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【 何のためにスポーツをするか? その1 】 [雑学]

【 何のためにスポーツをするか? その1 】

 

世のスポーツ選手がスポーツをする理由は様々です。プロ選手はお金を貰って生活するためですし、アマチュアの中には、健康維持を目的にする人もいます。気分転換やストレス解消を目的にプレーする人もいます。仕事を引退した後の生き甲斐だと言う人もいますし、友達や仲間を作るための手段とする人もいます。

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青少年の場合は、心身を鍛えることが最大の目的とされます。特に学校でのスポーツは、体育とは言いますが、体だけでなく、精神の鍛錬、人格の陶冶が大きな目的とされます。

そして、一部の中学校や高校では、部活に参加することが半ば強制され、学校によっては、しばしば知育・徳育よりも体育が優先されます。

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人は、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と言い、体を鍛えることで優れた人格が得られると語ります。しかしこれは多分、嘘でしょう。現実には、身体は極めて丈夫で健康的なのに、精神は至って不健康という人物が多くいます。本音を言えば、「健全なる精神が健全なる肉体に宿って欲しい」という一種の願望ではないか?と私は思います。

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実際には、この青少年のスポーツには、多くの問題があります。コーチや監督を頂点とする絶対服従の理不尽な上下関係、シゴキというか、ひたすら身体をいじめることで成長するという非科学的で怪しげな精神論。そしてフェアプレーの精神を逸脱した勝利至上主義の横行・・・。もし、青少年に道徳を説くだけの資質も覚悟も無い大人が、指導者になり、いたずらに勝利至上主義に走ると、どうなるか?

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先日、たまたま、日大のアメリカンフットボール部の悪質な反則の場面がインターネットに流れ、日大全体を揺るがす大問題に発展しました。余談ですが、旧来のマスコミは「インターネットの情報など、所詮、便所の落書き」と言っていましたが、この事件が全国ニュースになったのはインターネットの動画のお陰です。

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ここで問題となったのは、日大の監督が、犯罪とも言うべき暴力行為を選手に命じたことや、選手起用を決定する監督に対し、選手は何も言えない弱い立場であること、それを利用して理不尽な圧力を選手にかけていたこと・・・・などですが、程度こそ異なるものの、類似した例は各種の学生スポーツに見られます。

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監督は常に絶対的な権限を持ち、選手は自ら考えて判断することを許されず、盲目的に監督コーチの指示に従わざるを得ない・・という状況が、しばしば問題を惹起します。

以前、ラグビー選手をラガーと呼ぶべきか、ラガーメンと呼ぶべきかを弊ブログに書きましたが、自ら考えて判断し能動的に動く選手はラガーであり、何も考えずコーチの指示に従うだけの将棋の駒のような選手はラガーメンでしょう。ちなみに将棋の駒を英語ではChessmenと呼びます。日本の団体スポーツは、将棋の駒だらけです。

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今、甲子園で熱戦が繰り広げられている高校野球もそうです。

チームによっては、打者は一球ごとに不安そうにベンチの方を振り向き、監督のサインや表情を伺います。自分自身で考えて、エンドランでもバントでも、好球必打でも良いから判断すればいいのに、自分では決められないようです。もし日大の内田何某のような監督がいて、投手にビーンボールを投げろ、あるいはスパイクを野手に向けて滑り込めと走者に指示したら、彼らは唯々諾々と従うのでしょうか?

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犯罪でなくても、スポーツマンシップに反する行為を、監督の命で行うこともあります。

今、高校のバレーボールの試合では、相手のミスの場合でも、得点したら喜び囃し立てる風景が当たり前です。ある時、相手のミスを喜ぶとは、スポーツマンシップにもとるではないか?とある人(名野球選手だった豊田泰光)が質問したら、選手は「コーチから相手のミスでも喜べと指示された」と回答したとのこと。選手には、潔さとかスポーツマンシップを考える余裕や智慧はなく、コーチの発言が全てなのです。

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その問題が最も端的に表れたのは、1992年の夏の甲子園、2回戦の金沢星稜高校と明徳義塾高校の試合です。有名なエピソードですから皆さんご存知でしょうが、この試合で星稜高校の松井秀喜選手は5打席とも敬遠され、星稜高校は敗退しました。大会開始の際の選手宣誓では、スポーツマンシップに則り正々堂々と戦う事を誓ったはずですが、明徳は少し違いました。この事件は、25年以上経った今も語り継がれ、新聞にも登場します。

https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/special/CO033691/20180806-OYT8T50036.html?from=ytop_os1

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5打席全ての敬遠は、明徳の馬淵史郎監督の指示であり、バッテリーの判断ではありません。馬淵監督は、日本中の観客の前で、自チームの投手は実力が足りないから松井を倒せないと宣言した訳で、無能と宣告された投手は屈辱的な敬遠の指示を忠実に実行しました。しかし、一応、故意四球をカムフラージュするために捕手を座らせたままの敬遠という姑息な方法を取りました。

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今年の百回大会の始球式に登場した松井秀喜は、5打席敬遠の話を昔のエピソードとして笑顔で朗らかに語ります。星稜の山下監督との師弟関係は今も続き、松井は生涯の師として尊敬しています。

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一方、この試合で精神的にボロボロになった明徳義塾は、次の試合で惨敗して甲子園をさりました。敬遠策のお陰で、甲子園で1試合分だけ勝ち残ることはできましたが、全体としては惨めな思い出だけが残ったはずです。5打席敬遠のボールを投げた河野投手のその後は杳として分かりません。

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試合後、馬淵監督は「選手に責任は無い、責任は全部俺が取る」と言いましたが、彼は責任を全く取りませんでした。ひとつのポーズとして学校にいったん辞表をだしましたが、すぐに撤回し、アマ野球界で順調に出世を重ね、拓大の監督から拓大の理事になっています。どうでもいいけど、私大の理事というのは不思議な存在です。学問の府であるのに、スポーツ畑出身で、知性も教養も品格も感じさせない御仁が幅を利かせて威張っています。あるいは某医科大学のように、寄付金欲しさに入学試験を歪める金の亡者もいます。

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また、馬淵監督は、「敬遠はルールに認められた正当な作戦であり、何ら恥じることはない。敬遠しなければ負けたはずで、それでは相手が喜ぶだけだ。一方、星稜は一人だけプロ選手が混じっていた」と語り、作戦の正当性を主張し、むしろ星稜側に非があるような口調で語りました。

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脱線するけれど、明徳義塾と名乗るからには、生徒に義を説く学校ではないのかい?それがスポーツマンシップを軽んじる発言をしてどうする?

世の中に、「何とか義塾」と言う名前の私学は多いけれど、義とは何か?を語らない学校なら、それは義塾ではない。単に慶応義塾の名前を真似ただけの学校だと思います。

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私は、監督の命のもとに敬遠せざるをえず、深く傷ついた明徳の投手に今も同情します。

すると、必ず奇妙な反論がでます。

「敬遠はルールに認められた正当な作戦。それを行って何が悪い?禁止されていないのなら、何ら恥じることはないし、非難されるいわれはない。むしろルールで禁止されない方法を上手に利用するのは巧妙だし馬淵監督の発言は正しい」

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この点については、次号で管見を申し上げます。


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夏炉冬扇

残暑お見舞い申し上げます
強さは求めず、マイペースがへ一番。
by 夏炉冬扇 (2018-08-12 08:32) 

笑うオヒョウ

夏炉冬扇様 コメントありがとうございます。
返信が遅くなり、申し訳ありません。わたくしにとってスポーツはゆっくり楽しむものでして、今更、誰かと競争して勝つことを目的にしたスポーツは気が進みません。でも一所懸命戦う若いスポーツマンを見ると、応援します。ちょっと矛盾するようですが、それでいいのではないか と思っております。

またのコメントをお待ちします。
by 笑うオヒョウ (2018-08-14 10:08) 

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