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【 ノーベル賞枯渇論に駁す 】 [雑学]

【 ノーベル賞枯渇論に駁す 】

 

元の東北大学総長でミスター半導体とも呼ばれた西澤潤一博士が他界されました。オヒョウには電気工学や電子工学は専門外なので迂闊なことは言えませんが、西澤博士が考案したとされる光ファイバーの理屈はとても面白いと思った記憶があります。

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そして一時期、西澤博士は、日本人研究者ではノーベル賞に最も近い位置にいたとされます。

残念ながら、その機会はなく、東北大学でははるか後輩の田中耕一さんが化学賞を受賞するのを祝福し、今年は京都大学の本庶佑教授の生物医学賞受賞を見届ける形で亡くなった訳で、本人の胸中はどうだったかな?と、ふとそんな事を考えます。

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最近のノーベル賞は、下馬評を報道するマスコミのせいか、門外漢でも名前は聞いたことがある有名な先生が受賞することが多いようです。iPS細胞の山中伸弥教授やニボルマブ(オプジーボ)の本庶佑教授、青色発光ダイオードの中村修二氏などは、早くからノーベル賞候補として噂されていました。ソフトレーザーによる質量分析技術で受賞した田中耕一さんのようなダークホースは稀です。

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そして、今年の本庶教授の受賞にあたっても登場しましたが、毎年報道されるのは「日本のノーベル賞枯渇論」です。

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即ち、「最近の70代の受賞者は30代、40代の頃の研究が評価されて受賞するので、30年の時間差がある。30年前は、優秀な科学者がたくさんいたし、文科省の予算も潤沢で先進的な研究ができた。しかし今は駄目さ。子供達の理科系離れやゆとり教育で、理工系の学部の人気も質も大幅に低下した。科学者の数も質も低下した。文科省の科研費も削減される一方で、増え続けるのは博士の数ばかり。彼らはパーマネントポストを獲得するのにきゅうきゅうとして、ノーベル賞に値するような大研究をする余裕も能力も無い。だから、今がピークで、将来は日本からはノーベル賞は出ないね・・・」という悲観論です。

「昔は良かった。それに引き換え今は・・」というのはいわゆる下降史観です。

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それに続いて「だから文科省は基礎研究予算をもっと手厚くするべきだ」と続く場合もあります。

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日本の自然科学研究が沈滞傾向にあり、ダメになっていくのか?というと、私にはよく分かりません。しかし、斜に構えた下降史観にすなおに与することはできません。そもそも、自然科学全般(特に、ノーベル賞の対象となる物理、化学、医学、生物学)で、最先端の研究がどのように行われているのか、あるいはその中で、日本人研究者の存在感はどうなのか、といったことを、全て理解している学者や評論家はいないはずです。それにも関わらず、ノーベル賞級の研究が減った・・などと言うのは倨傲にすぎます。

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実は、「ノーベル賞枯渇論」は今に始まった話ではありません。私の記憶では、1981年に福井謙一博士がフロンティア電子理論で化学賞を受賞した頃からです。当時、日本にノーベル賞受賞者はまだ少なく、物理学賞が主でした。

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その時からノーベル賞枯渇論は存在したのですが、その主張とは、以下の通りです。

「かつての理論物理学では湯川秀樹博士や朝永振一郎博士のように、紙と鉛筆さえあれば研究できた。だから敗戦後の貧乏国だった日本でも世界に通用する研究ができ、ノーベル賞も受賞できた。しかし今はダメさ。大掛かりで高価な実験装置を駆使し、国家プロジェクトで研究を進める時代では、日本の研究者は太刀打ちできない。それに全共闘世代以降は、日本の研究者のレガシーも破壊され、日本の自然科学研究はもう終わりだね。福井先生が最後さ」

たしか、こんな意見を朝日新聞で読んだ記憶があります。

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しかし、実際はどうかといえば、全く違います。

福井謙一先生が受賞されたころには、山中伸弥教授は大学一年生ですし、田中耕一さんも大学生でした。福井先生の後に研究を開始した人達も、立派にノーベル賞学者になっています。日本人受賞者は増える一方です。当時の「ノーベル賞枯渇論」は的外れでした。

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理科系のノーベル賞について、全てを把握した訳ではありませんが、共通するのは、一種の偏執狂のように一つのことに拘る天才科学者が人生を掛けて成し遂げた研究だということです。そして紙と鉛筆だけで・・・というのは、半分は正しいのですが、半分は誤りです。物理学では理論と実験は表裏一体だと聞いています。

湯川秀樹博士が中間子の理論でノーベル賞を受賞したのと前後して、米国のアンダーソン博士と英国のセシル・パウエル博士が受賞しています。

湯川博士は中間子の存在を予測しましたが、アンダーソン博士とネダマイヤー博士は宇宙線の中から中間子を発見し、セシル・パウエル博士は、原子核の崩壊を観察して中間子を発見したのです。それら三位一体での受賞であり、やはり大掛かりな実験は必要でした。もっとも、湯川博士が予言した中間子と発見された中間子は別物だったのですが・・。

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最先端の高エネルギー物理学では、巨大で高価な実験設備が必要なのは事実ですが、そればかりではありません。小柴昌俊教授や梶田隆章教授らのカミオカンデやスーパーカミオカンデは、巨額な費用を要する加速器が望めない中で、巨大な水槽を利用してニュートリノを捕まえようとしたもので、設備は巨大ですが、大型加速器と比べて、それほど巨額とも言えません。

むしろ、高エネルギー加速器研究機構のTRISTANKEKBのプロジェクトでのノーベル賞受賞者が小林誠教授だけ・・というのは少し寂しいところです。

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物理の世界は、今でも、湯川秀樹、朝永振一郎、南部陽一郎、益川敏英といった紙と鉛筆で研究する人と。小柴昌俊、戸塚洋二、梶田隆章のように、実験で研究する人が車の両輪のように存在し、ノーベル賞は両方に授与されています。

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冒頭で西沢潤一教授の例を挙げましたが、ノーベル賞は、その背後に母集団とも言うべき沢山のノーベル賞級の研究があり、その中で特に優れたもの、あるいは特に幸運だったものが受賞の名誉を受けます。日本の場合、門外漢のオヒョウが知るだけでノーベル賞級の研究は日本に沢山あり、その母集団がなくならない限り、日本からの受賞者が途絶えることはないと思います。

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いずれにしても、日本のノーベル賞枯渇論は根拠が薄弱であり、心配の必要はないと思います。

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話は変わりますが、自分が研究者でなくても、ノーベル賞受賞の話は嬉しいものです。同じ郷里の出身者だったり、母校が同じだったりすれば、とても誇らしく思えたりします。しかし、日本人の受賞者を数えて外国と比較したり、日本の科学技術のレベルを評価するのに、受賞の数を議論するのはナンセンスでしょう。

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科学技術のグローバル化は進んでおり、日本一国だけの研究と言えない場合が多いからです。実は例外はあるものの、自然科学の分野でノーベル賞を受賞した日本人研究者の多くはなんらかの形で、英語圏で研究し、評価されています。国籍が既に日本人でない人もいます。日本の・・・、或いは日本人の・・とこだわる必要はあまりないのです。

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これからはむしろ日本で研究した外国人留学生や研究者の受賞を喜ぶべき時代かも知れません。例えば、つくばの高エネルギー加速器研究機構に留学した英国人研究者が受賞したとか、京都大学で研究した中国人留学生がノーベル賞を受賞した・・ということを喜ぶべきかも知れません。しかし、実際には、そんな例はまだ無いのです。

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ところで、西澤潤一教授には、西澤泰二教授という弟がおられ、東北大学の金属学の先生でした。合金の状態図を理論的に説明する研究の第一人者です。かなり強い東北弁訛りの話し方が特徴で、西澤潤一教授とは、少しイメージが違います。

兄弟なのに、どうして違うのか? 少し気になるのですが、兄弟のタイプの違いを研究してもノーベル賞にはならないでしょうね。

 

イグノーベル賞にはなるかも知れませんが。


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