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【 公人・私人、官と民 その2 】 [雑学]

【 公人・私人、官と民 その2 】

 

高校時代の英語の教科書「England as she is」の中に、英国の学校のシステムを紹介する記事がありました。 早速、私に疑問が湧きました。

「私立なのに、どうしてパブリックスクールというのですか? 私立ならプライベートスクールではないのですか?」 当時私は国立の高校に通っていました。

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岩城谷先生は、「パブリックスクールは、一般に門戸が開けれ、入学試験に合格し、学費を払えば誰でも入学できる。 だからパブリックスクールだ。 英国の場合、家庭教師を雇って教育を受けることもあるし、一般に門戸を開かない学校もある。それらこそ、プライベートスクールと言える」という回答でした。 経営が民間なのかという問題ではないようです。

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学校が私立か公立か・・という点で言えば、英国の場合、一流大学、名門校の多くは私立です。 その国を代表する大学が国立か私立か・・という観点で分類すると、米国や英国は私立派、日本やフランス、中国、韓国は国立派となります。

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その国を代表するエリートを輩出する大学が私立で、高額の学費が必要となると、エリートの子弟しか入学できず、エリート層の再生産が進み、階級の固定化、貧富の差の拡大が進むではないか?と懸念しますが、米国の場合、それほどの問題になっていません。奨学金のシステムなど、学生を経済的に支援する仕組みが充実しているからです。

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話がそれますが、明治時代、公立学校を「国立」とはあまり言わず、「官立」という言葉が普通だったようです。一方、私学は「私立」でしたから、「官」と「私」の構図です。

一方産業界では学校とは違い「官」と「民」という言い方です。

「官」と「私」、「官」と「民」は、それぞれ対立する構図ですが、両者は微妙に違います。

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ここで話が飛躍しますが、製鉄業の場合を考えます。

日本の近代製鉄の発祥を、官営八幡製鉄所に置くか、釜石製鉄所に置くかは意見の分かれるところです(韮山の反射炉を近代製鉄の始まり・・とする意見はほとんどありません)が、どちらも国立、いや官営で始まりました。

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日本だけでなく世界の各国で、19世紀から20世紀にかけて、国家の近代化に不可欠な存在として、一貫製鉄所がありました。巨額の設備投資が必要な製鉄所を官営(国営)とするか、民営とするかで、その国の産業政策の基本方針を占えたのです。

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釜石製鉄所も最初は官営でしたが、早期に民営の製鉄所に変更されています。だからずっと官営だった八幡製鉄所とは生い立ちが違います。両社は一度経営統合しますが、第二次大戦後の経済力集中排除法により、八幡製鉄と富士製鉄に分かれました。その生い立ちゆえに、前者は官営のままで官僚的、後者は民間企業の色彩が強い・・・とされました。

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しかし、やがて再び合併して新日鉄になったのですが、その時に大きな混乱はありませんでした。何の事はない、結局、民間企業の富士製鉄も官営時代の色彩を残し、十分に官僚的だったのです。

21世紀に入り、その新日鉄が住金と経営統合しました。今度の相手は、民間企業を代表する住友財閥の中核企業ですから、新日鉄とは全く風土が違う会社です。

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しかし、合併して分かったことですが、驚いたことに、住金の方がよっぽど官僚主義的だったのだそうです。 前例のないことは拒否する経営判断、学歴重視と減点主義、など。 今、新日鉄住金に生き残っている旧住金出身の役員はほぼ全員東大卒です。

余談ですが、「官」の企業は、「官立」の大学出身者(特に東大と京大)を好みます。

日本の製鉄業の場合、民間企業を装っても、実は官営企業のエピゴーネンだったのです。(JFEについてはよく分かりません)。

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「公」と「私」という分け方では、なんとなく優劣は明らかで、対立の構図にはなりにくいのですが、「官」と「民」となると対立の構図がイメージできます。民主主義の現代、なんとなく「民」を応援したくなります。面白いのは公共サービスを行う企業です。

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春闘の賃上げなどのニュースでは、マスコミは「大手私鉄各社」という具合に私鉄と言います。しかし、東武、西武、小田急などの企業は自らを「民鉄(民営鉄道)」と言います。「決して私的な存在ではなく、広く国民にサービスを提供しているのだから、私鉄ではない。単に経営資本が民間資本だというだけだ」。これは広く生徒を募集するからパブリックスクールだと言う、英国の学校と似た理屈です。

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しかし、この表現にも問題があります。民鉄(私鉄)の相手となるのは国鉄ですが、日本国有鉄道公社はもうありません。JRは株式会社ですから、本質的に民鉄各社と違いはなく、民鉄各社が「我々は民間だ!」と言っても、区別できないのです。

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民鉄各社を「私鉄」と呼ぶ、そのマスコミも問題です。

「ピョンチャンオリンピックの中継放送は、NHKと民放各社で分担する」と言っています。鉄道のことは「私鉄」と呼ぶくせに、自分のことは「民放(民間放送)」と言い、「私放」とは言いません。 そして相手となるNHKも(実態はともかく)国営放送ではありません。(一応)国家権力からは独立しています。 JRと民鉄各社の場合と同じように、NHKと民放各社の場合も明確な対立の構図は無いはずなのですが・・・。

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大学などの学校の場合は「私学」といい、鉄道や放送などの公共事業の企業は「民」を使いたがる、その理由は何なのか?

私は、敢えて「私」を使う学校の場合、「国家権力にはまつろわないで、創設者の志や建学の精神に基づいた教育をするぞ」という私塾の心意気があるから、「私」を使うのだと思います。一方、公共サービスを担う、鉄道や放送事業者の場合は、単に民間資本ですよ・・ということを示すだけですから「民」なのかな?

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でも、考えてみれば、放送事業こそ、自らのバックボーンを明確にして、権力にまつろわない、あるいはおもねらない姿勢が大切ですから、「私」を使うべきです。それよりも自らを「公」の存在として認めてもらいたいという思いの方が強いのでしょうか?

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無論反論は多くあるでしょう。「私立大学と対峙する「国立大学」だって、今は官立ではなく独立行政法人ではないか? 私立と国立で敢えて区別する本質的な違いはない」という声もあるでしょう。

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NHKも国営放送ではないし、JRも株式会社です。国立大学ももはや独立行政法人となれば、ますます企業や事業者を「官」と「民」に分けることは無意味になります。

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企業でなく人の場合、「公」と「私」の区別は残りますが、一個の人格に対して、「君は公人だ」「君は私人だ」というレッテルを貼る事もやがて無意味になっていくでしょう。

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最後まで、選挙で選ばれた政治家を、「公人」として扱うルールは残るでしょうが、選挙で選ばれた訳でもない芸能人を「公人」とするナンセンスな考えは否定されるでしょう。

あっ! でもAKB48は別ですよ。彼女達は確かに全国規模の選挙という洗礼を受けているのですから、立派な「公人」です。


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【 公人・私人、官と民 その1 】 [雑学]

【 公人・私人、官と民 その1 】

 

昨年来、森友加計スキャンダルで安倍首相が国会で追及されています。一連の報道で思うのは、学校経営者というのも、ずいぶん胡散臭い存在だね・・・ということです。学校の創設者というと福沢諭吉や大隈重信、新島襄らを連想し、人格高潔にして教育界のリーダーとなる人物を想像しますが、末流の学校の場合はどうやら違うようです。

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それはともかく、スキャンダルのカギを握る人物が安倍首相の昭恵夫人であることは間違いありません。その首相夫人を公人とみなすか私人とみなすかで、首相官邸と野党は国会で綱引きをしています。公人であれば証人喚問で糾弾することができますが、私人であれば、そこまではできない・・という理屈です。公人なら社会に対する責任も私人より大きく、国会や司直の追及に真摯に対応しなければならないという理屈でしょう。 では昭恵夫人は公人なのか私人なのか?

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この議論をする前に、公人とは何かを規定しなければならないのですが、それが曖昧です。首相・官邸は、公職選挙法に則った選挙で選ばれ、公職にある人を公人と言いたいようですが、実はそうでない人も一種の公的権力を持ち、業務を執行します。

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公務員採用試験に合格して官庁に入り、公務員となった人は、選挙と無関係に公的権力を持つ訳で、一種の公人です。公務員試験に合格しなくても、自衛官のような特殊公務員、国立大学の教官、職員、公立病院の職員も、公立学校の教員も、考えてみれば一種の公人です。外交官試験や司法試験に合格して採用された人も公人でしょうし、地方公務員ももちろん同じです。

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問題は、首相夫人です。公人の配偶者がまた公人である・・という理由はありません。彼女は選挙で選ばれた訳でも、公務員試験や司法試験、外交官試験に合格した訳でもありません。しかし、彼女にはSPが付き、その発言には影響力があり、しばしば公的権力を使います。彼女の権力は一体誰が承認し、付与したものなのか? という疑問が湧きます。

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米国でも同じ問題があります。民主党のクリントン大統領の時代、型破りのファーストレディとして、ヒラリー・ローダム・クリントン女史が活躍しました。彼女は別に選挙で選ばれた人物ではありませんが、実質的に副大統領のように振るまいました。

彼女の前にも、フランクリン・ルーズベルト大統領夫人だったエレノア・ルーズベルトの例があります。彼女たちは夫に影響を与えただけでなく、自分自身の意思で政治的な活動をしました。

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選挙で選ばれた訳ではない大統領夫人(つまり私人)が大きな公的権力を持つことを問題視する意見は米国にもあった訳ですが、スキャンダルになった訳ではありません。でも日本の場合、昭恵夫人の行動と発言には、懸念すべき点があり、今、何等かの形で、首相夫人の位置づけを明確にすべき時が来たと私は思います。

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その一方で、一人の人間を公人と私人に区別することに意味はあるのか?と思います。

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公人と私人を区別し、前者をより貴な存在と考える思想は、古代中国に由来するのかも知れません。厳格で権威ある試験に合格した人を選良として公人にする科挙のシステムは中国で採用され、アジアの一部の国に広まりました。一方、公的な手続きである選挙で選び、民意が反映された形で選良を公人とする民主主義的な発想もあります。こちらは古代ギリシャが先駆けでしょう。

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日本は科挙を導入しませんでしたが、官尊民卑の思想は受入れ、そして近代は民主主義を取り入れています。その中で公人と私人の位置づけが今ひとつ分かりにくいのです。

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そんなことを考えていたら、タレントの大竹まことの娘が覚せい剤所持で逮捕されるという事件が起きました。それについての大竹まことの発言が面白いのです。

「(自分は公人だからプライバシーを暴かれても仕方ないけれど)、娘は一般人(私人)だから勘弁して欲しい」と発言したのです。

http://www.jprime.jp/articles/-/11628

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世の中には、本物の芸を持たないタレントが、自分のプライバシーを切り売りして収入を得ていることは知っていますが、彼らを公人と言えるかどうか・・私には疑問です。

公人とは、マスコミに追及され、プライバシーを侵害されても仕方ない人・・ではなく、民意に基づいて選ばれて公的職位に就き、私的利益ではなく、全体の利益及び全体の公平の為に仕事をする存在だと思うからです。

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自分のプライバシー情報を公共の電波に乗せているだけで、自分のギャラのために仕事をしているタレント達が「自分達は公人だ」とのたまうとすれば、それは思い上がりというものです。芸能人が芸能人以外の人を指して「一般の人」という言い方をしますが、メディアに露出するというだけで、自分達は特別の存在だ・・とでも思っているのでしょうか? ひょっとしたらパスポートも芸能人用は特別なのかね?

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民主主義であろうが全体主義であろうが、世間はとかく公私の区別を大切にします。

それ自体は結構なのですが、その定義や境界が乱れているのです。

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なんとなく「公」に対して「私」は劣るもの、正式でないもの、隠すべきものというイメージがあります。 「公」をとても大切にする東洋の儒教精神に由来するものか?と考えましたが、そうでもないようです。 「私的」にあたる英語の“private”にも正式でないもの、隠すべきもの・というニュアンスが含まれます。

今は使われませんが、嫡出でない子供のことを、以前は「私生児」と呼びました。生まれた時から、「お前は公の存在ではない」と否定するようなひどい言葉です。

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その対立する概念である「公」と「私」を交錯させると、面白い何かが生まれます。

NHKが不定期で放映する、「極私的ドキュメントにっぽんリアル」は、タレントの営業用のプライバシーとは違う、本物のプライバシーを一般人がさらけだす番組で、一部のファンに好評です。「公的なもの」であれば、必ずそこに脚色や装飾が付きますが、「私的なもの」であれば、そこに飾りはなく、同じレベルで眺める視聴者の共感が得られるのです。「公」と「私」をクロスオーバーさせることに成功した作品です。

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私は特に、青年期の終わりに、安定した収入が無いまま社会に放り出されることになった佐藤寛朗君の困惑を描いた第一回が好きです。

https://www.messiahworks.com/archives/3641

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曖昧な「公」と「私」を、個々人のレベルで議論するのは、さほど難しくありません。しかし、組織論として「公」と「私」を論じるのは、かなり難しいです。そして組織論となれば、「公」と「私」だけでなく、「官」と「民」という類似した概念も登場します。

 

それらの違いについては次号で


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【 LCCの人々 その2 】 [中国]

【 LCCの人々 その2 】

 

こちらも私には馴染みがある成田空港第3ターミナルで発生した事件です。格安航空ジェットスターで上海へ帰国しようとした中国人団体客が、天候不良による欠航で足止めとなり、それに怒った乗客が深夜にターミナルビルで騒ぎ、挙句に女性職員に暴力をふるって怪我をさせたうえ、犯人を連行しようとした警察官に対して、中国国歌を合唱して威圧した・・というのです。

http://www.sankei.com/affairs/news/180130/afr1801300052-n1.html

http://www.sankei.com/premium/news/180131/prm1801310008-n1.html

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騒ぎを聞いた駐日中国大使館の領事部の職員が深夜に成田空港へ駆けつけ、食事券を配って、群衆をなだめて、一件落着しましたが、この事件は、各方面に反響を呼びました。

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この事件は中国でも報道され、インターネット上には両方の意見が溢れました。

http://news.searchina.net/id/1652650?utm_source=searchina.net&utm_medium=content-text&utm_campaign=scn_ranking_all

 

http://diamond.jp/articles/-/157917

ひとつの意見は、中国人は被害者であり、非はなく、逮捕連行した日本の警察を非難するものです。無辜の中国人が連行される事態とは「辱華行為」であり、国家が辱めを受けているのだから、日本にもっと強く抗議せよ・・というものです。

(歴史的に考えると、アヘン戦争など、中国が侮辱された行為や時代は枚挙にいとまありません。それらは全て歴史に傷跡を残す大事件です。それらと比べれば、空港で乱暴な行為に及んだ人を連行しただけの、実に些細な出来事を、どうして辱華と考えるのか?) これは中国の人の心の底にある強烈な被害者意識の問題と言えます。

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もう一つの意見は、あえてLCCを選んだのだから、欠航時のフォローが無いのは当たり前で、自分達で解決すべき問題なのに、航空会社や空港当局の対応が悪いと非難するのはおかしい。理屈や公平性と関係なく、とにかく大声を出して騒げば、自分の望む回答が得られるという、幼児的な発想は中国国内では通用しても外国では通用しない。と騒ぎを起こした中国人旅行者をたしなめる意見です。これは実に大人の考え方と言えます。

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実は、私も以前、ジェットスターの最終便が土壇場でキャンセルとなり、おおいに慌てたことがあります。だから怒りたくなる気持ちも、騒ぎたくなる気持ちもわかるのですが、ここは落ち着いて行動した方が、尊敬されます。

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それ以外に、170人もいて、誰も日本語が話せないとは情けない。(正しくは英語を話せる中国人もいなかったらしい)という意見もあります。

さらには、普段仕事をしない中国大使館の領事部がよく動いたと、褒める意見もあったそうです。

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それはともかく、どうして彼らは、騒いだのでしょうか?

私に言わせれば、それは、中国が特アだからです。 特アの意味や定義を理解せずに、「隣国を差別しヘイトするのはいけない。特アという言葉は悲しい」と訴える悲しい新聞があります。毎日新聞です。

http://andreagritti.hatenablog.com/entry/2013/10/31/195022

しかし、特アは単に隣国である中国・韓国・北朝鮮の3か国を指すのではありません。国策として或いは国是として反日を認め、政治的に反日を利用する国を特アと言うのです。

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反日の人は世界中にいます。英国にもオランダにも、米国にもいます。しかし、政府が反日を正しいとし、それを奨励し、国内政治の問題点の隠蔽や、国内の政治勢力の結束に利用したり、或いは日本との外交交渉を有利にするために、それを利用する・・という特殊な国は、世界中を見渡しても、この3国だけです。

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だから、彼らは他の国で不当な扱いを受けたり、不利益を受けても沈黙しますが、日本では声高に騒ぐのです。

一つ、言い忘れましたが、特アにはもう一つ特徴があります。自分の主張は、例え理不尽な物であっても、虚偽であっても、とにかく声高に訴えるべき・・という考えです。

これが個人のレベルから政府のレベルまで一貫しています。

尤も、この特徴があるのは、特アだけではありませんが・・。

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中国国内の空港で足止めをくっても、誰も騒がないくせに、日本の空港だと暴れる・・というのはなぜか? 恨みのある日本でなら狼藉を働いても許されるという発想があるようです。この(愛国無罪=日本での狼藉は許される)という発想は特ア固有の感覚です。

そして、もう一つは警察の在り方の違いです。名にし負う警察国家である中国には、泣く子も黙る武装警察があります。そして武装していなくても公安とは常に恐ろしい存在です。天安門事件以来、中国で(政府が指導しない)デモを企てたり、騒ぎを起こせば、逮捕連行は当たり前です。逮捕権の濫用・・なんて言葉はありません。でも日本の警察は一応民主警察で、法律に則った対応をします。そして中国人旅行者はそれを理解しています。だから平気で騒ぐ訳ですが・・・。

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しかし、ここで我々が本当に注目すべきなのは、その事件の際、周囲にいた中国人旅行者達が一斉に、中国の国歌「義勇軍行進曲」を歌ったということです。

暴力行為に及んだり、シュプレヒコールをするより、ずっとおとなしくて紳士的だと解釈するのは、全く間違っています。

外国で、そしてその公権力の前で、大人数で自国の国歌を歌う・・というのは特別の意味を持ちます。 一種の治外法権を要求する極めて威圧的で挑戦的な行為なのです。

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異国で自国の国歌を歌って、敵対する人々をひるませる・・という場面は、映画「カサブランカ」に登場します。フランスがナチスドイツに降伏し、ビシー政権ができた後、フランス植民地のモロッコも、ドイツの支配下に入ります。それに反発するフランス人達が、酒場でドイツ音楽を歌うドイツ人の前で「ラ・マルセイエーズ」を歌い出し、やがてそれは大合唱になり、ドイツ人将校達をうろたえさせます。

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おそらくは自堕落で無節操な生き方をしている酒場の女性も、毅然としてフランス国歌を歌うのです。 この映画の中でも印象的な場面ですが、これは伝家の宝刀です。簡単に使ってはいけないのです。一種の国際問題と言えます。

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中国の国歌「義勇軍行進曲」は抗日戦争の時に作られた歌(本当かな?)で、本来的に反日の要素を持っています。それを日本で、警察が公務を執行する場面で歌うというのは、大変な威圧です。公務を妨害せよとアジテートする行為です。

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それにしても、何と攻撃的で好戦的な歌詞であることか・・・。

起て!奴隷となることを望まぬ人びとよ!
我らが血肉で築こう新たな
長城を!
中華民族に最大の危機せまる、
一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ。
起て!起て!起て!
我々すべてが心を一つにして、
の砲火をついて進め!
敵の砲火をついて進め!
進め!進め!進め!

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日本で国旗国歌法が議論された際、朝日新聞は徹底的に反対しました。「君が代」はアジアの侵略戦争に利用された「血塗られた」歌で、アジア人の犠牲を想起させる歌だ・・というのです。でも、見渡せば、国歌で血塗られていない・・というか生臭くない国歌などほとんどありません。 ドイツや英国の国歌は、君が代と同じく平和的な内容ですが、それでも外敵を倒して国を守れと訴えています。

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世界を見渡して、「君が代」ほど平和的な国歌はありません。それでも特アの人々、或いは特アに使嗾される日本人には不快なのだろうなぁ。

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普通、外国では国歌は尊重され、もっと大切にされます。一方、日本ではぞんざいに扱われます。大切にするとはどういうことかと言うと、歌うべき機会(T.P.O)を選ぶということです。外国でどのような機会に国歌を歌うかについては、また稿を改めて論じたいと思います。

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立場を換えて考えてみましょう。

中国の空港のLCCのターミナルで、不当にも日本人が連行されたとして、仲間の日本人が一斉に日本国歌を歌ったらどうなるでしょう? 彼らも連行されるか? おそらくそうはならないでしょう。

「君が代」は厳かなメロディーではあっても、勇ましくはなく、攻撃的でもありません。聞いている中国人警官は、キョトンとして、「あの歌は何だ?」と尋ねるでしょう。

そして物知りの同僚が答えるでしょう。

「あれは日本の大相撲で千秋楽の日に歌う『オスモウの歌』だよ」


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【 LCCの人々 その1 】 [航空]

【 LCCの人々 その1 】

 

人の集まる場所には、いろいろなドラマがあります。アジア人初のノーベル文学賞受賞者であるインドのタゴールは、郵便局に集まる人々を描写した「郵便局」の評価が高いようです。そして駅の待合室やコンコースも人の集まる場所であり、ドラマがあります。こちらは文学だけでなく映画の舞台としても、非常に重要です。そして、大空港のターミナルビルも同様に人生のドラマに溢れています。

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http://www.yomiuri.co.jp/national/20180130-OYT1T50152.html

 

http://www.sankei.com/affairs/news/180130/afr1801300058-n1.html

同じターミナルビルでも、エリートビジネスマンが忙しく行き来するラウンジのあるターミナルビルではなく、外国の出稼ぎ労働者の帰国を家族が待つような庶民的なターミナルビルの方が面白いのです。

 

最近は格安航空LCCの利用者が多く、空港では、LCC専用のターミナルを作ったりしています。お金持ちの旅行客から「貧乏人と一緒にいるのは嫌だ・・」とクレームされたのかな?なんて考えてみます。私自身はもっぱらLCCを使っているので、思わずひがんでしまうのですかね。

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しかし、残念ながら、LCCの利用者が問題を起こすことが多いのも事実です。

最近目にした新聞記事を取り上げます。

 

1件目は、茨城空港に到着した中国人乗客が、偽造ビール券を大量に持ち込もうとして逮捕された・というものです。どこにもLCCとは書いてありませんが、茨城空港を発着する中国(上海)便と言えば、春秋航空ですから、これは立派な格安航空LCCです。

 

 

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もともと密輸をする際、大都市の警戒厳重な主要空港を選ばす、場末のローカル空港を使うのが鉄則で、その方が見つからないそうです。ロンドンならヒースロー空港やガトウィック空港ではなく、ルートン空港やスタンステッド空港というロンドンっ子もよく知らない空港が狙われます。

さしずめ、東京なら成田や羽田ではなく、茨城空港ということになるのでしょう。茨城県民としては、少し複雑です。

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そして、密輸したものが、偽造ビール券というのも情けない話です。成田や羽田なら、金塊、ダイヤモンド、覚せい剤・・が対象になるのに、茨城空港は偽造ビール券かぁ。

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しかし、そのビール券についての記載を見て、私は、思わず笑いました。

キリンビールではなく、キリソビールと書かれ、アサヒビールでなくアサビビールと書かれていたそうです。これは偽造犯が良心の呵責に堪えかね、わざと本物と少し変えたのかな?と思えばさに非ず。日本語を理解しない中国人が単純にカタカナをまねて、そして間違えたのです。

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中国に行けば、お店に並ぶのは日本製に似せたカムフラージュ商品ばかりです。特にスナック菓子などは、日本製・・・に似せていますが、どこか奇妙な日本語らしき印刷をした袋に入ったものが並びます。そこにコンプレックスというか、日本製へのあこがれがあるので、複雑な気がしますが、今回の偽ビール券はそうではありません。悪質な偽造です。それでも、ユーモアとペーソスを感じてしまうのは、小沢昭一の文を思い出すからです。

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昭和時代の俳優にして、大衆芸能や大道芸の研究家であった小沢昭一はこう語ります。

「昭和20年代、地方の芝居小屋に行くと、のぼりが立っています。そこには「エノケン来る」と書いてあります。TVの無かった時代、喜劇王エノケンが来るとなると、地元は大騒ぎです。夜の開演時間に観客が殺到すると、そこに現れたのは似ても似つかぬお笑い芸人エノケソだった」というのです。

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昭和の喜劇王エノケンこと榎本健一にあやかったエノケソなる喜劇人が実在したか否か、定かではありませんが、それには騙された観客も苦笑いで、誰も怒らなかったとか・・。

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偽ビール券を印刷して、日本で売ろうとした中国人も罪一等を減じてやりたい気がします。

しかし、もう一つの事件の方は、もっと深刻で考えさせられるものです。

 

それについては次号でご紹介します。


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