【 軽巡洋艦 那珂の語り部 】 [茨城県]
【 軽巡洋艦 那珂の語り部 】
30年ほど前、まだ母が元気だった頃です。母を案内して大洗の磯前神社を訪れたことがあります。松林の中のちょっとした坂を上ったところに、巡洋艦「那珂」の記念碑がありました。恥ずかしながら、この艦について、何も知らず、ぼんやりと碑文を眺めていたところ、近くで清掃をしていた年配の男性が、すうっと近づいてきました。年齢は私の母と同じくらいです。そして彼は私に話しかけるでもなく、母に語りかけるでもなく、独り言のように、静かに話し始めました。
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「巡洋艦『那珂』は昭和19年にトラック島泊地の近くで、米軍の空襲を受けて沈没したのです。200人以上の多くの戦友がその時に亡くなりました。私は『那珂』乗り組みの水兵で、ずっと乗艦していたのですが、ちょうどその少し前に熱病に罹り、トラック島泊地から病院船「氷川丸」に乗って、内地に帰されたのです。 仲間と手を振って別れたのが最後になりました。私だけ無事だったのです。戦友のことを思い、退職したあと、こうして墓守の真似事をしています。」 そう語り、巡洋艦「那珂」とそれに乗っていた人たちについて少し説明し、それが終わると、箒を手に、またすうっと去っていきました。
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母は「多分、あの人は、この石碑を訪れる多くの人に『那珂』の最後を伝えることが、自分の役目だと思い、そしてそれがあの人の生き甲斐なのかも知れない」と話します。
私は「すると赤穂浪士で生き残り、泉岳寺の墓守を続けた寺坂吉右衛門みたいなものかな?」と問いましたが、母は答えません。
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前述の通り、私は地味な軍艦であった「那珂」のことをそれまで知りませんでした。「病院船『氷川丸』のことなら、横浜港に繋留されているし、よく知っているのだけれど・・・」。実はその時、うかつにも錯覚しました。「那珂」が重巡洋艦だと思ったのです。
その30年後に、Tさんにその誤りを正された訳ですが・・・。
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その後、年月が過ぎ、時代はアニメブームです。「艦コレ」こと艦隊コレクションが話題になり、その「聖地巡礼」で、多くの若者が大洗の磯前神社を訪問しています。 結構なことですが、戦争の悲惨さに目を向けず、多くの犠牲者に対する厳粛な思いも持たず、朗らかなアニメに旧海軍を利用することの是非はどうなのか?
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これについて多くの人が語っています。賛否両論ありますが、実はかなり昔に一つの見解がでています。
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アニメ「宇宙戦艦ヤマト」が作られた時、生き残った大和の乗組員達は、荒唐無稽なアニメ映画に戦艦大和が使われることをどう思うだろうか?という問いに対して、生還した乗組員で、名著「戦艦大和ノ最後」を著した吉田満が答えています。彼は「新潮45」だったか「諸君!」への寄稿で、「忘れ去られていく『戦艦大和』が若い人に知られ、記憶されるのはいいことだ」と賛成の意を表しています。その流れで考えれば、「艦コレ」も肯定すべきでしょう。
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アニメの『聖地巡礼』を、若い世代の一つの社会現象としてとらえ、研究している研究者がいます。我が畏友Y教授です。彼の専門はもともと山岳宗教や修験道だったはずですが、いつの間にか、サブカルの世界まで間口を広げていたのです。
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彼は今月のドイツのミュンヘン大学での学会で、日本のアニメの「聖地巡礼」を一つの社会現象として発表する予定です。 そのハンドアウトの文を送って貰いました。
下記のURLです。
http://www2.komatsu-c.ac.jp/~yositani/2016%20Pilgrims%20in%20German.pdf
一読して、日本社会でのサブカルの実態が的確に分かりやすく説明されているのに感心します。 もはや、アニメ文化については、Animation Movieではなく、日本のアニメ(ANIME)が英語でも通用するようです。(ドイツ語ではどうか分かりませんが)。
一方、一抹の不安もあります。
「日本でミリタリーものを舞台にしたアニメが流行るということを、欧州の人、特にドイツ人はどう思うだろうか?」
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忠魂碑や忠霊塔が改めて注目されていることや、評判のアニメ映画である、戦車学校が舞台の「ガールズ&パンツァー 略してガルパン=これも大洗が舞台」や、艦コレには思想的な背景は全くありませんが、政治好きなドイツ人にはどう映るでしょうか? 彼らは、日本の若い世代に右翼的思想や好戦的な軍国主義が台頭しつつある・・と錯覚するかも知れません。 論文の中でも解説されていますし、Y教授だからその点の説明に手抜かりは無いと思いますが・・。
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話は戻りますが、戦争の災禍を語り継ぐ必要性を痛感している人は多くいます。
特に広島にいると分かるのですが、原爆の悲惨さを自ら体験した語り部は、減りつつあり、その後の世代がバトンを引き継いでいます。広島、長崎の原爆だけでなく、東京大空襲でもそうです。外国では、ドイツのデュッセルドルフのアルトシュタットが空襲で破壊された時の事を語る語り部がいました。
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でも沈没した軍艦の乗組員の語り部はあまりいません。 戦争の悲惨さを語る資格はどちらにもあると思うのですが、何が違うのでしょうか? 空襲による市井の非戦闘員の被害者と、戦闘の行為者として加害者の側面もある軍艦の乗組員では違うという声もあるでしょうが、私はそうは思いません。
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戦争を始める決定に参加した一部の為政者を除き、戦争に関わった全ての人々は等しく犠牲者であり、その被害と悲惨さを語る資格と義務があると私は思うのです。
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原爆や空襲の被害者と違い、軍艦の乗組員の語り部の場合、バトンを引き継ぐ人はおらず、やがて消え去り、忘れ去られる運命です。 母と訪れた20年後に大洗の磯前神社に行った時、すでにくだんの老人の姿はありませんでした。
話を聞いた母も、既にこの世におりません。
そして勿論、巡洋艦「那珂」もありません。「那珂」は朽ちながら、南溟に沈んでいます。
やがて忘れられるでしょう。 それはそれでいいのかも知れません。
水底に、艦(ふね)は朽ちつつ 眠りおり
「軽巡洋艦那珂」について、コメントさせて頂きます。旧海軍でも海自でも、艦艇内に「艦内神社」が
置かれていることが多いそうです。軽巡洋艦那珂については、那珂川にちなんで命名されたことから
大洗磯前神社が那珂の艦内神社に分祠されていた
ようです。~蛇足ですが。
by 李陵 (2016-11-01 21:29)
過分な評価、痛み入ります。オンライン上では大洗磯前神社に掛けられている那珂の絵馬に対して、ご遺族が激怒している、と言う言説が複数見られます。これは、多分デマです〜 那珂の慰霊祭にはご遺族がお一人だけ参加されていましたが(去年です)、他のファンの人達とどうこう、ということはありませんでしたし。もう1点。ミュンヘンでのプレゼン後の質疑応答でも触れましたが、この慰霊碑(忠魂碑)の発願は、生き残った艦長によるらしいです。撃沈されて200人以上戦死されているのに、艦長が生き残るとは…orz.
by Y教授 (2016-11-02 18:47)
Y教授様
コメントありがとうございます。そして学会での成功おめでとうございます。 ところで、我々の年齢になると、時差ぼけが時間差をおいて現れます。 1週間の欧州出張のあとは、1週間ほど悩まされると思いますので、覚悟のほどを。
那珂で生き残った艦長については・・・、別稿で触れたいと思います。
またのコメントをお待ちします。
by 笑うオヒョウ (2016-11-03 07:27)