【 店の名前 その2 】 [新潟県]
【 店の名前 その2 】
人間・山本五十六という本を読んでいると、記述内容が極めて精確な部分とかなり大雑把な部分が登場します。
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大雑把な部分の代表は、五十六自身が大東亜戦争開戦前に「1年半くらいは暴れてみますが、それ以降は責任が持てません」と語った内容です。 何時、彼が誰に対して発言したものか・・が、ややあいまいです。
同書によれば、近衛公の手記の引用として「昭和15年、荻外荘で近衛首相と山本五十六が面会した際、初め半年や一年の間の間はずいぶん暴れてご覧に入れる。然しながら二年三年となれば全く確信は持てぬ」となっています。
同時に、山本大将の参謀長だった福留氏の証言として「昭和十六年一月に、再び近衛公に会い、持続が一カ年半と説明した」と、なっていますが、歴史の証言とするには、正確さが今ひとつ欠けます。
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一体、山本五十六はどう発言したのか?というオヒョウの疑問に対する回答にはなっていません。
一方で、非常に精確に記載されている箇所もあります。彼が、星ヶ岡茶寮で安岡正篤らと会食した話などは出席者や日時が正確に書かれています。さらに詳しい記載もあります。五十六や、彼の親族が長岡から上京した際に利用した旅籠と宿賃までが記載されています。
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鉄道の上越線が無かった明治時代、彼らは徒歩で直江津まで来て、「いかや」という宿屋に泊り、翌朝、信越線の列車で長野・高崎経由で上野に向かっています。 宿賃は1泊25銭なり。明治33年当時の「いかや」の宿賃が正確に記載されています。
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「いかや」というのは、オヒョウが直江津の地で最初に泊まった宿屋ですが、そんなに古くからあるとは知りませんでした。 今は「センチュリー・イカヤ」とかいう、洒落た名前になっていますが・・・。
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私の為に「いかや」の予約を手配してくれた先輩に「『いかや』とは面白い名前ですね」と話すと、「ひょっとしたら、昔は魚屋だったのが、鉄道開通に合わせて宿屋を開業してそれが本業になったのも知れないね。商売は変わっても、屋号は残したということかも。 でも、お店の名前が面白い・・という点では君の家がある鹿島はもっとすごいじゃないか 」
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そう、茨城県鹿嶋市には変な名前のお店がたくさんあるのです。直江津のうわてを行きます。学校を出て、その街に暮らし始めたオヒョウはちょっと面食らったのを覚えています。
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げたやというのは 実は天ぷら屋、
イシヤというのは、石材店の近くにあるけれど、実は写真屋、
あまさけ屋というのは、実は家具屋、
鍛冶屋というのは、製鉄所の事かと思えば、さにあらず,せんべい屋の事なり・・・。
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後年、シカゴから鹿島に転勤になった同僚夫婦に、オヒョウが鹿島の街を面白おかしく紹介した際にも、この店の名前の食い違いというか、商売との不一致を紹介しました。 まるで間違った組み合わせのフリップフロップみたいな名前と屋号の不一致に彼らも驚いたのですが、この現象は歴史の浅い街では、あまり見かけません。歴史のある、鹿島と直江津の数少ない共通点かも知れません。
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話が著しく脱線しましたが、次号では再び、山本五十六の人物像について管見を述べます。
コメント2件。有難う御座います。
とても大切に読ませて頂きました。
引き続き、山本五十六の記事、楽しみにしています。
by 広島ピアノ (2010-06-24 09:26)