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【 この道はいつか来た道 】 [政治]

【 この道はいつか来た道 】

 

森友学園問題は、複雑な様相を呈してきました。園児に首相の個人崇拝を促すような奇怪な幼児教育を施す幼稚園の存在とその経営破綻、黒幕としての首相夫人の関与、廃棄物まみれの国有地、財務省の忖度や公文書の書き換え、板挟みとなった官僚の自殺等、スキャンダラスな話題に事欠きません。しかしこの問題の根本は、あくまで国有財産を不当に安い価格で、特定の人物・法人に払い下げていたことです。

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でも、日本の歴史を振り返ると、似たような事件は時々発生しています。太平洋戦争に敗北し、日本軍が解体・消滅した時、多くの軍用地が個人のものになりました。地方によっては広い練兵場が、ほんの数人の将校の私有財産に化けたところもあります。

また有形の財産ではなくても、特定の権益を私した輩もいます。

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しかし、日本史の教科書に登場するこの手のスキャンダルとして一番有名なのは、北海道開拓使の官有物払い下げ事件です。今から140年前に、やはり国有財産を不当に安い価格で民間に払い下げる事件が発生していたのです。明治時代前半の黒歴史とも言うべき事件ですが、その主役は毀誉褒貶の激しい男の代表である黒田清隆です。

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彼は、米国の西部開拓を範とした北海道開拓計画をたて、莫大な政府予算をつぎ込みました。しかしプロジェクトの期限である10年を経過した時点で開発は道半ばでした。そこで黒田はそれらの財産を民間に不当に安い値段で払い下げたのです。具体的には炭鉱、ビール会社、鉄道、牧場、農園、砂糖工場等です。売却は3回にわたり、一回目と二回目は薩摩の人脈に通じた財界人、井上馨、山形有朋らの政治家や渋沢栄一、安田善次郎、大倉喜八郎といった財閥のトップが関与し、一部の財閥に売られました。3回目は皇族、華族といった上流・特権階級に売られています。当然ながら、黒幕として五代友厚も登場します。TVでディーン・フジオカが演じると爽やかな快男児なのに、本物はかなりダーティーだったのかも・・・。

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その金額たるや、1400万円をかけたインフラが39万円、或いは26万円の設備が千円弱で、しかも利息ゼロのローンで買えたのです。(当時の貨幣価値がピンとこないので、どれくらいの財産なのかは分かりませんが、森友学園の国有地の比ではありません)。

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当然ながら、マスコミはこの問題を追及し、世論は沸騰しました。 伊藤博文は官有物払い下げの仕組みを作った大隈重信を糾弾し追放しました。大隈は下野し、以来、早稲田大学は在野精神に溢れる大学になった・・というのは、ウソです。

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張本人である黒田清隆も結局閑職に退き、やがて失脚しますが、悪い事ばかりではありません。私は帝国議会が招集されたきっかけはこの官有物払い下げ事件だったと(勝手に)理解しています。一種の怪我の功名です。

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一部の権力者がまつりごとを壟断し、こそこそと仲間内で国有財産を私するのではなく、公明正大に行政を進めるべきで、その為には国会が必要と言う論理です。五箇条の御誓文にある「広く会議を興し万機公論に決すべし」を実現するには、民主的な議会制度が不可欠でした。

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話は脱線しますが、一部の左翼系の人々は、戦前の日本を暗黒の時代ととらえています。

全体主義のもと、言論は封殺され、人権は蹂躙されていた・・・と言うのです。

しかし、実際には完全ではないものの、民主的な制度は機能していました。普通選挙法で選ばれた人々が政府を監視し、意見を主張することができたのです。これは当時の諸外国と比べて、見劣りする内容ではありません。日本の民主主義が窒息死したのは、戦時体制に入った後です。

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脱線から戻ります。

ではディーン・フジオカじゃなかった、五代友厚はどうか?と考えると、面白い資料が住友財閥の資料館で見つかったというのです。それは五代友厚の一種の弁明書ですが、黒田清隆の思いを説明したものと思われます。

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それに拠れば、

10年の期限が近づき、あと一歩のところまで来ている諸事業をあきらめる訳には いかなかった。

・事業を続けて、ものにするには、その後を民間に託すしかない。

・そこで、このプロジェクトに心血を注いだ部下の官吏達に辞表を出させ、彼らに事業を買い取らせて、民の立場から開発を続けて黒字化させるのが、一つの責任の取り方であると考えた。

・退職した官僚は、財閥ではないから、私財で自分が手がけた事業を買い取るのも困難。そこで敢えて低廉な価格を設定した。また財閥の資金も利用した。

・当初考えたプロジェクトの期限には間に合わなかったが、その後努力は結実し、北海道の殖産興業は軌道に乗った。それは、民間に下った人々がその後も継続して事業に尽力したからである。

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以前のブログでも申しましたが、官庁あるいは官僚には、許認可型の業務をもっぱらに行うタイプと、政策の立案実行を主に行うタイプの2通りがあります。北海道開拓使というプロジェクト推進型の官僚の仕事に於いて、これは潔い一つの責任の取り方を示したものです。

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あれぇ?醜悪なスキャンダルの典型である官有物払い下げ事件も、見方を変えると、有能な官吏の責任の取り方を示すものに見えてきます。不思議だなぁ。

それにしても五代友厚、民間の財界人だったはずだけれど、官僚の心意気や身の処し方についても理解していたのです。

彼は、ある理由で公の場では弁明書を発表しなかったのだそうです。

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明治初期に、株式会社のシステムが完備していれば、昭和の時代に国鉄や電電公社を民営化した時の様に、株を売り出すことで、公正さが担保できたのに、残念なことです。

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ところで、官有物払い下げ事件では、帝国議会の招集以外にもう一つよい事がありました。

それは、西欧文化に学んだ、近代的で独自の北海道文化が築かれたことです。この事件で、北海道に荘園や会社、鉱山などを手に入れた貴族階級の人達は、北海道に西欧風の優雅な社会を作ったのです。

実際には、屯田兵らによって行われた北海道の開拓は、田中邦衛の「北の国から」とも吉永小百合の「北の零年」とも違う、厳しく過酷な作業でした。しかしそれでも都市部には西欧的で文化的な世界ができたのです。

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九州生まれの北原白秋は、昭和の初めに北海道に遊んで、その特殊な北海道文化を敏感に感じ取り、童謡「ペチカ」や「この道」で、端的に表現しています。

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札幌の大通りに、自分が育った九州の町の道を重ねて、一種の既視感を味わうという不思議な「この道」の歌詞は、政治スキャンダルが繰り返されるたびに、皮肉を込めて引用されます。

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140年前の官有物払い下げ事件となると、私の記憶も薄く(うそです)、既視感もないのですが「この道」の歌詞では、「この道はいつか来た道。ああ そうだよぉ」と続きます。森友学園も加計学園も、「いつか来た道。ああ そうだよぉ」となる訳です。

もっとも、北海道北見のカーリング娘たちは、「ああ そうだよぉ」とは言わずに「そだねー」と言うかも知れません。それが北海道の放言なのか、そうでないのか、私には分かりません。


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