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【 To be or not to be 】 [イギリス]

【 To be or not to be

 

世界最古の長編小説である源氏物語は、多くの文学者・作家によって現代語に翻訳され、それぞれに与謝野源氏、円地源氏などと呼ばれています。私の学生時代は、円地文子の源氏物語が最も新しかったのですが、最近は瀬戸内寂聴さんの瀬戸内源氏が流行っているみたいですね。 谷崎、与謝野、円地、瀬戸内らの翻訳は、それぞれに、なるべく原文の雰囲気を損なわずに現代語に近づけ、より多くの人々に理解してもらおうという工夫がほどこされたものです。

だから、翻訳の文章に極端な違いは無いとされています。

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一方、外国文学を翻訳する場合は違います。同じ原作に対し、何人もの文学者が翻訳を行いますが、それぞれの内容に大きな違いがあります。

その代表がシェークスピアです。

シェークスピアの場合、原文が現代英語とは少し違うルネサンス期の英語(初期近代英語)であることに加え、抽象と捨象と比喩と警句に溢れているので、その解釈の違いによって日本語訳が違ってきて当然なのです。

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私は母から、シェークスピアの翻訳は坪内逍遥に限る・・と言われてきました。

それは母が初めて読んだシェークスピアが、明治時代の坪内逍遥訳だったからで、

母曰く、坪内訳の古風なせりふの言い回しが、16世紀から17世紀の英国(シェークスピア作品の舞台は必ずしも英国ではありませんが)にぴったりだから・・とのことでした。シェークスピアには現代語訳は似合わない・・ということです。

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果たしてそうなのか? シェークスピアの作品で最も有名なせりふである、「ハムレット」の ‘to be or not to be ’で比べてみましょう。

このせりふを、翻訳者別に並べて比べてみます。

 

世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ。(坪内逍遥:明治42
生きるか、死ぬるか、そこが問題なのだ。(市河三喜/松浦嘉一:1949、岩波)
長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ。(本多顕彰:1951、角川)
在るか、それとも在らぬか、それが問題だ。(大山俊一:1966、旺文社)
生か、死か、それが疑問だ。(福田恒存:1967、新潮社)
このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。(小田島雄志:1983、白水社)

ちなみに、これは自分で調べたのではなく、林田甫様の下記の出典に拠っています。
http://mohsho.image.coocan.jp/Hamlet.html

言い回しの古さという観点から比較すれば、「世に在る、世に在らぬ・・」という現代語的な表現の坪内逍遥訳よりも、「長らうべきか、死すべきか」という戦後の本多顕彰訳の方がいくらか古めかしく感じます。

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しかし、本当の問題は、せりふが古いか新しいかではありません。‘to be or not to be’の本質的な意味をどう考えるかです。

翻訳者の解釈は大別すると、2種類に分かれます。

1.     ハムレット自身が自殺すべきか否かで悩んでいることを示す。

2.     理不尽で悲劇に満ちているこの世の中の存在を許すべきか否かで悩んでいる。

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文章の前後のつながりから考えて、この時点で、ハムレットは既に自分が死ぬことを考えていることは明らかです。だから、1の解釈でも、問題なく文脈はつながります。

でも何かおかしい・・。 今後、自分が世に在るべきか否かを考えた場合、自殺は積極的で能動的な行為であり、生きながらえることは消極的で受動的な行為です。

だから、自殺を考えた場合、’to be or not to be’ではなく’to die or not to die’とするのが普通です。 では400年前の戯作者はなぜ’to be or not to be’としたのか?

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世の中の悪い部分があまりに明らかになり、その存在を否定したくなった時、自分ひとりが死んで逃げるというのは、ある意味で消極的な逃げる行為です。

(前言とやや矛盾しますが)。ハムレットは自分自身だけでなく、この醜い世の中を消滅させたかったのではないか? 無論、その場合彼自身も死ぬのですから、1.の自死の意味を包含するのは当たり前ですが・・・。

ハムレットは、世の中を、この悲劇の存在を肯定すべきか否定すべきか・・という問題で悩んだのです。自分が死ぬべきか否かという小さな問題ではなく、より大きな問題をハムレットは抱えていたことになります。その意を汲んだ翻訳としては小田島雄志の「このままでいいのか、いけないのか・・・」という翻訳が一番しっくりきます。

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2種類に分けて考えると、坪内、市河、本多、福田の訳よりも、大山、小田島の訳の方が適切ということになります。果たして、大文学者のそれぞれの翻訳に私オヒョウ如きが勝手にケチをつけていいものか・・ちょっと悩みますが。

ちなみに脱線しますが、個人的に会ったことがあるのは、上記の諸氏の中で福田恒存氏だけですが、正直なところ、あまり彼のことを記憶していません。

小田島雄志氏の訳は、最初に聞いた時は、あまりに現代語過ぎて違和感があったのですが、よく考えると、原文に一番忠実な訳にも思えます。

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高校時代の恩師、松田先生は悲劇とは何か・・という定義について語られましたが、それに照らし合わせると、ハムレットは全ての意味で悲劇であり、シェークスピア悲劇の代表です。

美しい婚約者もいる王子は、本来喜劇の主人公たるべきですが、実際のハムレットは世の中を悲しみの目で眺め、自分も世の中も消し去ろうとします。劇中で、最後に生き残るのは友人ホレーショだけです。

そして観客全員に、これは悲劇だと、最初に理解せしめるのが、このせりふ‘to be or not to be’です。

シェークスピアは悲劇と喜劇の両方を書き、そのどちらでもない作品は書きませんでした。 しかし、それで十分です。

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もし私に、本当に英語の素養があり、中世の英国の文化についての知識・理解があれば、シェークスピアを原文で読破し、自分自身の訳というものを書きたいと思います。でもそれは私の力量では全く無理なことです。 それなのに、先達の日本語訳についてあれこれ、コメントするなど、全くみっともない限りなのですが・・・。

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小田島雄志の後にも、シェークスピアの翻訳者は現れるか? 20世紀の時代、源氏物語もハムレットも、ほぼ20年に一人の割合で、翻訳者が現れました。しかし、21世紀になってからは、源氏物語もシェークスピアも新しい翻訳者は出現していません。

文学者としてそれなりの権威がなければ、翻訳がゆるされないのか?あるいは先達達の優れた翻訳に圧倒され、自分自身の解釈を世に問う勇気が無いのか?それとも、もはや源氏物語もシェークスピアも流行おくれなのか? 翻訳そのものが時代遅れなのか? そこのところがわかりません。 That is the question.

逍遙なら、「それが疑問ぢゃ」と言うところです。


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