【 大相撲のしきたりは、良き伝統なのか、因循姑息の悪弊なのか その2 】 [雑学]
【 大相撲のしきたりは、良き伝統なのか、因循姑息の悪弊なのか その2 】
ギリシャの古代オリンピックは男性だけのもので、裸体で競技されました。女性は観戦することすら許されませんでした。
近代オリンピックの第1回もギリシャのアテネでしたが、こちらも選手は全員男性です。
こちらは着衣で競技しています。女性は観戦することはできましたが、参加は許されませんでした。
今現在、IOCのバッハ会長は男女が平等・均等であることに特にこだわります。
新たな競技種目を選ぶ時、競技人口が偏っていないか?男性だけの競技になっていないかが注目されます。
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それと並行して、かつては男性だけだった競技にどんどん女性が進出しています。 柔道、陸上のマラソン、棒高跳び、スキーのジャンプ、その他もろもろです。オリンピックの男女同権の思想を受け入れる形で、女子種目が増えていったのです。
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この変化は、オリンピックの存在理由というか性格を考えれば、よく理解できます。
古代オリンピックは、戦争のシミュレーションでした。だから参加する人は兵士の代わりであり、男性に限定されました。
近代オリンピックが始まったころのスポーツとは、西欧の貴族階級あるいは有閑階級のたしなみでした。 そしてその頃、過激なスポーツをたしなんだのは、もっぱら男性でした。
現代のオリンピックは、国威発揚目的だの商業化したプロ選手の集まりだのと言われますが、根底には「社会的公平の実現」があります。 当然ながら、肉体的性差はあるものの、男女は同権で等しく参加する権利を持ちます。
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オリンピックがそのように変化していくなら、大相撲だって変化して構わないはずです。既に外国人力士の採用という、大変革を行ったのですから・・。
余談ですが、外国人力士の元祖をハワイから来た高見山だと考えていましたが、よく考えれば横綱大鵬だって白系ロシア人の血が入っています。 相撲協会はかなり前から、人種や民族にはこだわらなかったのです。
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人種民族を問わないのなら、相撲を日本人だけのものと考えるのはナンセンスです。即ち、相撲を神事と考え、日本人のエトスにかかわるものとするのもナンセンスです。
それなら女性を土俵に上げてどこが悪い?という考えに至ります。
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今回、八角理事長は、人命救助という緊急事態なのに、大相撲のタブーを優先したのが誤りであったと謝罪しています。つまり人命はしきたりよりも大事なのに、その判断を間違えたという言い方ですが、これは問題を矮小化するものです。
つまり、土俵に女性をあげてはいけない・・というタブーそのものの是非には言及せずに幕引きを図り、タブーを残そうとしています。これはかなり姑息な対応です。
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やっぱり相撲界のちょん髷頭を叩いてみれば、因循姑息の音がするのです。
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しかし、現役時代から実直な人柄が評価された八角理事長ですが、彼の代になって特に苦労が多いようです。同情を禁じ得ません。その昔は相撲協会の理事長といえば、天覧相撲で両陛下のお相手をするぐらいの優雅な名誉職だったのですが、最近は矢面に立たされ、謝罪する役回りです。相撲協会の積年の問題点が、最近の数年間に一気に噴き出した感があります。 これはやっぱり、八角という名前が良くないのでは?
そもそも八角といえば、雷電為右衛門に突き飛ばされて亡くなった力士です。
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しかし、ここは考え方次第です。暴力事件、貴乃花問題、女性を土俵から降ろそうと放送した問題などを、一挙に解決して、相撲協会の近代化に成功すれば、しめたもので、雨降って地固まるというか、土俵が固まる形になります。
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女性は誰でも土俵に上がれるよう、規則を変更すべきでしょう(ただし、ピンヒールの靴は土俵に穴を開けるのでダメですが)。
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いっそ、相撲協会は、大改革のシンボルとして「平成の断髪令」を出して、ちょん髷や大銀杏を止めてしまう荒療治もありです。因循姑息の音がしないようにするのです。
勿論、反対意見は多いでしょうが、強いちじれっ毛で、ストレートパーマをかけないと髷が結えないポリネシアンやアフリカ系の力士には歓迎されるでしょう。 あと、額がどんどん後退し、髪の毛が少なくなっている力士からも歓迎されるでしょう。
いずれにしても、八角理事長には頭を使って知恵を出してもらわねばなりません。 そうでなければ、「相撲取りの頭は、考えるためでなくちょん髷を結うためにあるのか?」と言われそうです。
【 大相撲のしきたりは、良き伝統なのか、因循姑息の悪弊なのか その1 】 [雑学]
【 大相撲のしきたりは、良き伝統なのか、因循姑息の悪弊なのか その1 】
相撲協会の問題がつぎつぎと明るみに出て、ワイドショーをにぎわせています。面白いといっては不謹慎ですが、巡業先の舞鶴で、挨拶で土俵に立った市長が倒れ、救護に駆け寄った女性看護師に対して、行司が「女性は土俵から降りろ」とアナウンスした事件は、相撲協会の問題のある体質を象徴的に示しています。
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話はかわりますが・・・・、
明治4年に断髪令が出され、日本の男子はちょん髷を結うことが許されなくなりました。世界の歴史を見ても、男子の髪型が法令で規定された例はあまりないようです。
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有名なのは、中国が清王朝だった時代、満州族が漢民族を支配し、男子に辮髪を強制した例です。従わなければ死罪となりますから、男子は仕方なく、全員が辮髪となったのです。今でも西欧に行って中国人のイメージを訊けば、吊り上がった目と辮髪と髭の男性、そして宦官となります。この屈辱的な風体が、カリカチュアとして用いられることに、なぜ中国政府がクレームしないのか疑問です。習近平のイメージが、熊のプーさんに似ているという、くだらない理由でプーさんのキャラクターを禁止する暇があるなら、そちらをするべきではないか?と思います。
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辮髪を近代化前の悪しき中国の象徴だと考えこれを嫌い、いち早く切り落とした男達がいます。太平天国の乱に参加した人達もそうですし、魯迅などの知識人もそうです。
辮髪の切り落としは、中国近代化の一つの象徴だったのです。(20世紀の話です)。
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話が脱線しましたが、明治新政府は、外国で日本男子の髪型(つまりちょん髷)が馬鹿にされたことがよほど悔しかったのか、それとも中国人の辮髪が馬鹿にされているのを見て、これはまずいと思ったのか、いずれにしても早急に髪を切って西洋風の髪型にするよう断髪令をだした訳です。
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国民の多くに理解してもらうために、戯れ歌さえ作って流行らせています。
「半髪(ちょんまげ)頭をたたいてみれば、因循姑息な音がする。総髪(長髪)頭をたたいてみれば、王政復古の音がする。ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」
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しかし、ここで例外的に髷を許された人々がいます。それが相撲取りです。普段はちょん髷を結い、場所中の関取は大銀杏を結います。序の口の力士や学生相撲から転じた幕下付け出しの力士は、髪の毛が伸びるのが間に合わず、総髪(長髪)で土俵に上ったりしますが、いずれ髷を結います。
逆に引退する時は、仰々しく断髪式なるものを行い、髪を短くして現役力士の自分に別れを告げます(昔はそんなものは無かった)。
悲惨なのは、禿げあがってしまい、髷が結えなくなったために、仕方なく引退した力士です。個人の名誉のために具体例は挙げませんが、何人か、そういう力士がいたそうです。
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どうして、相撲取りだけが断髪令を免れたのか? 私には理解できません。 相撲解説者の中には、もっともらしく、長髪で髷がある方が、頭を保護して脳震盪にならないなどと言う人がいますが、大ウソです。頭を保護するなら、アメフト選手のヘルメットやラグビー選手やボクシング選手のヘッドギヤの方がはるかに有効です。
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誰も信用しませんが、私の卒業研究は頭蓋骨に衝撃を与えた時の脳組織の挙動がテーマでした。
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要は、日本の伝統様式を守るのが重要であり、そのために髷が必要だとしたのでしょう。 当時、他にも伝統様式を継承しなければならない職業は幾つもありました。しかし、
1.僧侶はもともと剃髪なので無関係。
2.歌舞伎役者は、以前から鬘を被っているので無関係。
3.神主などの神職は烏帽子や冠をつけているので、これも髪型は無関係。
ということで、伝統を守るために、髷が必要という議論にはならなかったのです。
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江戸時代まで、日本の社会では髪型でその人物の職業や地位を判断できました。
一種の記号論の世界です。 武士は武士(武士にもいろいろ種類がありますが)、町人は町人、医者は医者の髪型、学者先生や道場の師範は総髪、そして関取は大銀杏といった具合です。四民平等といった概念からも断髪は必要と判断されました。唯一の例外は伝統を守りたい相撲取りです。
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しかし、ここで相撲協会が守ろうとした伝統とは何だったのか? それは外見で表象されるものだったのか? 実は明治の文明開化のチャンスに、大相撲が近代化し損ねた点はちょん髷だけでなく、他にもあります。
・部屋・親方制度を維持し、徒弟制度の下で力士を育成するシステム。
・谷町からのご祝儀に多くを頼る、ゴッチャン式の不明朗経理。
・先輩・後輩の上下関係を最大限強調し、暴力をも是認・許容する風土。
・学校教育の重要性を鑑みず、少年力士の進学を重視しなかったこと。
(代わりに相撲教習所という独自の学校がありましたが)。
・男女差別とされるしきたりを残したこと。
・和服、和装を重視し、洋服を排したこと。
などです。
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実は、この150年前の近代化のチャンスを逸したことが、今日禍根になっている部分があります。 土俵上に女性が上がってはいけない・・という、奇妙なタブーももっと早い時点で見直さなければならなかったのに、ちょん髷と同様、相撲界だけは「まあいいか」と見逃されてきた訳です。
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ではなぜ、そうなったのか? 根本的な理由は、大相撲には3種類の性格・目的があり、それらがアンビバレントというか相互に矛盾していたからです。
1. 神技として神の前で奉納する伝統的儀式としての性格
野見宿禰以来の伝統で、国技とされる大相撲が批判されると、必ずこの意見がでて反撃します。女性を土俵に上げないなどのタブーもそれに由来します。
2. 純粋な競技スポーツとしての性格
勝ち負けが重要で、優勝劣敗を決めることが最終的な目的となります。その前提としてフェアであること、スポーツマンシップが尊重されること、等多くの制約があります。
オリンピック競技の選択基準もほぼ一致します。それに倣えば、競技は体重別にクラス分けされるべき、とか、競技者やコーチからの判定への異議申し立てを認めるべき、とか いろいろな要改善点がでてきます。
最近のオリンピックの傾向を考えれば男女平等に競技に参加できることが最重要とされます。 これについては後述します。
3. 興行・娯楽としての性格
これはプロレスと似た性格になります。 スターが必要で、ルールやフェアさよりも派手な演技が喜ばれます。善玉・悪玉がはっきりした方が観客は喜びます。地方興行となると、地元のボスとの付き合いも必要になり、かつては反社会勢力との接触がうわさされ、賭博や八百長もありました。相撲協会のかつての経理の不明朗さの一因もそこにあります。女相撲なんてのも興行としてはありです。
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男女の差別・区別という観点で考えた場合、1.と2.の矛盾は際立ちます。
行司は、思わず1.の理屈を採用したのでしょう。 しかし、この男女を区別する伝統は墨守すべきものなのか?時代に応じて変更していくべきものなのか?
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ここで参考になるのはオリンピックの歴史です。
以下次号