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【 相模民俗学会 】 [雑学]

【 相模民俗学会 】

 

3/18、既に咲き始めた桜の花を眺めながら、私は川崎の市民ミュージアムに向かいました。相模民俗学会の定例会を聴講するためです。

民俗学を勉強したこともなく、勿論会員でもない私が参加するというのは、冷やかしでしかないのですが、今回は理由があります。

柳田國男がテーマで、我が畏友Y教授が発表を行うので、それを聞きたかったのです。

Prof Y.JPG場所は川崎市中原区で、これも我が畏友である「川崎のご隠居」の地元ですが、彼は所用があって参加できません。(後の懇親会には出席しましたが)。

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民俗学の泰斗である柳田國男について、オヒョウは一体何を知っているのかね?と問われると、民俗学自体を知らない私は、何も言えませんが、しかし彼が異色の官僚というか、2足の草鞋を履いたサラリーマンの元祖のような男であったことに興味があるのです。

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農水省出身の山下一仁氏が著した書物によれば、彼は農商務省の官僚として、日本の農業の実態に強い危機感を抱き、建白書とも言うべき提言を幾つかしています。(勿論これは戦前の話です)。しかし、その内容を見ると、21世紀の今日でも通用することが多いのです。

農業経営はどうあるべきか、農産物の貿易自由化に日本はどう対応すべきか。現在のTPPの議論に通じます。山下氏は戦前の柳田の時代と、現代を比較し、その共通点と相違点を明らかにしています。(それについては別稿で申し上げます)。

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しかし、それは柳田が農商務省の官吏として仕事をした時代です。その後、彼は内閣法制局の参事官になり、そこで神社の合祀(つまり、合併と統合)を進める政府の方針に反対しています。その活動のバックボーンには、彼の民俗学的な思想があったはずです。そしてその柳田の活動について、日本大学の岸本先生と小松短大の由谷先生が研究した内容を報告するのが今回の会だったのです。柳田國男とは比べるべくもありませんが、2足目の草鞋を探してウロウロしている私には興味があることです。

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役所に勤めながら、ライフワークと言うべき研究テーマを持ち、業績を残した人はたくさんいます。

ナポレオン研究の第一人者であった、通産次官の両角良彦

森鴎外研究の第一人者で、日銀の理事だった吉野俊彦

都庁を退職後、上杉鷹山を調べて小説を書いた童門冬二

気象庁の研究官を続けながら、山岳小説のパイオニアとなった新田次郎

でもよく考えると、その先駆けは柳田國男だったと私は考えます。

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しかし、神社の合祀反対活動に関して、彼の活動には、一つの類型的な見方がされています。

即ち、石川県出身の内務官僚であった井上友一が、神社合祀を積極的に推進したのに対し、農商務官僚である柳田國男はそれに反対し、対立したという見方です。

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歴史的にみて、神社合祀が失策であったという前提で考えると、柳田が善玉、そして井上が悪玉・・・という分かりやすい構図ですが、実態はそんなに単純な話ではない。と岸本・由谷の両先生は説明されます。

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井上と柳田は、同志として同じ活動で協力したこともあり、親しかったはずです。しかも柳田の発言を時系列的に追いかけると、神社合祀に反対する内容と賛成する内容の両方があり、よく分かりません。あたかも彼が変節漢であるかのごときです。

両先生は、明確な証拠を提示しています。代表的なものでは、神社合祀に反対するものとして、南方熊楠との往復書簡、賛成(もしくは肯定するものとして)埼玉県岩槻の諏訪神社と愛宕神社の合祀記念碑文が挙げられます。両方とも動かぬ証拠です。

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そこから考えると、柳田は、賛成・反対で色分けできる硬直した思考をしていたのではなく、柔軟な思考の持ち主だったと考えるべき・・ということでしょうか?

戦時下の思想統制で、柳田が仕方なく合祀賛成に転じざるを得なかった・・・という可能性については証拠がないので何も言えません。個人的には、そんなことは無いだろうと思いますが。

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ここで留意したいのは、柳田と井上の対立の構図を作り上げた背景です。私が考えるのは内務官僚と農商務官僚の対立の構図です。

柳田の幾つかの発言は法制局の参事官になってからなので、この構図は必ずしも正確ではありません。これもまた私の畏友である、元農水省のY君に訊くしかないでしょう。

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私は明治期に山形有朋らが進めた社寺仏閣(というより神社)の整理統合は、地域社会の無用な対立を無くし融和を図ると同時に、人材の合理化・リストラも理由だったのではないかと推測します。

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明治維新で大量の武士が失職しましたが、彼らの再就職は容易ではありません。地位があり教養がある人物として何らかの公的ポストを用意できればいいのですが、地方の町村ではそうもいきません。その中で神職というのは最適でした。神主や宮司に転職した士族はたくさんいたはずです。しかし、明治も20年代に入り、世代交代も進み、士族の再就職問題も一段落し、教養のある人々にふさわしい新しい職業も生まれました。そこで雇用対策としての神社は役割を終えたのではないか? 神社の維持に必要な費用負担も、地方の町村には負担だったはずです。それが合祀推進の理由だったのではないか?と私は思います。

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そして、私が特にこだわるのは南方熊楠の意見です。彼は神社のリストラによって、日本の原生林が失われるのを非常に危惧しています。日本は森の国であり、昔からの照葉樹林を大切にしてきた国ですが、その中心にあるのは神社の鎮守の森であり、ご神体としての山林であり、御杣山(みそまやま)など神社が所有する山林です。大陸に渡り、韓国や中国に行けば、その森林の乏しさに驚きますが、その理由の一つは、かの地には神社が無いことです(と私は思います)。

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この南方熊楠の発想は現代も受け継がれています。人工的に植林された針葉樹林ではなく、昔からその土地に存在した植生を大切にして慈しもうという活動が全国に見られます。特に、国立公園に指定された地域や人が住まない山奥ではなく、里山の自然を大切にすること、鎮守の森を守ることや、原生林をサンクチュアリとすることは自然保護運動の重要なスローガンです。

神奈川県であれば、真鶴半島の自然林などが、熊楠が考えた保護すべき対象でしょうし、茨城県鹿嶋であれば、鹿島神宮の境内の自然林が保護すべき対象でしょう。

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ところで、この鹿島神宮の樹林ですが、昔はもっと広かったものと推測されます。なんでも常陸国風土記によれば、大昔は鹿島郡(今の鹿嶋市+α)全体が、神領であったとのこと。おそらくは、広大な自然林が鹿島神宮を囲んでいたものと思われます。

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しかし、鎌倉時代以降、たびたび神領侵犯の憂き目にあい、神領はかなり小さくなったようです。現在の鹿嶋市宮中地区は、その名前から察するに昔は境内だった可能性がありますが、今は商店街と住宅地です。記憶に新しいところでは、昭和の時代、鹿島神宮の背後にあった広大な松林(鹿島神宮の所領ではない)がマツクイムシで枯れた際、そのまま港ヶ丘と名前を変えて住宅地になってしまいました。

今、宮中や港ヶ丘には近くの製鉄所に勤務する人達が暮らしています。

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柳田や熊楠が聞いたら、「何たることか! 彼らに里山の自然を保護する思いや「敬神」の気持ちは無いのか?」と嘆くかも知れませんが仕方ありません。有為転変は世の常です。 それにしても「滄海変じて桑田となる」は中国の故事ですが、「鎮守の森転じて住宅街となる」が日本の諺・・・というのはなんとなく嫌ですね。


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