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【 東条英機論 その2 】 [雑学]

【 東条英機論 その2 】 

「帽子は軽くてパーがいい」と言ったのは、海部俊樹内閣時代の小沢一郎です。実際、日本の首相には、自らが指導力を発揮する大統領型の首相と、自らの意志を鮮明にせず調整型に終始する首相、さらにはお飾りみたいな首相がいます。東条英機は、最初は明らかに調整型、またはお飾り型の首相でした。 そして彼を利用しようとしたのは昭和天皇です。

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東条英機が首相に就いた昭和16年は、もはや日米開戦は避けられない状況にあり、東條が自らの意志で戦争を始めたというのは間違いです。戦後、開戦の責任を東條一人に押し付けて、他は知らぬ顔・・という風潮があったそうですが、ありそうな事です。今の時代のどの組織でも、責任を一人に押し付けて、他の人が逃げる・・という事はよくあります。

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開戦やむなしの雰囲気の中で、戦争回避派の昭和天皇は、自身への忠誠心旺盛な東條を利用して、自分の開戦阻止の意志を国政に反映させようとしたのです。東條自身は三国同盟に賛成し、ヒトラーの慫慂もあって開戦賛成派だったのですが、開戦を前提とした「帝国国策遂行要領」を昭和天皇に拒否され 「ダメだダメだ、一からやり直しだ」と大声で陸軍省で話したという逸話が残っています。

しかし、一度は拒否された国策遂行要領ですが、結局日米は開戦しました。

昭和天皇は薫陶を受けた英国のジョージ5世からの教えに基づいて、「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を貫いて、それ以上は国政に介入しなかったのです。

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戦争中の東條も無能でした。全てのリーダーについて言える事ですが、将来のビジョンやプランを部下に示して、同じ方向に向かせる事が使命なのに、明確な方針を示せないトップは徒に人事をいじります。人事は、自らの権威を示すのに好都合ですし、やり方によっては恐怖政治を敷き、取り巻きで周囲を固める事もできます。東條英機はまさにその方法で、権力を自分に集中させました。

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どの人物を登用し、どの人物を遠ざけたかで、そのリーダーの器が分かる事があります。東條がかわいがったのは、例えばインパール作戦で悪名高い牟田口廉也、一方、極端に嫌い死地に追いやったのは硫黄島の激戦で名将の誉れ高い栗林忠道・・となれば、東條のレベルが分かります。

概して、彼は親英米派を嫌い、親独派を重用しました。当たり前ではありますが。

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それに加え、東條は、まさに大本営発表というべき、楽観的過ぎる見通しを、何度も昭和天皇に奏上し、判断を誤らせています。

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戦後、昭和天皇は、「東條にだまされた」と漏らされた事があります。それは、自分の意向を受けて、開戦を避けてくれると期待したのに裏切られた・・・というのか、開戦後の戦況報告とその後の見通しについての説明が適切でなかった事をさすのか、今となっては分かりません。

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東條を陸軍大臣や首相にしたのは、昭和天皇や木戸内大臣の責任です。今の時代も無能で悪辣な指導者を戴いたために塗炭の苦しみを味わっている人は世界中にいます。まさに「殷鑑遠からず」です。

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ところで、東條英機が本当に国民を失望させたのは敗戦後だと、オヒョウは思います。そしてその厄災は今も続いています。その話は次号で。


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コメント 1

笑うオヒョウ

失礼しました。東條英機が首相に就いたのを間違って昭和18年と記しました。 ただいま昭和16年に訂正しました。 昭和18年は、彼が中野正剛を殺した年でした。失礼しました。

by 笑うオヒョウ (2009-12-10 17:29) 

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