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【 図書館とFAX 】 [金沢]

【 図書館とFAX 】

 

私事で恐縮ですが(ブログに私事を書くのは当たり前ですが)、母の逝去に伴い、幾つかのややこしい手続きをする必要が生じました。その全てを金沢に暮らす妹に押し付けているのですが、その妹からメールが入りました。 それは今から50年前に米寿で他界した祖父の生年月日を尋ねるものでした。死亡時に凍結された母の銀行口座のひとつを開くのに、母の出生に関する資料が必要で、それには母方の祖父の生年月日等の情報が必要だと言うのです。果たして明治時代の前期に生まれ、昭和40年代の初めに他界した祖父の情報が必要なのか? どうも銀行側の嫌がらせとしか思えませんが、仕方ありません。

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しかし、残念ながら私も祖父の誕生日を知りません。そこでインターネットで検索をかけました。半世紀以上前のただの市井の人の情報がどれだけネット上で把握できるか・・あまり期待していませんでしたが、2件ヒットしました。

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1件は、何と1901年(明治34年)に兵庫懸が発行した官報で、原本は国立国会図書館にあります。もう1件は、1928年(昭和3年)に発行された北陸地方の紳士録(昭和北陸名鑑)です。 このどちらかに、生年月日が書かれているはず・・と私は考えました。

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国会図書館の資料はインターネットですぐに入手できました。PDFをダウンロードするだけです。しかし、そこに書かれていた内容は期待外れでした。 祖父が奏任官として就職した際の年俸が記されているだけだったのです。 しかし、明治時代の記録を一瞬でダウンロードして見られるとは・・日本のデータベースは素晴らしい。

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問題は、もうひとつの資料である民間の紳士録です。この所在を確認して、取り寄せ方法を考える必要があります。 私は早速、某新聞社の幹部であるT君に電話しました。彼は「その種の人物名鑑とか紳士録なら、多分石川県立図書館にあるだろう。広島県にいて図書館に行けないのであれば、資料の取り寄せも可能なはずだ。まずその資料が収蔵されているかどうかを確認して、その上で取り寄せ方法を図書館の係員に相談するのがいいと思う」とのコメントです。

いつもながら、極めて明快かつ適切なアドバイスです。

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早速インターネットで調べてみると、確かに石川県立図書館に昭和北陸名鑑はありました。 すぐに図書館に電話します。 そして応対してくれる職員に、資料の所在と、閲覧したいページを説明して、遠隔地にいて図書館に行けないから、そのページをFAXして欲しい・・と依頼します。 しかし彼の返事は、ちょっとがっかりするものでした。

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「図書館の資料はFAXでお届けすることはできません。その行為は著作権法で規定する無許諾無報酬で行えない行為です。著作物をFAX 送信することは(著作権)法231に規定する公衆送信に該当し、現在、図書館が公衆送信を行うことについては権利制限がなされていません」と木で鼻をくくったような回答です。

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山本七平と山本夏彦は、対談集「意地悪は死なず」の中で、志の低い役人は、民間の申し出や願い事に対して、「それは法律によってできません」と拒絶する時に、密かな喜びを感じると、語っています。そんなことを思い出しました。

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脱線しましたが、図書館の資料をFAXで送信できない事情について解説するインターネットの記述もあります。

http://www.ndl.go.jp/jp/publication/biblos/backnumber/2008/summer/04.html

「でもコピーを取って、郵送することは可能ですから、切手と送付先の住所を送ってください。折り返し郵送いたします。詳しくはホームページを見てください」と言って彼は電話を切りました。そこで私は切手を送ることにしました。

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しかし、理解できません。図書館の対応ではなく、その背後にある法律の考え方についてです。著作物を、PDFにしてE-mailで送ることは許されて、そしてコピーの郵送は許されて、FAXはどうしてダメなのでしょうか?

著作権法で重要な意味を持つ「無許諾無報酬」という点で考えると、コピーの郵送とて同じ事です。なぜFAXだけがだめなのか。 不特定多数への配信という点から考えてもFAXは該当しません。FAXは宛先番号の特定者のみへの発信であり、いわゆるBroadcastingではありません。

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著作権の本来の精神とは少しずれるのですが、コピー作成にかかる労力の有無が違法性の分かれ目となることがあります。 機械で容易にコピーが作成できる場合は不可、時間と手間をかけて非効率な方法でコピーを作成する場合は、無許諾でも可とする考えがあります。

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その昔、勝海舟は日蘭辞典の元祖というべきズーフハルマを手書きで模写し、自分用の辞書を確保するだけでなく、もう1冊作成して友人に売ってお金を得たというエピソードがあります。これは一種の美談として語り継がれていますが、もしXEROXでコピーしたのであれば、美談どころか違法行為です。ドキュメントスキャナーで「自炊」した場合は、微妙です。

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国会図書館の官報がPDFで送られてきたのは、スキャナーでPDFを作る行為の是非ではなく、官報自体に著作権が無いからかも知れません。では官報ならFAXも可能なのでしょうか?

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容易なコピー製造を問題視するなら、FAXではなく、コピー機の方を問題視すべきです。しかし図書館では普通にコピー機を使用できます。 どうもよく分かりません。

著作権保護の法律と、コピー作成技術や通信技術の進歩にずれがあり、いろいろな矛盾が生じるのは、法律を作成する専門家が、新しい通信技術に詳しくないからだと

私は思います。

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ドイツの諺に、「ソーセージと法律は、作る過程を見ない方がいい」というものがあります。立法府の人々の人品骨柄を怪しむ諺ですが、私は法律の原文を作成する人の無知の方を懸念します。 日本の法律を作成する専門家は、PDFもドキュメントスキャナーも、FAXもインターネットも…実はあまり詳しくないのではないか? だからコピーの郵送は可でFAXは不可などと珍妙な規定を作るのではないか?

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法律が最新技術に対応していない・・という例は、他の法律でも発見できます。

しばしば法律に登場する「電磁的記録」とか「電磁的方法」という表現も、理科系の人から見れば不可解です。電磁的記録とは、人間の目では直接読解できない記録で、コンピューターなどの機械で記録と再生がなされるもの・・という定義ですが、電磁的・・という表現は適切なのか?

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おそらくテープレコーダーやフロッピーの時代の感覚で作成した文言でしょうが、CD,DVD,ブルーレイなどの光学ドライブのディスクは、必ずしも磁気と関係ありません。

(もっとも光自体が、電磁波で磁場と関係ありとするなら別ですが・・・)。

かろうじて、磁界変調オーバーライト方式の光ディスクであるMDMOは、電磁的記録と言えますが、それらも既に世の中から消えました。

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近い将来、透明なガラスの中にエキシマレーザーで書き込む、超高密度の記録媒体が登場しますが、そうなると電磁的記録という表現は、全く通用しなくなります。それでも電磁的記録・・という表現を法律では用いるのでしょうか?

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法律が技術の進歩に追い付かず、混乱と不便をもたらす問題はこれからも増えるでしょう。 それで不利益を被るのは公共サービスの利用者です。 それを防ぐには最新の技術を理解した法律家を育てることが重要ですが、それは難しいでしょう。でも、せめて、FAX通信やPDFのメール送信の扱いについて、矛盾がなく利用者が不便を感じない仕組みづくりは必要だと私は考えます。

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それはともかく、石川県立図書館に電話して1週間。まだ資料のコピーは届きません。


【 赤光 (しゃっこう)】 [金沢]

【 赤光 (しゃっこう)】

私が呉の勤務先の工場で仕事をしているとメールが入りました。 金沢にいる母の容態が悪化し、緊急入院したとのこと。嫌な予感がしました。

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その日の夕方、さらに「家族は至急来られたし」との病院からの連絡も入りました。そこで、翌日の予定を全て取りやめ、「会社には母の容態が悪くなったのでお休みをください」とメールを打ち、次の日の夜明け前の呉線の電車に乗りました。

山陽新幹線から北陸本線に乗り換え、金沢へ向かいます。前日は寝ていないのですが、胸騒ぎというか、少し興奮していて疲れも感じません。やがて冬の日本海が車窓に見えた頃、唐突に私は奇妙なことを考えました。「赤光」とは何だろうか?

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私は短歌には全く暗い人間です。短歌の話をされても、全くついていけないのですが、文学に詳しい友人によれば、アララギ派の詩人、斎藤茂吉の最高傑作は、歌集「赤光」だというのです。山形県出身の秀才だった斎藤茂吉は東大医学部を首席で卒業(と本人は言っているだけ・・と北杜夫は書いています)し、精神科医として活躍する一方、歌人としても日本文学に大きな足跡を残しました。その彼が、山形に残した老母が重体との連絡を受け、山形へ帰り、母を見送るまでをつづった詩が「死にたまふ母」であり、それを修めた詩集が「赤光(しゃっこう)」です。

http://www.izu.co.jp/~jintoku/mokiti.htm

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しかし、その「赤光」の意味が分かりません。私は、最初、母の亡骸を荼毘にふす時の炎の色が赤かったのではないか?と思いました。実際、短歌の中に「赤赤とした炎」が、登場します。でもどうも違うようです。

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赤い光には仏教の世界で特別な意味がある・・とのこと。仏説阿弥陀経の冒頭に「赤光」が登場し、斎藤茂吉自ら初版本に歌集の名前はそこから採ったと書いています。

だから、全く疑いの余地はなく、「赤光」とは仏説阿弥陀経の一部分なのです。「赤」を「しゃく」と発音するのも仏教風です。

それでもまだよく分かりません。斎藤茂吉がどれだけ仏教に帰依していたかは私には分かりません。また彼の他の作品に仏教的な啓示がある作品があるかも知りません。

仏教的な意味だけなのか?

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ぼんやりと別のことを考えます。白い光や青い光は明るく、眼を射るかのように、視界に飛び込んできます。しかし、赤い光は暗いのです。赤い光は、夜の漆黒の空間でしか、はっきりと見えない場合もあります。 ひょっとしたら天空の星座の中の赤い星の光なのか? それならば、火星、冬のオリオン座のベテルギウス、夏のさそり座のアンタレスなどが思い浮かびます。斎藤茂吉の母が亡くなったのは5月でするから、茂吉が母の葬儀の頃に見たとすれば、火星とさそり座のアンタレスが該当します。

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彼のように、明晰な頭脳を持ち、栄達の道を駆けのぼった人物でも、闇夜を歩くように迷い、目印となる、ほのかなあかりを求めたことがあったのか? そしてそれを「赤い光」と例えたのだろうか? でもそれが彼の母の死とどうかかわるのか?

山形県の老母は彼にとって「赤い光」だったのか?

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私自身を斎藤茂吉に例えるのは、畏れ多いことで、私もそこまで図々しくはありませんが、列車の窓を見ながら、茂吉が「赤い光」として眺めたのは何だったのか?と考えました。

特急電車は手取川を渡り、右側には開通間近い北陸新幹線の車両基地が見え出しました。その瞬間、電車は反対車線の上り電車とすれ違いました。一瞬のことでしたが、その時考えました。 ひょっとしたら「赤光」とは夜行列車の意味もあるのではないか?

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ご存知の通り、列車の最後尾には赤い尾灯が点っています。 夜汽車という存在は、それ自体がもの悲しさと寂しさを感じさせますが、その列車を見送る時、最後に視界から消え去っていくのは尾灯の赤い光です。人を送る時、やはり、心に残るのは赤い光なのだ・・・。

そう言えば、昔の長距離移動は、なぜか夜行列車でした。西日本への旅はよく分からないけれど、北へ行く旅、日本海側へ行く旅はなぜか夜行列車でした。 母の元へ駆けつける斎藤茂吉が乗ったのも夜行列車のはずです。

悲しみを抱えて都会を離れる人、希望に燃えて都会を目指す人、懐かしいふるさとへの家路を急ぐ人、深い疲労感の中に安らぎの地を求めて旅をする人、急を知らせる電報を受け取り不安と悲しみの中で目的地へ急ぐ人、それらを運んだのは夜行列車です。

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今はなぜか違うなあ。北へ行くにも西に行くにも、鉄道の旅は新幹線か昼間の特急列車です。JRは夜行列車を無くし、旅人を真昼の時間帯に猛スピードで運びます。ちょっと詰まりません。

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夜汽車を無くしたのにはそれなりに理由があります。 旅客が体力的に負担の大きい、夜行列車を避けて乗車率が下がったこと、夜間の時間帯を保線の作業に当てたり、走行速度の大きく異なる貨物列車の運行に当てたいということ・・もありますが、最大の理由は違います。 安価で便利な高速夜行バスが登場したからです。 それによって夜行列車の旅はなくなりました。 そして「赤いランプの終列車」の趣は消滅しました。

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元気だった頃のオヒョウの母は博識でした。私は多くの雑学を母から教えてもらっています。可能なら母の意見も求めたいところですが・・それは無理でしょう。

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やがて1113分のサンダーバードは金沢駅に到着しました。ホームに降りると同時に、携帯電話をONにすると、メールが何件も飛び込んでいます。

最後のメールには、「 1113分、亡くなりました 」とだけ書かれています。

不覚にも私は、金沢駅のそのホームで、思わず「ああ」と溜息を漏らしてしまいました。

私は死に目に会えず、老いた母は他界しました。

そして私にとって、「赤光」は依然謎のままです。


【 毒 】 [金沢]

【 毒 】

 

金沢土産を川崎のご隠居に届けて、ちょっと驚かしてみようと思いました。金沢のお土産とは猛毒であるフグの卵巣の粕漬です。これを見て彼はどうするか?

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彼はウナギと並んで、フグが好きなのですが、内臓(肝臓や卵巣)や皮など、有毒の部分を食べた経験は無いはずです。そこでフグの卵巣をごちそうして文字通り「肝試し」をしようと思ったのです。 さあ、大人を5,6人も殺せるほどの猛毒テトロドトキシンを前にして、彼はどうするか?ソクラテス宜しく、平然として毒を口にするか、それとも拒絶するか?

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しかし、金沢でお土産を選ぶ時間はありませんでした。金沢駅のお店でやっと見つけたフグの卵巣の粕漬は、ごく少ない量を、チーズで和えて、ほとんどただのチーズみたいな状態でした。 そしてビン自体も随分小さなものです。 しかし、他に選ぶ品物もなく、私は、それを買い求めました。

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そのビン詰を見て、ご隠居は少しも驚かず、少量をご飯の上にのせて、何食わぬ顔で、そのまま食べてしまいました。 完全な空振りです。 彼はこの食品が無害であることを知っていたのです。 加賀地方に伝わる特別な食品である、このフグの卵巣の粕漬は、猛毒テトロドトキシンを洗い流していて無毒なのです。

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これほど科学が発達した時代でも、フグ毒とそれを取り除く研究はあまり進んでいません。フグの毒については幾つもの疑問がありますが、解答は得られていません。

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1.フグはなぜ体内に毒を持つか?

フグが、他の大きな魚や天敵に捕食されないように、有毒であることをアピールするために猛毒を持つ・・という考え方もありますが、正しくないでしょう。

フグを襲うかも知れない大型の魚たちの間で、フグが有毒であるとの知識が共有されれば、魚たちはフグを襲うことはなく、フグにとっては大成功となりますが、そうは問屋が卸しません。フグを捕食した魚はすぐに死んでしまうでしょうから、仮りに魚たちの間に情報伝達する機能があったとしても、フグの危険性を他の魚たちに伝えることはできません。海を泳いでいる多くの魚は(フグ自身も含めて)フグが有毒で危険な魚だと知らないはずです。

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私の個人的な意見ですが、海の動物で毒を持つものは、餌となる他の動物を痺れさせて捕食しやすくするために毒を持つ場合が多そうです。

ただ、ゴンズイや、オコゼ、アカエイの毒針については、その理由が分かりません。自分の身を守るためという考え方は否定できませんが、外敵による捕食を免れるためであれば、警戒色の派手な色にした方が効果的に思えます。

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2.フグの仲間でもマンボウやカワハギなどは毒が無い。これはなぜか?

私はマンボウを食べたことがありませんが、おいしいそうです。つまりフグに似た味なのか・・・。それで毒が無いのですから、多いに結構なことですが、あいにくマンボウはあまり捕れません。魚屋に並んでいるところを見たことがありません。

マンボウに毒が無くて、フグに毒がある直接の理由は不明ですが、ある程度のことは分かってきました。

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フグ毒はフグの餌が持っていた毒が体内に蓄積したもので、自分で毒を合成したものではありません。その証拠に完全養殖のフグには毒であるテトロドトキシンがないそうです。 それを足掛かりに、フグ特区を申請した人がいるそうです。

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つまり、特区の中では養殖フグだけを扱い、そして特区の中では、フグ調理師免許を持たない人でもフグを調理してよい・・・という提案です。それによって安価でおいしいフグが特区内でふんだんに食べられる・・というものです。

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しかし、このフグ特区構想は実現しませんでした。反対意見としては、もし有毒のフグが特区内に紛れ込んだら大変だという意見もあったそうですが、本当の理由はそうではないでしょう。 フグ特区で安全でおいしいフグをふんだんに食べられるようになったら、特区外のフグ料理店は大打撃でしょう。 既存の利権にしがみつく人達が足を引っ張ってフグ特区を阻止したのでしょう。

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3.加賀のフグの卵巣の粕漬の解毒作用は、どういうメカニズムなのか?

最初の塩漬けの工程で、浸透圧でテトロドトキシンが吸い出されて流れ出すのか、粕漬の工程で、分解されるのか、それとも他の現象なのか・・・。粕漬が完成する前の段階で試食することができない以上、なかなか結論が出ません。

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それにしても、昔の人達は、よほど飢えていたのか、それともよほど食い意地が張っていたのか・・・・。 まかり間違えば死んでしまう危険な食材を、上手に食べる方法を開拓してきました。

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例えば、ヒガンバナの根です。ヒガンバナの根にある澱粉は非常に良質ですが、強烈なアルカロイドも一緒にあります。飢饉で植えた人が食べて落命し、死人花などという不吉な名前が付いたのではないか?と私は考えます。

実のところ、ヒガンバナのアルカロイドは水溶性で、ヒガンバナの澱粉は流水でよく洗い沈殿させれば無害なのです。 しかし、そのことに気づくまでに何人の人が亡くなったことか?

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青い梅に含まれる青酸は、さほど強力ではなく、サスペンス映画で青酸カリを飲んだ人のように即死することはなさそうです。でも梅に限らず、未熟の果実になんらかの毒性があることは事実でしょう。 壺井栄の小説「二十四の瞳」や「母の無い子と子の無い母」には、熟していない柿を食べた子供が腸カタルで亡くなる話が、登場します。

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青い果実を食べたくらいで本当に死ぬのか? 腸カタルと食べ物の関係は本当なのか? 医学者でない壺井栄の説明に誤謬は無いのか?などと考えたことがありますが、文学の本質とは遠い部分です。 子供達に、単に未熟な果実を食べないように諭すために、そのような逸話を作成したのか・・それとも真実なのか、飽食の現代、未熟な果実を食べる子供がいるはずも無く、確かめようがありません。

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古代、山野や海浜にある動植物が有毒なのか無毒なのかを知る事は、非常に重要でしたが難しいことでもありました。多くの毒キノコ、トリカブトなどの有毒植物の確認は犠牲の上になりたっています。

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中国の初代皇帝にして、漢方医学の始祖である神農は、伝説の人物ですが、杖で触れば、その植物が有毒であるか無毒であるか、薬であるかが瞬時に分かったそうです。私は上海の薬膳レストランで神農の肖像を前にして食事をしながら、相手の女性に持論を展開しました。

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「漢方医学の黎明期には薬と毒を見分けるために多くの犠牲が出たはずだ。後年の中国の医学者や為政者は、その犠牲に感謝し畏敬の念を表すために、その犠牲を神格化し、その象徴として神農という偶像を作って崇めたのではないか?」

中国人の女性は、首を傾げ「犠牲者を神格化するのは日本の習慣ではありませんか?」と切り返してきました。 彼女は神農の存在を認めたかったようです。

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先人の勇気と犠牲に敬意を払い、おいしい食べ物に感謝するというなら、神農も大切ですが、最初にフグの卵巣の粕漬を食べた加賀の人も尊敬されてしかるべきでしょう。

おそらくは幾人も犠牲者を出しながら、珍味を開発した全く無名の加賀の人こそ勇気のある人です。

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そう言えば、最近「笑うオヒョウ」も毒が無くなってきたと言われます。個人攻撃をしないから・・とか、穏便なことしか言わないから・・・と言われますが、私は特に遠慮したりはしていません。 ただ、ちょっと筆が躍るというか、過激に過ぎた文章はお蔵入りにして、塩漬けにしています。 こちらの方は、どれだけ塩漬けにしても毒気が抜ける訳ではないのですが・・。


【 金継ぎ 】 [金沢]

【 金継ぎ 】

 

ある人のブログを読んでいて、彼女が趣味で陶磁器の金継ぎをしていると知り、ちょっと驚きました。この優雅な作業は専門家のみが行えるものと理解していたからです。

http://www.gch-itabashiku.jp/tabid/121/Default.aspx

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私が育った北陸の金沢は茶道が盛んな町です。お茶会に呼ばれると、目の前に登場するお茶碗を鑑賞する訳で、私のような美的センスの全く無い者でも、分かったふりをして眺めることになります。その中でアレっと思うことがあります。欠けたり割れたりしたお茶碗が修復されて、お客さんの前に現れる時です。それは、割れ目を綺麗に金で修復したお茶碗です。どうやって割れたお茶碗を修復するのか、私には分かりませんでした。 その修復作業が金継ぎです。

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お茶碗が欠けると、どうしても価値が下がります。しかし、価値がゼロになる訳ではありません。捨てがたい良さを持つお茶碗を、それだけで捨てるのはナンセンスです。修復して価値を保ち、さらには、新しい味わいがでればしめたものです。金継ぎは陶磁器の美しさや価値を理解した上での芸術的な作業となります。

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ご承知の通り、お茶碗には正面があり、鑑賞する方角がありますが、金継ぎをすると、その向きが変わることがあります。敢えて欠けて修復した箇所を真正面に据えて、金継ぎをした場所がよく見えるようになっています。これはなぜか?

母に尋ねても明解な答えがなかったのですが、どうやら理由は2つあるようです。

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1.欠点を隠さない潔さ

欠けた箇所は見苦しいのだけれど、それをこそこそ隠すのはさらにみっともない。欠点をさらけ出して、さあ御覧くださいというのが茶道の考え方。

2.豪華さを自慢する

金を用いて華麗に修理し、その美しさや豪華さを自慢する。

豪華な金を用いて美しく飾るのはそのためと思われます。そもそも金自体には接着剤としての機能は無いはずで、修復部に華美さをもたらすための材料だと私は考えます。これも、欠けたことを逆手にとった一種の開き直りかも知れません。

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それにしても、ちょっと理解できません。お茶の精神は、豪華さや華美を嫌うのではないか? これは千利休以来の茶道より昔の、禅宗の世界でも、或いは鎌倉期以降の日本の武家社会の文化の中でも金ピカは下品とされているのではないか?

しかし、一方でお茶の世界は贅を競うものでもあります。秀吉は黄金の茶室を作り、贅沢な茶会を催しています。それが利休の趣味に合致していたかは不明ですが。

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果たして黄金は茶器に似合うのか?

私の母の意見ですが、茶室では茶道具だけが、豪華であることを許されるとのことです。例えば、茶室では金属製の装身具や腕時計は身につけないのがマナーになっています。 これは金属製の腕時計などが、茶器に当って傷つけないように・・という配慮もありますが、派手さを競う形でお茶碗の邪魔になってはいけないという考えが根底にあります。逆に考えれば、お茶碗は派手で金ピカであることが許されるのです。

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実際には金をあしらったお茶碗はそう多くありませんが、金継ぎでは金色を前面に出します。日本固有の接着技術である金継ぎは、茶道の文化を基本に置いた技術であり、日本の文化そのものかも知れません。

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現代の接着技術は、接着力が強いことと同時に、接着した箇所を目立たなくすることがポイントです。接着剤はビニル系、アクリル系、エポキシ系と使用する有機材料によって様々ですが、陶磁器に用いる場合は、なるべく割れ物であることが分からないように、目立たないようになっています。

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しかし、割れ物であるなら、傷物であるなら、それを隠さず、むしろ目立たせ、正々堂々と見せ、その上で評価してもらおうという思想もあります。それが日本固有のものかは不明ですが、陶磁器大国の中国には多分無い発想だと思います。 日本の茶道家は、金継ぎの思想のユニークさをもっと強調しても良いのではないか?

そして欠点をさらけ出すことを良しとする考え方は、陶磁器や茶道以外の世界にも通じるのではないか・・?と私は考えます。 そして多分それは、日本だけでなく世界で通用する考え方だと思います。

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もちろん、金継ぎにも欠点はあります。 多分、金継ぎをしたお茶碗は電子レンジには入れる事ができないでしょう。 それから食器洗い機にも入れる事ができないでしょう。もっとも、お茶の茶碗でしたら、電子レンジや食器洗い機を使う事はないでしょうが・・。

 

ところで、加藤さん、老眼鏡を使うなどという悲しい事は書かないでください。

私の記憶の中では、あなたはずっと溌剌とした大学生のままなのですから・・。

 


【 橋本健二氏と漫画 】 [金沢]

【 橋本健二氏と漫画 】

 

前回、名前をあげた橋本教授なる人は、マルクス・レーニン主義をいまだ信奉する方で、まさに昭和を引きずっている人かも知れません。ご本人は多分西暦の方を好むでしょうから、20世紀を引きずっている・・という事になるのでしょうが・・・。

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マルクス・レーニン主義を実践して国家運営がうまくいった国が無い以上、橋本氏の説に簡単に賛同する訳にはいかないのですが、部分部分でみると、最近の日本社会で進む階層化(正規雇用と非正規雇用)の問題、長すぎる残業時間などの過酷な労働環境、貧弱な生活インフラなど、彼の指摘が的をえている部分は確かにあります。

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そして面白いのは、彼が雑文に記している、東大入試やマンガ論です。

例えば、北国新聞に寄せた文では、北陸地方から東大に進学する人々について論じています。興味深い内容です。

http://www.asahi-net.or.jp/~fq3k-hsmt/zatsu/zatsu01.htm

石川県と富山県で東大合格者数に差があるのは、石川県人や富山県人には周知の事実です。彼はこの点に着目し、その持つ意味について論じているのですが、しかし、いかにも考察が浅いのです。この現象はもっと多面的に考察されるべきです。私が大学の先生で、学生がこのレベルのレポートを書いてきたら、多分「可」しか付けないでしょう。 その詳細については、別稿で述べたいと思います。

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さらに面白いのは、少年漫画を階級論から論じている文です(出典を失念しました)。

ある専門をもつ人は、世の中の森羅万象を、自分の専門分野の観点から見てしまうそうです。彼の場合は、目に映る全てのものを階級論の観点から分析したのでしょう。なんでも彼によれば、漫画「巨人の星」も「あしたのジョー」も全て階級闘争を書いている・・というのです。これはある意味当然です。大学教授に指摘して貰わなくても、読者は全て理解しています。

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これから先は、橋本教授に対抗するマンガ論です。

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原作者梶原一騎は、常にある種のコンプレックスを持った存在が、それをバネに何かに挑戦し、挫折と克服を繰り返しながら、成長していく過程を物語にしています。

これは単純ですが物語としては大衆受けするパターンで、少年向けの物語のストーリーとしては好適です。 そしてその物語の中で、チャレンジする対象として、最も一般大衆にうけるテーマはスポーツです。一方、コンプレックスの内容として、読者の最大公約数的な人々が共感できるのは貧困です。そこを見ぬいた梶原一騎は、スポーツ根性もの、俗に言う「スポ根漫画」なるジャンルを確立しました。

貧しい家庭で育った星飛雄馬が、銀の匙をくわえて生まれてきたような存在である花形満をライバルにして成長する話が「巨人の星」。

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流れ者で少年院出身の矢吹ジョーが、お金持ちの庇護の元に暮らす力石徹に対決するのが「あしたのジョー」だというのです。 確かにそうですが・・、話はそう単純ではありません。 力石徹だって、決してブルジョア階級という訳ではなく、やはり少年院出身のドロップアウト組です。「巨人の星」に登場する星飛雄馬のライバルである左門豊作もまた貧しい家庭で育った人物です。

登場人物をプロレタリアートとブルジョアに色分けして対決させる構図にむりやり帰着させるのは、橋本教授の牽強付会というものです。

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もし階級闘争・・を本当に漫画にするなら、星飛雄馬に赤旗を振らせて、巨人軍の選手会を正式の労働組合として認めるよう、オーナーやコミッショナーにかけあう・・というストーリーになるでしょうし、そもそも落伍者を生み出すようなプロスポーツの世界はけしからん・・なんていうメチャクチャな内容になるでしょう。 そうなると、もはや新聞赤旗に連載するしかありません。

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おちょくるのはその程度にして、梶原一騎のスポ根漫画が、コンプレックスをバネに努力する少年像を明確にした功績は認めるべきです。

よど号ハイジャック犯が「僕はあしたのジョーになる」という迷台詞を残した時、私は、将来、あのハイジャック犯は後悔するのではないか?と思いました。彼に分別ができた頃、自分の思想と行動のよりどころに漫画の主人公を挙げてしまったという安っぽさを恥ずかしく思うのではないか? 実際、彼がどの程度の思想を持っていたかは不明ですし、彼が後悔しているかは不明ですが・・・・。

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ただ、確実に言えるのは「あしたのジョー」の主人公は、ある種の屈託をもった拗ねた存在であり、それに共感を覚えた左翼少年は、その当時相当数いたということです。

橋本教授はその点に着眼したのかも知れません。

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ところで階級闘争・・換言すれば、貧者と富者の対決はスポコン漫画の専売特許か?と訊かれたら、そんなことはない・・と否定できます。

スポコン漫画が登場する前から、つまり梶原一騎が登場する前から、少女漫画の世界では貧困を背景に、けなげな主人公が頑張る・・というストーリーはごく普通にありました。多分橋本教授が幼稚園の頃ですが・・。私はそれを「シンデレラ型少女漫画」、または「おしん型少女漫画」と呼びます。 明確な対立の構図や競争が無ければ、これを階級闘争もの・・と呼ぶには無理がありますが、その原型ではあります。

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スポコン漫画は少年漫画、少女漫画の両方に存在しますが、その登場前、つまりプレ梶原一騎の時代、少女漫画は少年漫画よりもちょっと複雑で大人びていました。貧困などの社会的な問題、そしてジェンダーの問題を、少女漫画では取り上げていました。ジェンダーを強く意識した「リボンの騎士」、これは後に「ベルサイユのバラ」のオスカルになります。 このタイプの少女漫画を私は「宝塚少女歌劇型漫画」と規定します。

その系譜は今もつながり、手塚治虫の弟子?である石坂啓あたりの作品にちらりと見られます。

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同時期(昭和30年代)の少年漫画はもっと無邪気でした。 一部に戦争漫画や忍者漫画もありましたが、スポーツ漫画もありました。しかし、その内容は、寺田ヒロオの「スポーツマン金太郎」のような無邪気なもの、あるいは一峰大二ら多くの作者が手がけた「魔球もの」というべき荒唐無稽な作品が主でした。

その少年漫画の「魔球もの」スポーツ漫画と、少女漫画の「おしん型」漫画を融合させてスポ根漫画という新ジャンルを築いたのが梶原一騎です。

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だから階級闘争の漫画を梶原一騎が作った訳ではありません。

ではスポ根漫画はそのあと、何時、どのような経緯で廃れていったか?

それは階級闘争の敗北とつながるのか?

これを論じる上で重要なのが、車田正美の「リングにかけろ」というスポ根漫画です。

この一種のボクシング漫画は、連載中に、古典的な(梶原一騎型の)スポコン漫画から、超人・魔神級の選手が登場する荒唐無稽な漫画に変質しました。

後者は「魔球もの」とも言えるのですが、敢えて名付けるなら、「アストロ球団型」漫画となります。今なら「ワンピース型」でもいいかも知れません。

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初期の「リングにかけろ」はあまりに類型的な「階級闘争漫画」でした。 親のいない貧しい姉弟が、お金持ちの家に小間使いとしてはいり、その家の少年にいじめられます。 その家のダイニングとは・・、立派なテーブルの上には果物の盛られた皿が乗り、壁際には給仕が立ち、中央に座る主人はガウンを羽織って、口ひげをたくわえています。 夏目房之介かいしかわじゅんが漫画評論にこの漫画を取り上げ、あまりにステロタイプなお金持ちの描き方だ・・と冷笑しています。 お金持ちを描くのにワンパターンの絵しか描けないのはイマジネーションの貧困・・というわけです。

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その作者が、ある日突然、編集者の強い慫慂により、路線を転向します。その結果、この漫画は人気を得て成功するのですが、それはなぜか?

漫画編集者は、時代を読み、もはや単純なスポ根ものは流行らないと見ぬいたのです。それはどうしてか?

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高度成長期を経た後の日本では、すでに生活にゆとりがあり、がむしゃらに頑張って貧困を脱出するという生き方が共感を得られなくなりました。 そして青年たちは学生運動に挫折して、ある種類の冷めた状態になりました。熱血根性型の漫画ではなく、ナンセンス漫画あるいはギャグ漫画が好まれる時代になりました。更に時代が下ると、漫画はもっと幼稚になっていきました。 

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今、廃れてしまったスポ根漫画が登場するのはパロディの世界です。眼の中にメラメラと燃える炎を見せ、ツギのあたったズボンを履く星飛雄馬、やたらと頑固でちゃぶ台をひっくり返す星一徹は、今でもTVCMに登場しますが、全てパロディの対象です。彼らに感情移入して感動する人はいません。

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「スポ根漫画は階級闘争漫画だ」という橋本教授ですが、そのスポーツ根性ものの漫画が過去のものになりパロディ化したのなら、階級闘争も挫折し過去のものになったということです。彼はそれを認めるのか?

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今、中国で人気がある日本の漫画は、ワンピースだったり、クレヨンしんちゃんだったり、ケロロ軍曹だったりします。 実際は、漫画本で読むよりアニメを見る方が多いのですが、ファンの多くは小学生の下級生以下です。 大人がワンピースを見るという事はちょっと想像できません。 そして、文化大革命という極めて熾烈な階級闘争を経験したこの国ではスポ根漫画は全く流行りません。 おそらく理解もされないでしょう。

もう階級闘争はコリゴリだから、それを表象するスポ根漫画は好きになれない・・というのなら、橋本教授の説は当たっているのかも知れません。

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でもマルクス・レーニン主義を標榜するこの国で階級闘争が最も忌まれていることを橋本教授がどう説明するかは私には分かりませんが・・。


【 恭喜、恭喜 】 [金沢]

【 恭喜、恭喜 】

 

私の中学1年以来の友人が、晴れて教授になりました。 実は既に我々の中学、高校、大学時代の友人には大学教授になった人がたくさんいます。 ですから彼の実績・実力からみて、もっと早くなっても良かったのではないか?という気もしますが、なにはともあれ、おめでたい話です。 連絡のメールを読んで、思わずニヤッとしてしまいました。

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そこで、ふと思ったのです。 他人の事、特に古い友人におめでたい事があって、素直に喜び、こちらまで朗らかな気分になることは、最近なかったな・・。

そして、ふと思いついて、あるフレーズが口からでてきました。

「友の憂ひに吾は泣き、吾が喜びに友は舞ふ」 

 

この有名な一文の出典を思い出そうとして、それを忘れた事に気づきました。

確か、旧制高校の同級生や寮生の友情を表した言葉だったはず・・・。

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インターネットで調べれば、出典はすぐに判りました。

旧制一高の寮歌、「仇浪騒ぐ濁り世の」の四番の歌詞でした。

 

岸巌・作詞/内海磐夫・作曲

一、
仇浪騒ぐ濁り世の 汚れを永久に宿さじと
春や昔の花の香に 結び置きけん友垣や
十七年の東風吹けば ゆかしく萌ゆる若緑

ニ、
野路の村雨晴るゝ間を しばし木蔭の宿りにも
奇しき縁のありと聞く 同じ柏の下露を
くみて三年の起き臥しに 深きおもひのなからめや

三、
み空に星の冴ゆる夜は 圓かに更くる夢と夢
一つに結ぶ露の玉 雲紫の朝には崇き希望の胸と胸 

同じ調べに躍るかな

四、
友の憂ひに吾は泣き 吾が喜びに友は舞ふ
人生意氣に感じては たぎる血汐の火と燃えて
染むる護國の旗の色 から紅を見ずや君

五、
流るゝ水に記しけん 消えて果敢なき名は追はじ

めぐる幾世の末かけて たゞ我が魂の清かれと
昔ながらの月影に 歌ふ今宵の紀念祭

               (明治四十年)  
・・・・・・

しかし、インターネットで調べてみると、面白い事に、この歌詞は実に多くの歌の歌詞や文章に引用・転記されています。

ちょっと下品な言葉で言えば、パクられています。

そして一部の引用した歌や詩では、そちらがオリジナルのように理解されたりしています。

最も有名なのが、旧制大阪高校の寮歌「嗚呼黎明は近づけり」です。

その中に 「 君が愁いに  我は泣き 我が喜びに 君は舞う 」という、

ほぼ同じフレーズが登場します。
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この「嗚呼黎明は近づけり」も非常にいい歌であり、愛唱されてしかるべきなのですが、歌詞の中に一高の寮歌を模倣した部分があってはいけません。 どうしてこんな事になるのか・・・。

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ちなみに、一高の「仇浪」では「友」だったのが、大阪高校の「嗚呼黎明」では「君」になっています。 そして「仇浪」の「吾」が、「嗚呼黎明」では「我」になっています。

どうでもいいことですが、現代中国語の一人称は、北京語では我、広東語では吾だったように記憶します。 広東語は習った訳ではなく、香港映画の字幕を見ていてそう理解しただけなので、あまり自信はありませんが・・・。 実は2つの漢字の意味は微妙に違ったはずですが・・。

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戦前を懐かしむ懐古趣味の老人達が「昔は良かった・・」と語る最たるものは旧制高校での寮生活であり、そこで培われた友情こそ本物・・という意見を耳にします。

いかなる友情か?と問えば、それは「仇浪騒ぐ濁り世の」の歌詞に象徴される友情だ・・という事になります。

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「ミミズだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ友達なんだ」というあまりに平易な歌詞で友情が語られる、戦後の民主主義で育った私には、それに反論する勇気がありません。 ひとり敢然と旧制高校の友情に噛み付いたのは、今は亡き名コラムニスト 山本夏彦です。

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彼は「そりゃ友達の幸福は一度は喜んで舞も舞うだろうが、何度も友達の幸福や幸運が続けば、複雑な気持ちになり妬みの感情も持つ。 それが人間として当然だし、そうでなけりゃ鈍感だ」という趣旨の事を語り、旧制高校の友情に水を指しました。

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シニカルに人間存在を眺め、寸鉄で人の心を刺すのが生業の、山本夏彦らしいコラムですが、私は、このコラムについては「ちょっと待てよ」と思いました。

私オヒョウは、身の不運や自分の不甲斐なさを呪わざるを得ない、そして世の中に絶望する事、数多しという蹉跌の人生を歩んできました。 しかし、一方で友人の栄達に嫉妬した事はありません。 むしろ自分が不遇な時こそ、友の幸福を嬉しく感じてきました。 まあ、鈍感なお人好し・・とも言えますが。

・・・・・・

だから、この件については、山本夏彦の意見にはちょっと賛成できないのです。

多分、この意見の違いは、当時の夏彦がまだ生臭くて、今のオヒョウが少し枯れているという事かな? と勝手に解釈します。 別に私が旧制一高の秀才生徒達にシンパシーを感じている訳ではありません。

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友の慶事を屈託なく喜べるという事は、私も真の友情に近いものを持っているのかも・・と少し愉快になったところで考えました。

友情という概念の本家本元の中国ではどうだろうか・・・・?

・・・・・・

中国の歴史には友情にまつわる物語が多数登場します。 親友達のメッカです。

でも、普通の友情もありますが、義侠心が友情の形をとっているのもあります。

施耐庵か羅貫中の作とされる「水滸伝」の豪傑達も友情で結ばれているのか、義侠心でつながっているのか、ちょっと分かりません。

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現代中国では、共産主義は全く流行りませんが、拝金主義、プラグマティズムが大流行です。したがって利害を超えた純粋な友情は育ちにくいかも知れません。

私は、その中国語の中で「恭喜」という言葉が大好きです。 発音はゴンチーです。

これは単純に「おめでとう」という意味ですが「あなたの為に、恭しく私は喜ぶ」という訳ですから、相手の幸福で自分も喜ばせてください・・という事になります。 つまり、あなたの喜びに舞を舞わせてくれと言っているようなものです。

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ところで旧制高校の寮歌を歌う人達は急速に減少し、将来誰もいなくなるでしょう。

そして寮歌も忘れ去られるでしょう。 しかし歌詞の中には不変の真実があるのも

事実です。 その内容を信じるならば・・、他人のために、自分が喜ぶ・・やはりこれが本当の友情かも知れません。

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まあ、それはともかく、これから弊ブログに登場するY博士またはDr.Yは、Y教授またはProf.Yになりましたので、よろしくご了解願います。 

(とても嬉しいけれど、ああ、オヒョウだけは、ただの人のままだなぁ・・)

 

まずはともあれ、恭喜、恭喜、Y教授。


【 たいこ腹 】 [金沢]

【 たいこ腹 】

お盆の休み中に再び腰を痛めてしまいました。 重量物を持ち上げようとして、グキッという感覚を腰に感じました。8月14日の夕暮れです。

まもなく、腰を捻ったり、かがもうとしたり、腰に力をいれようとすると激痛が走るようになりました。

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そして、しばらくすると、力を入れなくても痛みが続く状態になりました。

その日予定していた、Y博士との会食を急遽キャンセルして、私は休む事にしましたが、痛みでなかなか眠れません。

寝ても立っても座っても痛みがあるのですから逃げ場がありません。

翌8月15日の朝は、寝床から脱出して立ち上がるまでに20分もかかります。

その上、着替えて靴下を履く事の難しいこと・・。

・・・・・・

妹が、お医者さんに行くべきだ・・と勧めます。 北国新聞を見て

「ちょうどI田病院が当番医で診察してくれるみたいよ。行ってみたら?」と薦めます。

終戦記念日でお盆の真っ最中ですから、多くのお医者さんはお休みなのです。

・・・・・・

整形外科のI田病院は、そう遠くはありません。 ちなみに、院長のI田医師は、私の小学校、中学校、高校の同級生で、古い友だちです。 

「久しぶりに会いたいな・・」という思いがチラッと頭をよぎりましたが、もし久しぶりに会って、久闊を叙すという事になれば、時間がかかるかも知れません。

私は何としても、15日中に弥富に帰りたかったので、それは困るのです。

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それにI田君がいかに名医であろうと、ぎっくり腰でできる治療は限られるはずです。

すぐに完治するということはなく、時間がかかるでしょう。

「いや、やめとこう。それよりなんとか、今日中に帰らなくては・・」と答え、私は早い時刻に金沢を出発しました。

・・・・・・

痛みが強くなった時に、いつでも路肩に止まれるように、高速道路を諦め、一般道を走り、夕方に弥富に着きました。

・・・・・・

そして翌日、朝、寝床から起き上がる事ができません。かろうじてたどり着いたテーブルの上の携帯電話から、会社に仕事を休む事を伝え、近隣の病院を紹介してもらいました。

・・・・・・

しかし、教えてもらった病院は、まだお盆休み中です。そこで別の病院をネットで探し、K整形外科を訪ねました。

夏の陽光が光る病院の駐車場で、ソロリソロリと車を降ります。この時間帯、休み明けの会社では、皆一所懸命仕事をしているのだ・・と思うと、後ろめたさと情けなさを感じますが、痛みによって、その殊勝な感情はかき消されてしまいます。

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およそ午前中を全て潰す長い待ち時間の後に、私の診察が始まりました。

「 私の具合ですが、右側の、ちょうどIlium(腸骨)とSacrum(仙骨)の接合部辺りに強い痛みを感じるのですが・・ 」

私の説明などほとんど聞かずに、医師はレントゲン写真を見ます。

レントゲンは、旧式のシャウカステンに架けるのではなく、高精細の液晶モニター上に映しだされます。 写真の鮮明度は非常に高く、詳しく見たいところのズーム表示も簡単にできます。

「これは便利だな・・・。僕は医者じゃないからレントゲン写真を見る事は無いけれど、この液晶モニターは羨ましいな・・」。

・・・・・・

「 ああ、骨や椎間板には問題ありませんね。 つまり単なる腰痛ですな 」

・・・単なる腰痛と言われても、現実に痛みはあるわけで困るのですが・・・

「 以前に使っていた腰痛バンドがあるのなら、それをお使いください。 痛み止めの薬も以前使っていたボルタレンをそのまま使っていいですよ。一応別の薬も処方しますが。 一週間程度で治るでしょうが、それ以降も痛みが続くなら、また来てください 」

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診察はごく短時間で終わりました。

その日の夜は、以前からの約束で、川崎のご隠居が来てくれたのですが、体が動かなくては何のお構いもできません。 逆にお客である彼にいろいろ助けてもらう有様でした。

・・・・・・

その翌日、やっとのことで出勤すると、皆さんから声を掛けられます。

そして自薦他薦で、いろいろな病院や治療法を薦めてくれます。

「腰痛なら、××の○○医院が一番いいよ。 とにかくどんな痛みでも注射1本でピタリと治って、杖を突いて来た患者が、帰りはスタスタと歩いて帰るのだから」というルルドの泉みたいな話とか、「どこどこ治療院の鍼治療は本当に効きますよ」といった話をたくさん教えてくれます。

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その中でK部長が「実はうちの息子がカイロプラクティックの修行をしてましてね。お嫌でなければ、一度診させたいのですが・・」との話を持ちかけてきました。

「それはありがたいです」と適当な返事をしていたら、その日の夜、突然、K部長が息子を連れて、私の部屋に現れました。

・・・・・・

驚きながら、彼らを中に招じ入れますと、すぐに持参したマッサージ台に私を載せ、治療にかかります。 随分急な話ですが、しかし、その前にちょっとした能書きがあります。

・・・・・・

カイロプラクティックにも幾つかの流派があり、彼が所属するのは姿勢重視派・・つまり本来の自然な姿勢に戻れば、自ずと痛みは無くなるという考えの流派です。

本来あるべき姿に戻すには、一般の整体のように強い力で関節を矯正するのではなく、弱いソフトなタッチで姿勢を正していくのだそうです。(ほんとにそれで治るのな?)

「 うーむ、オヒョウさんの体は相当ねじ曲がっていますね。第三腰椎で出っ張りに神経が接触しているのかも知れない・・ 」

私は、自分の根性がねじ曲がっている事は薄々気づいていましたが、背骨までそうだとは知りませんでした・・。なるほど

・・・・・・

それにしてもカイロプラクティックにいろいろな流派があるとは知りませんでした。なんだか宗教みたいです。 宗教は科学と違って、立証する必要が必ずしもありません。

腰痛治療も、明快な理屈の説明がなくても成り立っていますから、ある意味で宗教に近いのかも知れません。

・・・・・・

残念ながら、彼の治療では、その場でピタリと治るという訳にはいきませんでした。

帰り際・・、「お代は幾らです?」と尋ねると「まだ修行中の身なので、代金は頂けません」と答えて青年は帰って行きました。

・・・・・・

その日、やっとのことで、寝床につくと皆さんから勧められたいろいろな治療法が頭に浮かびました。さて、誰に治療してもらうのがいいだろうか?

そういえば、私の古い友人T田君のおくさんは、鍼治療をするそうです。

鎌倉夫人というより大船夫人・・・であるT田君のおくさんは、子育てが一段落して時間ができた時に鍼治療の勉強を始めたのだそうです。でも怖いからまだ旦那さんは治療を受けた事がないとか・・。

・・・・・・

マッサージのベッドの上に私がうつ伏せになっています。そしてパンツを尻まで下ろした“半ケツ”の状態で私は治療を待ちます。もはや、まな板の上の鯉です。

そこにT田夫人が現れると「では治療を開始します」とブスリと鍼を腰に刺します。

どうも鍼治療用ではなく畳屋の針のようです。

「ギャー」と悲鳴を上げると、もう1本ブスリと刺し込まれます。再び「ギャー」です。

彼女は「どうもうまく行きませんね。ではそういうことで、ここで失礼します・・」

しかし、身動きできない状態で放り出されては困ります。

「ちょっと待ってください。このままでは・・・」

「いえ、お代なら結構です。まだ修行中の身ですから」と、動けない私を尻目に彼女は立ち去ります。 

・・・・・・

「 あれ?こんな話をどこかで聞いた事があるぞ。そうだ落語の『たいこ腹』だ 」

読者諸兄もご存知かも知れませんが、この落語は、にわか仕込みの鍼治療の腕を試したい若旦那に、練習台として我が身を使われ、鍼を打たれてさんざんな目にあう哀れな太鼓持ちの噺です。 私は太鼓持ちではありませんが太鼓腹“ではあります。

・・・・・・

そこまで気づいて目が覚めました。 鍼を打たれた痛みは、寝ていて無意識に体をねじ曲げようとして感じた痛みのようです。 やれやれ、まだ夜明け前です。

でも、その後、寝床から体を起こすのに、しばらく時間がかかり、その日も私は会社に遅刻したのです。

そして8月19日現在、痛みは続いています。


【 茶色の靴 】 [金沢]

【 茶色の靴 】 

去年の夏の事です。金沢の繁華街のある店で、日差しの中、葡萄棚の下のテーブルでビールを飲んでいると、「 ヨオッ! 待った? 」の声があり、T君が姿を現しました。

こころなしか、ちょっとガニ股で歩いています。どういう事か?と思っていると、彼はズボンの裾をちょっと上げて茶色の靴を見せ「今日は天気がいいからこれを履いてきた」と話します。

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さて、どういう事なのか? 晴れたから革靴を履き、雨ならばゴム長でも履いてくる・・と言いたいのか? オヒョウの懸念を読みとった様に、彼は説明を始めました。

「 今年、娘がK大学を卒業して、大学病院に就職したんだよ。その初月給でこの靴を買ってくれたんだ。 俺の宝物だよ 」

ああ、なるほど・・・、ところで、初めてのお給料で親に何をプレゼントするかは、ひとそれぞれですが、財布やバッグ、ネクタイなんてのもありそうです。どうして靴なのか?

・・・・・・・・・

靴の場合、足にぴったりあった出来のいいものは、とても履き心地が良く、プレゼントされたありがたみは、財布やバッグより強く、ひとしおだろうと思います。 しかし、靴は履いていればすり減ります。鞄や財布より消耗が早く、寿命が短い訳です。 まして彼は新聞記者、足で稼ぐ商売でもあります。せっかくの記念の品物だけど、長持ちするのかな?

・・・・・・・・・

再び、彼はオヒョウの思いを読みとったのか、こう続けます。

「 大切な靴だから、特別な時しか履かないのだ。 今日は昔の友達と会う大切な日だから、特別に履いてきたのだ。 まあ、ちょっと自慢したい気持ちもあるし 」と破顔一笑、おおいに笑います。

彼は、その1年前に兼六園の横の料理屋で会食した時も、奥さんと一緒に、大笑いしていました。その笑顔と同じ顔です。

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「 なるほど、そうか、それは結構な事だ 」

「 そう言えば、俺は自分の初月給で親や家族に何かプレゼントしたかな? 遠い昔で憶えていないけれど、何もしなかったかも知れない。何とも親不孝な男だ・・ 」とオヒョウは反省する一方、

「 自分の息子達は、将来収入を得る身分になったら、何かプレゼントしてくれるかな? どうせずっと遠い先だろうし、あまり期待してはいけないな 」・・と

自分の家庭に照らし合わせて、ちょっと考えてみました。

・・・・・・・・・

それから、一年あまり経った先日、あるホームページを見てみると、彼の顔写真が写っています。 呵々大笑していた1年前と違い、なにやら泣いています。 それは、あの茶色の靴をプレゼントしてくれた娘さんの結婚式で、彼は花嫁の父の立場で花束を贈呈されて、泣いていたのです。「 ああ、なるほど、そういう事か・・」

・・・・・・・・・

オヒョウには女の子はいません。多分「花嫁の父」の心境というものは一生分からないでしょう。かろうじて推理するのは、花嫁の父親を描いた映画の最高傑作と言うべき、小津安二郎の一連の映画に登場する、笠智衆の演技からです。 しかし、極端に表情や感情の露出を押さえる小津流の演出に加え、ぎこちないというより、不器用というべき笠の演技から、実際の花嫁の父の感情を理解するには限界があります。

・・・・・・・・・・

笑った顔しか知らない、T君のこんな表情を見る事で、映画だけでは決して分からない「花嫁の父親」の感情を、鈍感なオヒョウも知る事ができたのです。

・・・・・・・・・・

一年前の彼のあの靴は、多分まだ新しいままでしょう。次に彼があの靴を履く時、にこやかに笑うのか、それとも寂しい思いにかられるのか、それは分かりません。 しかし靴がボロボロになる頃、もう寂しさはないはずです。多分、優しい娘の思い出で、朗らかな気分になるに違いありません。品物は、どんどん古くなり傷んでいくのに、記憶だとか思い出だとかは、しばしば新たになります。そして良い思い出の方が長く残る様です。

・・・・・・・・・・

多分、彼は、ボロボロになってもあの靴を捨てないだろうな・・。


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