嫁いだ女性・・しかも夫は将来の国王・・が、スーパーマーケットでショッピングカートを推すというのは、やはり驚きです。 下々の者であれば、スーパーで公爵夫人(Duchess of Cambridge)が何を買ったのかに興味があります。

やはり特売の食料品だろうか?とか、まさか衣類ではなかろう・・とか、どんな日用品を使っているのか?なんて、全く下品な事を考えてしまいますが、私は全く別の事を考えます。 それは公爵夫人が訪れたスーパーが、Waitroseだった事です。

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実は階級のある国、英国では百貨店だけでなくスーパーマーケットにも格があります。最も、一般的というか当たり前なのはTESCOで、英国ならどこにでもあります。さしずめ、英国のダイエーというか、今ならイーオンといった感じの店です。

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私がロンドンに赴任した当初は、単身赴任でしたから、もっぱらこのTESCOで買い物をしていました。 やがて家内が子供達を連れてやってきて暮らし始めたのですが、家内はどうもTESCOの商品構成が気に入らなかったみたいです。行きつけの店をTESCOから100mほど先にあったWaitroseに切り替えました。

「何が違うんだい?」

「うーん、よく分からないけれど、なんとなく品揃えが違うのよ。Waitroseの方が、気がきいてて、ちょっとあか抜けているのよ。サンドイッチなんかもWaitroseの方がおいしいし・・」

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鈍感な私には、両者の違いはよくわかりませんでしたが、Waitroseの方がちょっと高級で、TESCOは庶民的だという事は、後でわかりました。

チャールズ皇太子が、豪華な邸宅を建築した際、新聞は皮肉たっぷりに、皇太子がデザインした邸はまるで、TESCOの店舗みたいだ・・と揶揄したのです。

つまりTESCOとはダサくておしゃれじゃないものの象徴だったのです。

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一方、Waitroseよりも上となると、Marks & Spenserなどがありますが、これはもうスーパーというより百貨店に近い領域です。

では、逆に大衆的なTESCOより更に庶民的・・というか格の低いスーパーはないか?といえば、勿論あります。ASDAというチェーン店もその一つです。日本では西友と提携していましたが、ロンドンではあまりブランドイメージは高くありません。どちらかと言えば、ロンドンではアフリカ系移民の人などが、多く買い物をしていました。

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私は、特にASDAには興味は無かったのですが、ある時、英国のパソコン雑誌にASDAの名前を見て驚きました。 その小さなベタ記事には、米国のマイクロソフトが裁判でASDAに負けて、お金を支払ったと書いてあります。

記事によると、・・・ MicrosoftはもともとASDAが販売する女性の肌着のブランド名だった。それをビル・ゲイツが勝手に用いて自分の会社名にしてしまった。実にけしからん・・と訴えたのだそうです。長い裁判の末、マイクロソフトはその商標を買い取ったということだそうです。 翌日、会社の人達にその話をしたら、皆さん笑いました。

今をときめく、コンピューター業界の雄が、大衆スーパーマーケットに負けたのが面白かったのです。

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日本の場合、百貨店にはランキングというかお店の格がありますが、スーパーにはあまりないみたいです。 そもそも小売店のブランドの持つ意味も変化しつつあります。

スーパーのブランドなどない日本は平等な国でよかったな・・と思う反面、別の事を考えます。

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もし、日本の皇室のお妃様が、スーパーに買い物に行く・・なんてことになったら、どの店に行かれるのかな? お店の序列がある英国ではWaitroseに行けば問題ないけれど、日本ではそうはいきません。 イーオンに行ってヨーカドーに行かない訳にはいかないでしょうし、西友もダイエーも黙ってはいないでしょう。 そもそも皇室はその手の不公平やえこひいきを最も嫌います。 結局、どこにも行かないのが無難という事になります。そう考えると皇室のお妃様も結構窮屈で大変なのだろうな・・と思ってしまいます。

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えっ?ところでオヒョウがロンドンで一番好きだったスーパーはどの店か?ですか?

それはやっぱり、ヤオハンです。 もう無いけれど。


【 幻の中流 その2 】 [イギリス]

【 幻の中流 その2 】 

昔からの階級意識が根強く残る、欧州の人は、バブル期の日本人より、もっと大人です。庶民の人は庶民のままでいいから、その中で幸せに暮らす方法を考えます。英国の場合、所属する階級で言葉遣いも発音も異なりますが、無理して上品な言葉遣いをして、中流や上流のマネをする人はいません。

例外は、「マイ・フェア・レディ」に登場するイライザですが、これは英国だから喜劇になります。日本だったらシリアスすぎて嫌味になります。

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私が英国にいたころ、サッカー選手のベッカムの人気が絶大でした。しかし彼の発音はお世辞にも上品とは言えず、彼が下層階級の出身であることを如実に示します。 しかし、彼が上流階級出身でなくても、あるいは行儀が悪くても、人々は彼を軽蔑せず、彼の活躍に惜しみない賛辞を送ります。

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かつて、王を弑し、階級をなくしたフランスでも、やはり階級意識は残ります。ド・ゴールを継いだ大統領、ジスカールデスタンは、フランス流の民主主義あるいはフランス風の自由主義を確立した人物ですが、ちょっと上流階級を真似た奇妙なフランス語の発音が不評だったそうです。庶民丸出しのミッテランの方が親近感を持てたのだ・・・と語る人がいます。

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英国でもフランスでも、自分が生まれた階級から無理して上の階級に移ろうとすると、滑稽で冷笑を浴びます。階級にこだわらず、自分の世界の中で活躍する人が賞賛されます。

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ところで、英国にもフランスにも中流階級がいますが、これは日本人の目から見るとかなりお金持ちの部類だと思います。 階級社会がピラミッド構造である以上、中流は下流よりも少ない訳ですが、日本人の目にはかなり上流に映ります。

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産業革命以降、産業界で財をなした人々、貿易で財をなした人々が現れ、封建社会の貴族ではない市民階級が台頭しました。英国の場合、ジェントリと呼ばれた市民階級は、実は経済的には貴族に伍するものでした。ジェントリについては、漫画「英國戀物語エマ」に詳しく書かれていますが、彼らは貴族の出身ではなくでも、暮らし向きは貴族のそれです。庶民とは隔絶していても、ジェントリの人たちは上流とは言えず、つまり中流なのです。

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そこで考えるのは、江戸時代の日本の町人とは、本当の庶民だったのか?ということです。よく時代劇では侍に「そこな町人!」と呼びかけられて庶民が恐縮していますが、町人とは決して下層階級ではありません。士農工商の序列では下かも知れませんが、一定の経済力と教養を持ち、社会的に重要な位置を占めるのが町人でした。農村においては地主や名主、都会においては大きな店舗を構える商人が町人であり、本当の庶民は町人ですらありませんでした。

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そう考えると、大多数の人たちは中流ではありえない・・・と思えてきます。山本夏彦が言うように、一億総中流なんておこがましいではないか・・となってしまうのですが、私はそこでまた別のことを考えます。

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上流か、中流か、下流かを決めるのは、物質的なものではなく、矜持の持ちようだと、人々は言います。それなら上中下の構成比率は、ピラミッド型である必要はなく、釣鐘型であっても、ソロバン玉であっても構わない訳です。豊かな教養と常識を持ち、自分自身のことだけでなく他人や他国のことも思いやれる人々は中流といえるかも知れません。教育レベルの高い日本では、中流が多数派であっても構いません。

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でもそれだけでしょうか?我々が中流の生活を送るには、精神の安定が必要です。今日、米びつの中にお米があり、また明日にも食べるものがある・・という安定があって、人々はサロンの中で教養を語ることができます。

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実は、日本の中流階級はそこに不安があります。現代は、昨日までネクタイをしめて、都心のオフィスに通勤していたビジネスマンが、ある日突然リストラされて、ホームレスになる時代です。そんな事は100年前の大恐慌の時以来です。

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ホームレス問題に詳しい湯浅誠氏はその著書「反貧困」の中で、今の庶民には「ため」が無い・・と語ります。「ため」が無い、つまりわずかな環境の変化で貧困層に転落する人々は中流とは言えません。豊かな教養を持ち、いかに高い精神的矜持を持っていても、「ため」がない・・容易に貧困層に転落する人々は中流ではありえません。

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論語には「恒産なき者恒心なし」とあります。これは守るべき物が無い者は信用できずその忠誠心に期待できない・・という意味ですが、一定以上の物質的安定が無ければ、精神面の安寧もありえないという風にも解釈できます。

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容易に貧困層に転落しうる人々は中流足りえず、そして貧困層が先進国で2番目に多い国では、中流階級が多数派ということはありえません。

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この日本では、麻生、鳩山という具合に日本屈指のお金持ち総理が続きました。管首相は就任時に「自分はサラリーマンの息子であり庶民宰相だ」と強調しましたが、実は彼の父君は大企業の取締役だった人で、本当の庶民とはかなり違います。そして庶民感覚をアピールした管首相ですが、就任後、貧困対策については全くの無策です。大震災のためにそれどころではない・・という事情もありますが、その前も、法人税を引き下げる一方で消費税増税を打ち出すなど、あまり庶民の味方・・とも思えません。

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彼がもし「日本は中流階級が圧倒的に多いから、貧困対策は優先度が低い」と考えているなら、それはもう大富豪の御曹司だった麻生、鳩山以下の見識だと言わざるをえません。


【 EMIの身売り 】 [イギリス]

【 EMIの身売り 】

イギリスの大手レコード会社のEMIの経営が不振で再び身売りの話がでているそうです。

再び・・というのは、EMIはしばしば経営危機になって、いろいろな金融機関やファンドの傘下に入っていたと聞いているからです。

私がロンドンにいた頃にすでにそうだったのですが、当時はまだCDの全盛期でした。今はCDの売れない時代です。レコード会社にとっては氷河期とも言えます。MP3で配信するビジネスも盛んですが、CD程の儲けにはならないようです。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110621-OYT1T00983.htm

そう言えば・・と、また昔の事を思い出します。

昔、私が学校にいた頃、CTスキャンの事をEMIスキャンと言っていました。

CTとは、Computer Tomography つまりコンピューター断層撮影の事ですが、ではEMIの意味は何か?

その説明をしていただいたのは、電子計算機言語学の浦昭二教授です。

先生はFORTRANという言語が、行列計算に非常に適していることを説明され、その例としてCTの原理を紹介されました。実はFORTRANが向いているというより、コンピューターが行列計算に特に向いているという事です。

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肺のレントゲン写真に詳しい方ならご存知でしょうが、肺の厚み方向の一部だけを高い解像度で撮影する断層写真という手法は昔からありました。しかしそれはカメラとフィルムを逆方向に水平移動させるもので2次元の画像です。カメラとフィルムを回転させながら、コンピューターを用いて膨大な行列計算をすれば、3次元の画像が得られる事は明らかです。

問題は計算機の処理能力と低い線量で鮮明な画像を得るX線撮影技術です。

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1960年代、世界中を席巻したビートルズを擁したレコード会社EMIは莫大な利益をあげていました。EMIの経営幹部は考えました。

「この莫大な利益を、人々の福祉のために使おう・・・」

普通の人だったら、恵まれない人とか、福祉団体に寄付したりするところですが、彼らが考えたのは夢の新技術です。

ちょうどコンピューターの性能が上がってきました。X線撮影技術も向上しました。そこで彼らはコンピューター断層撮影装置の開発に投資しました。

そして出来上がった装置をEMIスキャンと呼びました。

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やがて、特許も切れ、民間のレコード会社の名前を冠するのはいかがなものか?という事から、EMIスキャンはCTスキャンと名前を変えました。

さらに時代は進み、X線被曝をなくすため、あるいは軟組織を鮮明に写しだすため、核磁気共鳴型のCTMRI)が登場しました。

現代は、微小なガン病変を検出できる陽電子CT(ポジトロンCT=PET)の時代です。

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この技術革新は、すべての人にとって福音でした。

CTのおかげで、外科的侵襲なしに、体内の状況が手にとるようにわかります。

怪我をしても、病気になっても、CTを撮れば多くの事が分かり、原因が突き止められます。このお陰で命が助かった人も多いはずです。

そして、ヤブ医者にとってもCTは頼もしい道具です。

従来の2次元の画層から得られる情報は乏しく、経験を積んだベテラン医師でなければ見つけられない病変も、CTなら新米医師も見つけられます。これで誤診をまぬがれた例も多いはずです。

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そして現代はPETです。

これは患者の減少と経営悪化に悩む病院には頼もしい武器です。これは人間ドッグに使われ、早期ガンの発見に威力を発揮しますから、健康人ばかりで病人のいない地域でも病院経営を可能にします。

つまり、すべての人にCTは役立ったのです。

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今は老齢の域に達したビートルズのメンバーがその事を知っているかはわかりませんが、彼らもきっとCTのお世話になったはずです。

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ああ、しかし、それなのに、CTの産みの親であるEMIはビートルズの後、ヒットに恵まれず、その上CDが売れないCD不況の時代になって、何度も経営危機に陥りました。そしてまた今回の身売りです。

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イギリスは、国土も人口も日本よりかなり小さい国です。大学の数もはるかに少ないのです。しかしノーベル賞受賞者は多く、そして画期的な発明・発見が多くなされています。 CTスキャナーもそのひとつです。

日本でも同種の技術が開発される土壌はたしかにあるのですが、なぜかなかなかものになりません。

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やはり、スーパーコンピューターが何かも知らないくせに、パフォーマンスだけで研究開発予算を斬って得意になっている女性が大臣をしているような国ではだめなのでしょうね。

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日本で巨額の利益をあげた企業や個人は、一体何にお金を使うのでしょうか?

粉飾決算と不適切な株式の分割で、濡れ手で粟の200億円を手にしたライブドアのホリエモンは、六本木ヒルズで高級ワインを飲む日々から、塀の中の日々に移りました。

仮に彼の金儲けが非合法なものだったとしても、彼がその200億円を世のため人のために使っていたのなら、オヒョウは同情します。しかし彼がしたのはプライベートジェット機に女性タレントを乗せて海外リゾートへ行く事です。

彼は阿呆なのか、それとも本当は精神が貧しい卑しい成金なのか・・・。

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一方、経営に失敗したEMIの経営者達は、ある意味で敗北者であり、責められる立場にあるのでしょう。でも、会社は潰しても、世にCTスキャンを送り出した功績は消えるものではありません。もって瞑すべしですね。

だから、私は今もEMIのファンであり、CDも持っています。

ただし東芝EMIだけど。


【 お前の家は私の城 】 [イギリス]

【 お前の家は私の城 】 

昭和30年代のロシア(当時ソ連)の風刺漫画に面白いものがあります。雑誌「クロコヂール」に掲載されたものです。

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題名は「お前の家は私の城」というもので、家の1階の窓から英国人が顔を出し、2階の窓からは武器を持った米国人がニヤニヤと笑った顔をのぞかせているものです。

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これは勿論、英国の諺「私の家は私の城」をもじったもので、元の意味はどんな男だって家に帰れば一家の主で、責任と権威がある・・とか、家庭の中までは、他人が干渉すべきでないというものです。 

諺の原文はAn Englishman's house is his castle.です。

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しかし、イギリスの場合、自国に米軍基地を抱え、米軍に母屋を乗っ取られているではないか? という、ソ連から西側社会への風刺です。ちなみに、英国にある米軍基地はケンブリッジの近くにありますが、それ以外にインド洋のディエゴ・ガルシア島を米国に貸与しており、そこに巨大な米軍基地があります。

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もっとも、当時ソ連も国外に軍事基地を持っていましたから、他国の事は言えません。キューバに建設しようとしたミサイル基地は断念したものの、ワルシャワ条約機構の各国にすぐソ連軍を展開できる状況でしたし、アフリカ諸国にも軍事拠点を置いていました。それに1979年以降はベトナムカムラン湾にも海軍基地を置いていましたから、同じ事です。

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それにしても、米軍基地が世界に展開しているのは不自然ではないか?という素朴な意見はありえます。かつて日米安保に反対した世代の末裔が残っている朝日新聞などは、世界中に駐留する米軍に真正面から反対するのではなく、イタリア人の口を通して批判しています。http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY201007060711.html 

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米軍が駐留する役割と意味合いは、時代によって異なり、また地域・国家によって異なります。だから統一的な議論はできないのですが、米軍基地反対派は、全体をまとめて駐留米軍反対の結論を出したいようです。

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実際、韓国の米軍と、沖縄の米軍と、英国の米軍では意味合いが違います。 それぞれの国の中での駐留米軍の位置づけが異なりますし、アメリカ側からみた位置づけも異なります。

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独断と偏見を承知で言えば、NATO諸国での駐留と、日米安保に基づく駐留、その他・・・の3種類で分けて考える事が可能です。

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NATO諸国の場合は、同盟国として友人に協力するための駐留ですし、日米安保の場合、戦後の進駐軍(占領軍)の意味合いと、同盟軍の意味合いが半分ずつです。

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NATO諸国の場合でも、実は第二次大戦の連合国だった国(英国等)と枢軸国だった国(ドイツ)では違います。英国の場合、戦中から同盟国だった訳です。ドイツでは冷戦時代は同盟国ですが、その前は交戦国で戦勝国の占領軍として乗り込んできたのですから位置づけは違います。

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その他の場合は、実に様々です。イラク、アフガン等は、現在交戦中の地域の軍事拠点であり、占領軍として振舞っています。一方、既に撤退しましたがフィリッピンの米軍は旧植民地に君臨した軍隊でしたし、サウジアラビアでは米軍はあくまで客として滞在するという立場でした。

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日本の米軍駐留に反対する人達は、同盟国として駐留しているはずの米軍がしばしば占領軍として振る舞う事を問題視します。特にその違いが明確なのが、日本本土の場合と沖縄の場合です。日本本土の米軍基地は、早い段階でNATO型(ドイツ型)に移行しましたが、沖縄の場合、米軍は今でも占領軍なのです。

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マスコミは、沖縄の基地負担が過大である事を議論する際、しばしば基地の数や、島の総面積に占める基地の面積比率を取り上げ、本土との差を指摘しますが、一番問題なのは人々の意識です。

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沖縄に駐留する米軍人とその家族に、占領者としてのおごりがあるなら正すべきです。 英国に駐留する米軍将兵には決して見られない、地元の人を見下す姿勢があるなら、正すべきです。

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沖縄には、米軍専用ビーチがあります。広大な米軍専用のゴルフ場があります。 いつだったかJALの沖縄キャンペーンで、アメリカ人の女性タレントが、少女時代に沖縄の美しい米軍専用ビーチで泳いだ思い出を楽しそうに語っていましたが、これは多くの日本人には不愉快な話です。そんな事だからJALは潰れるのだ・・。

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普天間基地移設問題に関連して、米国では、基地を置かせてもらっている沖縄に感謝しようという運動が始まりました。しかし、米軍専用ビーチがあり、米軍専用のゴルフ場があり、「日本人オフリミット」の場所が多くある状況下では、説得力がありません。日本政府も在日米軍も、何か大切なものを忘れています。

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ところで、国内に外国の軍隊の基地がある事が不自然であるのは、日本だけではありません。サウジアラビアでは、国内に米軍基地がある事を自国民に知らせていません。 英国でもケンブリッジの米軍基地は殆ど知らされておらず、英国人でもその存在を知らない人が殆どです。

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その英国も実は国外に軍事基地を多数持っていて、そのどこもが「英軍出て行け!」のプラカードに囲まれています。 一番、基地反対運動が激しいのはキプロス島にある英軍基地で、それにジブラルタルの英軍基地が続きます。

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第二次大戦あるいは東西冷戦の名残とも言うべき、海外駐留の軍事基地ですが、これからは縮小撤退があいつぐでしょう。手始めは、キューバにある米軍の悪名高いグアンタナモ基地の返還でしょう。

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しかし、沖縄の基地が返還される目処は立ちません。なぜなら東アジアでは、まだ残念ながら冷戦が終わっていないからです。その点を議論せずに、沖縄の基地問題は解決しません。


【 Princessについて 】 [イギリス]

【 Princessについて 】

ナックル姫の異名を持つ、吉田えり投手がアメリカで活躍しているのを聞いて嬉しくなります。 特に米国の新聞の一面に写真が載り、Knuckle Princessと紹介していたのを見た時は驚きました。「なんだ、日本語のままじゃないか」と思いながら、しかし、この呼び方は英国では通用しないな・・と考えました。

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野球そのものが殆ど知られない、英国ではナックルという球種も知らないだろうし、年若いスポーツ選手を王子と呼んだり、姫と呼ぶのに違和感を持つでしょう。 なぜなら英国には本物の王子も姫もたくさんいますから。

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何時の頃からか、将来有望な若いスポーツ選手を王子と呼びます。甲子園で活躍し(神宮でも少し活躍した)ハンカチ王子、和製タイガー・ウッズとも言えるハニカミ王子等です。 一応、王子と呼んでもらえるのは、上品で真面目な少年だけのようで、どんなに有望でも、ボクシングの亀田兄弟を、なんとか王子と呼ぶ人はいません。

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一方、女子選手の方は姫です。しかし、スポーツ選手の愛称に王子や姫を用いるのはいいのですが、本物の姫に対する呼称はやや乱れています。

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英国の王室は、すっと日本のミーハー的な人々の憧れの的でした。日本の皇室は、ちょっと畏れ多いし、菊のカーテンがあってオープンではありません。 一方、英国の王室は全てがオープンで、その情報は芸能人のゴシップの様に人気があったのです。 

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かなり昔の話ですが、一大スターであるダイアナ皇太子妃が登場する前、英国王室で、人気があったのはアンドリュー王子の妃であるセーラ妃でした。 1986年、Sarah Ferguson嬢とAndrew王子の結婚は、日本のバラエティ番組でも盛んに紹介されました。その時、セーラ妃はなぜか、”Princess Sarah”と何度も呼ばれました。それがなぜか、オヒョウの耳には引っかかっていました。

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その後、オヒョウがロンドンに暮らしていた1996年、二人は離婚しました。その時、ロイヤルファミリーに詳しい、女性秘書に「日本のマスコミが使うPrincess Sarahという表現は正しいのか?」と尋ねると、答えはNOです。

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彼女の説明では「王族に生まれた訳ではないSarah(庶民の出身)にPrincessの称号は付かない。結婚後もPrincessと呼ぶのは間違い。日本のマスコミは間違っています」との事です。 

「ではどう呼ぶべきなのか?」Duchess of York(ヨーク公爵夫人)が正しいです」なるほど・・、華族のいなくなった日本ではピンときませんが、欧州では公爵夫人(Duchess)とか伯爵夫人(Countess)という言葉には、尊敬と憧れの響きがあるようです。

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余談ですが、この時、離婚したSarah Fergusonさんは、このヨーク公爵夫人という肩書を離婚後も使用する権利を勝ち取りました。その為、この後に離婚したダイアナ妃も、Princess of Wales (皇太子妃)を名乗る権利を得ようとして王室とかなり揉めました。あんなに早く亡くなるのなら、王族の称号などにこだわらなくてもよかったのに・・とオヒョウは思います。

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それから時は流れ、21世紀、あろうことか、そのDuchess of York元夫の公爵に会わせてあげるから、お金を頂戴・・と、持ちかけた事がアメリカのTVで暴露されました。 彼女はお金に困り、しかも酔っていたとの事。 離婚したとはいえ、ヨーク公爵夫人も落ちぶれたものです。

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オヒョウには、純粋な庶民であるナックル姫こと吉田えりの方が、よほど清楚で上品に感じられます。 貴族なんてそんなものかなぁ。ところで、どうでもいいことですが、女性の名前 Sarahを日本のマスコミは、ある時はセーラ、ある時はサラと発音します。どちらも原音とは違うのだけれど、統一すればいいのに・・・と、純粋庶民のオヒョウは思います。本当にどうでもいい事ですが・・。


【 Ladyについて 】 [イギリス]

【 Ladyについて 】 

将棋連盟に所属した女性棋士が独立して日本女子プロ将棋協会(LPSA)を結成したのは、もうだいぶ前の事です。

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女子プロは対局料も安く不当に差別されているという、女性棋士の言い分に対して、将棋連盟が主張する「プロの棋士とは奨励会を突破した人か、特例の編入試験に合格した人に限られ、奨励会を突破できなかった女性棋士をプロとは認めない」という言い分が衝突したのです。

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若手男子プロの言い分としては、女子プロは、男子の1/10の努力しかせず、1/10の棋力で、しかしギャラは同等に貰っている。逆差別だ・・との事です。しかし、これは仕方ない話です。例えば、将棋や囲碁の指導対局をしてもらう場合、同じ棋力なら女性棋士に指導してもらいたい・・という気持ちも分かりますし、イベント会場に登場するなら、これも女性の方が華やかで結構です。華やかさ・・つまり女性棋士はその棋力を期待する本物のプロではなく、彩りを添える花なのだ・・という発想です。

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プロとして認めて欲しければ、囲碁の様に、男子と同じ条件で奨励会を勝ち抜いてこい・・・と突っぱねられた結果、LPSAThe Ladies Professional Shogi-players’ Association of Japan)が発足したのだとオヒョウは理解します。そこで、オヒョウはくだらない事にこだわります。どうしてWomenではなくLadiesなのか?

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これは、既に女子プロが独立した団体を構成している他の業界にならった名前でしょう。 具体的には日本女子プロゴルフ協会LPGAThe Ladies Professional Golf-players’ Association of Japan)の名前をまねたものだと思います。 ではゴルフも将棋もなぜ、WomenではなくLadiesなのか?

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日本ではLadyの大安売りです。Lady=女性と同義の様に用いられますが、英国ではやはりLadyは貴婦人の意味です。英国の工場を訪問すると、現場の作業者用のトイレには、MenWomenと書かれています。 一方、応接室のフロアのトイレにはGentlemenLadiesと書かれています。決してLadyWomanは同じではありません。つまり、英語の本家本元の定義を尊重すれば、日本ではLadyでない者がLadyになっています。

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ゴルフの女子プロもLadies’ Openなどに出場していますが、どうしてWomen’s Openとしないのでしょうか?賞金稼ぎの為に、ゴルフをプレイする女子プロが果たして貴婦人か?

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勿論、貴婦人もゴルフを楽しみます。 常陸宮妃殿下などはゴルフ愛好家として知られていますが、賞金目当てなんて事は絶対にありません。本物のLadyは、プロのスポーツ選手になる事はないのだ・・と思ったところで、ああ、これはアメリカ流なのか・・と気づきます。

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移民を先祖とする民主主義国家には、貴婦人はいません。 だから誰をLadyと呼んでも、本物のLadyからクレームが来る事はありません。そこでLadyの大安売りになり、言葉のインフレが始まったのです。第二次大戦後は、日本の英語も英国風から米国風になり、その影響を受けています。

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実は昭和30年代~40年代の初め、職場の女性はBGと呼ばれていました。 Business Girlの略で、なんだかキャリアウーマンみたいな言葉です。しかし、40年代の中頃から、OLと呼ばれて、BGという言葉はなくなりました。Office Ladyの方が、なんとなく格好良いからか、ビージーという発音がなんとなく不快だったからでしょう。その時点から全ての日本女性はLadyになったのです。

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では、今現在、WomenLadiesの本質的な違いは何か?と言われれば、オヒョウはハンディキャップの有無かな?と思います。まさに将棋がその一例ですが、男子に伍して戦ってもいいのですが、とても勝ち目が無いから、女性同士で協会を作る事になります。つまり男子に対して、ハンディキャップを認める世界がLadiesなのかな?ゴルフだって、ミシェル・ウィーの様に男子プロに混じってプレイする人もいますが、女性だけで競うのが一般的です。

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ではWomenを用いる、陸上や水泳などオリンピック系の種目はどうなんだ?・・と言われると困るのですが、体操などは、もともと男女で全く異なる競技と言えますから、女子にハンディキャップを与えることにはなりません。 どうも歯切れが悪いのですが、欧州系、或いは英国系はWomen米国系はLadiesなのかなぁ?

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男女が同じ種目・競技を行うけれど、女性にハンディキャップを認めるというやり方は、いかにもアメリカ的ですし、Ladiesの大安売りもアメリカですから、符合するのですが、なんとなく自信がありません。

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いろいろな催し物やお店でLadies’ Dayを設けている場合がありますが、これも女性ならお得な料金になるという事でしょう。 しかしガソリンスタンドにLadies’ Dayがあって、女性が買うとガソリンが安いというのは、一体いかなる理屈か? 経済的にも弱い立場の女性を応援するというなら理解できるけれど、結局、亭主が奥さんに「ガソリン入れてきてくれ」と頼んで主婦の仕事が増えるだけではないのか?

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ちなみに全く余談ですが、英国でWoman’s Dayという表現を聞いて、何の事か?と秘書の女性に尋ねたら、生理の日の事でした。 「Girl’s Dayではないんだね?」としつこく尋ねたら、なぜか睨まれました。

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そんな事をぼんやりと駅のホームで思い出していたら、目の前に電車が止まります。無意識に乗り込んだら、なぜか周囲は女性ばかり。「 ああ、これが噂のLadies’ Carというやつか 」と気づいて、飛び降りましたが、田舎者のオヒョウには初めての経験でした。それでも「 しかし、本物のLadyは山手線なんかに乗るのかな? 」とくだらない事を依然として考えているオヒョウでした。


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