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【 清朝の愛妻家 】 [中国]

【 清朝の愛妻家 】

 

昔、中国の江蘇省昆山市にある公園に遊んだ時です。園内に中国の偉大な人物20傑という碑がありました。日本でも知られている人物ばかりですが、その中に林則徐がいました。

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彼は、衰えていく清朝で大活躍した官僚ですが、日本ではアヘン戦争での中国側の当事者として知られています。その実像はどうなのか?

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福建省福州出身の彼は郷党の期待を担って、20代で科挙に合格し、進士となりますが、成績は特によかった訳ではなく、あまりエリートとは言えない存在だったようです。

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地方に派遣され、湖北省湖南省などの地方長官を歴任しますが、赴任先で農村改革を推進し、治水から農業経営の改善に取り組みます。特に江蘇省にいた頃の治水事業の実績が認められ、北京に戻され、欽差大臣に抜擢されます。江蘇省と言えば「水の蘇州」の名前があるとおり南部には水郷地帯が広がり、中国のパン籠というべき穀倉地帯です。彼はそこの治水事業で実績をあげたのです。

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当時の林則徐の業務内容を見ると、農水省の業務と国土交通省(旧建設省)の業務、総務省の業務(旧自治省)の業務までをこなす、スーパーマンだったようです。そしてその後、外務大臣の仕事も行い、戦時には彼は防衛大臣兼統合参謀本部議長としても活躍するのです。

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欽差大臣に任じられた彼はアヘン対策を担当します。彼は諸悪の根源は国内にはびこるアヘンにあり・・と判断し、厳しい取り締まりを皇帝に進言し、許可を得て実行します。具体的には英国商人のアヘンを全て没収し、海水に浸し石灰に混ぜて処分します。これに反発した英国人が武力に訴えたのが、ご存知、第一次アヘン戦争です。

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考えてみれば、アヘン戦争というのは、どうみても英国に非がある戦争です。中国から膨大な量のお茶や絹を輸入するものの、その代わりに英国から輸出するものが無いものだから、植民地のインドで作らせた麻薬を押し付け、それを禁じられたら、因縁をつけて戦争に持ち込む・・というのですから、場末のヤクザでも、顔を赤らめて行わない恥知らずな行為です。

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近代史において、義の無い、醜い戦争を3つ挙げろと言われれば、第一次アヘン戦争と第二次アヘン戦争(アロー号事件)、そしてボーア戦争となりますから、19世紀の大英帝国など、暴力団みたいなものでした。しかし、私が英国人に訊くと、勝利したアヘン戦争もボーア戦争も正義の戦いと考えている人が多いようです。勝てば官軍か?

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皇帝の信任が篤い林則徐は、清国の2大要職である軍機大臣と欽差大臣を交互に経験していますが、しかしアヘン戦争に敗れると「林が余計なことをしたために、英国に攻められ、国家が辱められ、莫大な損害が生じた」とばかりに、林を疎む声がでます。そして彼は新疆ウイグル自治区のイリに左遷されます。これについては、英国商人から莫大なワイロを受け取っていた官僚達が、林則徐がアヘン密輸を禁止した事を恨み、彼を排除したという説もあります。清国の為に活躍した彼の本当の敵は実は中国人だったようです。

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私の推測ですが、戦争勃発前に林則徐と交渉した英国側が、彼を手ごわい相手と考えて、南京条約の交渉前に彼を遠ざけるよう画策したのではないか?と考えます。

実際、アヘン戦争では、英国艦隊は林則徐が守りを固める広東を避け、渤海沿岸の天津に現れています。手ごわい相手を避け、敵国の勢力から外すというのは、孫子の兵法です。

大坂城を攻めた徳川家康も片桐勝元を豊臣側から遠ざけていますが同じ論法です。

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左遷された林則徐は、新疆ウイグルで善政を布き、絶大の人望と高い評価を得ることになります。その後太平天国の乱の勃発で、彼は再び第一線に呼び戻されるのですが、しかし辺境に左遷された林が愉快だったはずもなく、鬱屈した日々だったことは予想されます。

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小説「阿片戦争」を著した小説家陳舜臣によれば、なんと彼は単身赴任先での孤独で憂鬱な想いを妻に手紙で書き送っていたとのことです。陳舜臣はそのことに驚いています。当時、林則徐は新疆ウイグルのイリにいて、家族は陝西省西安にいた訳ですから、かなり遠距離の単身赴任です。その間を手紙が往復したのです。

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陳舜臣がなぜ驚いたのかは不明ですが、当時の女性の識字率が高かったとは思えず、夫と漢字ばかりの手紙(当たり前ですが)を頻繁にやり取りしていたというのは、確かにちょっと意外です。でも唐代や宋代の漢詩には女性の作品も多く、男女の恋文も多く残されていますから、女性の手紙のやり取りに驚くというのも少し変です。

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おそらくは仕事上の憂鬱を妻に打ち明けるという行動が、当時の官吏としては意外だったからではないか?と私は思います。これは19世紀だけではありません。20世紀も21世紀も、働く男性は仕事の悩みや愚痴を妻には語らないのが普通です。多分、日本でも中国でもそうでしょう。彼がそれを妻に伝えていたということは、それだけ妻を信頼し、心を通わせていた・・ということで、陳舜臣の驚きはそこにあります。林則徐はその心境を漢詩にも詠んでいます。

https://kknews.cc/history/46emgkg.html

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林則徐の時代の問題を考えると、現代中国の問題も見えてきます。例えば、南京条約や北京条約では、キリスト教の中国内での布教が認められます。しかし今の中華人民共和国が認めるキリスト教とは、共産主義の指導の下に活動する宗教であり、唯物論を前提としたキリスト教です。本物のキリスト教は地下に潜り、そして弾圧されています。また林則徐が善政を布いた新疆ウイグル自治区は、北京政府に弾圧されています。ウイグル族だけでなく回族も含めてイスラム者は皆弾圧の対象です。その反動として起こるテロや反政府活動に政府は悩んでいます。 そして林則徐の足を引っ張った腐敗官僚は今もいます。習近平政権にとって官僚の腐敗は解決すべき大きな課題ですが道半ばです。英国やフランスに対するコンプレックスもまだ残っています。そして中国最大の問題である農村改革は、非常に遅れています。林則徐の時代から2世紀近くが経ちますが、その間に中国で実現したことといえば、アヘンの取り締まりぐらいでしょうか? 泉下の林則徐が聞いたら苦笑いでしょう。

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林則徐の出身地である福州には彼の記念館があります。そして中国海軍のソブレメンヌイ級の駆逐艦には「福州」があります。しかし旧式艦であり、もし英国や米国と戦えば、また負けそうです。

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それにしても・・と別のことを考えます。清朝末期に活躍した林則徐も李鴻章も科挙には合格していますが、優等生だった訳ではありません。しかし国難に当たっては大活躍します。林則徐を支えアヘン戦争で戦死した関天培は科挙に合格もしていません。

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余談ですが、かつて行われた科挙の試験の解答用紙は巻紙でした。合格者の答案の巻物をお盆に載せて天子(皇帝)に献上する訳ですが、最優秀者の答案を一番上に載せて献上しました。つまりトップ合格の答案が他の答案の上に乗るので「圧巻」という言葉が生まれました。「圧巻」の働きをした林則徐は、実は「圧巻」の官僚ではなく、そしてその彼にも清朝を救うことはできませんでした。

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ところで、中国の強い影響を受けた昔の日本ですが、中国から導入しなかったものが4つあります。それは宦官と纏足とアヘンと科挙です。しかし日本に科挙はなくても、戦前には高等文官試験、現代は国家公務員上級甲種試験があり、「圧巻」の官僚が毎年誕生します。

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日本の「圧巻」の官僚達は今一体何をしているのか? やはり国難にあたって活躍するのは「圧巻」の官僚ではなく、もっと普通の官僚なのか? 最近ニュースで報道される事務次官や局長級の官僚達の不誠実な仕事ぶりをみると、そんな事をふと考えてしまいます。


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