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【 今治脱獄事件についてのレ・ミゼラブル的考察 】 [広島]

【 今治脱獄事件についてのレ・ミゼラブル的考察 】

 

最近は脱獄囚とは言わないみたいです。ようやく身柄を拘束された平尾龍磨容疑者は、「逃走中の受刑者」という奇妙な呼び名で呼ばれ、囚人という呼び方をされません。

「あれっ?受刑者は分かるけれど、刑が確定して服役しているのに、どうして容疑者なの?」と私などは思いますが、これは今回の脱走(もしくは脱獄)という新たな犯罪についての容疑なので、もともと服役した原因の犯罪・刑罰とは別の話なのだそうです。やれやれ複雑です。

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それにしても、彼が脱走した事実は明らかなのに、犯人とは言わずにあくまで容疑者と呼ぶのは不可解です。判決が確定するまでは推定無罪・・とする考えが、マスコミに周知されているからでしょうが、これでは犯人という言葉が無意味になり死語となります。

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それにしてもものは言いようです。昔は、犯人や容疑者は呼び捨てにされていましたが、昨今は犯人の人格もあるので、呼び捨てはできません。今の時代、マスコミが呼び捨てにするのは、スポーツ選手だけです。かといって犯罪者に尊称も使えません。それで困った時は、稲垣メンバーだったり山口メンバーだったり、します。

しかし、犯人がグループに属していなければ、メンバーとも呼べません。さてどうするのか?

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塀の中にいる同じ存在でも、服役囚というと、なんとなく犯罪者=悪人ですが、受刑者というと、なんとなく受難に堪えている求道者のイメージが湧くのは私だけでしょうか? キリストもジャンヌダルクも吉田松陰も獄につながれました。刑務所にいるだけなら、必ずしも悪人ではないのでは?・・・という倒錯した思いに駆られるのが、受刑者という言葉です。

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それだけではありません。古来、脱獄者を善玉にした文学や映画はたくさんあります。

「巌窟王(モンテクリスト伯)」、「レ・ミゼラブル」、「大脱走」、「逃亡者」、「パピヨン」、「ショーシャンクの空に」・・・。比較的最近ではTVドラマシリーズの「プリズンブレーク」がヒットしました。どれも主人公はハンサムで善玉です。 脱獄囚にシンパシーを感じてしまうのは、ある種の閉塞感の中で暮らしている我々にとって、痛快な脱獄劇はひとつのカタルシスだからでしょう。だから脱走した受刑者のニュースを聞くと「そんなに悪い奴かい?」と思ってしまいます。しかしそこに陥穽があります。

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ディズニーアニメに登場するライオンやトラ、クマは人を襲いませんが、実際のライオンやトラ、クマは甚だ危険です。同じように小説や映画の脱獄囚は善玉でも、本物の脱獄囚は獰悪な存在と考えねばなりません。

今回の騒動で、尾道市の向島では、年に一度のサイクリングイベントも中止に追い込まれました。大げさなようですが、脱獄囚が付近に潜むというのはそういうことです。

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今回、脱獄した理由が気になるところですが、当初、病が篤い妹に一目会うため・・という憶測が語られましたが、実際はさにあらず、看守にいじめられ、人間関係に堪えられなかったから脱獄したのだとか。なんとまぁ、気の弱い意気地のない囚人です。そもそも監獄には、一定の厳しさや辛さがあって当然です。それに人間関係の軋轢など、塀の外の娑婆だって、大なり小なりあるものです。そんなにひ弱でどうする。

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今回の平尾龍磨のもともとの罪状をみると、窃盗です。人を殺めたり、傷つけた訳ではありません。それでも懲役・・というのは、ちと厳しいようですが、累犯が重なったからのようです。すると、最初のきっかけは、小さな犯罪だったのだな?しかし、立ち直りのきっかけをつかめず、次々と悪事を重ねていったのか・・。

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なんだか、レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンのようです。そう言えば、レ・ミゼラブルでも、造船所の船のマストから海に飛び込んで脱獄する場面がありました。今治の造船所を抜け出し、さらに尾道水道を泳いで渡った平尾龍磨に通じるところがあります。

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ご承知の方がほとんどでしょうが、レ・ミゼラブルは、非常に重厚なストーリーです。ここであらすじを述べるのも野暮の極みですが、あえて ごく簡単に言いますと・・・・、

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青年ジャン・バルジャンはひもじい思いをしている妹の子供のために、一斤のパンを盗みます。それがきっかけで、逮捕・服役・脱獄・逃走の人生が始まります。ある時、逃げ込んだ司教館で一宿一飯の恩義を受けますが、そこで銀の燭台を盗みます。 しかし、その後で捕まったジャン・バルジャンを、ミリエル司教は嘘をついてかばい、彼に銀の燭台を与えたうえ、銀の皿までを手渡します。衝撃を受けたジャン・バルジャンは、その後、いくつかの曲折を経て、改心し真人間になります。さらに、薄幸の少女コゼットの親代わりとなり、彼女を幸せにすることを生きがいにして、まっとうで充実した人生を送り、やがて人生の最後を迎えます。

コゼットの夫のマリウスが、引導を渡すために司祭を呼ぼうとすると、ジャン・バルジャンは彼を止め「司祭はここにいらっしゃる」と、枕元の銀の燭台を指さします。悲惨だった彼の人生を変えるきっかけは、ミリエル司教が与えてくれたと、ずっとジャン・バルジャンは意識していたのです。

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ロマン主義などと言いますが、レ・ミゼラブルに限らず、ビクトール・ユーゴーの小説は皆、全ての人の人格を肯定するもので人間賛歌とも言えるものです。自身が投獄された経験を持つユーゴーは、囚人に対しても博愛の精神で対応します。

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ところで、平尾龍磨は昔から逃げ出すのがうまかったらしく、そのあだ名はルパンだったそうです。

でもね、僕は君をルパンとは呼ばないよ。いつか四国のジャン・バルジャンと呼んであげよう。しかし、まだ早い。今のままのチンピラじゃあ、その資格はない。真人間になってから、その名前で呼んであげよう。

何時の日か、彼が、彼にとってのミリエル司教に出会えないだろうか。そんな事を考えます。


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