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【 ユリイカを買う その1 】 [アニメ]

【 ユリイカを買う その1 】

呉市広にあるレンタルDVD店で、SFアニメの「ユウレカ7」という題名を見たとき、「そうだユリイカを買わなくては・・」と思い出しました。ユウレカとユリイカは、発音は違いますが同じ意味です。そしてユリイカは私がたまに買う文芸誌です。定期購読という訳ではなく、興味のある芸術家の特集がある時だけ買うことにしています。例えば小津安二郎特集とか。

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そして9月号には、今が旬のアニメーション作家というより映像作家の新海誠の特集があるそうです。私は新海誠のデビュー当時からのファンです。そこで私は書籍売り場の方に向かい、雑誌コーナーを見渡しましたが、ユリイカはありません。おそらくは高校生のアルバイトと思われるレジの女子店員に「あの、ユリイカはありませんか?」と尋ねると怪訝な顔です。

「・・イカ? ですか?」声には出しませんが、「ここは本屋だ。イカが欲しければ魚屋へ行け」と言いたそうな素振りです。

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後ろにいた20代と思われる男子店員が、すぐに端末の画面で確認し「済みません。ユリイカは置いてないのです。取り寄せならできますが、どうしましょうか?」「いや結構です。それには及びません」と答えて店を出ます。

私には心当たりがあったのです。

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広島市まで出れば、駅前にも都心にも大規模書店はあります。雑誌の入手で苦労することはありません。しかし、呉市では、まして広では少し難しいかな? でも時刻は既に夜で、広島市まで行くのは億劫です。 そこで、比較的近くにある坂町のT書店に行くことにしました。 坂町は呉市と広島市の中間にある海沿いの町です。

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瀬戸内海に沿って車を走らせると、静かな海面の波がキラキラ光っています。これは夜光虫というものかな?と一瞬考えますが、そうではありませんでした。対岸の江田島の上空に満月に近い月が現れ、その光が波に反射していたのです。ちょっと幻想的だな・・と思った頃に、T書店に到着しました。

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しかし、その書店の書棚にもユリイカはありません。仕方なしにレジに行って、ユリイカの有無を尋ねますと、店員は広の書店と全く同じように端末で確認し、「済みません。ユリイカは置いてありません。取り寄せになりますが、いかがされますか?」と殆ど同じ返答です。

少しだけ違うのは、その後に、「文芸ものはあまり出ませんのでね。置けないのですよ」と言い訳が続いたことです。

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私は、「いや結構です。それには及びません」と広の書店と全く同じ返答をして店を出ます。

私には心当たりがあったのです。それは翌週に大阪大学に行く予定があり、そこの大学生協の本屋で購入できると思ったからです。来週に予定されたのは、鉄鋼協会と金属学会の秋季講演大会ですが、私は発表無しの「聴くだけ参加」で出席する予定だったのです。

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前回の学会参加では、長男に軽蔑されました「お父さんはいいよな。学会に出ると言っても、自分で発表する訳ではなくて、他人の発表を聞いて質問したり論評するだけだから楽だよね。僕なんか、学界への参加は何か発表するのが前提だから準備が大変なんだよ」

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何時から、息子はあんな生意気なことを言うようになったのか・・・。確かに聴くだけの参加はある種の横着には違いありませんが、ちょっと寂しい事情もあります。

もはや年齢的に私は発表者の立場でないことも事実です。私と同年齢の世代が学会で発表することは希で、発表者は大学院生か少壮の研究者達ばかりです。同世代の人たちは、部下や後輩の発表を後ろで見守る立場です。それすら終えて、学会に参加しなくなった人もたくさんいます。

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いずれにしても、私は大阪大学の豊中キャンパスでこの雑誌が手に入るものと考え、呉での入手を断念しました。

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しかし、実は大阪大学にもユリイカは無かったのです。

かつて大学生協の本屋は、教養人たちにとって最後のよりどころだったそうです。東京の都心にYブックセンターだとか、丸の内M善ができる前、都内のかなり大きな書店でも専門書となると全て揃えてあるとは限りませんでした。まして地方の人には専門書の入手手段がありませんでした。

そこで人々は大学の構内にある生協の書店で書物を探し、購入したり注文したり、或いは立ち読みしたのです。地方大学の生協にある書店は、その大学の関係者以外にも貴重な存在だったのです。

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それが今はインターネットで簡単に検索し、アマゾンで注文できる時代です。実に便利になりましたが、ちょっと詰まりません。

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大学生協の専門書のコーナーを横目で見て、雑誌コーナーに行くと、確かにユリイカのバックナンバーが置いてあります。 しかし、5月号、6月号、7月号、8月号とあって肝心の9月号がありません。その代わりに別のアニメを取り上げた、9月の臨時増刊号が置いてあります。 これはどういうことか? 店員に尋ねると、すぐに係員は書棚の引き出しの在庫を調べ、「不思議ですね。9月号に限って売り切れみたいですね。どうしてでしょうか? 先生、お取り寄せしましょうか?」と言ってきました。

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「うーむ、知性とは全く程遠い容貌の、この僕が、阪大の先生に見えるのかね?まあ確かに学生には見えないだろうけど」と心の中で思い、そしてなぜかちょっと嬉しい気持ちになりながら、私は答えました。

「いや、結構です。それには及びません。 それに僕はここの先生ではありません」

実は私には心当たりがあったのです。その日の午後には東京に移動する予定であり、Yブックセンターか、丸の内M善で必ず買えるはずだ・・。もしそれでだめなら、アマゾンで買えばいい。

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店員は9月号に限って売り切れていることを怪訝に思ったようですが、私には何となく分かりました。この大学の学生にも、新海誠のファンはきっと多いのです。いつ頃から新海誠の作品が注目されだしたのか不明ですが、多分、「秒速5cm」あたりから、彼の表現者としての地位は確立され、大阪大学にもファンが増え、そして雑誌の特集号は売り切れたのです。

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しかし結果的に、私は意外な場所でこのユリイカ9月号を手に入れることができました。 それは新大阪駅の構内にある書店リブロです。在庫は2冊ありました。

発車前の短い時間立ち寄って、この雑誌を見つけ、すぐに買い求め、新幹線の車中で、そして知人と待ち合わせをした有楽町の喫茶店でこの雑誌を読み耽りました。

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その内容については、次号で


【 今更ながら 風立ちぬ その2 】 [アニメ]

【 今更ながら 風立ちぬ その2 】

宮崎駿作品に共通する、宮崎駿的なものとは何か? あるいはジブリ作品に共通のジブリ的なものとは何か? 私は幾つも挙げられます。

1. 脱工業社会で自然と慣れ親しむ社会をユートピアとする思想。

  (未来少年コナン、風の谷のナウシカ)

2. 多くの作品に登場する飛行機や空を飛ぶことへの憬れ。

  (風の谷のナウシカ、紅の豚、未来少年コナン、天空の城ラピュタ)

3. 昭和30年代、あるいはそれ以前の世界への回想と回顧趣味。

  → 私はこれを「三丁目の夕日型ノスタルジア」と言います。

  (となりのトトロ、思ひでぽろぽろ、コクリコ坂から、風立ちぬ)

4. ジャンヌダルク型の(色気のない)少女を主人公にして活躍させる少女趣味。

  (風の谷のナウシカ、もののけ姫)

5. 欧州的なもの、地中海地域の風景への憬れ

  (魔女の宅急便、紅の豚、ハウルの動く城)

6. ファシズム、軍国主義への嫌悪と自由主義への讃歌

  (風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ、未来少年コナン)

7. 職業的な声優を避け、素人や声優を専門としない俳優の起用

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これらの特徴について、既に宮崎駿は、何本もの作品で主張しつくしてしまったのではないか? 私はそんな気がします。

その結果、最近の作品はこれまでの作品の焼き直しになってしまい、類似した場面が多く登場するようになりました。 それを宮崎は避けたかったのではないか? だから、彼はアニメ制作から引退すると発言したのではないか?

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そして宮崎駿の世界には、他の人の世界と同様、当然ながら矛盾もあります。

反戦思想をうたいながら、人殺しの道具である、戦闘機に憧れます。 その矛盾の極致として、「紅の豚」では戦闘機同士の決戦では機関銃を撃ち合いながら、死者も怪我人も出ません。海賊は優しい海賊で人を傷つけない存在です。 その不自然さを克服することに、かろうじてあのアニメ映画は成功していますが、作品がファンタジーから遠ざかるに従って、それは難しくなります。

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「風立ちぬ」の完成記者会見では、韓国人の記者から「反戦・平和を掲げながら、日本の軍国主義・侵略の象徴であるゼロ戦開発を取り上げるとは矛盾しているではないか?」という愚劣な質問がありました。

宮崎は憮然として「この作品を見て頂ければ軍国主義礼賛でないことは明らか」と答えています。

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ゼロ戦=日本軍国主義、侵略というステロタイプの発想も幼稚ですが、確かにこの質問は痛いところをついています。

男の子は皆飛行機が好きです。なかでも高性能で格好いい戦闘機に憧れます。宮崎駿もその幼稚で素朴な憬れをアニメ作品に投影しているのでしょうが、それは彼が標ぼうする反戦平和とは明らかに矛盾します。戦闘機は人殺しの道具です。彼自身もそれに気づいており、痛いところをつかれた・・というのが本音でしょう。だから嫌気がさして、アニメ制作を辞める・・・ということにはなりませんが・・・。

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そして宮崎駿の引退はスタジオジブリの活動休止につながります。

最近、スタジオジブリは、宮崎駿の個人商店ではないことをアピールすべく、宮崎吾郎、高畑勲、鈴木敏夫といった監督・プロデューサーを前面に打ち出していますが、あまり成功していません。 ジブリに於ける宮崎駿の存在感は依然絶大です。 しかし、スタジオジブリは、もう宮崎駿から卒業すべき時なのです。 彼固有のこだわりを排してでも、新しく、そして良質な映画を提供し続けなくてはなりません。まだまだ挑戦すべき点は多くあります。

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例えば、ジブリ作品の特徴であった美しい絵画のような画面・・も、最近では多くのプロダクションの作品に後れをとっています。 例えば、空や雲の描写では、新海誠の作品にはかないません。 正確な雲の描写や飛行機の画像では、押井守の「スカイクロラ」にかないません。 もはやジブリだけではないのです。

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「風立ちぬ」では、おそらく意図的に、フランスの印象派の絵画のシーンを真似ていますが、油絵風のアニメを作る・・というのなら、それだけで、相当研究する必要があります。まだ世界のアニメ映画では、油絵に対抗できる芸術的な描写を実現していません。

ジブリにはまだまだやるべきことがあります。

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スタジオジブリが、本格的なアニメ映画の制作を休止するという発表は驚きでした。多くのスタッフ・アニメーター達は散らばってしまうのでしょうか? かつて、鉄腕アトムでアニメ作品の先駆けとなった手塚治虫の虫プロは、複数回の倒産を経験しており、その度に多くの優秀なアニメーターが路頭に迷い、日本のアニメ映画は大きく遅れました。 同じことが起こらないように・・・、宮崎駿は最後の知恵を絞るべきです。


【 今更ながら、風立ちぬ その1 】 [アニメ]

【 今更ながら、風立ちぬ その1 】

 

かなり遅まきながら、スタジオジブリの「風立ちぬ」を観ました。しかし、どうもしっくりときません。ある意味、宮崎駿の限界を示す作品であり、ジブリが本格的アニメ映画の製作を休止するきっかけにもなったのではないか?と私は思います。

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この話の主人公である堀越二郎技師がゼロ戦を開発した経緯は、読み物として多く出されています。柳田邦夫の「ゼロ戦燃ゆ」、吉村昭の「零式戦闘機」が該当しますが、それを読まなくても、航空機に興味を持つ人には常識的なエピソードがゼロ戦開発には幾つもあります。このアニメにもそれらが登場するのですが、内容が滅茶苦茶です。

そのくせ、堀越二郎以外にも実在する多くの人物名が登場し、戦艦長門のように特徴的な艦型の軍艦が登場するなど、妙に真実らしく描かれています。

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「僕は、戦前の日本を、そして戦前の日本の航空機をよく知っているのだぞ」という宮崎の衒学趣味がそこにあるのですが、それ自体が、この映画の限界です。

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例えば、有名な超々ジュラルミンが三菱に到着する場面が登場しますが、箱には「住友軽金属」となぜか左側から右へ横書きで書かれていますが、住友グループの企業には必ず付いているイゲタのマークがありません。あれっ?そもそも住友軽金属という会社が登場したのは戦後の筈だが・・・?

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堀越二郎氏が最初に設計した飛行機で結果的に失敗作であった七試戦は、重すぎて所期の性能が出なかったのですが、アニメでは試験飛行で墜落して失敗したことになっています。「サバの骨の翼型」だとか「沈頭鋲」、「弾力を持たせたケーブル」だのといった、断片的な話をとりあげて、傑作戦闘機の全てだとするのは、牽強付会でもあり、堀越二郎に対する冒涜です。

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まあ、航空機のエピソードについての些細なミスについて重箱の隅をつついても仕方ありません。多くの問題は、別のところにあります。堀辰夫の「風立ちぬ」と無理やりくっ付けているところに無理があります。

この小説では、ポール・バレリーの詩「風立ちぬ いざ生きめやも」という言葉が、リフレインするかのように印象的に存在します。 というよりも、堀辰夫のこの小説は「風立ちぬ いざ生きめやも」というこの言葉が全てなのです。 しかし、このアニメではこのセリフが登場しません。 アニメのポスターには、「風立ちぬ 生きねば」となっています。

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これでは、全くダメなのです。 堀辰夫の時代、日本の文学には五七調、あるいは七五調が存在し、人々は無意識のうちにそれを認めていました。「風立ちぬ いざ生きめやも」という言葉は、それだから存在したのです。 それを無視しては堀辰夫への冒涜です。

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他にも苦言を呈すべき点があります。

このアニメには、トーマス・マンの「魔の山」が引用されています。しかし「魔の山」の療養所に例えられるのはなぜか軽井沢のホテルです。世俗を超越し、近づく戦争の気配からも無縁な楽園として例えられるのですが、これも奇怪です。軽井沢のホテルはどちらかと言えば、映画「イボンヌの香り」に登場するレマン湖畔のリゾートホテルの方がしっくりします。ダボスの療養所とは違う世界です。

「魔の山」は第一次世界大戦の勃発によって、突然終わりますが、良い意味で戦争から逃避した世界を描いています。そしてこのアニメに登場するホテルは第二次大戦を予感しているけれど、平和で幸福な世界です。だから似ている・・・ということでしょうか?それなら「イボンヌの香り」に登場するレマン湖のほとりのホテルは、アルジェリア独立戦争を遠く眺め、ある種の不安を持つ者の、平和で幸せな人々の世界です。同じことです。

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このアニメでは、この後に結核を発症した菜穂子が収容される療養所の方が、むしろ「魔の山」に登場するダボスの結核療養所に似ていて例えられるべきですが、そこには「魔の山」の例えは登場しません。どうもちぐはぐです。これではトーマス・マンへの冒涜です。

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さらには、リヒャルト・ゾルゲと思しき人物を、善玉として登場させたり、とにかく盛りだくさんなのですが、一方でストーリーは中途半端です。ゼロ戦が完成したところで、突然、話が終わり、後は戦争で破壊された工場のシーンが登場します。 アニメ「鋼の錬金術師」で、地獄の門の向こう側に、第一次大戦の戦火に燃える都市が唐突に現れる場面がありますが、それと似ています。

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他の作品との共通点と言えば、この作品には、「紅の豚」「千と千尋の神隠し」「となりのトトロ」に登場する場面が幾つも登場します。 これはある意味で、宮崎駿作品の集大成の映画とも言えます。 確かに彼はこの作品を仕上げて引退する予定だったのかも知れません。

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では、宮崎駿の宮崎駿的なものとは何か?

以下 次号


【 アニメ 伏 鉄砲娘の捕物帳 について考える 】 [アニメ]

【 アニメ 伏 鉄砲娘の捕物帳 について考える 】

 

先日、文芸春秋のアニメ映画「伏 鉄砲娘の捕物帳」を見ました。 宮地昌幸の趣味なのか鮮やかな原色を多用した配色、ジブリとは違う形でデフォルメした登場人物の表情など、ちょっと面白いアニメ映画なのですが、肝心のストーリーがつまりません。

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捕物帳というからには、謎解きを前面に出して、観客に推理させたり、スピーディーな展開で、サスペンス性を強調するのがお約束ですが、そうでもありません。

場面展開はそれなりに早いのですが・・。

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そして何より期待はずれだったのは、「南総里見八犬伝」にリンクしないことです。

本作品の原作である、桜庭一樹の「伏 贋作・里見八犬伝」は、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」に想を得たというのに、ほとんど八犬伝とつながるものがありません。

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ご承知の通り、南総里見八犬伝は、中国の施耐庵(または羅貫中)の傑作「水滸伝」に想を得ています。 日本を舞台にして翻案した・・というよりは、小説のバックボーンを同一にする・という表現が適切かも知れません。

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水滸伝の場合は、反体制・・というより社会の異端児である108人の好漢が梁山泊に集い活躍する訳ですが、最初は権力者である高氏に反発する反体制集団なのに、最終局面では懐柔されてヒヨってしまうところがちょっと残念な作品です。

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水滸伝は、同時期に書かれた「三国志演義」と、人気を二分したと言われますが、今はそうではありません。私が中国にいた頃、「三国志演義」は至る所で見かけるのに、「水滸伝」の方はほとんど見かけませんでした。これは、文化大革命後の四人組時代に水滸伝が政治的に利用された事や、反体制集団を英雄視するストーリーが共産党の一党独裁に都合が悪い事などで、抹殺されたためだと思います。

読み物として面白さなど、「三国志演義」と「水滸伝」は共通点が多く、そのために「三国志演義」と同じく羅貫中の作だという説があるものと考えます。

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「南総里見八犬伝」では、108人が8人になるだけでなく、犬と人間の間にできた異形の存在であること、悪漢とは戦いますが基本的に反体制とは言えないこと・・などが、「水滸伝」とは異なります。それに日本固有のおどろおどろした雰囲気等が加わり、換骨奪胎を経た「水滸伝」は、「里見八犬伝」として日本の名文学になっています。

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しかし、違うとはいっても、「水滸伝」の108人の主人公も、「八犬伝」の8人の主人公も、ヒーローであり、善玉です。しかし、桜庭一樹原作のアニメでは、8人の異形の存在は悪役なのです(正確には悪役とばかりは言えませんが)。

これじゃ、登場人物の名前は同じものの、全然違う作品じゃないか? 

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そこで気づきます。これは「南総里見八犬伝」のパロディではなく、リドリースコット監督の「ブレード・ランナー」のパロディなのです。あくまでパクリではなくパロディです。

桜庭一樹らしく、男女の立場を入れ替えていますが、異形の存在の悪玉集団の中に、ひとりだけ善玉がいて、追手の主人公と結ばれる・・というストーリーはそっくりそのままです。 「ブレード・ランナー」自体も原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を映像化したものであり、それをさらに翻案して江戸時代のアニメにした訳で、分かる人には分かる・・・という桜庭一樹の洒落です。

翻案とパロディ・・・これをいかに上手に使うかが、ポイントです。

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ストーリーが進むと、さらに多くのことに気づきます。

作品には原作者桜庭一樹の分身というべき戯作者希望の少女が登場しますが、彼女の祖父は、あの滝沢馬琴という事になっています。

晩年の馬琴の有様は、芥川龍之介の「戯作三昧」に詳しいのですが、そのままが登場します。 ああ、これは「里見八犬伝」に想を得たのではなく、芥川の「戯作三昧」に想を得たのだ・・と観客はその時点で気づきます。

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「戯作三昧」自身が、「里見八犬伝」や「椿説弓張月」にヒントを得た作品であり、小説家の芥川が戯作者として先輩である馬琴に敬意を表した作品です。

桜庭一樹が、小説家の先輩として芥川を尊敬し、そのオマージュとしてこの作品を作ったのなら、面白いことです。

つまり、この映画は、作中に登場する小説家については、滝沢馬琴=芥川龍之介=桜庭一樹の3代の入れ子構造の作品なのです。

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そしてストーリーの方は、「水滸伝」=「南総里見八犬伝」=「伏 贋作・八犬伝」の

入れ子構造ではなく、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」=「ブレード・ランナー」=「伏 鉄砲娘の捕物帳」と続く、3代の入れ子構造だったのです。

この映画については、その点に気づけは、謎解きはおしまいです。後は何も観るべきものがありません。

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江戸時代と現代を奇妙にミックスさせた架空の世界が面白いかと訊かれれば・・つまらないと答えるしかありません。現代風にデフォルメした吉原の景色もあまりに現実離れしており、つまりません(もっとも、私は本物の吉原を知りませんが)。

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ただ一つ、あれっ?と思う事があります。

それは、犬を鉄砲で撃つという行為がしっくりこないことです。

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古来、日本で猟師が撃つ動物と言えば、主にクマ、イノシシです。 イヌの仲間では、キツネとタヌキが猟銃で狙われる対象です。

もちろん、他の動物も狙われるのでしょうが、物語に登場する射殺される動物は、だいたいこの4種類です。 なめとこ山のくま、ごん狐・・。 

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西洋でも、犬が銃で撃たれる話しはまれです。シャーロック・ホームズの「バスカヴィル家の犬」くらいです。 西洋の物語では、もっぱら犬の近縁であるオオカミやキツネが狩猟対象です。

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日本でも西洋でも違和感満載の、犬を銃で撃つという場面から、映画が始まるというのは、どうもいただけません。

今や、ハリウッドのアクション映画の影響なのか、日本の「西部警察」「太陽にほえろ」の影響なのか、映画を派手な作品にしようとすれば、鉄砲は必需品です。しかしそれはあまりに安直な演出です。

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この 「伏 贋作・里見八犬伝」の映画化にあたっては、鉄砲は全く必要なく、刀剣で戦えばそれでよいのです。それでも物語は十分に成り立ちます。

最近の禁煙運動の影響は、アニメ映画にも及び、「風立ちぬ」では、主人公がタバコを吸うのはけしからん!という声まであるようです。

それなら、銃規制ももっと真剣に行うべきです。このアニメ映画に全く不必要な鉄砲は、弓矢か日本刀に切り替えるべきですし、忠臣蔵では早野勘平が鉄砲ではなく弓矢を持つべきでしょう(もちろん冗談ですが)。

 

くりかえして思います。日本の捕物帳に鉄砲は似合わない。


【 手塚治虫論 その4 】 [アニメ]

【 手塚治虫論 その4 】

 

手塚治虫を漫画誌の人か、アニメーション(マンガ映画)の人か?と考えた場合、私は漫画誌の人だ・・と、解釈したのですが、それは間違いかも知れません。

彼は雑誌に書かれた漫画でも、ブラウン管に映るアニメーションでも業績を挙げています。Yusa-Zenjiに指摘された通り、彼はTVのアニメ番組というものを確立した開拓者です。しかし、そこにはいろいろ考えなければならない歴史的経緯があります。決して単純ではないのです。思い出すのは昭和30年代の話です。

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彼の代表作のひとつ「鉄腕アトム」は、読むマンガとしても人気を博しましたが、やはりアニメーション映画として大成功しました。 米国でも「アストロボーイ」の名前で紹介され、人気が出ました。

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それまで日本の子供向けTV番組では、実写のヒーローが活躍していましたが、当時の特撮技術と予算では表現できる限界が明らかでした。 例えば「まぼろし探偵」「少年ジェット」や「月光仮面」ですが、主人公がオートバイやスクーターに乗って駆け付けるのでは、田舎の駐在のお巡りさんと同じです。いくら戦後の時代とはいえ、これでは興ざめです。 もっと、圧倒的に格好良くて、豪快で現実離れした表現にしようとすればアニメーションに頼るしかありません。

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その必然性に於いて、手塚の「鉄腕アトム」が登場しました。 しかし、当時圧倒的な支持を受けた「鉄腕アトム」も、今眺めるとアニメーションの手抜きやアラが見えて、鑑賞に堪えません。激しい動きの場面では静止画像になって、効果音でごまかしたり、同じ場面を繰り返し使ったり、背景と手足の一部分だけを動かしたり、背景の絵があまりに簡素だったり・・という具合で、安物のアニメという印象を受けざるを得ません。 それについては、同時期にアニメとして登場した、横山光輝の「鉄人28号」桑田次郎の「エイトマン」も、大同小異です。

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その中で、鉄腕アトムが特に高い評価を受けたのは、やはり原作が優れていたということでしょう。その意味ではやはり、手塚治虫は漫画の人なのです。

手塚が確立した、30分一話完結で、毎週新作を出すというTV漫画の制作手法は恐ろしく過酷だったと思われます。無理をすれば、品質面で妥協せざるを得ず、粗製乱造につながります。

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当時、手塚をはじめ、日本のアニメ界が注視していたアメリカのアニメも、高品質映画と粗製乱造のTV番組に2極分化していました。高品質の映画は、映画館向けのアニメで、ウォルト・ディズニーなどのプロダクションが製作していました。

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アニメの品質については、日本でも、結果的に2極分化が進む形になりました。上質な方は、やはり映画制作会社の作品で、東映の漫画祭りに登場した「わんわん忠臣蔵」などが思い浮かびます。そのメンバーに宮崎駿がいて、その延長上にスタジオジブリがある・・・というのは、読者諸兄からお教え頂いた事柄です。「わんわん忠臣蔵」の原作は手塚治虫です。

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それらの良質なアニメーションと異なる形で、週1本のTV番組を量産するのは、手塚にとって本意ではなかったかも知れません。おそらく「ジャングル大帝」の制作まで、彼のアニメーション映画制作は、彼にとって満足できるものではなかったに違いありません。

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それに加え、初期のアニメーション映画は、世間の無理解から、厳しい逆風にさらされます。 当時のNHK会長であった前田義則氏は、漫画および漫画映画を蛇蝎の如く嫌い、NHKではアニメ番組がながくご法度でした。その代わりに子供向け番組として独自の人形劇が発達した訳ですが・・。

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ちょうどNHKが「チロリン村とクルミの木」や「ひょっこりひょうたん島」を放映していた頃、アニメと人形劇の折衷型の番組「銀河少年隊」も放映されました。

この手塚治虫の作品は、一部分をアニメで一部分を人形劇で行うという実験的な作品でしたが、失敗でした。 その後、NHKは人形劇路線を続け、「ねこじゃら市の11人」や、「新八犬伝」、「紅孔雀」や「空中都市008」、「新三銃士」に至っています。

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その後も、映画化する時、実写にするか、アニメにするか、手塚治虫は迷い続けています。「ワンダー3」はアニメ、「マグマ大使」は実写で制作していますが、それらの評価は、漫画雑誌に於ける手塚作品のそれには及ばないと、私は考えています。

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手塚が亡くなった時、宮崎駿は、手塚の漫画を非常に高く評価する一方、アニメ作者としては、全く評価していないことをコメントしています。 実は私も同意見です。

宮崎アニメや高畑アニメの源流は手塚治虫ではありません。

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今、手塚の時代は去り、Yusai-Zenjiのご指摘どおり、今手塚の作品について論評するのもピントはずれかも知れません。現代はアニメーションも複数のジャンルに分化しています。 私の息子は、TVの地上波で深夜に放映されるアニメは、独立したひとつのジャンルであり、昼間の子供向けアニメとは全く異なるものだ・・と規定します。

その意見には私も賛成です。 アニメが細分化される一方で、雑誌の漫画とアニメーションの分化は進んでいません。むしろ融合化が進んでいます。

そうでないのは、スタジオジブリなど、最初から映画館上映を念頭に置いた大作だけです。

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漫画雑誌に連載され、それが単行本の漫画になり、そしてアニメ化されて大ヒットするというパターンがほとんどです。今後、予想される劇的な変化とは、紙に印刷した漫画が消滅し、液晶画面上で漫画が読まれるようになる事ですが、そうなると同じく液晶画面上で見られるアニメと、似た媒体を使うことになります。それが漫画やアニメにどういう影響を与えるかは、私には想像できません。

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コボやアイパッドで漫画を読む世代は、「手塚?WHO?」となるかも知れません。

 

でもそれはそれで仕方ありません。

やはり、漫画は評論には馴染まないものだ・・と私は思います。


【 手塚治虫論 その3 】 [アニメ]

Yusai-Zenji様 コメントありがとうございます。

 

今、私は日本におりますが、来週は月曜日からまた外国です。

12月も、ほとんど日本におりません。

 

さて、ご指摘の通り、なにゆえ今手塚治虫か?と訊かれると回答に窮します。

ジブリの時代に昭和の漫画家を論評するのは、新幹線の時代にSLの話をするようなもので、中年男の懐古趣味・・というだけでは説明になりません。しかし、下記の事は言えると思います。

1.手塚は顔の見える漫画家時代の代表選手だった。

  かつて、貸本屋の漫画の時代が終わり、少年漫画誌が登場した頃、人気作家は読者の少年達に身近な存在でした。赤塚不二夫の「おそ松君」、横山光輝の「伊賀の影丸」、石森章太郎の「サイボーグ009」藤子不二雄の「おばけのQ太郎」、おざわさとるの「サブマリン707」等、内容は子供向けで、今思えば論評に値しないものでも、作者の顔とイメージが、作品と一体になって連想されるものが多かったのです。

  その代表格が手塚治虫でした。

  一方、現代は、漫画はベストセラーになっても、作者の顔は見えてきません。

  (まあ、私が知らないだけかも知れませんが・・)

  「名探偵コナン」の作者が青山某だということは聞いていても、どんな人物かは分かりません。中里介山の「大菩薩峠」、栗本薫の「グイン・サーガ」もかなわない、超長編の連載漫画「ワンピース」の作者についてもイメージが湧きません。

ベストセラー漫画家で、顔が一応イメージできるのは、鳥山明かやなせたかしぐらいですが、それもなんとなくです。

  つまり、現代は漫画家の顔が表に出ない時代なのです。だから、いつまでも代表的な少年(少女)漫画作家というと手塚治虫が思い出されるのです。

 

2.アニメと漫画は違う。

  日本は、ストーリー漫画に於いても、アニメーションに於いても、世界最高の水準であると私は信じます。しかし両者は違います。

  宮崎駿は、一つのプロダクションのリーダーとして、多くのスタッフを動かして作品を仕上げる存在です。確かにプロダクションを代表する人物ですが、彼一人でアニメーションができる訳ではありません。 多くのアニメーターがいて、作曲家がいて、声優がいて、アニメはできあがり、その総合評価が決まります。もし、ジブリに久石譲が曲を提供しなければ、宮崎アニメの価値は半減し、宮崎は文化功労者にならなかったかも・・なんて考えます。

  また、アニメ制作は多国籍化が進み、現代の精密な画像を駆使したアニメは韓国などアジア諸国の下請けなしでは製作できません。一個人のものでも一国のものでもありません。

  手塚は、ウォルト・ディズニーのようなアニメを作りたかったに違いありませんが、彼はそれに挑戦して失敗し、虫プロを倒産させています。高品質なアニメーション映画の大作を低コストで早く制作するという夢は、ジブリによって実現したとも言えます(まだ完全ではありませんが)。

  手塚の傑作である「ジャングル大帝」が、後年ディズニーによって模倣され、「ライオン・キング」になったことは皮肉とも言えますが・・・。

  つまり、漫画家かアニメ作家かと問われれば、手塚は漫画家であり、アニメ作家ではありません。一方、宮崎駿と比較すべきは、ウォルト・ディズニーであり、新海誠です。ですから、宮崎駿の時代になぜ手塚治虫の話をするのか?と訊かれれば、それは分野が違う・・と私は考えます。

 

では、今、日本人が真っ先に名前を思い浮かべる漫画家は誰か? 

世代によって違うのでこれも難しいのですが、私は手塚治虫ではないか?と思います。 

案外「ゲゲゲの女房」で有名になった水木しげるだったりして。


【 下ノ畑ニイマス その2 】 [アニメ]

【 下ノ畑ニイマス その2 】

かつて、祖父が昔の飛騨高山について語ったことがあります。 明治、大正期の高山では外出して不在にする時、玄関の前に箒を立てかけたそうです。 来訪者に不在であることを示し、無駄な手間をとらせない為の親切です。

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そのしきたりが無くなったのは、鉄道が通じ、高山駅ができてからです。高山本線の全線開通は昭和9年で、多くの人々が高山を訪れるようになりましたが、その一方で泥棒も運んできました。その結果、戸締りという概念が登場し、人々は外出する際、家の不在を示さなくなりました。悲しむべきことです。

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この現象は、世界中でゆっくりと進行しています。

例えば・・、以前、留守番電話のメッセージには「ただいま留守にしております。御用の方はピーという発信音の後にメッセージをお残しください」というものでしたが、最近は「ただいま電話に出られません。御用の方は・・」という表現に換わりました。

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中身に大きな違いは無いはずですが、不在であることを不特定者に敢えて伝える事は愚かである・・という発想に基づく変化です。 ちなみにこれは日本だけでなく、米国でもそうでした。 米国の留守番電話のメッセージでも、留守を示す表現は無くなりました。 家を留守にすることを隠すことは英国ではさらに重要です。英国は空き巣王国なのです。 スーツケースや旅行カバンには紛失時の連絡先として、以前は自宅の住所や電話番号を書いたタグを付けましたが、今はそれはタブーとされます。

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空港の預け入れ荷物を扱う作業者は、スーツケースのタグを読み取り、現在旅行中で不在の家を知る事ができます。その情報をパブなどで空き巣仲間と交換し、泥棒に入る・・という訳です。ですから、タグに書く連絡先は、会社の住所にするように・・というアドバイスを貰ったことがあります。

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ある地域社会を考えた場合、泥棒の登場、治安の悪化は、よそ者の侵入と結びつけて考えられます。 高山の例で示されるように、交通機関が発達し、便利になるという事は、一方でどこの誰だか分からない人物が街をうろつくことになります。

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よそ者を排除すれば、排他的と非難され、地域の発展と活性化も遅れます。一方で、よそ者を受け入れれば、不安と不便ももたらされます。難しい問題です。 よそ者が入らない世界・・つまり集落で暮らす人々が全て顔見知りで、誰がどういう生活をしているかを皆が知っている社会というのは、プライバシーを重んじる現代の都会人には窮屈で暮らしにくい世界です。しかし、その地域社会の内側で暮らす人には快適で安心な世界かも知れません。

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おそらく宮沢賢治が暮らしたイーハトーブは、戸締りをしない、泥棒もいない世界だったはずです。そしてそれは彼の仏者としての宗教的な理念にも合致するはずです。 将来、全ての街が、全ての田舎が戸締りを必要とする社会になっても、宗教施設だけは戸締りして欲しくない・・と私は思います。

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かつて、私の母が少女時代を送った能登の小都市に行った際、懐かしさから昔通った教会に入ろうとして、鍵がかかっていて、とてもがっかりした事があります。

「ミリエル司教の教会だったら絶対に鍵などかけなかったろうに」と嘆いていました。

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キリスト教であろうと仏教であろうと、救いを求める人が訪れる宗教施設に施錠は似合いません。人を疑うことから始める行為はいかなる場合でも宗教から遠い行為だからです。

そう言えば、中国は戸締りと施錠と世界です。アパートの低層階のベランダには泥棒避けの鉄格子が入っています。これは宗教をアヘンとして排除した共産主義によるものなのか?それとも泥棒は中国四千年の歴史なのか?

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今、日本で戸締りが要らないのは、一部の離島と山間地域に限られるでしょう。ふと畦町宿はどうかな?なんて考えてみます。

社会の進歩によって、将来、その戸締り不要地域が広がるのか狭くなるのか、私には見当も付きません。でもいつか、私も「下ノ畑ニ居リマス」と玄関に書きたい・・と思います。

実際には「明日カラマタ中国ニ行キ、不在デス」と書く訳ですが・・。


【 下ノ畑ニイマス その1 】 [アニメ]

【 下ノ畑ニイマス その1 】

先日、スタジオジブリのアニメ「コクリコ坂から」を見ることがありました。

舞台となる昭和30年代は、私の記憶に残る時代です。ですから、私より若い世代(昭和30年代を知らない世代)が時代考証していると、本当の昭和と違うアラが見えていやになります。逆に昭和にこだわって、わざとらしいのも嫌味に思えてなりません。旧式の鋳物のガスコンロにマッチで火を点けて煮炊きをするのは、私には懐かしい風景ですが、これみよがしに演出されると、不快になります。 どうも私は我儘な観客です。

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ストーリーについても、不可解な点が多くあります。朝鮮戦争当時(昭和25年頃)、赤ん坊(0歳児)だった女の子が、昭和38年ごろに高校生というのは、ちょっと不可解です。

でもまあ、細かい事にこだわる必要はありません。

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作者が描きたかった事のひとつに、昭和30年代の高校生の世界があると思います。その時代に青春をおくった人たちは既に現役を退いた頃です。彼らの懐旧の思いをくすぐる考えでしょう。 同時に現代の高校生に、昔の高校生はもっと大人びていて、知的だったのだぞ・・と訴えたいのかも知れません。

哲学部には、一体何歳なんだ?と疑いたくなる老けた高校生がいて、哲学的な落書きがあります。 (もっともその多くは「我考えるゆえに我あり」とか人口に膾炙した箴言だったりして、あまり深さを感じませんが・・・)。

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では、その制作者のもくろみがうまくいったとかといえば、とてもそうは思えません。

この物語に登場する高校生たちは、確かに知的で大人びていて、特にカルチェラタンなる建物にたむろする彼らは、バンカラ風でまるで旧制高校の生徒たちのようです。 ひょっとして制作者は、旧制高校と昭和の新制高校の生徒を同一視しているのか?

しかし両者はまったく違う生き物です。

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昭和40年代~50年代、高校生などを主人公にすえた、学園ものまたは青春もののドラマが流行りました。しかし、その多くは部活に青春をかけたスポーツ選手が中心になっており、その後のスポーツ根性ドラマにつながりました。

一方で、スポーツ選手ではなかった高校生のドラマはほとんど語られませんでした。

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その点では、普通の高校生に光を当てた新しいドラマと言えます。

では、昔の高校生は、今よりも大人びていて、知的で、高尚だったのか?

これは率直に言って、YESだと私は思います。私自身、高校に入学した時、先輩・上級生が大人びていて、高尚な話し方をし、難しい文章をしたためているのに、驚愕した経験があります。 昭和40年代の話です。

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まず学校新聞に連載されていたのは、木村君の『非ポリーテースの系譜』という哲学コラム。これは難しくてさっぱり理解できませんでした。決して文章が難解な訳ではありませんが、中身が哲学的で恐ろしく難しかったのです。

⇒ 木村君はインド哲学を専攻し、今は駒澤大学の教授です。

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次に驚いたのは、先輩が編集した文集です。 名前は『曙光』で確か1年だけで終わったはずですが、寄稿されている文が全て格調高くかつ難解なのです。実にレベルが高い・・。 これなら、地方大学の紀要論文集としても通用するのではないか・・・?

⇒ 編集者は伝説の廣岡守穂氏、今マスコミに時々登場する中央大学教授です。

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「いやあ、高校生とは難しい文章を書く人たちだなあ。なんと大人びているのだ」と高校一年生の私は圧倒されました。 「自分も背伸びしてでも、なんとか格調高い文章を書かなくては・・」という思いは、一種のトラウマというか強迫観念になって、大人になってからの私をも縛りました。 その呪縛から解放されたのは、数年前にブログ「笑うオヒョウ」を書くようになってからです。

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そのような高校時代の思い出から考えると、バンカラで哲学を愛する高校生の登場には共感できる面もありますが、やはり内容が浅くてものたりません。

誰でも知っている箴言を落書きに書いたり、学校の理事長とディオゲネスの話をするあたり、ジブリらしい衒学志向が伺えます。

本当に哲学を考えているなら、あんなに単純で明るいキャラクターではないはず。

ディオゲネスの代わりに西田幾多郎あたりを取り上げた方が、観客を煙に巻けたはずなのに・・・。 オヒョウはかなり意地の悪い観客です。

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そう考えながら画面を見ていたら、黒板の隅に、「下の畑にいます(下ノ畑ニ居リマス)」という落書きが小さく書いてあるのを見つけました。 この全く哲学的とは言えない言葉は、読者諸兄ご承知の通り、宮沢賢治の羅須地人協会の玄関に書かれていた言葉です。

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そこに宮沢賢治を尊敬する宮崎駿のメッセージが込められています。スタジオジブリらしい衒学趣味とも言えますが、この言葉は私も大好きな言葉です。この言葉については、2つの観点から考えることができます。

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ひとつはサラリーマンの生き方です。

質店という家業を憎み、そして農学校の教員というサラリーマンを続けた宮沢は、いつか農民になることを夢見ていました。これは農業へのあこがれとか、隠遁して晴耕雨読の日々を送りたいという発想ではなく、むしろ非生産者であり続けることへの贖罪というか、後ろめたさからだと私は理解します。

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かつて、農業は厳しく辛い職業であり、かつ多くの農民は貧しかったのです。農学校の教え子達は、卒業した後、その厳しい職業に就くことを強いられました。一方で、俸給生活者として安定した生活を保証される自分は恵まれている・・という現実を宮沢賢治は受け入れられなかったのだと、私は思います。

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しかし、既に文学者として評価されていた宮沢賢治を、世間はほおっておきません。来訪者は跡を絶たず、彼を静かな農民にすることを許しませんでした。結果として、「下ノ畑ニ居リマス」という案内書きになった訳です。

この環境を理想視し、憧れる人は多いはずです。

職業を引退したら、静かな晴耕雨読の日々を送りたい。しかし、一方で人々から完全に忘れ去られるのは困る。何らかの知的な形で世間とつながり、たまにはお客さんも来て欲しい・・。

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以前の弊ブログ【俺たちの帰去来の辞】で、引退後に農村に帰る事を考える50代の男の気持ちを書きましたが、多分、陶淵明の時代から、平成のサラリーマンまで、思いは共通するはずです。そう言えば、総理を辞める時、鳩山由紀夫も農業をやりたいと言っていました。 もう本人はとっくに忘れたでしょうが・・。

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しかし、宮沢賢治の思想はかなり違います。前述の通り、彼は平穏と安逸を求めた訳ではなく、農業を苦役と考え、敢えてそれを自分に課すという厳しい思想に基いた行動です。それが彼の哲学であれば、その哲学は「下ノ畑ニ居リマス」というただ一言に表象されていると言えます。

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機械文明を否定し、農村こそ根本であり善であるという思想を持つ宮崎駿は、宮沢賢治に共鳴したのかも知れません。 しかし、繰り返しになりますが、農業を喜びであると同時に苦役であると考えた宮沢賢治の思想は、宮崎駿の思想ほど単純ではありません。そこに、スタジオジブリの衒学趣味の限界があります。

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ところで「下ノ畑ニ居リマス」の言葉には、もっと現実的というか下部構造的な問題があります。 それについては次号で申し上げます。


【 テレント 】 [アニメ]

【 テレント 】

 

随分昔ですが、雑誌「将棋世界」の載っていた話です。

赤丸急上昇中の有望若手棋士がTVドラマに出演したというので、「いよいよテレビタレントですか?」と訊かれて「いや、僕は手の指先だけしか出演していません。いわばテレントですよ」と、ウィットのある返答をしたというのです。 つまり本物の役者が演じる将棋指しの吹き替えタレントとして登場したのです。

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将棋の高段者ともなると、将棋の駒を操作する時の指先の挙動も違います。

実に器用に駒を持ち上げ、指をしならせて盤上にパチリと置いて、寸分の狂いも

ありません。相手の駒を取る時もすばやく取り去ります。

だから、将棋の経験の無い役者が盤上の駒を不器用にいじると、それだけで嘘と分かるのです。 だから、その部分だけ、本物のプロに指してもらうという考えです。

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専門家でなければ、その動作は演じることができない・・・、普通の役者ではできないから、その部分だけ演じてもらおう・・ということは、TVドラマではよくあります。

例えば、魚をさばく板前の場面、手術をする外科医の指先、そして楽器を演奏する音楽家の指先(特に鍵盤を叩くピアニストの指先)、これらは専門家が代わりに演じます。顔が写らないようにして手だけを登場させる一種のスタントマンです。

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私は、この方法をドラマだけでなくアニメにも応用して欲しいと思います。

具体的には、アニメ「のだめカンタービレ」の楽器演奏シーンへの応用を提案します。

このアニメをご覧になった方はお分かりでしょうが、なぜか楽器演奏の場面になると、絵が静止してしまいます。観ている立場から言えば、著しく興を削ぐことになり、なんと安っぽいアニメーションなのだろう・・と思ってしまいます。

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しかし現実には、音楽に合わせて鍵盤上を動く指先を、正確に手書きのアニメで表現することは至難です。ましてこの物語はコンクールに出場する一流のピアニストを目指す学生の話です。ここの部分で手抜きする事はできません。

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私が提案する方法とは実写フィルムで、男性ならブーニン、女性なら中村紘子あたりの指先を撮影し、その絵をトレースする形でアニメ化する方法です。この方法なら、ショパンの幻想即興曲だろうが、チャイコフスキーの交響曲4番だろうが、簡単です。

以前は実写フィルムから動きを抽出してデジタイズする事は面倒でしたが、今はパソコンがあるので簡単です。

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そこで、問題となるのは、実写の映像から絵をトレースする事が、漫画もしくはアニメーションの原則に照らしあわせて、許されるのか否か・・という事です。

この問題は、近年いろいろな場面で議論され、アニメの手法の多様化と共に、実写の絵を使用する事も許されるようになってきた・・というのが私の理解です。

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もともと、カートゥーンだとかアニメーションと呼ばれるものは、二種類に分類されると私は考えます。

ウォルト・ディズニーの作品を例にとれば、ミッキーマウスの映画に代表される作品で、シンプルで捨象化した絵で構成され、絵の美しさよりは物語や動きの面白さを重視したものと、白雪姫に代表される、美しくて精密な絵で観客を魅了するものの二種類です。

もし手塚治虫の作品で例えるなら、前者は鉄腕アトム型、後者はジャングル大帝型とも言えます。

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もともと漫画とは、具象的な絵ではなく、ある種の記号化と捨象化、デフォルメを前提としたものですが、それが動画になる過程で二種類に分かれたというのが私の理解です。

そして近年はコンピューターグラフィックスの多用や、システム化されたアニメーターの能率的な作業によって、多くの手間を要する緻密な絵をアニメに用いる事が可能になってきました。 その過程で実写の写真をアニメに利用する事もなされるようになりました。

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最も端的な例は、新海誠の一連の作品です。彼のアニメーションは風景(例えば、鉄道の線路、踏切、社内の様子)をカメラで撮影し、その写真に独特の色彩を与えて、アニメーションの絵にするという手法を用いています。

特に、彩度をより鮮やかにし、コントラストを強くする事で、現実より美しい風景を作り出し、彼のアニメーションの印象を強くしているのです。

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新海誠の作品、あるいはスタヂオジブリの作品で、実写の絵が下敷きに用いられるのは、ほとんどが背景用であり、スチールの画像です。

この手法を、動画用、あるいはキャラクター用に用いれば、多くの動作がより正確に表現され、アニメーションの質が上がります。

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スタヂオジブリは「ルパン三世」や「未来少年コナン」の頃と、最近の「コクリコ坂から」とでは作画手法がかなり変わっています。 自然現象や登場人物の動きをよりリアルに正確に表現しようという変化です。 これはスタヂオジブリだけでなく、日本で制作される多くのアニメがその傾向にあります。

その中で「のだめカンタービレ」の安直で安っぽい静止画像の多用は「みっともない」の一言に尽きます。

1960年代、安物のアニメが粗製乱造された時期があります。

例えば、アニメ「8マン」では、主人公が高速で走る場面では、下半身が静止画像になってしまいました。 世界的に高い評価を受ける日本のアニメがその時代に遡ってはなりません。

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もっとも、実写フィルムを下敷きにする手法にも限界があります。 その方法では描き切れない場面もあります。 具体的には「柔道一直線」の一場面で、白鳥という柔道家が足の指でピアノを弾き「猫踏んじゃった」を演奏する場面です。 実写のTVドラマで近藤正臣がその場面を演じた時は、そのあまりの不自然さとバカバカしさに言葉を失いました。 もし、日本のアニメが、コンピューターグラフィックスなどを用いて、その場面を不自然でなく納得できる動作で表現できたら、これは本物だな・・と思います。 その時はテレントが不要になる時代です。


【 ワッハ上方とアニメの殿堂 】 [アニメ]

【 ワッハ上方とアニメの殿堂 】

橋下大阪府知事と吉本興業が揉めているそうです。大阪府が管理する「ワッハ上方」なる施設が吉本興業のビルを借りていて、その家賃が年間2億8千万円と高い事から、通天閣の下の建物に移転させようとしたところ、吉本興業側がそれに腹を立て、損害賠償を請求すると言いだし、法廷での争いになりかねない様子です。

普通、賃貸契約を結んだ店子が出ていく時に原状復帰を求められる時もありますが、特別の契約(Transfer Close条項等)が無い限り、大家が損害賠償を求める・・というのはあまり聞きません。弁護士でもある府知事が「聞いた事がない」と言うのは、多分その通りでしょう。

逆に橋下知事は「横山ノックと吉本興業が、最初に契約した時の経緯を
調べてみる」と言いだし、これは吉本興業にとっては全くの藪蛇です。

横山ノックと吉本興業には癒着があり、大阪府から吉本にお金を流す為のパイプとして「ワッハ上方」が使われた・・・という説が、正しいかはともかく、契約内容が吉本側に有利になるように配慮された可能性はあり、そしてそれは専門家が検証すれば、一目瞭然でしょう。
・・・・
そもそも「ワッハ上方」とは何か?
なんと、漫才師砂川捨丸の鼓を保存する事がきっかけになってつくられた施設との事です。関西の方で50代以上の方なら捨丸をご記憶かも知れません。 オヒョウにとって、この人の漫才ほどつまらないけれど面白い漫才はなく、そしてこの人ほど好きな漫才師もいませんでした。
実に不思議な漫才でした。
特に、旅人が路傍の蛙と話すダジャレの漫才は不思議に記憶に残ります。 蛙が自分の出身地を美濃だと言ったり、備中だと言ったり・・・、とにかく登場する名前が古いのです。 鼓を打ちながら漫才をするという、三河万歳の流れをくむ、古典的漫才の最後の芸人かも知れません。
ちなみに彼の笑えない漫才で、母は時々笑っていました。

捨丸が他界した後、私が彼の名前を見たのは漫画「じゃりン子チエ」です。登場人物のテツが収容されていた少年院だったか鑑別所だったかの所長のあだ名が”捨丸”で、これがまたその老漫才師にそっくりだったのです。それで理解したのです。関西人にとっては、捨丸翁はかなり有名人だったのかも知れない・・・と。
・・・・・
しかし、それと笑いの博物館を設ける事とは、別の問題です。
「ワッハ上方」は無用の施設であり、税金の無駄遣いです。
話芸や演芸は、本来、陳列棚に資料を並べて、記録を保存するべきものではありません。つまり”無形”文化財なのです。
エンタツアチャコのステージ衣装を陳列しても、初代春団次の扇子や手拭いを陳列しても無意味です。それらを眺めても、彼らの芸を理解した事にはならないからです。どうしても残したければ、テープやレコード、CD或いはビデオテープやDVDの映像の資料で残すべきです。

そして、それなら専用の博物館ではなく、既存の図書館でいいのです。
・・・・・
もうひとつ、税金の無駄遣いとして指摘されているのは、麻生首相が提案したと言われる(本当かどうか知りませんが)「アニメの殿堂」です。
民主党の鳩山党首は、無駄遣いの典型的な例として挙げていますが、
不思議な事に、誰からも、なぜ「アニメの殿堂」が必要なのか、或いは建設の主旨は何かについての説明がありません。
反論しないという事はお役所側も無駄遣いと認めているのでしょうか?

実は韓国や中国には、名前は違いますが「アニメの殿堂」に類する施設があり、自国で生産されるアニメの保管・管理にあたっているそうです。
そして(未確認ですが)日本のアニメも国産という扱いで陳列しているとの事です。 
どんなに吹き替えをしようが、登場人物の名前を変えようが、アニメの舞台や背景をみれば、それらが日本の物語である事は自明です。
でも”キャプテン翼”のアニメーターが韓国人であれば、そのアニメは韓国製だと言い張る人がいます。
例え“クレヨンしんちゃん”の舞台が埼玉県春日部市であっても、中国で”蝋筆小新”が先に商標登録されてしまえば、これは中国のアニメだと主張する人がいます。
ばかばかしい話ですが、日本のアニメの著作権や商標権は、アジア諸国で甚だしく蹂躙されています。 そして各国の国立「アニメの殿堂」がそれらの片棒を担いでいるのです。
日本の「アニメの殿堂」がそれらに対抗し、日本の作品の著作権やアイデンティティを守るものであるなら、それなりに存在価値があります。

でも、それについて(アニメに詳しい)麻生首相は何も語りません。恐らく彼は問題の本質を理解していないのでしょう・・。
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オヒョウは、「ワッハ上方」も「アニメの殿堂」も無用だと思います。

しかし、映像や音声の記録(最近はデジタルコンテンツと言いますが)を残すための手段と施設は早急に考えるべきだと思います。
それらは本来なら図書館が保管するべき資料ですが、印刷物を主な収蔵物とする現在の図書館では、十分に対応できません。

新しい設備を供えた図書館に、デジタル化した捨丸の漫才も藤山寛美の芝居も、クレヨンしんちゃんのアニメも収蔵し、国際的に著作権が侵害されないように目を光らせる必要があります。
しかし、その重要性を、麻生も鳩山も、橋下も理解していない様です。
ましてや、横山ノックには理解できなかったに違いありません。
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