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【 白楽天と金沢文庫 その1 】 [中国]

 

【 白楽天と金沢文庫 その1 】

 

 

 

還暦を過ぎると、それまでの仕事を整理したりまとめたりする人がいます。私にはまとめるべき何ものもありませんが、研究者だった方は、個人名を冠した「××博士論文集」を作りますし、著述業の方は全集をまとめたりします。我が畏友Y教授も論文集をまとめ始めたようです。そろそろ引退するつもりなのかな? そういえば、どこの図書館の壁際の書架にも、豪華な装丁を施した××全集が並びます。全集には、作者自身が編集したものと、故人になったあとに他人が編集したものの2種類があります。

 

後者にはシェークスピア全集とか夏目漱石全集など、多くの作家の全集がありますが、作者存命の間に完成した全集もあります。

 

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作家の高橋和巳は、30代ですでに全集を作っています。そのあと、彼は胃癌で早世しますが、(河出書房によれば)自分の全集ができたことは彼にとって大きな喜びだったようです。死を予感したのか、それとも、単に30代という異例の若さで全集ができたことに達成感を感じたのか、どちらかは知りませんが。

 

では、存命の間に自分の全集を編んだ最初の文学者は誰か?と考えると、これは白楽天こと白居易ではないか?と私は考えます。彼が自らの作品をまとめた白氏文集は全75巻という大作ですが、それだけではありません。

 

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唐だけでなく平安時代の日本も含めて当時の教養人必読の書となったのです。ではベストセラーだったのか?といえば、そうではなく、印刷技術が無かった当時、手書きで書き写した数少ないコピーを奪い合って読んだものと考えます。

 

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遣唐使が日本に持ち帰った白氏文集のコピーは、まさしく値千金だったでしょう。ごく限られたコピーしかない状態で、白氏文集を読むことができたのは、特権階級あるいは貴族階級に限られたはずです。第一、当時文字を読み書きできたのは限られた人達だけでした。

 

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文字を読解し、貴重な白氏文集のコピーに触れることができ、かつその内容を理解したのは本当にごく一部のエリートだけだったはずです。そして、そのエリートたちの間では白氏文集を読んでいることは、ある種の必要条件でありステータスでした。

 

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そう考えると、清少納言の「枕草子」に登場する「香炉峰の雪いかならむ」という文章も、ペダンティックなエリート自慢の話のように聞こえてしまい、少しがっかりです。中宮定子が「香炉峰の雪いかならむ」と問うたのに対して、清少納言だけが御簾を上げて、白氏文集にひっかけたなぞなぞに答えたというのは、彼女の機知というより、知識のひけらかし、もっと言えば、白氏文集のコピーにアプローチできる特別の立場を自慢しているだけのことです。

 

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同様に、紫式部の源氏物語にも白氏文集が登場しますが、これも同じことです。清少納言と紫式部、二人のライバル意識が垣間見えます。

 

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貴重な文学・文献に触れ、それを読むことができるのは特権階級だけ・・という考え方は近年まで残っていました。1960年代~1970年代、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れましたが、高等教育あるいは教養とはブルジョアのみが独占するもので、それらは否定されなければならない・・ということでインテリは大変な迫害を受け、多くの文献が廃棄されました。中国ではこの2000年の間、繰り返して焚書坑儒が行われています。

 

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文化大革命のせいではありませんが、白氏文集関連の資料で、中国の原典は既に失われ、日本や韓国にそのコピーが存在する・・というものも幾つかあります。いつだったか、その話を中国人の友達としたら「すべての文化について言えるが、中央で失われたり変化した後も、辺縁地域にはオリジナルに近いものが残る」と笑っていました。確かにその通りでしょうが、日本を辺境のように言われて、少し引っ掛かったのを覚えています。

 

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ところで、12世紀の日本の教養人にとってバイブルだった白氏文集ですが、現代はどうでしょうか? オヒョウ自身について言えば、白楽天に関する知識は、恥ずかしい限りです。 長恨歌など、一部の作品は知名度も高く、私自身も読んだことがありますが、あくまでも断片的な知識です。教養のレベルには至りません。彼の作品全体を見渡した知見を持っている訳でもありません。 全75巻の白氏文集の内、私が知っているのは、ホンの数ページかも知れません。

 

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先日の弊ブログで、彼の「黒潭の龍」を取り上げましたが、それも、たまたま聞きかじった(あるいは読み齧った)知識を書き散らしただけです。 それでも自己弁護するなら、これはオヒョウだけではない・・という事が言えます。多分、中国でも同じではないか?と思います。

 

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私が中国で暮らした、江蘇省の南、長江下流の地域は、唐時代、多くの文人が暮らし、多くの詩を詠んだ地域です。この地で人気があり、人口に膾炙しているのは、杜甫、李白、杜牧などで、昆山賓館のロビーには、杜牧の「江南春」の詩が梅の画と一緒に掛けてありました。素晴らしい画です。 でも白楽天の詩はあまり見ません。

 

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人生の懊悩や別離の悲しみを訴えたり、風景の美しさを賛美した詩には、ファンが多いのですが、社会や政治に対する警句や批判を詩にしたり、あるいは男女間の愛情をしつこく表現する詩(長恨歌のこと)にはあまり人気がないようです。

 

詩の種類の問題なのか、詩人の問題なのか、私には分かりませんが。

 

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しかし、白楽天は軽視してよい詩人ではありません。白氏文集75巻(現存は71巻?)は一生をかけて研究する価値のある、巨大な存在です。例えば、仕事を定年で引退した後、白氏文集の勉強に没頭する・・という生き方も、ありかも知れません。12世紀の教養人が聞いたら「まさか九百年後に?」と驚くかも知れませんが。

 

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私自身の興味でいえば、彼の詩作だけでなく、仏教との関わり方も知りたいところです。 当時の唐の知識人は例外なく仏教と関わり、思索の礎に仏教思想を置いていたと聞きます。 杜甫の詩にも「仏教にすがるしかない・・」という詩があります。

 

そして晩唐の頃、新しい哲学として登場した禅宗とも彼らは関りがあったはずです。

 

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道林禅師と白楽天の「三歳児にも判る」という問答は有名ですが、白楽天が禅に帰依した後、彼の作風がどのように変化したか? 禅と漢詩の関係はどうなのか?

 

彼の代表作「長恨歌」には禅の趣は見られません。一方、「心静即身涼」という白楽天の一句は禅に根差したものだと聞きますが、他はどうなのか?気になるところです。

 

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おそらく、唐時代の詩人は禅の影響を受け、また禅も唐詩を取り込んだのでは?と思います。 同じ漢詩でも、宋時代に下ると、蘇東坡の「柳緑花紅真面目」を肯定すべきか、疑うべきか・・という問題が禅の入門者には悩みの種となり、両者の関係は微妙に変化します。

 

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話が脱線しましたが、私には白楽天全体を把握することは無理としても、白楽天と禅の関りを調べることは、我が余生でもできるかも知れない・・・。そう考えました。

 

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そこで文献を調べることにしましたが、日本での白氏文集の研究はやはり京都と首都圏が主体のようです。 最も貴重な資料は、金沢文庫に所蔵されていた白氏文集のコピー(いわゆる金沢文庫本)です。(但し、かつて北条氏がまとめて金沢文庫に収納したというだけで、現在はお金持ちのコレクターが入手してそれぞれの美術館に納めたりしてバラバラになりました)。

 

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それでも、とにかく金沢文庫に行けば、白氏文集に関する多くの資料を閲覧できそうです。

 

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「金沢文庫かぁ」 称名寺と金沢文庫は、私には懐かしく思い入れのある場所です。50年以上前にその町で暮らしていた頃、私は白氏文集も北条実時も知らない小学生でした。 「久しぶりに金沢文庫へ行ってみよう」

 

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私は晩夏の柔らかい陽光が窓から射す京浜急行に乗って、横浜へ向かいました。

 

 

 

以下 次号

 

 

 


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