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【 ブレードランナーと大胆な仮説 】 [映画]

【 ブレードランナーと大胆な仮説 】 

ときどき不思議に思うのですが、好きな音楽はレコードが擦り切れるまで聴く事があります(古い表現ですね、CDMP3は擦り切れません)。

でも映画の方は、同じ作品を何度も見る事は希です。だからCDは購入し、DVDやビデオは借りるのが普通なのかも知れません。

(1回だけしか見ないなら、買うのは勿体ないですから)。 

ではその違いの理由は何か?

1.ストーリー展開の期待  

同じ推理小説を何度も読む人は希です。映画にしても結末を知ってからでは、そのサスペンスに限界があります。でも歌舞伎や浄瑠璃、落語に講談などは、結末は百も承知なのに、何度も見たり、聞いたりします。生での公演だと、その都度、内容が微妙に変化し、新たな発見があるからでしょうか?

でも落語のCDなどは・・内容は毎回同じですがオヒョウは何度も聞きます。 私だけが異常なのでしょうか?

 2.情報量と記憶量の差  

耳から入る音声だけだと、情報量が少なく、印象も希薄ですが、映像と音声が一緒に入る映画の場合、情報量が圧倒的でより記憶に残る・・・という事があります。だから、映像の記憶は鮮明で情報量も多く、同じものを何度も鑑賞できないのではないか・・?と思います。

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しかし、映画にも、何回も見たい作品は存在します。

私の場合は、小津安二郎の一部の作品、黒澤明の一部の作品がそれです。 

洋画にもいくつかあります。中には、英会話の学習用に何度も英語の字幕を追いかけたものもありますが、これは本来の映画鑑賞から逸脱しているので除きます。 

古い映画を何度でも見られるのは、レンタルビデオ店のお陰ですが、古い作品はDVDの価格も下がってきているので、購入してもそれほど負担ではありません。・・・・・・何回も見た作品、あるいは何回も見たい作品には、SFもあります。

SF映画の金字塔と言われる作品の「2001年宇宙の旅」、「ブレードランナー」などは、何度も見てしまいます。

・・・・・・

先日、書店で「ブレードランナー」に関する書物を探すと、「 メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット 」と「 『ブレードランナー』論序説 」の2冊がありました。

 メイキング・・・の方は、映画の人気作品によくある、撮影の裏話をまとめたものですが、著者のポール・M・サモンは有名な映画評論家で、この本にはリドリー・スコット監督や出演者へのインタビューも多く記載され、単なる裏話に留まっていません。

 「序論」の方は、現代日本を代表する映画評論家の加藤幹郎(だそうです)が書いたもので、それぞれのカットについて、緻密な考察と推理がなされ、こちらも読み応えがあります。

しかし彼の場合、自分の理論というより、既存の映画理論を展開して、それに当て嵌めて「ブレードランナー」を解説しています。特に彼の映画論は蓮實重彦の影響を強く受けている様に思えます。

そして、言い回しというか、表現がところどころ奇異に感じられます。 同じ京都大学でポストモダンの研究者である浅田彰の文体にかなり近いのです。 これはオヒョウには苦手な文章です。

 そして、もっとも抵抗を感じるのは、彼の「大胆な仮説」です。

かつて、オヒョウの恩師が言われた言葉ですが、「 世の中の研究者を二種類に分けるとしたら『大胆な仮説』を好む  人と、好まない人に分けられる。 そして僕は大胆な仮説』というのが嫌いだ・・・」

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加藤氏の「序説」では、主人公のデッカードが、実は彼が追う相手と同じレプリカント(アンドロイド)だと推理しています。これはまさしく『大胆な仮説』です。

「ブレードランナー」の解説書は山ほどありますが、多分彼以外の映画評論家はこんな事は言っていないでしょう。

彼のもう一つの仮説「主人公は、デッカードではなく、レプリカントのロイの方だ・・」という考えは、ある程度、頷けます。

映画の流れから見れば、ハリソンフォードが演じるデッカード刑事の出番が一番多く、主人公に違いありませんが、刑事はこの悲劇の傍観者でしかありません。

確かに、中心に存在するのはレプリカントのリーダーであるロイの方でしょう。

 しかし、実は刑事物の映画ではしばしば、刑事はストーリーの傍観者である事があります。 しかし誰も、だから主役の刑事は主人公ではない・・とは言いません。 

映画評論界で、既に権威になっている加藤氏が今更「奇をてらう」必要はありません。 なぜ、彼がこの序論を書いたのか・・・判りません。

・・・・・・

ところで、大学人である加藤氏は、映画界では内部の人間ではありません。 彼が一つの作品について、これだけ緻密な研究を行う為には、何度も何度もこの映画を観る必要があったはずですが、それはどうして可能だったのでしょうか? 多分答えはDVDの購入でしょう。

1982年にこの映画は公開され、加藤氏のこの本は2004年に書かれています。 

まさにDVDが普及するのを待って書かれた様で、DVDやホームビデオが登場する前には、とても書けなかった「序説」です。 加藤氏だけでなく、DVDやブルーレイの普及で、今や一億総映画評論家や一億総アニメ評論家になれる時代が来ました。

その評論の中には「大胆な仮説」が多く登場するはずです。 ところでオヒョウは「大胆な仮説」が嫌いですが、ブログ「笑うオヒョウ」は大胆な仮説に溢れています。 この矛盾をどう説明すべきか・・・読者に指摘される度に悩むのですが・・、自分自身うまく言えないのです。


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